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 聖地旅行記高橋秀良説教集
 

 

 高橋秀良牧師は、1994年に聖地旅行を体験いたしました。

 三週間のまとまった期間の旅行で、たったひとりでエルサレムとその周辺を、徒歩中心でめぐる旅でした。

 数年来希望していたヘブライ語講習を受けるのが目的だったのですが、現地の教員のストライキで中止となってしまい、単独で自由で,まとまった時間をイスラエルのみですごすという珍しい形の旅行となってしまったのです。

 この旅行記録を礼拝でおこなったのがきっかけで、聖地旅行の希望者があらわれ、4人の希望者と共に、95年8月15日から9月2日までふたたび聖地を訪れることにもなりました。


  目 次

 「 ヤド ヴァシェム 」   940821礼拝説教

 「  聖墳墓 教会  」   940828礼拝説教

 「 エッケ・ホモ教会 」   940904礼拝説教

 「  ゲッセマネ   」   940911礼拝説教

 「  鶏 鳴 教 会  」  940918礼拝説教

 「ヴィア・ドロローサ 」   941002礼拝説教

 「ドミヌス・フレビット教会」 941009礼拝説教

 「西壁」(嘆きの壁)(1)  941016礼拝説教

 「西壁」(嘆きの壁)(2)  941023礼拝説教

 「 神 殿 の 丘 」(1) 941030礼拝説教

 「 神 殿 の 丘 」(2) 941106礼拝説教

 「 神 殿 の 丘 」(3) 941113礼拝説教

 「 神 殿 の 丘 」(4) 941120礼拝説教

 「 オリーブ 山  」    941127礼拝説教

 「 昇 天 教 会 」    941204礼拝説教

 「 主の祈りの教会 」    941211礼拝説教

 「 受胎告知教会  」    941218礼拝説教

 「 聖 誕 教 会 」    951225礼拝説教


  「ヤド ヴァシェム」

 わたしは彼らのために永遠の名前を与え、息子、娘にも勝る記念のしるしと名前(ヤドヴァシェム)を与え、わたしの家、わたしの城壁に刻む。
                           イザヤ書 56章5節

 皆様は、最初に希望したものが叶えられず、その代わりになったものが却って結果において最善であったというような経験をお持ちのことでしょう。今回私はヘブライ語の講習を受けることを希望して手続きを進めていましたが、二カ月に渡る大学教員のストによりそれが中止となり、仕方がないのでエルサレムひとり歩きの旅を思い立ち、7月23日〜8月12日の約三週間それを実行いたしました。いま帰国して振り返ってみると、本当に自分の心が欲していたものはこのことであって、あのことではなかったのだと思い至り、導きの主に感謝いたしております。
 この三週間、我ながらよく歩き回ったと思います。例えば到着第一日目の日誌を見ると、ホテルにチェックインすると直ぐに旧市街に飛び出し、ダビデの塔の城壁を巡り、歴史博物館を見学し、アルメニア人地区とユダヤ人地区を通って西壁に至り、その奥にあるシナゴーグで瞑想し、その後アラブ人でごった返すスーク・ハン・エッザイト通りを歩いた後、ヤッフォー門を出てホテルに戻り、入浴、洗濯の後、新市街の歩行者天国、ベン・イェフダー通りの出店で夕食をとりました。本当に「遊戯三昧(ゆげざんまい)」の三週間でした。
 7月26日はベツレヘムまで半日のバス旅行に参加し、主イエスの「聖誕教会」を訪れ、その帰途、エルサレム郊外にあるホロコースト記念館「ヤド ヴァシェム」を見学しました。第二次世界大戦中、ドイツの独裁者アドルフ・ヒットラーが率いるナチス党によって、六百万人のユダヤ人が虐殺された悲惨な出来事を記憶しておくための施設で、当時の写真や新聞記事や記録、遺品や遺物、絵画や彫刻などが手際よく展示されています。子供館の外には、20本の途中で折れた柱が立っていて、人生の中途で命を断ち切られた百五十万人の子供たちを象徴化していました。子供館の内部は真暗で、手すりにつかまって移動する中、天上には無数の灯りが点され、幼な児の写真が示され、厳かな声で、殺された子供たちの名前と年齢と出身地が呼び上げられていました。私はこの瞬間ほど芸術(アート)の力に圧倒されたことはありません。真の芸術とは、真似事ではなく、事実の中から真実を啓示する力であると思います。事実に直面した誰もが、そこから真実を見出だしているわけではありません。事実の中から真実を抽出して文章に書き留めたり、絵画や彫刻に具象化するためには、創造的な想像力とそれに見合う技術とが必要なのです。人生の中途でその命を絶ち切られた子供たちは、芸術作品を通して、戦争の罪を告発する証人として甦っているのです。いたいけな子供の顔写真を見、その名前が呼び上げられ、真暗な天空に無数の灯を見上げた時、戦争の罪を憎み、「我ら罪を犯したり」との悔い改めの思いに涙が溢れ、その涙が私の心に浄化を与えているのを実感しました。芸術もここまで深まると、宗教の領域に入ります。パブロ・ピカソは、無差別爆撃の犯罪的行為を憎んで、「ゲルニカ」を創作しました。「ゲルニカ」は、まさに「ヤド ヴァシェム」の予言でした。広島、長崎の原爆の洗礼(バプテスマ)、敗戦の悲惨な経験から日本人は、人類の遺産として、何を生み出したでしょうか? それらを記念して私たちは毎年何を実行しているでしょうか? 「ヤド ヴァシェムは、一つの民族の悲しみの記念碑である。それは、ドイツ・ナチス党の手による、ユダヤ民族を苦しめた比類なき暴力に対して、感動すべき証言を与えている。それは、死と苦しみの莫大なる遺産である。それ故にヤド ヴァシェムは人類の精神史における最も有意義なる記念碑の一つである。それは、あらゆる所にいる自由な人々の尊敬と支持とに値するものである」(アバ エバン)
 エルサレムの旧市街は城壁に囲まれています。その南面にシオン門があり、その外側にシオンの丘があります。そこにダビデ王の墓と最後の晩餐の二階座敷の建物があり、その直ぐ近くにマリア永眠教会があります。またその近くにヤド ヴァシェムよりも小さい規模のホロコースト博物館があります。旅の最終日である8月10日朝、そこを訪ねました。その建物の入口にキッパ(おわん状の小さい帽子)をつけた老人がいました。彼が管理人でした。「どこから来なさったかね?」 「日本から。昨日は長崎原爆の記念日でした」「わしは広島や長崎のことも知っている。戦争は大きな悲惨をつくり出すものだ」 入場料を払って中に入ると、焼けこげたトーラーの巻物や祭具、人間の脂肪から造った石けん、射殺され、土に埋められるユダヤ人の写真、ガス室の模型、そして殺された人のネイム・プレイトが延々と続いていました。「ユダヤ人は記憶の民、日本人は忘却の民」と実感して、重い心をもって出入口に戻ると、あの老人が待ち構えていました。「悲劇だろう?」 「はい。人間は恐ろしい罪を犯し得る存在だということ、その罪は過去だけではなく、現在でも旧ユーゴで、ルアンダで、世界の至る所で、現にここイスラエルでも行われていることです」 「私たち庶民はね。昔からユダヤ人とアラブ人は兄弟のようにつき合ってきたのだよ。しかしビッグマンたちが争いを止めようとはしないのだ。私たちはそれに対して何をすることができるかね?」 「祈ることですよ」 「わしはいつも祈っとる。しかし祈ることの外に、何かをしなければならぬと思う」 「それは何ですか?」 「分からんのだよ。それが問題だ。どうかね。今日の記念にサインしてもらえんかね」
 「分からんのだよ」との老人の言葉は普遍的な意味をもっています。私たちは平和を祈求するけれども、何をしてよいか分からないのです。何か善をしようとすると、何者かの手によって、悪用されてしまうのです。正義を行なっているつもりでイエスを十字架につける手助けをした人々のために、イエスは祈りました、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、分からないのです」(ルカ23・34)
 ヤド ヴァシェム。無辜(むこ)の民が独裁者とその一味の手によって無残に殺される。この不条理の現実に対する回答を人間はもっていないのです。ただ、罪なき神の子イエスが十字架につけられて殺されたという歴史的事実の中に、すべての人間の苦悩と悲惨さとが集約されて、神の裁きの御手にゆだねられていることを、私たちは知るのみなのです。



   「 聖墳墓教会 」

 イエスは自ら十字架を背負って、されこうべ(ヘブライ語でゴルゴダ)という場所に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。…イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだ誰も葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。                   ヨハネ福音書 19章17〜18、41〜42節

