羽賀城

概説 江戸崎土岐氏の臣臼田勘解由左衛門尉の居城であったことから別名臼田城ともいう。この臼田氏はもと上杉憲定の被官として嘉慶元(1387)年に布佐郷丸山館(現美浦村)に入部しその後ここ羽賀へ移ったと考えられている。羽賀城はおそらくは戦国期、江戸崎土岐氏の西方の守りとして重臣臼田勘解由左衛門尉に守らせた城だったとは思うが、それより古い時代、例えば南北朝時代の暦応4(1341)年7月の東条荘での戦いもこの付近一帯で行われており(別府幸実軍忠状写(『龍ヶ崎市史中世史料編』p180など))、この城が当時から存在していたものかどうか、今後さらに詳しい調査をしたいと思う。
 羽賀根古屋には羽賀神社のほかに東燿寺と誠諦寺があるが、誠諦寺境内の『政継山誠諦寺の由来と沿革』によると、「常陸国信太郡波賀郷(現在の羽賀)に佐竹盛重氏の城あり、そのかたわらに戒定院の寺あり、天正年中(1573年〜1591年)に佐竹氏は、豊臣秀吉公によってわずかに小寺を残し、領国を没収し放逐させられ、又戒定院の住僧は寺を退去し寺堂も亦年を経て破滅せり。(後略)」とある。江戸崎が芦名盛重の領地になったとき、土岐氏の臣であった臼田氏の羽賀城も盛重の城になったということか。なお、「天正年中〜」以降の記述内容は現在の歴史認識とは違っている。
南側からの遠望
縄張概略図(クリックで拡大します)
その他の写真
  1. 本郭南西端の城壁
  2. 土塁
訪問記[2002/05/12]それほどの要害とは思えないが、こぢんまりとした印象。江戸崎土岐氏に興味を持つ者としては、臼田文書の臼田氏羽賀城の方角へ足を向けては寝られませんな。
[2004/11/02]前回歩いた東燿寺の裏からさらに西へ入っていくと、少なくとも2つの郭からなる連郭式の戦国期城郭の遺構が残っていることが分かった。前回の「それほどの要害とは思えない」という評価を「こじんまりとはしているがそれなりの要害」へと変更したいと思う。城は西側に突き出した羽賀の台地の先端に位置する。本郭西側下には幅広の帯郭がありそこからの比高はおよそ10mほどあるだろうか。帯郭の下には外堀跡と思える部分もある。I郭、II郭とも東側に土塁が残る(I郭、II郭などの名称は縄張図を説明するために仮に名付けた)。土塁の一部により高く盛られた部分が何カ所かあるが、これらは櫓台だったと思われる。そういうところには所々祠が祀られていて、中に扇の紋様が彫られているものもあり、これは土岐氏滅亡後に江戸崎を支配した佐竹氏に関係するものと思われる。本城郭については縄張図があるのかないのかも分からないので、今後何度か足を運んで全体の姿を描いてみたいと思う。
[2004/11/21,22]縄張図を描いていたところ地元の方に話を聞く機会があった。城址東側の羽賀神社の「左三つ巴」は臼田氏の家紋だと教えてもらった。その他、阿部家の家紋(鷹の羽)も見られる。阿部家というのは旗本阿部四郎五郎家のことで、江戸時代この地を治めていたそうだ。ここは地元の方にも戦国期の城としてはほとんど知られていないようだ。I郭の南側にニョロニョロと伸びる土塁状構造は、I郭の南側を民家の敷地として大きく削ったために残った城壁の縁である。I郭とII郭は土橋で連結され、II郭とその東側も土橋で連結されている。この土橋は北側から横矢が掛けられている。II郭の東側部分は変形の馬出なのだろうか。東耀寺西側の広い領域は後世に改変されてしまったためか、わずかに土塁・櫓台・段差が認められるものの城郭遺構としてのまとまりには乏しい。
所在地稲敷郡江戸崎町羽賀字根小屋1102。羽賀神社および東燿寺裏。
参考書