司馬遼太郎著『箱根の坂』
                   
2004-02-27



 司馬遼太郎の「箱根の坂」は、後世北条早雲と呼ばれている、早雲の生きざまを描いたものである。 著書における、早雲の前身については、実際の早雲のさまざまな小さな破片をあつめ、おそらくこうであったろうというものを造形したという。

 三浦一族の嫡流は、北条時頼の時代に滅ぼされた後、再び勢力を盛り返し、三浦道寸・義意(よしおき)父子の時に、北条早雲により滅ぼされ、ここに三浦一族が尽きたとされている。

 果たして、早雲とはどんな人であったのか?
 三浦一族との関わりを知るために、この点を紐解いてみよう。






早雲の生い立ち:

北条早雲は後世の通称で、在世中の名は伊勢新九郎、入道して早雲庵宗瑞と称した。 時は室町、八代将軍足利義政の時代。 はじめ将軍義政の養子である足利義視に仕え、のち駿河の今川氏に身を寄せ、やがて伊豆、相模を略取して戦国大名の先駆となった人物である。

伊勢家は礼式の家。 小笠原家や今川家とならんで、行儀作法の流儀の家元である。室町時代の行儀作法は、まず弓術、馬術、それに騎射という武芸の作法から興った。が、殿中の作法がなかった。その作法の約束事を小笠原定宗がつくった。 のち、足利義満の時、この小笠原をもとに、礼式の再編がおこなわれた。 その議に加わったのが小笠原氏、今川氏、伊勢氏で、特に伊勢氏は殿中の作法をうけもって整備した。
伊勢新九郎は伊勢伊勢守貞親の一門であるが、田舎伊勢氏。 しかし、伊勢家の出ということで財力や権力はないが、京の公方の信任が厚く、特に関東に対する効き目が役立っていた。

公方






  











関東管領  

京と関東、関東の二つの公方の対立:
 京の室町に幕府をもつ足利将軍の体制では、公方というのは将軍のことだが、もともとは天皇・朝廷をさした。 しかし室町の世から将軍をさすようになった。 しかしながら、将軍の直接的な統治は、関東と九州には及ばないという仕組みになっている。 九州は九州探題が統治し、関東は関東公方が統治していた。

 関東は、箱根山塊以東の八カ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸)のことである。 室町幕府はこのほかに伊豆と甲斐を加え、十カ国の支配を関東公方にゆだねていた。 関東公方は足利氏の一族で足利性を名乗り、公方を称している以上、将軍と同格であるに似ている。 事実、早雲が駿河に入った文明8年から37年前に非業に死んだ関東公方足利持氏などは、ほとんど政治的独立を謀って京都の公方と対立をしつづけた。

 この文明8年から21年前、関東公方の後嗣紛争がこじれ、足利成氏(しげうじ)という者が鎌倉から奔って下総の古河に移って古河(こが)公方と称した。 京都の幕府はこれをおさえるために将軍義政の弟政知(まさとも)を鎌倉に送ったが、政知は箱根山塊を越える勇気がなく、伊豆の堀越(現在の韮山町)にすわりこんで堀越公方とよばれた。

二派の関東管領の対立
 関東公方の執事を行う関東管領家にも、二派の上杉家が交戦をかさねつつも、たがいに降盛をほこっていた。 本家にあたる山之内上杉氏と分家にあたる扇谷上杉氏との両氏である。 上杉(扇谷)定正の家老に太田道灌がいる。
 早雲が駿河に下ったとき、駿河の後継争いの時、相手方として重要な位置にいた太田道灌との合意で平穏な日々があったのだが。
 


   

駿河での早雲:
 将軍継承をめぐる応仁の乱も終わる頃には、東西の軍の総帥も死に、伊勢新九郎も足利義視が京に戻るとき、仕えていた義視のもとを去り浪人となって早雲となのった。
 駿河の守護今川義忠のもとには、新九郎が仮の妹として守ってきた千萱(ちがや)が嫁ぎ北川殿として、一児の竜王丸をもうけていた。文明8年、尾張斯波氏との戦で今川義忠が討死にし、後継問題が発生した。 6才の竜王丸と北川殿を保護し、今川家を支える役目に、千萱の兄の役割として依頼された、早雲は、千萱を救ってやるため、旧知の宇治田原郷の山中小次郎、荒木兵庫をつれて駿河に下向した。

 一方、駿府城には今川義忠と祖父を同じくする、今川(小鹿)新五郎範満(のりみつ)という30半ばの人物が入りこんで守護然としている。今川新五郎範満の母は、今をときめく関東管領上杉(扇谷)定正の叔母である。さらに新五郎範満の烏帽子親(えぼしおや)が伊豆の堀越公方足利政知であった。上杉(扇谷)定正の家老に太田道灌がいる。 今川新五郎範満の要請を受け、太田道灌率いる軍が進駐してきた。 そして早雲と関東の進駐部隊の代表である道灌が対面した。二人は同い年の45才。

 結論として駿河の安泰を双方が考えているということで、竜王丸様が成人するまで、守護としてではなく、後見として駿河一国の切り盛りを今川新五郎範満にゆだねることとなった。

 そして駿府城には新五郎範満がはいり、竜王丸と北川殿は駿府から遠くない西方、丸子に居館を新築して住むことに。一方早雲は竜王丸様の執事なることを頼まれ、駿府よりはるか東の端、今日の沼津付近にある興国寺城を領した。