 八月六日は広島に原子爆弾が落され、多数の日本人が死傷した記念日でした。平和を祈求し、戦争を人間が犯す最大の罪として憎む者は、この日の出来事を決して忘れてはならないのです。その朝、私は世界の平和のために祈りを捧げた後、「ダビデの町徒歩旅行」(エルサレム クリスチャン インフォメーション センター 主催)に参加し、カナンの先住民族エブス人の砦の石垣や、復原されたダビデ当時の家屋を見たり、ギホンの泉からウォーレンのシャフト(水汲み用のトンネル)を通って、ダビデの軍隊がどのようにしてエブス人の要塞を陥したかを考えました(サムエル記下5章6節以下) 今日、貧しいアラブ人の住むこの小さいシルワン(シロアム)村が、ダビデがそこを占領して「ダビデの町」として以来、三千年の興亡の歴史を通して、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教の聖都エルサレムとして発展してきたその発端となった現場なのです。偉大なるものといえども、その発端は誠に細やかなものでした。
 徒歩旅行解散後、一人で聖墳墓教会に行きました。この旅で四度目の訪問です。教会の入口の直ぐ右側の狭い石段を上がると、そこがカルバリ(ゴルゴダ)の聖堂です。ビザンチン様式の聖堂の正面に、イエスが十字架につけられるために地面に横たえられ、その手と足に釘がうちこまれようとしている絵があります。私はその聖堂の後ろにあるベンチに座って考えをめぐらすことが好きでした。「ここで、こうして座っていると、魂が休まる感じがする。今日、八月六日、広島の原爆記念日に、主イエスが十字架につけられて殺され、葬られた後、復活されたこの教会を訪れることが許されて、実に感謝だ。平和は全人類の願いであるが、戦争や難民は後を絶たない。しかし真の平和は、キリストの十字架と復活が実現したこの場所にあり、この場所から平和の福音が全世界に宣べ伝えられたのだ。『キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き…十字架によって…神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまった』(エペソ書2章14節以下) 主イエスの教え、『神を愛せよ。隣人を自分自身の如くに愛せよ』ということは、神に顔を向けて生きなさい。十字架のキリストに免じて、お互いに許し合いなさい、ということだ。十字架のキリストが示された時、人間はだれ一人として、自分の正義を主張し、他人(ひと)の不正を責め立てることはできないはずだ。こうしていると、大勢の観光客が入ってきて騒がしい。ガイドの説明の声、人々のおしゃべり、写真を撮り、ビデオをまわし、慌ただしく立ち去って行く。人々よ、ここはそういう場所ではないのだ。 ここで、ただ人ができることは、沈黙し、頭(こうべ)を垂れ、思いを潜めて、自らの罪を悔い改め、平和の道を歩くことを決意して、立ち去ることだ。ここは、神と出会う神聖な場所なのだ」
 石段を下り、イエスの遺体が安置されて香油を塗られたという赤味がかった大理石を通り過ぎて、ドームの真下にある聖墳墓に行く。そこに天使の聖堂(前室)があり、主の墓(棺室)がある。その辺をアナスタシス(復活)という。その直ぐそばにマグダラのマリアの聖堂がある。それはその奥にある主の顕現の教会と聖墳墓との間の通路のようになっている。私はその聖堂のベンチに腰をおろしていると、突然、パイプオルガンが鳴り響いて、讚美の歌声が聞こえてきた。主の顕現の教会の中で、数名の司祭が礼拝を始めたのだ。祈りと聖書朗読の後、聖墳墓までの行列があり、お墓の前で祈りと讚美があって、お香を振りながらまた元の教会へ戻って行く。ああ幸いだ。昨夜はユダヤ教の大会堂で礼拝を守り、今日はここでラテン教会の礼拝を見学することができた。しかし惜しいな、と思う。 ただ伝統的な儀式を厳粛に守るだけではなく、世界中の国々からここに来ている人々に、神の愛とキリストの平和の福音を語ってくれたらどれほど素晴らしいことか計り知れないのに! この人々はただ儀式の妨げになる煩い群衆なのではなく、救いを求めている生きた魂なのだ。主イエスは会堂で、家の中で、湖の辺で、道の傍らで、野や山で、神殿の庭で、人々に神の国の福音を語られたではないか。その主の精神(スピリット)がここで見られないのは実に残念だ。ただ伝統的な儀式を型通り行うことだけでは、仏教の僧侶や神道の神官と少しも変わらない。使徒パウロやペテロをはじめ、初代教会のクリスチャン達は、生きた人間を相手に十字架と復活のキリストを宣べ伝えていたのだ。今日も尚、宗教改革が必要だ。
 翌八月七日は日曜日。ムリスタン通りにあるルーテル派の贖い主教会の礼拝に出席する。会衆は地元の人が半分、旅行者が半分。説教者はアラビア語で「取税人ザアカイ」の話をし、会衆は配布された英文を読む。讚美歌は英語とアラビア語で同時に歌うから、何だか奇妙な感じがした。その後、10時すぎに聖墳墓教会へ行く。いつものベンチに腰をおろすと、他の日とはまるで雰囲気が違う。参集している人々の質によって、こうも教会の顔が異なるものか。カルバリの聖堂は威厳を保ち、静寂の中に人々は祈り、聖書を読み、瞑想している。確かにここには、十字架のキリストがおられる。地面に横たえられ、手足に釘を打たれようとしているキリスト像を見ているうちに、胸が熱くなり、涙が溢れてきた。「主の苦しみは 我がためなり、我は死ぬべき罪人なり、かかる我が身に 代わりましし、主の御意(みこころ)は いとかしこし」(讚美歌一三六番) ああ日曜日にここに導かれてきたのは幸いだった。この旅行は私にとって巡礼の旅でもあったのだ、と考えているうちに10時30分になり、チャイムが鳴ると、どやどやと観光客が入ってきて、辺りがざわめき、ガイドの声がひびき、カメラのフラッシュがたかれる。するとどうだろう、聖堂の顔は一変してしまった。ここは最早、神の臨在する聖所ではなく、ただの観光名所であるに過ぎない。恐ろしいことだ。天国と地獄は、まさに同じ場所にあるのだ。聖所を観光名所にしてしまう人間の罪。今日は、あの栄光の瞬間を仰ぐことができて、大感謝であった。


   「エッケ・ホモ 教会」

 ピラトは外へ出て来て、ユダヤ人たちに言った、「私は彼をお前たちの前に引き出すが、それは私が彼に何の罪も見出だせないことをお前たちが知るためなのだ」 それからイエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て外へ出て来た。するとピラトは彼らに言った、「見よ(エッケ・)、その人を(ホモ)!」
                      ヨハネ福音書 19章4〜5節

 ローマ総督ポンテオ・ピラトがユダヤ人の群衆に向かって、イエスを指(ゆび)さしながら「エッケ・ホモ」と言ったのはまさにこの場所であるとして、そこに「エッケ・ホモ教会」が建てられました。私は今回その教会を8月2日と9日の二度、訪ねました。
 8月2日はイスラエル観光局公認のガイド、アリエル氏の引率する徒歩旅行に参加し、エルサレム旧市街の四地区、即ち、アルメニア人地区、ユダヤ人地区、アラブ人地区、キリスト教徒地区を回って詳しい説明を受けて、聖墳墓教会の中で解散しました。12時をだいぶ過ぎており、大変に疲れていましたが、教会のベンチに腰かけているうちに、不思議に体力が甦ってきたので、考えました、「ここは『十字架の道(ヴィア・ドロロサ)』の終着点だが、その出発点に戻って、エッケ・ホモ教会の地下にあるアントニア要塞の遺跡と、ピラトが主イエスに死刑の判決を下した場所にある『敷石(ガバタ)』(ヨハネ19・13)を見て来よう」
 はて、エッケ・ホモ教会は確かこの辺だがと考えていると、「旅行者かね? 私が案内して上げよう」という若者がいました。エルサレムにはこういう私設ガイドが沢山いて、断るのが大変です。折角ここまで来て、こういう連中に引き回され、通一遍の説明を受けて、ガイド料をせびられるのは、本当につまらない。「ガイドは要らないよ。私自身が自分をガイドするのだ」と答えて、教会を見つけ出し、入場料を払って中に入りました。
 8月9日は、神殿の丘の上にある「エル アクサ モスク」と「岩のモスク」とイスラム博物館を見学した後、エッケ・ホモ教会を再訪しました。入口のドアは鍵がかけられていました。はて、まだ12時30分の閉館時間には間があるはずだが、と考えてノブの上のノッカーを叩くと、ブザーが鳴って、ドアが開けられました。そこはノートルダム・ドゥ・シオン女子修道院に所属する教会です。受付のシスターに、「お代は?」と尋ねると、私の顔を見て、「一ドル、又は、三シェケル。しかし、もしあなた学生(スチューデント)なら、割引きがあります」と答えました。シスターは私をからかっているな、と思ったので、「ごらんの通り私は年をとっていますが、若い時からずっとバイブル・スチューデントのままです」と答えましたら、朗らかに笑って、「本当に! 実は私もバイブル・スチューデントなのです」と言ってくれました。こういう心の触れ合いは、旅の楽しみの一つです。
 案内図に従って地下に降りると、巨大な水槽が水をたたえてありました。それはローマ人がストラティオン(雀)・プールと呼んでいたもので、ヘロデ大王が紀元前30年にアントニア要塞の給水施設として造った堀でした。雨期の間に降った雨水を地下の貯水槽に集めておいて、乾期に備えるのです。乾期に殆ど雨の降らないイスラエルでは、これは絶対に必要な設備で、マサダの要塞にもクムランの共同体跡にもそれはありました。
 その堀の左側にある四つの低いアーチはヘロデ時代のもので、正面に見える高いアーチはハドリアヌス帝が一三五年に、その上にある市街を支えるために造ったものです。エルサレムにいる間、総督ピラトはその水を利用したであろうし、囚人として主イエスやパウロ(使徒行伝21・37)も、一杯の水を恵まれたかも知れません。
 それから誘導路に沿って階段を昇ると、「敷石(ガバタ)」の間があります。これは地下水槽の上にあって、ローマ時代の市街の一部です。第二次ユダヤ反乱(一三二〜一三五年)を平定し、すべてのユダヤ人をエルサレムから追放したハドリアヌス帝は、エルサレムをローマ風の都市に大整形手術を施し、その名もアエリア・カピトリーナと変えました。紀元70年の第一次反乱で廃墟になっていた神殿の丘にゼウス神殿を建て、ゴルゴダの丘にヴィーナス像を立て、そのそばに広場(フォーラム)を造りました。その跡が今のムリスタン通りです。そして神殿の丘の北側に市場(プラザ)をつくり、そこに至る道に三重の凱旋門を建てました。その門の南側の小アーチは失われましたが、中央の大アーチの五分の三ほどが「十字架の道」をまたいでいて、北側の小アーチは完全に復元されて、エッケ・ホモ教会の礼拝堂の正面祭壇になっています。伝統的にそのアーチは「エッケ・ホモ アーチ」と呼ばれていますが、史実的にはピラトとは関係ありません。
 それよりも注目すべきは、ギリシャ語でリトストロートスと呼ばれている敷石です。いくつかの敷石の上にはゲーム盤が描かれており、それらがアントニア要塞内にあって、ローマ兵たちがその上でイエスを笑いものにしたり、裁判を待つ間、手すさびにサイコロを振っていたかも知れません。「ピラトは…イエスを引き出して行き、敷石(ガバタ)という場所で裁判の席に着いた」(ヨハネ19・13) 敷石は、福音書が証言するイエスの裁判の一部始終を目撃していたのかも知れません。エルサレムの旅行者は、石の語る言葉に耳を傾けなければなりません。城壁の石、掘り割りの石、柱や壁の石、土台の石、装飾の石、敷石、そしてゲッセマネの園の石とゴルゴダの丘の石。それらの石は、歴史の証人なのです。 イエスを引き渡されたローマ兵たちは、彼を笞打ち、茨の冠をかぶらせ、紫の衣(恐らく高価な紫(ロイヤル・パープル)の王衣ではなく、その代用品としての兵隊の外套)を着せ、「ユダヤ人の王、バンザイ!」と叫び、平手打ちをくわせました。福音書記者ヨハネは、このように偽わりの王に仕立てられているイエスこそ、神の国の王なのである、と語っているのです。
 茨の冠をかぶり、紫の衣を着たイエスを指して、「見よ、その人を!」と言ったピラトの言葉も意味深長です。ピラトは、事件の成り行きでこう言ったに過ぎないのですが、記者ヨハネはその言葉を、キリスト証言、あるいは宣教の言葉として書いているのです(ヨハネ11・49以下参照) 福音書の初めで、バプテスマのヨハネはイエスを指して「見よ、神の小羊」(1・36)と言いました。そして福音書の終わりでローマ(全世界)の代表者ピラトがイエスを指して「見よ、その人を!」と言ったのです。そしてそれ以後二千年の歴史を通して、その言葉は繰り返し、繰り返し語られてきましたが、果たして私たちは本当にその人イエスを見ているでしょうか? 


