四保城

概説 四保城の築城時期ははっきりしていない。南北朝争乱時に南朝方の北畠親房が常陸に辿り付いた時にその御座船にも四保氏の名前が見えるようだ。延元3(1338)年頃には南朝方の城として四保氏を城主としており、その後北朝方の高師冬が大軍を率いて常陸へ攻め入った際に、南朝方だった四保城は大宝城・関城と共に抵抗したが、興国2(1341)年に小田氏久が師冬に降伏し小田城が陥落、北畠親房は関城に移ったが、師冬軍は更に関城と大宝城も追撃・包囲した。この時、関城・大宝城と連携していた四保城も孤立し降伏したようだ。[『明野町史』その他より抜粋]
村田館(手前の畑地)から四保城を臨む
    その他の写真
  1. 櫓台状の北側大土塁(写真だと大きい感じがしませんね)
  2. 北側土塁(ただし道は後世に切られたものと思われる)
  3. 北側大土塁の横矢の張り出し(正面)
訪問記[2002/11/24]『明野町史』によると「南北方向が約225m、東西方向が約125mで、南北を長軸とした長方形単郭の構造である」と書かれているが、南北はその二倍の城域を考えてもよさそうだ。少なくとも北側には低い土塁で囲まれた二ノ郭とさらにその北側には外郭と考えられそうな平坦面もあり、『明野町史』では描かれていない部分への広がりも確認できた。それにしても屋敷の北側を囲む土塁は、中央部に折り邪(ひずみ)の横矢を備え、高さ10m〜高い所では15mはあろうかと思われるみごとなものだった。道路の南側域に関しては土塁の一部はあるが住宅が建て込んでいて遺構はほとんど隠滅しているようだ。
所在地真壁郡明野町吉田。竹垣の熊野神社の北方約500m。
参考書『明野町史』