池波正太郎著 『真田太平記』 (二)







              
2008-05-25



(作品は、完本池波正太郎大成 19『真田太平記(二)』 講談社 による。)

                  
 

真田太平記19巻 昭和51年11月−昭和55年1月 「週刊朝日」
1999年4月本書初版刊行


 

第19巻概要: 

 淀の方にお拾い(後の秀頼)が誕生することで秀吉の朝鮮出兵に大きな変化をもたらす。明国、朝鮮との和睦不調、太閤の死、幼少の秀頼を補佐する五大老、五奉行による政治体制、徳川家康の遺言破りによる石田三成派との対立顕在化、さらに朝鮮出兵での石田三成、小西行長の文治派と加藤清正らの武断派の対立がからみ天下の不安をかき立て、いよいよ家康と三成を中心とする天下分け目の関ヶ原の戦いに発展する。
 そして真田家の本家、分家別れての戦となる。結果は東軍の勝利となり漸く平和がおとずれるかと思われるが、家康の天下取りをめざす覇気は衰えていない。真田本家は紀州九度山に蟄居の身となり、10年を過ぎようとして人々も年を取っていく。



主な登場人物:

真田安房守昌幸 上田城城主、真田本家の主。智略謀略に優れ、恐れられている。関ヶ原の戦いでは上田城で徳川秀忠の第二軍を引き付け、関ヶ原の合戦に間に合わなくする。そのことで特に秀忠の怒り癒えず、九度山に蟄居後も許されることはなく・・・

真田伊豆守信幸
本家の真田父子の蟄居を勝ち取って後、名を信之とする。
(以前の源三郎信幸)

分家して沼田の城主、家康の養子(本田忠勝の娘)を嫁(小松殿)に貰い、やがて家康を頼りに思うようになる。
太閤亡き後、天下に不安が高まっていたとき、大谷吉継が幸村に、強いてひとり天下人にのぞむほどの人物は?との問いに「架空のこととして、もしいまこのとき大老のひとりでありましたなら、兄・伊豆守信幸こそ天下人として申し分なき人」と答えた。

真田左衛門佐幸村
(以前の源二郎信繁)

人質として行った越後の上杉景勝に愛され、また同じく大坂に人質として行ったとき太閤秀吉にも愛され、秀吉の薦めで大谷吉継の娘と結婚する。実は真幸の正室山手殿の子ではないことから、兄弟仲を心配されたり、性格の違いもある。
紀州九度山では、戦陣において関東勢を打ち破り、関ヶ原の汚名をそそき、武士の有りようを示したいと願っている。

山手殿
妹 久野

真幸の正室。紀州九度山にも付きそう。

向井佐平次

真田幸村の側に付きそうが、関ヶ原の合戦以降、妻もよとともに信幸の沼田城で過ごす。
向井佐助 真田の草の者として活躍する。
壺谷又五郎 真田家の草の者の頭領。関ヶ原での合戦では家康暗殺を狙い、襲撃するが、甲賀の忍び山中内匠長俊と刺し違えて死ぬ。
お江(こう) 真田家の女草の者。関ヶ原の合戦時、このあとはひとりでやりたいことをして死にたいと、単独で家康暗殺を企てるも失敗、死にきれず。壺谷又五郎の死を知り、再び、草の者として今しばらく働く決心をする。
奥村弥五郎 真田の草の者。壺谷又五郎亡きあと、お江と草の者を引っ張る役をになう。

鈴木右近忠重

柳生の里で修行中の右近、真田信幸が沼田城の旧勢力の残党に襲撃された時に救出して後、再び信幸に仕える。関ヶ原の合戦では、伏見の真田屋敷に詰める。
樋口角兵衛 鈴木右近を襲ったときに右眼を喪い、その後真田家の為に働きたいと九度山にも従うが、なにせ力はあるが、奇行癖があり何をするかわからず・・・。
宮塚才蔵 真田の草の者。薬草の栽培や、火薬・忍びの道具の製造を行う。
山中大和守俊房 甲賀山中忍びの頭領。徳川家康の情報網の中心人物。

山中内匠長俊
(たくみのかみ)

山中大和守とは又従兄弟の間柄。関ヶ原の戦いでは家康に付き添い、壺谷又五郎と相打ち死ぬ。


読後感:
 
 中に描かれている人物としては、筆者の感情も入っていることであろうが、真田伊豆守信幸の行動に興味を覚える。この後の20巻以降で心変わりがするか?

 太閤亡き後、家康につくか、三成側につくかを各大名の心の動きが揺れ動くさまは当時の状況ではやむなしの感がわくが、芯がぶれないということが信頼を勝ち取る一番のものといえる。そんな点で、大谷吉継の行動はどちら側にとっても味方に付けたい人物であったろう。そして真田伊豆守信幸(信之)の妻小松殿の父、本田忠勝の岳父として家康に対して関ヶ原の戦い後、真田父子の命乞いの言葉「かくなれば、この忠勝、伊豆守殿への義理が立ちませぬ」「殿は、この忠勝を敵にまわしても、真田父子の首が欲しいとおおせある」「かくなるからには、それがし、伊豆の守殿と共に沼田城に立てこもり、殿を相手に戦つかまつる」というのには人間としての熱いものを感じずには居られなかった。

 もう一人太平記を読んで初めて知った気に入った人物としては、第18巻に出ていた上杉景勝。真田家が徳川・北条相手に上田城で闘うとき、越後の上杉景勝に協力を願いたいと素直に春日山城に幸村と共に乗り込んでいった時の景勝の態度、「自分は秀吉の傘下にあり(秀吉は家康と和平をしたがっている)徳川と戦するわけにいかず、蔭ながら力になる。人質は戦に勝ってからの話」とそれまで何かと苦しめられていた景勝が応じた。この時の恩を昌幸、幸村は生涯忘れず、形になってあらわすこととなる。


   


      関ヶ原の戦い地図


余談1:
 真田家って、姻戚関係で兄の幸信(幸之)は妻に家康の養女(本田忠勝の娘)小松殿を、弟の幸村は秀吉の薦めで大谷吉継の娘を、さらに子供達もだけれど、東西の中心人物と深く関わり、相当な人物であったんだなあと思い直した。
余談2:
 加藤清正という人物、なかなかの人物のよう、豊臣家を思う心情、闘将のイメージの他に、城建築の技術に秀でていたことを知る。熊本城の他にも名古屋城の築城に才知を極めていたとは。


                  背景画は加藤清正が精魂こめて築城したという熊本城。



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