  「 ゲッセマネ 」

 彼らはゲッセマネという場所に来ると、イエスは弟子たちに言われた、「私が祈り終わるまで、ここに座っていなさい」 そして彼はペテロとヤコブとヨハネを連れて行かれたが、恐怖と不安に陥り、彼らに言われた、「私の魂は死ぬばかりに深く悲しんでいる。君たちはここに留まり、眼を覚ましていなさい」 それから彼は少し先へ行き、地にひれ伏して、できることならこの時が過ぎ去るようにと祈り、そして言われた、「アッバ、父よ、あなたにはすべてが可能です。この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし私の意志ではなく、あなたの御意志を成らせて下さい」
                      マルコ福音書 14章32節〜36節

 ゲッセマネの園は、エルサレムの東側にあるオリーヴ山の麓にあります。私は今回の旅行で7月29日と8月4日の2回、そこを訪れました。ゲッセマネとは、「油絞り」という意味で、当時その付近がオリーヴ畑で、その実の油を絞る場所がそこにあったのです。 今でもその庭に8本のオリーヴの古木が残っています。ゲッセマネの教会の正式の名称は「御苦悶の教会(バジリカ オブ アゴニー)」ですが、現在の教会堂が建てられる時に世界中の国々の教会から資金が寄せられたので、「万国民の教会」とも呼ばれて親しまれています。
 私は8月4日、ユダ氏がガイドする徒歩旅行に参加し、シオンの丘にあるダビデ王の墓、最後の晩餐の部屋、永眠するマリアの教会を回り、小型バスでオリーヴ山頂へ行き、主の祈りの教会、昇天教会、預言者の墓、主の嘆きの教会、ゲッセマネ、マリアの墓を訪れました。その時はゲッセマネの教会の閉門時間(12時)間際に着いたので、あわただしい訪問でした。
 7月29日はひとり旅で、ヤッフォー門、新門、ダマスカス門と、旧市街の外側を半周して、ダマスカス門から二百米ほどの距離にある「園の墓(ガーデン・チューム)」に行きました。ここは一八八三年に、英国のゴードン将軍が訪れ、されこうべの形をした岩を見、古代の墓地が近くにあるのを見て、この地こそイエスが十字架につけられて殺され、葬られ、そして復活した場所であると確信しました。それ以後、「ゴードンのゴルゴダ」として、英国のキリスト教団体が管理している遺跡です。どちらかというと、歴史と伝統と考古学は、圧倒的に聖墳墓教会がその場所であることを支持していますが、実際に来て見ると、こちらの方が二千年前の出来事をリアルに感じさせる自然環境と雰囲気が保たれています。正門に若い婦人がいました。「拝観料は?」 「無料です」 「では献金をしたいのですが」 「献金はお受けします」 「細やかな捧げ物です」 「どんな捧げ物も尊いものです」 中に入ると、イギリス人の管理能力に感嘆させられます。どくろの形をしている岩と、「イエスの墓」は昔のままに保存され、周囲は計画的に花壇や並木が配置され、東屋があり、木陰にはきれいなベンチが置かれていて、礼拝や祈祷会ができるように整備されています。花壇にはハチ鳥が来て、花の蜜を吸っています。「イエスの墓」の入口には木戸があり、その上に「彼はここにはおられない。甦られたのだから」(マルコ16・6)と書いてあります。これが彼らの信仰で、イエスの墓地がどこにあろうとも、それはいわば抜け殻であって、本当に探し求めるべきものは、復活の主イエスである、というのです。
 その後、ヘロデ門を過ぎ、城壁の北端を右に折れてエリコ街道に沿って歩き、ゲッセマネの教会に着いたのが11時20分でした。脇道にある小さい戸が入口で、そこを入ると庭があり、オリーヴの古木と花園がありました。ここは静寂が保たれ、受付も拝観料もなく、規則と時間さえ守れば、誰でも自由に入って祈りと瞑想ができるのです。代替りをしたとしてもオリーヴの古木の位置はイエスの当時のままです。主イエスはこの場所を愛し、エルサレム滞在中、よく弟子たちを連れてこの場所に来られました(ルカ22・39) あの晩も、最後の晩餐を終えると、讚美をうたいながらシオンの丘を降り、キデロンの谷を越えて、この場所に来られました。そして弟子たちをそこに残して、「ご自分は、石を投げてとどくほど離れた所」(ルカ22・41)へ行き、「血の汗をしたたらせて」祈りました。
 「御苦悶のバジリカ」と呼ばれている聖堂に入ると、数人の人が静かに座って祈っていました。私も足音を忍ばせて中央祭壇の前に置かれている大きな「聖岩」の前に座りました。伝説によればこの岩にもたれて、あの夜、主イエスは祈られたのです。その岩に口づけしている信者もいました。私も厳粛な気持でその岩の前にひざまづいて祈りました。その後、その岩を凝視したまま、福音書の言葉を思い起こしていました。
 あの夜、この場所で一体何が起こったのだろう? 弟子の一人、ユダは既に敵方に走っていました。あとの11弟子を連れてここに来ましたが、イエスは弟子たちから離れて、ひとり、深い孤独の中に、父なる神に祈りました。十字架を前にして「恐怖と不安に陥り…私の魂は死ぬばかりに深く悲しんでいる」 ここに私たちと同じ弱さをもつ人間イエスがいます。これはイエスが一人で受けるべき試練です。祈りの共闘を依頼された弟子たちは眠りこけています。イエスは父なる神の全能を信じ、その御手に御自身をゆだねます。「私の意志ではなく、あなたの御意志を」 これは祈りの極致です。神は、その祈りに応えられるでしょうか? その時ユダが現われ、接吻を合図に、イエスは捕縛されます。「裏切りの接吻」 裏切り者はユダだけでしょうか? ペテロをはじめ、すべての弟子たちはイエスを見捨てて逃亡しました。彼らも又、イエスの信頼を裏切ったのです。人間は裏切るものである、と福音書は証言しています。では神は? 神はイエスを裏切らなかったでしょうか? 全幅の信頼を捧げて祈ったイエスの祈りを、神は聴き入れたでしょうか? 「わが神、わが神、何ゆえわれを見捨て給いし?」(マルコ15・34) これがイエスの最後の言葉だとすれば、神も又、イエスから顔を背けていたのです。不正と虚偽と権力が勝利し、正義と真理と愛が敗北するのであれば、一体、人間の救済はどこに見られるのでしょうか? 「義人は何ゆえに苦難を受けるのか?」 これはヨブ記以来、聖書が一貫して問題にしている中心テーマです。これは又、思想の歴史の中心テーマでもあります。 そこまで考えた時に、ふと、園の墓の木戸の上に書かれていたあの言葉を思い起こしました。「彼はここにはおられない。甦られたのだから」 イエスの祈りに対する神の応答は、イエスの復活でした。