 早雲54才にして21才の真葛(まくず)をめとる。 相手は京の公方の御番衆小笠原備前守の息女。 今川氏親(幼名竜王丸)の肝煎りでととのえ、今川家の幼い当主が成人したことを京の要路のひとびとに認識させたいという、北川殿が懸命に考えた政治上の芸当であった。

 太田道灌、主人に当たる上杉定正により非業の死をとげる。 この結果尾張と手を結んだ駿府館が丸子館を襲った。また、扇谷上杉の軍が箱根を越えてやってくることになった。 早雲は駿府館の近郊において、火葬を行う行為にで、群衆を集め、混乱の中、隙をついて駿府館の新五郎を討った。そして今川氏親を駿府館に迎えた。 早雲56才の時。

 駿東の興国寺領での早雲の治世は、四公六民という、世の中で一番民を優遇する租税政策でおさめていたが、台所は大変窮していた。そこで伊豆をとらねばということを正気で考えた。早雲の意識では、伊豆における、重税に苦しむ国人・地侍たちの敵としての守護を追い出そうというもの。伊豆には金がある。伊豆の公方のやがて朽ちるのを待った。老少は不定。

 千萱(北川殿)が死んだ。 柿の木を苗から育てるように、時間をかけ、八割方、時の力を借りて、こんにちの駿河における無事をつくりあげた。(事はおわった) 事とは、千萱から付託されたことである。依頼者は死に、早雲だけがのこった。早雲の姿を見て22才の今川氏親(幼名竜王丸)が「それがしがかわっておじ御を加護奉りましょう」という。

 そこへ意外な訃報がもたらされた。 伊豆の堀越公方足利政知がなくなった。長男の茶々丸に殺された。伊豆の人心が茶々丸から離れていることを調べた早雲は伊豆を攻めた。茶々丸は三浦半島に逃れ、三浦氏の保護を受けた。三浦氏の当主は老齢の三浦介時高である。

 早雲の伊豆での位置は、守護ではなく、「とりあえず今川氏親の被官の早雲をつかわし、堀越御所の領分の管理をさせる」ということになる。


相模での三浦一族との対戦:

 関東の二頭の犀(山之内上杉氏と扇谷上杉氏)が争闘しているが、伊豆は守りにくい。 伊豆は出て行くところと早雲は想定していた。 伊豆は早雲の非合法な伊豆政権である。 「足利茶々丸どのこそ、伊豆公方である」と攻めこまれる恐れがある。 相模の三浦氏は茶々丸を擁している。 もしその気になれば、茶々丸の旗をかかげて、関東の各地で争闘している両上杉を討つこともできるし、両上杉から独立して第三勢力をつくることもできる。 平安期以来三浦氏ほど寿命のながい豪族も少ない。

 早雲は、三浦攻めをすると内外に呼号した。 油壺を天然の濠として断崖上に築かれた三浦の城(新井城)は、陸路とわずかに地続きしつつも島の上にあるようであった。 その島の上にいる老いた三浦介時高は、ながく実子をもたず、やむなく養子をもらった。 養子は、扇谷上杉氏の一門、上杉高救の子義同(よしあつ)である。 義同は家来からも人望があり、その子義意(よしおき)も義同の血をひく屈強の若者であった。 三浦介時高に実子ができたため、ここでも摩擦が生じた。

 義同は妻子と共に相模の西の勢力家、大森氏頼(義同の外祖父にあたる)の山荘に逃れ、頭を剃った。 そして道寸と称した。

 早雲、大森氏頼の死後、箱根を越え、さほど人望のない大森藤頼の小田原城を奪取し、西相模を手にした。 早雲64才のとき。 早雲の小田原奪取の翌年の初夏、相模の三浦道寸が、相模の三浦郡と中郡の兵をこぞって攻め寄せてきた。 早雲側は城に閉じこもり、合戦を避け続けること17年。 三浦勢は、毎年収穫時分になると攻めてきて麦や稲を刈り取った。 永正9年の初夏、いつものように三浦勢がやってきたが、その年も早雲は戦わず、固く門を閉じていた。 三浦勢が引き上げた後、「積年のうらみを晴らせ」といっせいに城門を開かせ、ありったけの兵を突出させた。

 三浦道寸の居城は岡崎城にあり、油壺の新井城は子供の義意がついでいた。 道寸が新井城に逃れたため、早雲は新井城を閉塞させ4年、85才の7月、老いの衰えはなはだしきを感じ、兵を起こした。 しかし、滅亡までまる2年を要した。 早雲は87才にしてようやく相模全円を得たことになる。 その翌年8月、早雲は伊豆の韮山で病没した。

 そのときすでに、早雲の長子氏綱は34才いう成熟した年齢にあった。 その人柄は重厚で心やさしく、しかもつねに勇気を蔵し、さらに聡明さは比類ないといわれた。 ついでながら氏綱から北条氏を称する。 鎌倉の北条氏と区別するため、こんにちの研究者は後北条氏(ごほうじょうし)とよんでいる。


余談:
 鎌倉時代の頃の社会、幕末から明治維新の流れと見てきて、今回は応仁の乱前後の動乱の時代を見てきたわけだが、歴史に現れる人物像はそれを見る人の感性で好意的にも悪意的にも受け取られる。 特に歴史小説に表現される人物像は作者の主観によるところが大きい。
 司馬遼太郎作品では非常に好意的というか、優しい目というか、暖かく、魅力的に描かれていて、わくわくする感じがしてすばらしい。 またいつか司馬遼太郎の作品を取り上げてみたい。


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