新井満が感じた「月山」の感想:
自分が感じた印象に対して、新井満はどのように感じたのか、面白いと思い抜粋した。やはり奥が深いなあと思った。以下に引用する。
「月山」は二百枚ほどの小説である。夏が終わろうとするころ、一人の男が月山のふもとの村にある注連寺という破れ寺にやってくる。そこで秋を過ごし春を過ごし、再び夏がやってこようとする頃、迎えにきてくれた友人と共にまた何処ともなく去ってゆく・・・。これが小説の荒筋で事件らしい事件は何も起こらない。およそ物語とも言えない物語なのだが実に感銘深いのである。
読み終わって巻を置き、畳の上にどうと大の字になって寝そべり天井の羽目板をぼんやり眺めながら考えてみた。不思議なこの感動は、一体何なのだろう。どこからやってくるのだろう・・・。
すぐに思いあたるのは簡潔な自然描写である。贅肉を削ぎ落とせるだけ剃り落とし、もうこれ以上一言も削ぎ落とせないぎりぎりの言葉たちによって構築された文章、上質な日本酒ほど限りなく水に近づくというが、水のように淡泊でありながら芳香な香りをただよわせてやまない幻の酒のごとき文章に、まず私はうなったのだ。
さらに続く
孤独と寂寥(せきりょう)の内に月山をおとずれた主人公の顔立ちが、読みすすむうちにあぶり出し絵のように鮮明になってきて、やがて自分自身に同化し始めたのだった。ですます調の文体はあくまでもやさしい。しかし文体が内容するところのものはすこぶる強靱で哲学的なのである。死の側から照明をあて、生について考察した。そうだ、「月山」とは、何よりも外柔内剛の哲学小説なのだ。そう思いながらもう一度本を取り上げると中扉の裏に、
未だ生を知らず、焉(いずくん)ぞ死を知らん
という孔子の言葉が記されている。
古来、月山は死者の行く山とされてきたという。そうであるならばこの小説が、死の淵に立って生を逆照射する、即ち、
既に死を識(し)らば、何ぞ生を識らざらん
という思弁の方法論によって書かれていることが明らかになってくる。このような類の小説を私は生まれて初めて読んだ。十九歳で大病し死にかけ、一瞬でも死のうしろ姿を垣間見た経験を持つ私には胸に滲み通ってくる小説と言わねばならない。
|