  「 鶏 鳴(けいめい) 教 会 」

 さて、ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中が来て、彼が火にあたっているのを見ると、その顔を見つめて言った、「あなたも、あのナザレ人イエスと一緒にいた!」 だが彼は否定して言った、「私は知らない。あなたの言っていることが分からない」 そして前庭へと出て行った。するとその女中が回りに立っている人々に再び言い始めた、「この人は彼らの仲間です」 しかし再び彼は否定した。しばらく後、回りに立っている人々が再びペテロに言った、「本当にあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」 しかし彼は呪って誓い始めた、「私はあなた達が言っているそんな人は知らない!」 すると直ちに鶏が二度目に鳴いた。するとペテロは、「鶏が二度鳴く前に、君は私を三度否認するだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。
                      マルコ福音書 14章66節〜72節

 イエスを裁くための秘密裁判が行われて、その際ペテロが、主の予告どおりに、主を三度否認したのは、紀元30年ニサンの月の15日の夜で、場所は大祭司カヤパ邸の中庭でした。今日、その場所と言われている所に鶏鳴教会が立っています。その教会の正式の名称は、「鶏鳴時の聖ペテロ(セイント・ピーター・イン・ガリカントゥ)」教会です。
 私は旅の最終日、8月10日にそこを訪問しました。ホロコースト博物館を見学した後、シオンの丘からS字状に下り坂になっている道を数百米ほど歩くと、右側に番小屋があり、中に中年の男性がいました。「教会を拝観できますか?」 「はい、拝観料は3シェケル。しかし、もしあなたが司祭(プリースト)なら、無料です」「私は司祭(プリースト)ではありませんが、日本から来た牧師(パスター)です」 「パスターは歓迎です。どうぞそのままお入り下さい」 その道を更に進むと、右側にひと目でそれと分かる鶏鳴教会がありました。折よく十数人の若者たちが出たところで、会堂入口の献金箱に献金を入れて中に入ると、私の他には誰もいませんでした。正面祭壇には主イエスの裁判のモザイク画があり、周囲の壁や天井も、主イエスの生涯の出来事を語るカラフルなモザイク画やステンドグラスで満たされていました。建物の外観も内装も、モダンで明るい感じの教会です。古代の遺跡は、その地下にありました。地下は石の階段と大部屋、小部屋などがあり、地下4階の最低部分は、石牢になっていました。囚人イエスはそこに留置されて、鞭打たれたかも知れません。教会のベランダからの展望は圧巻です。西にシオンの丘、南にヒンノムの谷とキデロンの谷の合流点、東から北へ向かって、シルワン村、オリーヴ山、神殿の丘が眺望できます。忘れてはならないのが、あの石段です。「最も考古学的に注目されるのは、教会の北の入口からゆるやかにテュロペオンの谷に向かって下る坂道に残存する石段である。イエス時代のエルサレム上市の南端からテュロペオンの谷の下市に下るための石段で、明らかにローマ時代のものである。主が最後の晩餐の後、ゲッセマネへ向かわれる時、またゲッセマネから連行されてこのカヤパ邸に着いた時、この石段を下りまた登られたと想像することができる」(「新約聖書の考古学」 関谷定夫)
 見学を終えて売店に寄り、本や絵はがきを物色していると、係りの若者が「お早う」と言い、いくつかの日本語で話しかけてきたので、「日本語をどこで習ったの?」ときくと、ニューヨークの学校で三年間、日本人の学生と一緒に過ごしたと言う。また彼は司祭になるための修業中なのだと言う。「ゴッド ブレス ユー」という英語を日本語で何と言うのか、と尋ねるので、「神の祝福をお祈りいたします」と教える。「シュクフク」と「…ヲオイノリ」の部分の発音が難しいらしく、何度も繰り返し練習させ、合格点を与えて、いざ別れようとすると、「ちょっと待って下さい。もし時間があるのなら、日本で23年間も働いたシスターが今この教会に来ているから紹介したい」という。承諾してしばらく待つと、小柄な中年のシスターが急いでやってきました。フランス人で、名前をノエル・アグニスという。「ノエルとはクリスマスの歌のノエルですか?」 「そうです。皆さんシスター・ノエルと言ってくれます。アグニスというと、それ誰? と言われてしまいます。ただシスター・ノエルとだけ言えば、みんな知っています」 23年間、大阪や松山で働いたこと、日本や先進国の若い人々のこと、釜ガ崎や山谷の貧しい人々のこと、「蟻の町のマリア」やゼノ修道士の働きのこと、日本語の達人カンドウ神父のこと、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の来日のことなどを話し合いました。「ローマ教皇が広島で『戦争は悪魔の仕業です』と語られましたね」 「その言葉はよく覚えています。あの日は寒い吹雪の日でした。実は、私は教皇様のすぐそばにいて、思わず手を差し伸べたら、教皇様は私の手を取って祝福して下さいました」と、少女のように目を輝かせて話してくれました。缶ジュースを飲みながら一時間ほど語り合った後、別れの言葉を述べると、あの番小屋まで見送りに来て下さったのには恐縮しました。そこで握手をして互いに祝福の言葉を述べ合い、手を振り合って別れました。世俗の欲を捨て去ったひとの笑顔は美しい。出会いと別離は人の世の常だが、後に祝福と喜びが残るのは、大きな恵みの賜物です。
 鶏鳴教会の南方、ヒンノムの谷の彼方に小高い丘があり、そこにギリシャ正教の修道院が立っています。そこが、あのユダが主を売り渡した後、自殺した「アケルダマ」(使徒行伝1・19)の地です。ペテロとユダ。最後の瞬間に二人とも主を裏切りました。ユダは合図の接吻をもって、ペテロは三度も「私は彼を知らない」と白を切って。二人の共通点はエゴイズムです。人間は皆、自分が一番(エゴイスト)かわいいのです。自分の欲望を遂げるためにユダは師を裏切り、自分の身を助けるためにペテロは主を否認しました。それを聖書は「罪」として厳しく裁いています。エゴイズムは罪なのです。ではその二人の相違点は? ユダは自分の罪を悔い改めずに自裁しました。彼は最後まで主に対して心を開きませんでした。ペテロは自分の弱さに泣いて、罪を悔い改め、裁きを主の御手に委ねました。人間の弱さに対する主の裁きは、寛大です。自分が自分自身を裁かず、他人の裁きを気にかけず、主の裁きに委ねることを知る人は、本当の自由人です。信仰の要点はこれです。自分がどのような者であれ、主イエスを愛し、何事においても、主に対して心を開いていること。そうすれば「7度を70倍するほど赦せ」(マタイ18・22)と教えられた主は、無限の愛をもって、私たちの罪を赦して下さいます。



  「ヴィア・ドロローサ」

 彼らがイエスを連行する途中、畑から帰って来たシモンと言うクレネ人を促えて十字架を負わせ、イエスの後から運ばせた。民の中の大勢の人々と、イエスのために悲しみ嘆く女達が、彼に従った。イエスは女達に振り向いて言われた、「エルサレムの娘達よ、私のために泣くな。むしろ、あなた達自身と、あなた達の子供らのために泣きなさい…」
                       ルカ福音書 23章26〜28節

