概説 | 別名、中郡城。『保元物語』にみえる中郡庄の地頭中郡三郎の居城ともいわれる。中郡氏は後に足利尊氏の友旗に組し、官軍の総師北畠親房の部下春日顕国により討伐され、一時春日顕国の居城になったが、関東に於ける官軍も足利勢のため攻められ没落したという。しかし、昔の山外48ヶ村(現在の岩瀬町)全部が中郡庄といい中郡城については、坂戸城説、羽黒山城説があるが、中郡三郎との関連で一部研究者によって中郡城としてしまった感がある。また、一説には、土地豪族松田氏の居城説を力説する人もいる。以上から、松田城か中郡城か、また、誰がこの城を築城し、かつ正しい城主は誰であったかは未だ明確でない。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より] |
南側から![]() |
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訪問記 | [2003/05/05]五郎さんの「土塁と堀の一点豪華主義です」と言う案内で見に行った。確かにこの遺構だけでは城館のどの部分なのかも想像できない。でも、立派な土塁と堀ではありますよ。 |
所在地 | 西茨城郡岩瀬町松田字中條554外。土浦日大高校岩瀬校舎南側。 |
参考書 | 『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』 |