江藤淳著 『妻と私』
                          
 

                
2007-08-25
(作品は、江藤淳著『妻と私』 文藝春秋社による。)

                   
                

1999年(平成11年)7月刊行
江藤淳
 1932年(昭和7年)12月25日生まれ、夏目漱石の研究などで著名な日本の文学評論家。1998年暮れ、慶子夫人が死去、1999年7月21日、雷雨の晩に鎌倉西御門の自宅浴室で自殺、66歳。「漱石とその時代」は未完に。


物語の背景:
「妻の葬儀を終え、自身も感染症に一命を取り留めた筆者が、全てが一段落してホッとした後、突然前触れもなしに一種異様な感覚に襲われた。自分が意味もなくただ存在している、という認識である。」とあとがきに記されている。このままでいると気が狂うに違いないと編集長からの依頼に応え書き上げられたのが本書である。

読後感:
 家に帰ってきて電灯もついていない、留守ならいいが、家が活きていることを示す証が認められない。明かりをつけて鞄をおいた瞬間に電話が鳴る。「・・・実はお宅の奥さんが、事故を起こしたんだよね。・・・」

 冒頭の情景描写から何か不安な出来事を予感させる。しかも事故現場は鎌倉駅西口の話、ごく身近な話題である。最近はやりの振り込め詐欺事件かとさえ思わせる。

 41年を数えるにいたった結婚生活を共にした妻(慶子)の余命が、三ヶ月先の結婚記念日を迎えられないかも知れないという末期癌に犯されていることを知った夫(江藤淳)が、妻を看取り、葬儀を終えるまでの苦悩の日々が、重苦しい記述ではなく、淡々と語られていく。その淡泊さゆえか、むしょうに切なく響いてきて、一息に読んでしまった。

 こんな夫婦の姿って羨ましい限り。

 また、著者自身が心労のため急性前立腺炎を発症しながら、葬儀を処理しなければならない状況に、こんなこともあるのかと驚かされた。

 特に、入院している妻の側に付き添って一緒にいる時の生と死の時間、それから妻が逝った後、その生と死との厳粛な境界から立ち直って、あの日常性と実務の時間に戻れたのは、妻の幻影が「あなた自身が崩れない限り、外からの力ではあなたは決して倒れない。前にもいった通り、あなたは感染症では死なないわ。もう少しお仕事をなさい。」と後押ししたからとは。そんな立ち直りにも心打たれた。

印象に残る表現:

「江藤さんは、毎日ご主人がいらしていていいですね。ほんとにラブラブなのね」と小鳥のような顔をした若い看護婦が感心してみせたことがある。
・・・・
若い看護婦のいわゆる“ラブラブ”の時間の中にいる自分を、私はそれまで生と死の時間に身を委ねているのだと思っていた。社会生活を送っている人々は、日常性と実務の時間に忙しく追われているのに、自分は世捨て人のようにその時間から降りて、家内と一緒にいるというもう一つの時間のみに浸っている。だからその味わいは甘美なのだと、私は軽率にも信じていた。

 だが、いわれてみればこの時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべきなのではないだろうか? たとえばそれは、ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間の中に入り込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?

  

余談:
 この所読む本の性格が生と死や、老い、人生を扱ったものが多いかも。人それぞれの物語があるから、色々あると思う。自分に少しでも役だったり、感動するところがあれば、幸いと思う。
 読書は実に素晴らしいと最近とみに思う。
 
 背景画は、以前NHKで放映された土曜ドラマ「病院のちから」より病院の外観を利用。