 旅行日誌を見ると、7月29日は多忙な日でした。ゲッセマネの教会訪問(9月11日号)の後、オリーヴ山に登り、ユダヤ人墓地から旧市街の全景を眺めた後、山を下り、キデロンの谷を越えて、ステパノ門から旧市街に入りました。そして聖アンナ教会−エッケ・ホモ教会−西壁と歩き、3時30分に神殿の丘北側のアル・オマリエ・スクール(アラブ人小学校)の校庭に行きました。毎週金曜日4時(夏時間)から行われるフランシスコ会修道士による十字架の行進に参加するためです。
 イエスの当時、そこはアントニア要塞の内部であって、ローマ総督ピラトがイエスに死刑を宣告した場所として、「悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)」の出発点(第1留(りゅう))とされています。そこからイエスが十字架上で息絶えたゴルゴダまでの五百米余りの道程を「悲しみの道」または「十字架の道(ヴィア・クルシス)」として、多くの巡礼者が主の御苦難を偲びつつ歩くのです。その校庭からタリク・エル・アラム通りに出ると直ぐに「宣告の聖堂」の外壁があり、そこは主が十字架を負わされた場所として、第二留に定められています。修道士たちは留(ステーション)ごとに立ち止まって祈祷を唱え、讃歌をうたって行進します。そこからエッケ・ホモ・アーチをくぐって二百米ほど進むと、ダマスカス門から西壁に至るエル・ワド通りに出ます。ワドとはワジ(涸川)のことで、昔はテュロペオンの谷間でした。従ってその通りは大変低い位置にあります。そこを左に曲がって直ぐの所が第3留で、主が最初に倒れた所とされています。その道を更に10米ほど進むと第4留で、主が聖母マリアに出会った所とされています。そこに小聖堂があり、十字架をかついだ主が母マリアに会った瞬間の浮彫があります。第4留から更に南進して間もなく右に折れ、石の階段の坂道を上がると、その角が第5留で、クレネ出身のシモンが主に代わって十字架を負わされた所とされています。
 そこから10数米坂を上がった所に第6留があり、ヴェロニカがハンカチで主の顔の汗をぬぐった所とされています。そのハンカチに血のしたたる主の御顔(みかお)が刻印され、それには病気を癒す力があると信じられ、「聖骸布」として現在ローマの聖ペテロ大聖堂に保管されています。そこから更に上り坂を西へ進むと、ダマスカス門から南下してくるスーク・ハン・エッザイト通りと交差します。その通りはローマ時代のカルドー列柱大通りで、現在ユダヤ人地区の商店街にカルドーの発掘現場が展示され、往時の栄華を偲ぶことができます。その二つの通りの交差点で主が二度目に倒れたとされ、そこが第7留です。またその地点は当時第二城壁があった所で、そこから先は市外になります。第8留はそこから30米ほど先へ行った所で、主が嘆き悲しむ女たちに語りかけた場所とされています。第8留から第9留の、聖墳墓教会の東端にあるコプト(古代エジプト)教会まで、昔は直行できたはずですが、現在は、再び第7留まで戻ってから、エッザイト通りを南下して、百米ほど行くと右手に幅広い石段があり、それを28段上がると、コプト教会の入口に達します。そこが第9留で、主が三度目に倒れた場所とされています。第10留から最後の第14留までは聖墳墓教会の中にあります。主が着衣をぬがされたところ(10)、十字架につけられた所(11)、息絶えた所(12)、遺体を下ろされた所(13)、墓に納められた所(14)。この現在のルートは十字軍時代(13世紀)から設定されたもので、それはピラト官邸(プラエトリウム)がアントニア要塞にあったとの仮定に基づくものです。
 「イエスの裁判が、かつてヘロデの宮殿であった『総督邸(プラエトリウム)』で行われたことを指摘したのは、ドミニコ会の指導的研究者であり考古学者であるP・ベノーである。総督邸は、総督がカイザリアからエルサレムにやって来た時に滞在する場所であった」(G・コーンフェルト) ヘロデの宮殿は、現在ヤッフォー門のそばの城塞(シタデル)の南側、アルメニア神学校のある場所にありました。ベノーの仮説に従えば、十字架の道は、ヘロデ宮殿(総督邸)−城塞−ダビデ通り−ヒゼキヤの池−聖墳墓教会、というルートになります。事実、8〜12世紀頃の聖金曜日の行進のルートは、ゲッセマネ−カヤパ邸−ヘロデ宮殿…でした。
 「最近、ベネディクト派のピクナー神父が発表した論文は注目に価する。まずビザンチン時代には、イエスが裁かれたピラトの官邸は、現在の西壁の南、ロビンソン・アーチの向かいにあったハスモン家の王宮跡と同定されていた…六三八年のアラブ軍侵入までの十字架の道は、まず聖金曜日の前夜、オリーヴ山を出発点として始まった。行進はゲッセマネを通ってカヤパ邸(鶏鳴教会)に達する。翌聖金曜日には、ここからピラトの官邸(ハスモン家王宮跡、当時聖ソフィア教会)を経て、ゴルゴダに向かった」(関谷定夫)
 要するに、ヴィア・ドロローサの終着地のゴルゴダの丘は聖墳墓教会であると同定することができますが、その出発点であるイエスの裁判が行われたピラトの官邸がどこにあったかは、まだ確定されていないのです。そして十字架の道の行進も、初期の頃は、主イエスが歩かれた苦難の道を自分も歩いてみて、主の御思いに少しでも近づきたいという純粋に信仰的な行為であったものが、中世以降になると、十字架を担いだり、跪いて歩いたり、体に鞭を当てながら行進したりして、信仰熱心を見せ物にするに及んでは、宗教の堕落もここに極まれりと言わざるを得ません。
 16世紀の初期、若きドイツ人修道士マルチン・ルターはローマに巡礼し、そこの「ヴィア・ドロローサ」を跪いて歩いていた時に、ふと疑問が生じ、「ノゥ!」と叫んでその苦行を中止しました。彼の深い聖書知識がそうさせたのです。宗教改革の動機の一つがそれでした。「自分の十字架を負うて、私に従って来なさい」(マルコ8・34) この御言葉は「内なるヴィア・ドロローサ」を示唆しています。ヴィア・ドロローサを地球上の特定の場所に探し求めるのではなく、自分の人生の中にこれを発見して、十字架の主イエスに従ってその道を歩くのです。「すべて労する者、重荷を負う者、わが許に来たれ! われ汝らを休ません…」(マタイ11・28)


  「ドミヌス・フレビット教会」

 いよいよエルサレムに近づき、都が見えてきた時、イエスはその都のために声を上げて泣いて言われた、「もしお前が今日にでも、平和に至る道を知りさえすれば! しかしそれは今お前の目から隠されている! 敵が来て、お前のまわりに塁を築いて取り囲み、四方から押し迫り、お前とお前の子供たちを地面に投げつけ、お前の中に石の上に重ねられている石を一つも残さぬようにする。そのような日が必ずやってくる。神の訪れの時をお前はわきまえなかったからである。
                        ルカ福音書 19章41〜44節

 エルサレムには面白い名前の教会があります。ペテロが主を三度も否認した罪のために激しく泣いて悔い改めた場所を記念して、「鶏鳴時の聖ペテロ(セイント・ピーター・イン・ガリカントゥ)」という名前の教会があることは既に学びました。初代教会が、罪を悔い改めて主に立ち帰ることの重要さを深く認識していた証拠です。今朝の主題の教会は、「主は(ドミヌス・)、泣き給うた(フレビット)教会です。主イエスが声を上げて泣き給うた場所を記念して、小さい、清楚な聖堂が立っています。その聖堂の正面の飾り窓からは、黄金のモスクを中心に、城壁と神殿の丘と旧市街のパノラマが見られます。ユダヤ教徒であるガイドのユダ氏は「私はこの聖堂と、ここから眺めるエルサレムの光景が大好きです」と言っていました。私はその言葉に感動しました。
 神殿の丘は別名「モリヤの山(創世記21・2)といいますが、その東側にモリヤの山よりも数十メートル高いオリーヴ山の山並が横たわっています。そのためにオリーブ山頂から西側を見ると、神殿の丘から旧市街の全景を見下ろすことができます。「黄金のエルサレム」とは、オリーヴ山から見たエルサレムの美しさを称えた詩的表現であると思います。
 「いよいよオリーヴ山の下り坂にさしかかった時」(ルカ19・37) 現在オリーヴ山頂にある昇天教会から、その麓のゲッセマネの園まで、エルサレムを眺めながら歩くことのできる心地よい坂道がありますが、その途中の木立ちの中にひっそりとドミヌス・フレビットの小聖堂が立っています。そのドームを縁どっている波形の曲線は、主の涙を象徴しています。この美しい聖堂は一九五四年に建てられたものですが、この同じ場所に、同じような小聖堂が既に6世紀のビザンチン時代に存在していたことが考古学的な発掘調査によって確かめられています。
 主イエスが子ろばに乗ってオリーヴ山の坂道を下り始めると、弟子たちや付近の村人たちや過越祭のために都へ向かっていた巡礼たちが、自分の上着を道に敷いて、主のエルサレム入城を歓迎いたしました。「主の御名によって来たる王に、祝福あれ!」 ここでは人々はイエスをメシア王として讃美しています。その熱狂的な歓呼の叫びがローマ官憲を刺激することを恐れたパリサイ人たちが、その騒ぎを鎮めるようにイエスに要請すると、彼は「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出すだろう」と答えました。
 「いよいよエルサレムに近づき、都が見えて来た時…」 ルカは自分自身がその現場に居合わせて、刻々と移り変わる実況を報告するリポーターのような気持でこの記事を書いています。「イエスはその都のために声を上げて泣いて言われた…」 ここにいるのは物事に動じない悟りすました聖人ではなく、多情多感な青年イエスです。大勢の人の前で声を上げて泣くイエス。その涙の原因は、愛するエルサレムの滅亡の予感です。その予感は既にガリラヤからエルサレムへの途上でありました。権力者を激しく批判しているイエスの人気が民衆の間に広まった時に、イエスの身を案じたパリサイ人たちが、「さあ早くここを去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」(13・31)と忠告しました。権力者にとってイエスは危険人物でした。「あの狐の所へ行ってこう言え…」 イエスはガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスを狐と呼びました。狐は愛すべき動物です。しかし狐のような人間は信頼できません。「…今日も明日もその次の日も、私は進んで行く。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ない」 イエスは預言者の自覚をもって、エルサレムを死地と定めて、その戦場へ乗り込もうと覚悟しています。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人々を打ち殺す者よ。丁度、めんどりが翼の下にひなを集めるように、私はお前の子らを幾度、集めようとしたことだろう!」 イエスはユダヤ人ではなく、ガリラヤ人でしたが、その心は生粋のユダヤ人でした。離散のユダヤ人は異郷の地で過越祭を祝った時に、「今年はここで、来年はエルサレムで」と挨拶を交わすのが常でした。イエスのエルサレムに対する感情は複雑でした。彼はエルサレムを心底から愛していましたが、同時に、それを厳しく批判しました。今日の日本においても、本当の愛国者は、同時に憂国者であるのです。右翼の人々のように手放しで「日の丸バンザイ」を叫ぶのではなく、左翼の人々のように日本の運命には無関心で「インターナショナル」を謳うのではなく、真の愛国者は、主イエスのように、日本を深く愛しつつも、愛するがゆえに、その現状を憂い、その滅亡を予感して恐れ戦(おのの)くのです。
 古代イスラエルの預言者は皆、愛国者でした。愛国者なるがゆえにその現状を批判し、悔い改めて正義と公正を行なえと叫びましたが、人々は聞く耳を持たず、預言者を迫害しました。悲哀の預言者の最たる者はエレミヤでした。「身分の低い者から高い者に至るまで皆、不正な利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の傷(破滅)を手軽にいやして、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(6・13〜14) エレミヤの預言は現実となりました。バビロン軍による神殿の破壊と人々の捕囚です。
 「先生、ごらんなさい。何という見事な石、何という立派な建物でしょう!」(マルコ13・1) 弟子達をして驚嘆せしめた豪華なヘロデ神殿が誇らしげに立っていました。しかし主イエスの霊眼には、廃墟と滅亡が明らかに見えるのです。主はそのために「声を上げて泣いた」のです。果たせるかなその40年後、ソロモン神殿がバビロン軍によって破壊された同月同日、ヘブル暦によるアヴ月九日に、ヘロデ神殿はティトス将軍の率いるローマ軍によって焼き払われ、エルサレムの全市は徹底的に破壊され、市民は虐殺されました。 主イエスが声を上げて泣き給うた所に立っているドミヌス・フレビットの小聖堂は私たち自身のあるべき姿です。「君たちは神の聖堂であって、神の御霊が君たちの中に宿っていることを知らないのか?」(コリント第一書3・16)


