司馬遼太郎の「箱根の坂」は、後世北条早雲と呼ばれている、早雲の生きざまを描いたものである。 著書における、早雲の前身については、実際の早雲のさまざまな小さな破片をあつめ、おそらくこうであったろうというものを造形したという。 |
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早雲の生い立ち: 北条早雲は後世の通称で、在世中の名は伊勢新九郎、入道して早雲庵宗瑞と称した。 時は室町、八代将軍足利義政の時代。 はじめ将軍義政の養子である足利義視に仕え、のち駿河の今川氏に身を寄せ、やがて伊豆、相模を略取して戦国大名の先駆となった人物である。 伊勢家は礼式の家。 小笠原家や今川家とならんで、行儀作法の流儀の家元である。室町時代の行儀作法は、まず弓術、馬術、それに騎射という武芸の作法から興った。が、殿中の作法がなかった。その作法の約束事を小笠原定宗がつくった。 のち、足利義満の時、この小笠原をもとに、礼式の再編がおこなわれた。 その議に加わったのが小笠原氏、今川氏、伊勢氏で、特に伊勢氏は殿中の作法をうけもって整備した。 |
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公方
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京と関東、関東の二つの公方の対立: 関東は、箱根山塊以東の八カ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸)のことである。 室町幕府はこのほかに伊豆と甲斐を加え、十カ国の支配を関東公方にゆだねていた。 関東公方は足利氏の一族で足利性を名乗り、公方を称している以上、将軍と同格であるに似ている。 事実、早雲が駿河に入った文明8年から37年前に非業に死んだ関東公方足利持氏などは、ほとんど政治的独立を謀って京都の公方と対立をしつづけた。 この文明8年から21年前、関東公方の後嗣紛争がこじれ、足利成氏(しげうじ)という者が鎌倉から奔って下総の古河に移って古河(こが)公方と称した。 京都の幕府はこれをおさえるために将軍義政の弟政知(まさとも)を鎌倉に送ったが、政知は箱根山塊を越える勇気がなく、伊豆の堀越(現在の韮山町)にすわりこんで堀越公方とよばれた。 二派の関東管領の対立 |
駿河での早雲: 将軍継承をめぐる応仁の乱も終わる頃には、東西の軍の総帥も死に、伊勢新九郎も足利義視が京に戻るとき、仕えていた義視のもとを去り浪人となって早雲となのった。 駿河の守護今川義忠のもとには、新九郎が仮の妹として守ってきた千萱(ちがや)が嫁ぎ北川殿として、一児の竜王丸をもうけていた。文明8年、尾張斯波氏との戦で今川義忠が討死にし、後継問題が発生した。 6才の竜王丸と北川殿を保護し、今川家を支える役目に、千萱の兄の役割として依頼された、早雲は、千萱を救ってやるため、旧知の宇治田原郷の山中小次郎、荒木兵庫をつれて駿河に下向した。 一方、駿府城には今川義忠と祖父を同じくする、今川(小鹿)新五郎範満(のりみつ)という30半ばの人物が入りこんで守護然としている。今川新五郎範満の母は、今をときめく関東管領上杉(扇谷)定正の叔母である。さらに新五郎範満の烏帽子親(えぼしおや)が伊豆の堀越公方足利政知であった。上杉(扇谷)定正の家老に太田道灌がいる。 今川新五郎範満の要請を受け、太田道灌率いる軍が進駐してきた。 そして早雲と関東の進駐部隊の代表である道灌が対面した。二人は同い年の45才。 |
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相模での三浦一族との対戦: 関東の二頭の犀(山之内上杉氏と扇谷上杉氏)が争闘しているが、伊豆は守りにくい。 伊豆は出て行くところと早雲は想定していた。 伊豆は早雲の非合法な伊豆政権である。 「足利茶々丸どのこそ、伊豆公方である」と攻めこまれる恐れがある。 相模の三浦氏は茶々丸を擁している。 もしその気になれば、茶々丸の旗をかかげて、関東の各地で争闘している両上杉を討つこともできるし、両上杉から独立して第三勢力をつくることもできる。 平安期以来三浦氏ほど寿命のながい豪族も少ない。 三浦道寸の居城は岡崎城にあり、油壺の新井城は子供の義意がついでいた。 道寸が新井城に逃れたため、早雲は新井城を閉塞させ4年、85才の7月、老いの衰えはなはだしきを感じ、兵を起こした。 しかし、滅亡までまる2年を要した。 早雲は87才にしてようやく相模全円を得たことになる。 その翌年8月、早雲は伊豆の韮山で病没した。 |
余談: 鎌倉時代の頃の社会、幕末から明治維新の流れと見てきて、今回は応仁の乱前後の動乱の時代を見てきたわけだが、歴史に現れる人物像はそれを見る人の感性で好意的にも悪意的にも受け取られる。 特に歴史小説に表現される人物像は作者の主観によるところが大きい。 司馬遼太郎作品では非常に好意的というか、優しい目というか、暖かく、魅力的に描かれていて、わくわくする感じがしてすばらしい。 またいつか司馬遼太郎の作品を取り上げてみたい。 |