◇遣唐使の一行 |
桓武天皇の804年7月6日、九州肥前の国の田浦の港を出港の遣唐使一行。第一船には大使や空海が乗り六印港(福建北部)に漂着。第二船には判官や最澄が乗っていて、民州に漂着。長安で第一船の一行を待つ。 |
大使など |
遣唐大使 藤原葛野麻呂(かどのまろ)
副使 石川道益
判官 藤原清公(きよとも)
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留学生 |
長期に亘って唐に滞在、研修する学生。期間原則20年。
・空海(当時は無名の僧、31歳) 日本に密教を持ち帰ることを・・・
・橘逸勢(はやなり) 空海と共に能筆の双璧。
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杜知遠
(とちえん) |
道士 長い流浪生活の後35歳の時俗界に身を置く山岳行者。松柏観(しょうはくかん 道教の寺院)に住みつく。福建での文士。空海は「我が恩師」と道教の要諦を教えられたと感謝。 |
陸功造
(りくこうぞう) |
赤岩鎮将(国防の駐屯地の大将)の食客。少年の頃不空三蔵を広州に迎え俗人ながら師と使え示寂に至ったもの。空海は福建の海岸に流れ着いた時から杜知遠と陸老人の二人とは深い縁を結ぶ。 |
閻済美
(えんさいび) |
福建観察使、福建地方の最高責任者。 |
王叔文
(おうしゅくぶん) |
皇太子時代の皇帝の碁の相手。皇太子(李誦→順宗)が継いで翰林学士、起居舎人(皇帝のことばを記録する係)に。病気で伏せっている皇帝に代わり実質の全ての決定者。寒門の出身(身分が低い)。 |
王杯(おうはい) |
王叔文と同様、書の名人。寒門の出身。 |
王鍔(おうがく) |
淮南度 |
般若三蔵 |
インド出身で在唐20年。六波羅密教を胡本から漢訳。景浄を通してキリスト教世界をのぞき広い視野をもつ。空海にもっと自分の世界を広げなさいと。 |
景浄 |
景教(中国でのキリスト教)の司教。 |
南天婆羅門 |
般若三蔵、牟尼室利(むにしり)三蔵の高弟。般若三蔵の一声で空海に梵文を教えることに。 |
恵果阿闍梨
(けいかあじゃり)
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密教の2つの系統の奥義を修めるたった一人の高僧。長安の清竜寺に住む。不空の弟子。空海が教えを求めたい最大の相手。 |
当時の皇帝の変遷 |
・徳宗(64歳)
・順宗(皇太子時代の名は李誦)病弱。皇太子時代信任の最も厚かった家臣が王叔文と王杯。皇帝になってもいつ亡くなるか。
・憲宗(皇太子時代の名は李純)
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