中里介山著  『大菩薩峠』 (その2)
                     
2004-09-30

 (作品は、筑摩書房による)  

 中里介山が書き下ろした長編小説。

         

 作者中里介山は、自由民権の政治的気風の強い三多摩に生まれ、キリスト教的社会主義を経て、幸徳秋水や山口孤剣、堺利彦等と接近。 日露戦争に際しては、反戦詩人として活躍、様々な曲折を経て宗教的傾斜を深め、仏教の研究等を通し、独自の自然観・人間観に至るという思想の軌跡を示している。(縄田一男解説による)
 ということで、作者の思いを、小説の中の人物を通して語らせたり、また作中の説明として、作品の随所にその片鱗が垣間見られる。 著者の生い立ちを知ることで、作品もより面白く鑑賞でき、なるほどと思ったり、共感したりしながら作品を楽しんでいける。
 今回は(五)(六)巻を中心にその2として取り上げる。

机竜之介が音無の構えになり、故なき殺人鬼となってしまった生い立ちについて

第(五)巻 みちりやの巻に竜之介と幼なじみの雲衲(うんのう=修行僧?)の話として以下のようなくだりがある。

竜之介の父弾正様は、惜しいことに病気で身体が利きませんで、休んでばかりおいでになりましたりました。 そのうちに竜之介さんが悪剣になってしまったと、こう言われていますよ。
竜之介さんが九つの時でした、その時分はよく子供らが集まって、多摩川の河原で軍(いくさ)ごっこをしたものですが、ある時、あだ名をトビ市といった十三になる悪たれ小僧が、それがどうしたことか、竜之介さんの言うことを聞かなかったものですから、竜之介さんが手に持っていた木刀で、物もいわず、トビ市の眉間を打つと、トビ市がそれっきりになってしまいました。。。。とうとう生き返りませんでした。


 「宇津木なにがしを殺したことから以後は、ほぼわれわれも聞いている、それ以前が知りたかったのだ。 つまり、机竜之助というものがああなったのは、宇津木を殺した時から始まるのか、或いはそれ以前に原因があったのか、その来るところを、もう少し立入って知りたかったのが、貴僧の話で、どうやら要領を得たような感じがする……」

その時に、以前の雲衲の一人は、長い火箸で燼(もえさし)の火をあやしながら、「左様でございますよ、天性あの人はああいう人でありました。 宇津木文之丞さんとの試合以前、つまり、トビ市を殺してから後の壮年時代にも、いま考えてみれば、山遊びに行くといって、幾日も帰らないことがありました。 その前後、よく街道筋に辻斬の噂なぞがありましたが、いま思い合わせてみると、あの山遊びは、つまり辻斬をしに行ったのではなかったでしょうか……ですから、あの人の一番最初の不幸は、お父さんの病気でありまして、次にガラリと変ったのは御岳山の試合の前後……あれは文之丞さんが相手ではありません、あれをああさせた裏には、悪い女がありました」
 「うむ……」

 「お聞きになりましたでしょうな。 あれだけは今以て、わたしたちにも不思議でなりません。本来、竜之助さんという人は、女に溺れる人ではなかったのです、剣術より以外には振向いて見るものもなかったのに、あの女が来て、それからあんなことになりました。
どっちが先に、どう落ちたのか、その辺がいっこう合点が参りませんが……いい女でした。 それはたしかに、知っていますよ。 和田へ行く時も、このお寺の門前を馬で、大菩薩峠越えをしたものです、そのときふりかえった面影が、いまだに眼に残っておりますよ、妙にあだっぽい、そうしてキリリとしたところのある、あれでは男が迷います」

  

第(六)巻 Oceanの巻で、勘定奉行小栗上野介の了解を取り付け、駒井甚三郎が鹿島灘で西洋の沈没船を引き揚げ、補助機関を取り出そうとしているところを、軍艦奉行の役人が取り調べる場面。
小栗上野介と勝、西郷の功績につき、小栗上野介の歴史上での評価が今日されていない事に対する作者のおもいが述べられる。

小栗上野介の名は、徳川幕府の終りに於ては、何人の名よりも忘れられてはならない名の一つであるのに、維新以後に於ては、忘れられ過ぎるほど、忘れられた名前であります。
事実に於て、この人ほど維新前後の日本の歴史に重大関係を持っている人はありません。
それが忘れられ過ぎるほど忘れられているのは、西郷と、勝との名が、急に光り出したせいのみではありません。
江戸城譲渡しという大詰が、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸の勝安房という松助以上の脇師(わきし)と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、あざやかな手際で幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負(しょ)って立って、その一幕には、他の役者が一切無用になりました。
歴史というものは、その当座は皆、勝利者側の歴史であります。

勝利者側の宣伝によって、歴史と、人物とが、一時眩惑(げんわく)されてしまいます。
そこで、あの一幕だけ覗(のぞ)いた大向うは、いよ御両人!というよりほかのかけ声が出ないのであります。 しかし、その背後に、江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、あたら千両の看板を一枚、台無しにした悲壮なる黒幕があります。
舞台の廻し方が、正当(或いは逆転)に行くならば、あの時、西郷を向うに廻して当面に立つ役者は、勝でなくて小栗でありました。 単に西郷とはいわず、いわゆる、維新の勢力の全部を向うに廻して立つ役者が、小栗上野介でありました。

 
時勢が、小栗の英才を犠牲とし、維新前後の多少の混乱を予期しても、ここは新勢力にやらした方が、更始一新のためによろしいと贔屓(ひいき)したから、そうなったのかも知れないが、それはそれとして、人物の真価を、権勢の都合と、大向うの山の神だけに任しておくのは、あぶないこと。


  



◇印象に残る場面
机竜之介と介護役のお雪が、白骨温泉に眼の治療に冬ごもりをしていた時に出会った神主さんの言う言葉

『お嬢さん、あなた、陽気にならなきゃいけません。 陽気になるには、お光を受けなきゃなりません。 お光を受けて、身のうちをはらい清めなきゃなりません。 人は毎日毎朝、座敷を掃除することだけは忘れませんが、自分の心を、掃除することを忘れているからいけません。 自分の心を明るい方へ、明るい方へと向けて、はらい清めてさえ行けば、人間は病というものもなく、迷いというものもなく、悩みというものもないのです。 
ですから、何でも明るい方へ向いて、明るいものを拝みなさい。 一つ間違って暗い方へ向いたら、もういけませんよ。 暗いところにはカビが生えます、魔物が住込みます、そうして、いよいよ暗い方へ、暗い方へと引いて行きます。 暗いところには、いよいよ多くの魔物の同類が住んでいて、暗いところの楽しみを見せつけるものだから、ついに人間が光を厭(いと)うて、闇を好むようなことになってしまうと、もう取返しがつきませんよ…… 


  


余談1:

 小栗上野介は横須賀市にとって非常に関係の深い人物である。実をいうと、小栗上野介の名は、定年退職後、三浦半島の歴史について、横須賀市自然・人文博物館主催の歴史講座で初めて知り、横須賀市にとって大変関係の深い人物であることを学んだ。
 自然・人文博物館はもとより、ヴェルニー(フランス側の製鉄・造船所の建設責任者)公園にその銅像がある。横須賀造船所を建設すると共に、日本の近代化はここから始まるという確信を持って進めた人物。
 




                               

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