陳 舜臣著 『曼陀羅の人』
 



             2013-10-25




(作品は、陳 舜臣著 「曼陀羅の人」   朝日新聞社による。)

            

       

 本書は1984年1月、TBSブリタニカより刊行。
 本書 1994年(平成年)3月刊行。

 陳舜臣: (ウィキペディアより)
 1924年神戸に生まれる。1961年に神戸を舞台にした長編推理小説「枯草の根」で江戸川乱歩賞を受賞後、作家生活に入る。
 推理小説、歴史小説作家、歴史著述家。代表作に『阿片戦争』『太平天国』『秘本三国志』『小説十八史略』など。『ルバイヤート』の翻訳でも知られる。本籍は台湾台北だったが、1990年に日本国籍を取得している。 日本芸術院会員。

主な登場人物

◇遣唐使の一行 桓武天皇の804年7月6日、九州肥前の国の田浦の港を出港の遣唐使一行。第一船には大使や空海が乗り六印港(福建北部)に漂着。第二船には判官や最澄が乗っていて、民州に漂着。長安で第一船の一行を待つ。
大使など

遣唐大使 藤原葛野麻呂(かどのまろ)
副使   石川道益
判官   藤原清公
(きよとも)

留学生

長期に亘って唐に滞在、研修する学生。期間原則20年。
・空海(当時は無名の僧、31歳) 日本に密教を持ち帰ることを・・・
・橘逸勢
(はやなり) 空海と共に能筆の双璧。

杜知遠
(とちえん)
道士 長い流浪生活の後35歳の時俗界に身を置く山岳行者。松柏観(しょうはくかん 道教の寺院)に住みつく。福建での文士。空海は「我が恩師」と道教の要諦を教えられたと感謝。
陸功造
(りくこうぞう)
赤岩鎮将(国防の駐屯地の大将)の食客。少年の頃不空三蔵を広州に迎え俗人ながら師と使え示寂に至ったもの。空海は福建の海岸に流れ着いた時から杜知遠と陸老人の二人とは深い縁を結ぶ。
閻済美
(えんさいび)
福建観察使、福建地方の最高責任者。
王叔文
(おうしゅくぶん)
皇太子時代の皇帝の碁の相手。皇太子(李誦→順宗)が継いで翰林学士、起居舎人(皇帝のことばを記録する係)に。病気で伏せっている皇帝に代わり実質の全ての決定者。寒門の出身(身分が低い)。
王杯(おうはい) 王叔文と同様、書の名人。寒門の出身。
王鍔(おうがく) 淮南度
般若三蔵 インド出身で在唐20年。六波羅密教を胡本から漢訳。景浄を通してキリスト教世界をのぞき広い視野をもつ。空海にもっと自分の世界を広げなさいと。
景浄 景教(中国でのキリスト教)の司教。
南天婆羅門 般若三蔵、牟尼室利(むにしり)三蔵の高弟。般若三蔵の一声で空海に梵文を教えることに。

恵果阿闍梨
(けいかあじゃり)

密教の2つの系統の奥義を修めるたった一人の高僧。長安の清竜寺に住む。不空の弟子。空海が教えを求めたい最大の相手。
当時の皇帝の変遷

・徳宗(64歳)
・順宗(皇太子時代の名は李誦)病弱。皇太子時代信任の最も厚かった家臣が王叔文と王杯。皇帝になってもいつ亡くなるか。
・憲宗(皇太子時代の名は李純)


物語の概要(図書館の紹介記事より)
 (上)
 唐の徳宗帝二十年、福建に漂着した遣唐船の中に、密教招来の野望に燃える留学生空海がいた。彼の詩文、書蹟の才はたちまち四隣に鳴り響き、揚州“三名花”と共に都長安へ。
 (中)
 順宗帝治下の長安に入った空海は、ゾロアスター教、景教などの新智識を貪欲に吸収―。やがて、皇帝側近の王叔文の後援により、密教継承第一人者・恵果大阿闍梨の灌頂を受ける。
 (下)
 順宗帝退き、憲宗帝が即位。揺れ動く唐朝廷をよそに、空海は恵果から密教第八世の法燈を継承。「東国へ伝へよ」の遺言を残して恵果は遷化し、空海は大きな希望を胸に帰国の途につく。


読後感

  読むキッカケは新聞の読書欄での書評を読んで、このところミステリーやフィクション物が多かったのでノンフィクション的歴史物を読んでみたくなったから。
 本作品を読んでいる内に、興味有る話が出ていてのめり込むことに。

 6−7年前に読んだ井上靖の作品「天平の甍」で唐招提寺の開祖鑑真和上のことを知ったが、その鑑真の臨終の時「この寺も20〜30年後には恵まれるであろう、しっかりやりなさい」と告げられ(恵まれるとは“仏法に優れた人物が現れるということ”)、そういう時期に空海が密教の経典である「大日経」についての疑問を問うために唐招提寺を訪れ、彼こそがとその弟子如宝が感じるシーンが出てくる。
 
 それにしても空海という人物、並の人物でなく、唐に渡る前に勉強をしていたとはいえ、文章を作ること、書筆の能力、碁の才能、さらに唐語を表情や身のこなし、身振りから理解する能力、さらに梵字の習い始めとはいえその実力、ましてや予知能力ともいえる才能を兼ね備えたスーパーマンであることに畏れ入るばかり。
 
 唐での活動ぶりは事前の勉強もさることながら、戦略(20年と言わず早く帰国できるように空海の名を知らしめて容易にトップに噂が広まるようにしておく手を打っておく)も持ち、さらに般若三蔵に「あなたはもっと自分の世界を広げなければなりません」との言葉通り、婆羅門、天啓、景教、イスラム、マニの教え、景教(キリスト教)もそのトップに教えを請うている。そして空海という人物のすばらしさを相手に植え付けている。

 空海は二年ほどで唐から日本に帰国できることになったのだが、その中で色んな宗教について学び、恵果阿闍梨から外国人でありながら第八祖に当たる阿闍梨の位を受け継ぐまでになり、しかも唐に残るのではなく日本に帰国して普及せよと言われるほどの人物であった。

 印象的なのが何故か重陽節(秋の行事)で順宗皇帝が退位し、王叔文が処分されることになり、王叔文の下で力を発揮していた劉兎錫
(りゅううしゃく)と柳宗元(りゅうそうげん)の俊才も処分を受けることになるその時に、空海と三人大慈恩寺の大雁塔に登り、白居易や杜甫の話をしながら別れを告げる場面は自然に胸が熱くなってしまった。
 また、井上靖作品の「天平の甍」にも出てきた阿部仲麻呂が帰国できなかったことの話も井上作品を思い出し、歴史の流れを感じて興味深かった。

  

余談:

 空海の人となりがこの作品で大分判ったが、かたや既に有名人であった最澄の様子が少しではあるが描写されている。最澄の場合は、同じ一行にいたが、船が異なり、付いた所も異なるため、詳述されていないが、最澄は天台山に赴いて唐語が出来ないこともあったが、経典を集めて帰国、空海とは大分異なる様子(高い身分である故に空海の方がずっと民衆に近い立ちいにいるように見える。

背景画は、当間曼陀羅(感無量寿経浄土変想図)より。

                    

                          

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