概説 | 千代川村について:著名な城館が存在しないためお城めぐりファンには馴染みの少ない千代川村ですが、教育委員会の村史編纂室で以下のようなお話を伺ってきました(ただし城館以外の話題がほとんどですが)。 (1)村域は西から台地、鬼怒川沿いの町場、低地の水田地帯の3つに区分される (2)村役場がある附近はかつて宗道河岸があって鬼怒川の交通の要衝であり、郡役所が置かれたこともあった (3)中世には、村域の北側は多賀谷領、南側は豊田領だった (4)水田地帯にある通称四ケ村は多賀谷氏の旧臣たちによって作られた4つの部落といわれる (5)村域にはっきりとした城館は見つかっていないが、地字名から探索している過程で四ケ村の各集落や村岡などに城館跡と思われる遺構の一部も見つかっている (6)集落の地割りには鬼怒川、小貝川の旧河道に沿った地割りが反映している (7)旧河道に沿った堤防からも遺跡が出てくる (8)江戸期の新田開発さらに戦後の耕地整理によって土が持って行かれて遺跡は無いだろうと思われていたが掘れば出てくることから、あまり深くまで土を動かしてはいないようだ (9)宗道にある宗任神社は日本で唯一、前九年の役で殺された安倍宗任を祀った神社だという(しかしなんでここに!?) (10)武蔵型板碑(緑泥扁岩?)の分布が鬼怒川を挟んで東西で大きく異なる(西側に多い) (11)花崗岩(真壁・筑波)の石塔から安山岩(箱根)の石塔へ変わる時期がある (12)太古の昔より人が住み続けてきた土地らしく、村域の鬼怒川以西は遺跡ばかりだし、以東も(田地のため一部しか調査していないが)掘った場所からは遺跡が出る(村域で遺跡でないところが少ないくらい) (13)台地側の村岡にある遺跡では異なった時代の遺跡が重なりあっているが、これは長い時間を超えて人が住み続けたことを物語る (14)現在『村史千代川村生活史』を刊行中で、既刊「第一巻自然と環境」には県西の城館を広範囲に掲載しているが、村外の人にとって中世のためだけに12,000円はちょっと高いかな 千代川村の城館:当村の低地部にあたる見田・唐崎・長萱・伊古立にも小規模な居館があった。それぞれ袋弾正・唐崎修理・長萓大炊・伊古立掃部が住したといい、いずれも多賀谷氏の家臣であったことが知られる。ただ、これらの史料は中世のものではなく、近世に入って多賀谷氏との関係で作成されたことから、史料によって氏名などが若干異なるという問題がある。しかし、これらの多賀谷氏関係史料は、多少の誤りは避けられないかもしれないが、基本的には戦国期の状況を示したものと判断される。見田の袋弾正のものと伝える居館址のように、それぞれ空堀や土塁跡が確認され、「要害」などといった関係地名が残ることからも、ほぼ事実と見てよいだろう。これらの居館は、一般的な城館の立地条件に合致しないように見えるが、ここはかつて四ケ村と呼ばれた地域で、これらを繋ぐように逆S字型に豊田川が流れていた。すなわち旧豊田川の自然堤防上に、これらの居館が築かれていたことになる。こうして大は下妻城から小は袋弾正居館に至るまで、当地域の舌状台地の突端や、谷で切れ込んだ台地端もしくは自然堤防上などを選んで、中世後期には実にさまざまな城館が存在していたのである。[『村史千代川村生活史 第一巻自然と環境』「中世の城郭と居館」より] |
伊古立の鹿島神社から伊古立掃部居館跡を臨む![]() |
訪問記 | [2002/01/08]結城郡千代川村教育委員会の村史編纂室へおじゃましてお話を伺う機会がありました。実は失礼なことながら、このときまで千代川村の存在をまったく知りませんでした。村内に有名な城館が存在しないためにお城ファンには馴染みのない千代川村ですが細かく拾っていけばいくつかありそうです。 [2002/11/10]大急ぎで千代川村内の城館跡と推定される場所を回ってみた。これといった遺構のあるところはない。かつての鬼怒川の旧河道のあった場所だけにだだっ広い畑が広がっていた。 |
所在地 |
下栗城 結城郡千代川村下栗。法光寺の南側一帯。 袋弾正居館 見田。JAのカントリーエレベーターの300mほど南側一帯。 唐崎修理居館 唐崎。永伝寺の東側一帯。 長萓大炊居館 長萱。密蔵院の南側一帯。 伊古立掃部居館 伊古立。鹿島神社の南側一帯。 鯨砦 鯨。花蔵院の南側一帯。 伝平将門居館 鎌庭。香取神社の南西側一帯。 別府館 別府。別府の交差点一帯。 村岡館 村岡。満徳寺の600mほど北側一帯。 |
参考書 | 『村史千代川村生活史 第一巻自然と環境』 |