  「西壁」(嘆きの壁)  (1)

 主はおとめシオンの城壁を滅ぼそうと定め、打ち倒すべき所を測り縄ではかり、御手を翻されない。城壁も砦も共に嘆き、共に喪に服す。…おとめシオンの城壁よ、主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ。
                          哀歌 2章8節、18節

 エルサレムは三大宗教の聖都です。イスラム教徒にとってエルサレムの中で最も神聖な場所は、神殿の丘の上に建つ黄金のドームのある「岩のモスク」と、銀色のドームのある「エル アクサ モスク」です。キリスト教徒にとっては、イエス・キリストが十字架上で死に、復活した場所に建つ「聖墳墓教会」です。では、エルサレムの地主ともいうべきユダヤ教徒にとっての聖所はどこでしょうか? 全く意外にも、神殿の丘の西側に廃墟として残っている石の壁なのです。「庇を貸して母屋を取られる」という諺がありますが、ユダヤ教徒にとって、キリスト教徒やイスラム教徒はそんな感じの存在でしょう。特に「岩のモスク」のある神殿の丘には、かつてユダヤ教の神殿が建っていたのですから、歴史的必然の結果がもたらした現実とはいえ、ユダヤ教徒にとっては無念なことでしょう。 「…エルサレムは再びユダヤ人の巡礼者でにぎわい、多くの者がそのままエルサレムに住みついた(13世紀、イスラム時代) ユダヤ人はムリスタン南東の今日人々が『ユダヤ人地区』と呼んでいる区域にかたまって住んだ。そこを選んだのは、『西壁』に最も近かったからである。西壁はかつてユダヤ教神殿の周囲を守っていた巨大な石壁(コーテル)の残りであり、神殿崩壊の記念であった。伝説によれば、毎年アヴ月9日の夜半になると、決まって西壁に露が降り、一羽の白い鳩がどこからともなく飛んで来て壁の上に止まり、神殿崩壊を悲しむ人々の祈りの声に合わせてクックウ、クックウと鳴いたという。だがユダヤ人にとって西壁(ハコーテル)は決して悲劇や絶望の象徴ではなかった。確かに彼らは西壁に向かい神殿崩壊を悼んだ。しかし同時にユダヤ人は過去の中に将来を、廃墟の中に希望を見出だした。かつてあった壮麗な神殿はもはや存在しない。だが、その神殿の壁は、たとえ一部にしろ、今でも残っている。神殿が崩壊した時、無数のユダヤ人が倒れた。国土は失われ、民族は離散した。だが、自分たちは生きている。ユダヤ民族の根は決して絶えていない。絶滅しないで残っているのは、そこに何らかの意味があるからである。それ故、過去の崩壊を悲しむのではなく、むしろ民族の将来に対して希望を抱くことこそ、現在生き残っている者に課せられた義務である、とユダヤ人は考えた」(「エルサレム」 池田裕)
 「ユダヤ教正統派の人々はどんな服装をしているか?」と8月2日、徒歩旅行のガイド、アリエル氏は質問した。「黒いコートに黒い上着、黒いズボン、そして黒い帽子」と、若い女性が答えた。太っちょで、無造作な服装をしているアリエル氏は、ソクラテスのように問答法で教える。「そうだ。ではなぜ黒なのか? 黒は何を表わす色か?」 「悲しみです」 「そうだ。あれは悲しみを表わす喪服なのだ。では彼らは何を悼んで、この暑い真夏の日にも、喪服を着ているのか? 誰か答えてくれ。アラム君、どうかね?」 アラムは両親と共に徒歩旅行に参加している中学生位のユダヤ人の少年でした。「神殿の崩壊です」 「その通りだ、アラム君。ありがとう。君は賢い少年だ」
 私はひどく感動しました。ソロモンの第一神殿の着工が紀元前九六五年頃で、その落成がその20年後。その神殿がネブカドネザルのバビロン軍によって破壊されたのが前五八六年。そしてバビロン捕囚から帰還した人たちが瓦礫を片付けて、その上に質素な神殿を再建したのが前五一五年。それが第二神殿。そしてヘロデ大王が神殿の丘を拡張整備して、神殿の大改築を始めたのが前20年頃で、それが落成したのが約80年後の紀元62年頃。「先生、ごらんなさい。何という見事な石、何という立派な建物!」(マルコ13・1)と、イエスの弟子が感嘆の声を上げたのが紀元30年で、まだ神殿の一部は工事中でした。「ヘロデの神殿を見たことのない人は、本当に美しい建物を見たとは言えない」という言葉が地中海世界で諺になったほどでした。その神殿が完成したわずか数年後の紀元66年に第一次ユダヤ戦争が起こり、その4年後の70年に、ティトス将軍の率いるローマ軍によってその神殿は焼き払われてしまいました。「…六五七年前にバビロニア人が、この同じ場所にソロモンが建てた第一神殿を破壊した同月同日、ヘブル暦によるアヴ月9日に、ティトスの軍隊は神殿内に突入して聖所に放火した。炎があまりにも猛烈な勢いで燃えさかったので、神殿が建つ丘はその土台から大きな火の塊のようであった」(「聖都エルサレム」 T・コレック、M・パールマン)
 彼らは実に二千年に渡って、どんな国に住んでいても、神殿の崩壊を片時も忘れず、これを悼んで喪服を着つづけてきたのです。ユダヤ人にとっての宗教とは、そういうものなのです。アリエル氏の質問は続きます。「では、彼らはいつ喪服を脱ぐのか?」 「メシアが来て、神殿の丘の上に、新しい神殿を建てて下さる時です」 「その通りだ。彼らはメシアの来臨を待望しているのだ。キリスト教徒にとってはメシアの問題は解決している。イエスがメシア(救い主、キリスト)なのだ。しかしユダヤ教徒にとっては、それは未解決の問題なのだ。ごらんなさい。あそこに見える黄金のドームのある「岩のモスク」はイスラム教徒の神殿であって、ユダヤ教徒の神殿ではない。ユダヤ教徒はあの神殿の西側に残っている「西壁」に向かって、メシアの来臨と神殿の再建を祈り求めている。そしてその日が来た時に、彼らは喪服を脱いで、晴れ着を着るのだ」
 ユダヤ教からキリスト教を切り離したものは、イエスの復活でした。イエスは復活したことによってキリストと信じられ、信じた者たちが集まった教会(エクレーシア)と成ったのです。弟子たちは復活を見たことによって、十字架の意味が明らかになりました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29) キリストの十字架は、世の罪の贖罪のためであったと。また、神殿再建の問題については、イエスの復活の体(からだ)が新しい神殿であると解釈されました。「この神殿を壊したら、私は三日のうちに、それを起こすであろう。…イエスは御自分の体である神殿のことを言われたのである」(ヨハネ2・19以下)そして更にその神殿は「キリストの体なる教会(エクレーシア)(エペソ1・23、コロサイ1・18)として生まれ変わっているというのが、新約聖書の信仰なのです。


      「西壁」(嘆きの壁)  (2)

