藤沢周平著 『一茶』

                   
2005-09-25

(作品は、文芸春秋社 藤沢周平全集第八巻『一茶による。)

       
 
この作品は、用心棒日月抄が発表された1978年(昭和53年)と同じ頃に出た作品で、俳諧師一茶の生涯を描いたものである。
 一茶(弥太郎)は宝暦13年(1763)信州柏原に生まれる。先妻の子である弥太郎と、後妻(さつ)の気質が合わず、後妻にも子(仙六)が生まれて成長すると、15歳で江戸に奉公に出される。しかし何処の奉公先でも長続きせず、転々と職を変え、いくえ知れずとなる。

物語の大筋:

 三笠付けという句合わせのかけごとに才を示し、俳諧師と名乗る露光に褒められ、下総の油屋大川立砂の奉公先を世話され、俳諧の道にはいる。(注: 江戸に出て10年間の弥太郎の消息の資料はない。一茶という号で俳句を発表するまでの話は、藤沢周平の想像である。本注は、参考資料にある「文春文庫」の解説による。)

 作品では、俳諧師といっても、江戸で名だたる宗匠になって、多くの門人を抱えるものでなければ、悠々とした暮らしは無理。ある程度の名声を得たら、地方を回り、接待されて句会を開き、お礼を貰ったり、泊めてもらったりして、人のやっかいに甘んじなければ生きていけない姿が、浮かびあがってくる。
 
 そして、一茶の句風も世の中に受け入れられず、名声を得ることも出来ない。幸いなことに、葛飾派の二六庵竹阿が亡くなり、その弟子ということで箔を付け、西国を廻ることにする。足かけ6年にもなり、江戸に戻ると長すぎた不在が、葛飾派に戻る場所がないことを感じる。
15年ぶりに故郷に帰った時、ここでも自分の居場所がないことを感じる。


読後感:

 この作品は、俳句の世界だけでなく、人生の一面を際だって描かれていて、なかなか関心をそそる内容であった。それにしても、余り知らなかった一茶の生涯は、貧しく、つらく、それでいて欲望をむき出しにして恥じない、したたかさを持ち合わせた、強靱な神経の持ち主であったのだなあと思う。


どうして藤沢周平が一茶に興味を覚えたのか:

 藤沢周平は、四年間の療養生活を続け、昭和三十二年、三十歳の時にようやく退院した。 入院中にも、院内の俳句同好会に参加したり、その縁で静岡の俳誌「海坂」に投稿したり、現代詩の会や患者自治会の文化祭で上演する戯曲を書いたりしていたようだ。
 
 天見文庫よりには、下記のようにしるされている。
 「わたしも田舎から東京に出てきて業界紙の記者をしながら、一茶のような根無し草の悲哀をたっぷり味わいましたからねえ」、という作者の言葉が解説に紹介されている。業界紙を辞め、文筆で生きる決意を固めることは、さらに根無し草の世界に踏み込む気分であったろう。 一茶に託した矜持も心細さも作者自身のものだったに違いない。

 藤沢周平著の作品に、もう一つ長塚節の生涯を調べて小説にした「白い瓶」小説 長塚節がある。同じ第八巻に納められているので、読んだ。

   


余談1:
 今月は俳句、短歌関係の小説が多かった。 季節に秋が感じられてきたせいかもしれない。俳句といえば、よく話題に出る種田山頭火の歌が、どうして好かれるのか、自分でも確認してみたくなり、何冊か読んでいる。 機会が有れば、取り上げてみたい。


 

                               

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