 主よ、あなたは永遠(えいえん)にいまし 代々続く御座にいますお方。なぜ、いつまでも私達を忘れ 果てしなく見捨てて置かれるのですか? 主よ、御許に立ち帰らせて下さい 私達は帰ります。私達の日々を新たにして 昔のようにして下さい。あなたは激しく憤り 私達を全く見捨てられました。
                          哀歌 5章19節〜22節

 「西壁」は、別名「嘆きの壁」といいますが、それは「嘆いている壁」なのか、それとも「そこで嘆くための壁」なのか。ソロモンが建てた第一神殿と、ヘロデが大改築した第二神殿は、奇しくも共にアヴの月の9日に崩壊したのですが、それは8月22日頃にあたります。その頃のエルサレムは乾期で、雨は降りませんが、地中海方面からの西風に朝霧が吹きつけられて石壁が濡れ、石と石のわずかのすき間に生えているヒソプの草から水滴がしたたる様(さま)が、あたかも石壁がユダヤ人の運命を嘆き悲しんでいるかのように見える所から「嘆きの壁」と呼ばれたという説。他の説は、ユダヤ人が神殿の崩壊と民族の滅亡を嘆き悲しむために集まって来る場所であるというのです。どちらの説も正解でしょう。
 第二次ユダヤ反乱(一三五年)後、ローマ当局はすべてのユダヤ人をエルサレムから追放しましたが、年に一度だけ、アヴ月9日の神殿崩壊の記念日に、ユダヤ人がそこに来て神殿の喪失と亡国を嘆き悲しむことを許可いたしました。その習慣は近年に至るまで断続的に守られて来ました。そして西壁が完全にユダヤ人の手に戻ったのは、一九六七年六月七日、「六日戦争」の三日目でした。「…パラシュート隊の一隊は西の壁に直行した。入口の近くにアラブ軍団の兵士が立っていたが、彼らは降伏のしるしに両手を上げていた。最初にそこを通り抜けた兵士が大声で叫んだ。『西の壁だ。壁が見える』 それから他の兵士たちも飛び込んで来て、聖なる石に手を触れ、キスをした。22時間休みなく戦い抜いてきた逞しいパラシュート隊員たちは、神殿の壁で泣き出した。ここで、彼らの民族は実に何世紀にも渡って嘆いてきた。彼らの涙は嘆きではなく、倒れた戦友のための涙を除けば、悲しみでもなかった。彼らの民族の最も神聖な場所を民族のために取り戻し、生きてこの歴史的特権を味わうことができた人々の言葉に尽くせない喜びが、戦友を失った悲しみと交錯していたのである」 (「聖都エルサレム」 T・コレック、M・パールマン)現在中東地方では、歴史の針は着実に平和の方へと進んでいます。昨年はイスラエルとPLOが、そして最近はイスラエルとヨルダンが、和平条約締結に合意いたしました。
 「石の大きさは様々だが、いずれも巨大な石で、長さは4〜5m、高さ1〜1・2mに達するものが用いられている。一九六七年の六日戦争まではヘロデ時代の石積層は地上5層だけであったが、六日戦争後西の壁の前が清掃されて大広場になり、石積層も更に2層だけ掘り下げられた。それで現在は地上7層がヘロデ時代の石壁で、更に19層21mが埋没しており、現在はその一部または全部がその南に沿って発掘されている」(新約聖書の考古学」 関谷定夫) 私は8月3日に「地下都市」の徒歩旅行に参加し、深いトンネルを通って、西壁の基礎の部分を広範囲に渡って見学してきました。トンネル内は細い道が錯綜しているので、専門のガイドなしには入場を許可されません。その石壁の基部に立って見上げた時、昔はそれがどんなに見事な建物であったかがよく分かりました。そして「先生、ごらんなさい。何という見事な石、何という立派な建物でしょう!」(マルコ13・1)と叫んだイエスの弟子の驚嘆の声に共感できました。
 西壁はユダヤ教徒の祈祷所です。とは言っても、決してそれは閉鎖的な場所ではなく、適度(モデスト)の服装をしていれば誰でも自由に入れます。男性は帽子をかぶる必要がありますが、無帽の人のために紙製の三角帽が入口に用意されています。とにかく規則を守ればあとは全く自由であるというのがユダヤ教の特質です。西壁に向かって右側が女性用、左側が男性用の祈祷所です。公の場で男と女が一緒に並んで祈ることは、キリストの福音が生み出した風景です(ガラテヤ3・28) ユダヤ教とイスラム教は男と女を峻別します。祈祷する人々の様子は様々です。石壁の前に立って上半身を前後に動かして祈る者、椅子に座って聖書を読んでいる者、歩き回って暗記した聖書の言葉をつぶやいている者、台を持ち出してトーラーの巻物を人々と一緒に読んでいる者…。各々が各々の仕方で神との交わりを図っています。ユダヤ人は自分自身のやり方をあくまで貫き、他人のやり方に干渉しない個人主義者です。観光客がうろついていても、写真を撮っていても、われ関せずで、自分の祈りに集中しています。エルサレムの空のような開放性こそ彼らの気質です。陰湿な所は少しもありません。私は彼らの間にいて、さわやかな自由を感じます。
 一八三五年にエルサレムを訪れたアメリカ人旅行者、ジョン・スティーヴンスはこのように記録しています。「…一年を通じて毎金曜日に、すべてのユダヤ人が彼らの最上の衣服をつけ、彼らの居住区の曲りくねった狭い通りを歩いて来るのを見た。この聖なる壁の下で、聖なる書物を手に持ち、ソロモンの歌とダビデの詩篇を、それが書かれた言葉で歌った。白いあごひげの老人と紅顔の少年は、一冊の書物をのぞき込んでいた。白い長衣を着たユダヤ人の娘たちは、壁に顔を向けて立ち、壁の裂け目や割れ目を通して祈っていた。…神殿が建っていた場所を現在イスラム教徒が支配しており、ユダヤ人の立ち入りは禁止されているため、心の内の祈りが恵みの御座に達するように、彼らは壁の割れ目を通して彼らの祈りを入り込ませようと努めるのである。この独特の伝統は、イスラエル人が常に変わらない敬虔な態度で彼らの信仰を固く守っていることを示すよい例である」
 7月24日、私はエルサレムに着いた日に、早速西壁に行きました。西壁の左側にある低いアーチの入口を入ってしばらく進むと、上方に巨大なウィルソン・アーチが見えます。その下がユダヤ教の会堂(シナゴーグ)となっています。そこもやはり雑然としていて、正統派の人々が思い思いのやり方で神との交流を図っていました。私が椅子に座って瞑想していると、正統派の服装をした若者が静かに近寄って来て、「貧しい人々のために募金をしています」とささやきました。私は彼の純粋で謙虚な物腰に感心したので、財布から10ドル紙幣を出して手渡すと、心に染み入るような微笑をうかべて、「あなたに神のお恵みを!(ゴッド・ブレス・ユー)」と言ってくれました。至福のひと時。

                  一九九四年一〇月二三日 礼拝説教


      「 神 殿 の 丘 」  (1)

 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分」と私の魂は言い 私は主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若い時に軛(くびき)を負った人は、幸いを得る。                                     哀歌 3章22節〜27節

 先月バルト海で客船エストニア号が遭難して多数の乗客が死亡しましたが、船が傾き始めた時に、偶然近くに居合わせた若い男女が、「助かったら一緒に食事をしましょう」と約束して海に飛び込んだが、その約束が心の支えになって二人共生存することができ、約束通り一流の料理店で食事をした、というニュースが伝えられました。私たちが困難に直面したり、挫折したりする時、自分を励まし力づけるものがあれば、勇気百倍して、難局を乗り切ることができるものです。私はその力を聖書の言葉と歴史から得ています。
 哀歌は、紀元前五八六年にバビロン軍によってソロモンの神殿が破壊され、エルサレムの都が焼き払われ、住民の重立った者が捕囚として連行されて行った後、エルサレムの廃墟に座って、イスラエルの詩人が謳った悲嘆(なげき)の詩(うた)です。「ああ、昔は、民の満ちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった…」(1・1)
こういう絶望的状態の中にあって、冒頭に上げた祈りの言葉がでてくるのは不思議です。
それこそがヘブライズムの真髄であり、信仰の力なのです。このユダヤ教の精神がキリスト教に受け継がれて、復活の信仰として顕在するのです。「私たちは四方から患難(なやみ)を受けても窮しない。為(な)す術(すべ)を失っても絶望しない。責められても見捨てられない。倒されても滅びない。常にイエスの死を私たちの身に負っている、イエスの生命が私たちの身の上に現わされるために」(コリント第二書4・8〜11) キリストの信仰は、敗者の復活、逆転の勝利の力を与えるものです。
 「第二次ユダヤ反乱後の荒廃のエルサレムに三人のラビが来た。神殿は跡形もなく破壊されて瓦礫の山となり、雑草が生え、狐がとびまわっていた。二人のラビはこれを見て涙を流した。しかしもう一人のラビ、アキバはこれを見て楽しげに笑っていた。二人は驚いて言った。あなたはこれを見て悲しまないのか。ラビ・アキバは言った。かつて預言者はエルサレムの破滅を預言した。それは確かに成就した。しかしまた預言者はエルサレムの回復と復興と繁栄も預言した。破滅の預言が成就した以上、この預言も成就するであろう、私はそれを思って喜んでいるのだ、と」(「タルムードの話」山本七平)
 さあ、私たちは嘆きの壁から離れて、その直ぐ上にある神殿の丘に上りましょう。西壁の広場の南側に傾斜路がありそこを上ると神殿の丘の上に出ます。この高々と積み上げられた石壁の上にある広々とした台地は、エルサレムの特別な場所で、アラビア語でハラム・アス・シャリフ(高貴な聖域)と呼ばれています。ユダヤ人が支配するエルサレムの中で、ここはアラブ人の支配領域です。ユダヤ人はここに足を踏み入れません。危険であるからという理由の他に、紀元70年までそこにユダヤ教の神殿が建っていたのですが、その神殿の至聖所の位置が確定できないために、知らないで神の臨在する場所に足を踏み入れることを恐れているからです。
 神殿の丘は、空が大きく開け、眺望が良く、快適な場所です。松や糸杉の木陰にたたずんで、キデロンの谷を見下ろし、そこからずっと視線を上方に移し、オリーヴ山の斜面に点在する教会を眺めていると、時の経つのを忘れるほどです。私は旅行の第2日目、7月25日の正午前にそこにいました。すると遠方から一人のアラブ人が大声で私に呼び掛けるのです。それで彼に近寄って行くと、もう時間だからここから直ぐに立ち去れ、あの門から立ち去れ、と言うのです。理由を聞くと、正午からはイスラム教徒の祈りの時間だからと言う。それなら仕方がない。しかし言われた通りに行動するのは癪にさわるので、私は向こうの門から出たいのだと言うと、それでもいいから早く行け、と言うのです。そうして門から出て行くと、成程、細い道路を通って、アラブ人がぞくぞくと神殿の丘に上って行きます。男たちの流れがあり、女たちの流れがあります。そして男たちは銀のドームのモスクへ、女たちは黄金のドームのモスクへ祈りに行きます。それは壮観です。イスラム教徒はすべて決められた通りに一斉に行なう傾向にありますが、ユダヤ教徒は個々区々にやるのが好きなようです。異教徒の私にとってイスラム教徒の聖域である神殿の丘は、ユダヤ教徒の聖所である西壁ほどの自由なさわやかさは感じられません。他の機会にも感じたことですが、神殿の丘にいると、必ずどこかでアラブ人が見張っていて、注意や警告を与えます。そのように神経質になる理由は被支配者としての危機感があるという以上に、彼らの気質によるのかも知れません。彼らの聖地メッカには異教徒の立ち入りを禁じているように、この場所でも異教徒を歓迎せず、特に聖なる祈りの時間には異教徒を排除することが彼らの慣習なのでしょう。完全に観光名所化してしまったように見える聖墳墓教会の状況と考え合わせてみれば、傍観者を排除して「聖なるもの」を守るということは、一種の見識であるとも考えられます。イスラム教徒の神(アッラー)に対するひたむきな信仰には敬服しますが、それが逸脱して狂信的になると始末におえないことになります。現在イスラム原理主義の過激派が世界中で紛争の火種を振り撒いています。
 神殿の丘の中心的存在は、黄金のドームの真下にある「聖岩(アッサフラ)です。それは長さ17・4m、幅15・3m、高さ2mほどの石灰岩です。この岩は元来「エブス人アラウナの麦打ち場」(サムエル記した24・18)でした。広々とした風通しのよい台地に大きな岩があると、そこは農夫にとって最適の脱穀場になります。刈り入れた麦の穂をその上に敷き並べ、太陽の熱で乾燥させてからその穂を打つと、実と殻が分離します。そして箕を使って、実と殻を吹き分けます(ルカ3・17)。その岩のある台地をダビデが買い取って祭壇を築き、ソロモンがその岩の上に壮麗な大神殿を建てました。その後エルサレムは栄枯盛衰の歴史を繰り広げますが、その自然の大岩は不変不動でした。そのように現在最も神聖視されている岩が、元来は農夫の麦打ち場の岩だったということは、何とも嬉しい話です。                  一九九四年一〇月三〇日 礼拝説教


      「 神 殿 の 丘 」  (2)

 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。丁度、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、私はお前の子たちを幾たび集めようとしたことか。それだのに、お前たちは応じようとはしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられてしまう…。                   マタイによる福音書 23章37節〜38節

 10月26日、イスラエル共和国とヨルダン王国は、南部国境の砂漠の町アラバで、平和条約調印式を行ない、両国間の戦争状態に終止符を打ちました。「昨日の敵は、今日の友」となりました。ラビン首相とフセイン国王の握手は歴史的な瞬間でした。オリーヴ山のユダヤ人墓地に先のヨルダンとの戦争で父親を殺された男性が墓参に来ていて、そこにCBSニュースのリポーターが行って、「フセイン王に何かメッセージはありますか?」と尋ねました。「はい、あります。どうぞお体を大事にして下さい。あなたは大切な人です、とお伝え下さい」とその人は答えました。このようにこの平和条約によって希望をもった人がいる反面、失望を味わった人もいます。昨年9月にラビン首相と握手を交わし、今年度のノーベル平和賞を共に受賞したPLOのアラファト議長を代表とするパレスチナ人です。その日エルサレムの旧市街アラブ人地区では、ヨルダンの国旗が焼かれ、抗議のため全商店が閉ざされました。その理由は主にこの神殿の丘にあるのです。一九六七年まで東エルサレムは、シオンの丘とスコープス山を除いて、ヨルダン領でした。しかしその年に起きた六日戦争の結果、勝利者イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川の西側の全地域を領有しました。しかし神殿の丘は、宗教的伝統を尊重して、イスラム教の聖地としてパレスチナ・アラブ人の手に委ねられていました。神殿の丘は彼らにとっては「いのち綱」なのです。彼らの希望は、エルサレムを首都とするパレスチナ国家を樹立することです。
ところが今度の平和条約の合意事項の中に「イスラエルは、エルサレムのイスラム教の宗教施設に対するヨルダンの特別な役割を尊重する」とあります。預言者マホメッドに連なるヨルダン王家としては、神殿の丘の支配権は確保しておきたいのです。つまり神殿の丘の政治的な主権はイスラエルにありますが、宗教的な主権は現在パレスチナ・アラブ人が所有しています。そこへヨルダン王国が参入するのですから、今度はパレスチナ人とヨルダン人が競合することになります。同じイスラム教徒としてその両者の仲が良ければ問題は小さいのですが、それが悪いのです。フセイン王の祖父はパレスチナ独立運動の敵として暗殺されたし、フセイン王自身は軍隊にPLOを攻撃させてヨルダンから追放した「黒い九月」事件がありました。
 紀元70年、第一次ユダヤ戦争に敗れたユダヤ人は国を失い、世界の各地に離散して迫害され続けてきましたが、一九四八年に独立戦争に勝利して、千九百年ぶりに国を再建しました。が、今度は、それまで千三百年に渡ってパレスチナに住み着いていたアラブ人が国を失い、彼らの中の約百万人が難民としてヨルダンに逃れました。この難民たちも故郷のヨルダン川西岸地区や東エルサレムに戻りたいのですが、今度の合意では難民問題は先送りにされたので、彼らは失望を味わっています。つまりイスラエル在住のパレスチナ・アラブ人は「二級市民」とされていることに不満であり、ヨルダン在住のパレスチナ・アラブ人は「難民」として挫折感を味わっているのです。国境が無い世界が理想ですが、現状では、国家を持たない民族は「家なき子」のように無力で哀れです。
 挨拶の言葉としてユダヤ人は「シャローム!」と言い、アラブ人は「サラーム!」と言います。共に「平和」という意味です。そして「エル・サレム」は、「神の平和」です。しかしエルサレム四千年の歴史は、平和と繁栄の時代は少なく、戦火と破壊と流血が繰り返されて今日に及んでいます。それでも尚、エルサレムは聖都として生き続け、世界中のユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教徒の「魂の古里」として敬愛されてきたのですから不思議です。バビロン捕囚中のユダヤの詩人は望郷の念に駆られて謳いました、「…エルサレムよ、もし私があなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせよ! もし私があなたを思い出さず、もし私がエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごに付かしめよ!」(詩篇一三七篇)
 現在、エルサレムの象徴ともいうべき黄金のドームのある「岩のモスク」の場所に、紀元70年まで、ユダヤ教の壮麗な神殿が建っていました。天才的建築家ヘロデ大王が造営したものでした。ユダヤ人はヘロデ大王を憎み嫌っていましたが、彼が造った神殿は愛していました。彼らは神を愛するがゆえに、神殿を愛したのです。「万軍の主よ、あなたのお住居はいかに麗しいことでしょう! わが魂は絶え入るばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は、活ける神に向かって喜び歌います。…あなたの祭壇の傍らに、わが住居を得させて下さい。あなたの家に住み、常にあなたを誉め讃える人は幸いです」(詩篇84・1〜4) この敬虔なる感情を主イエスも共有していたに違いありません。しかしその神殿を権力の座にして悪用しているサドカイ派の祭司階級やパリサイ派の律法学者たちに対して主イエスは痛烈な批判と激怒の一撃を与えました。「…彼らに教えて言われた、『わたしの家は、すべての国民の祈りの家と唱えられるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなた達はそれを強盗の巣にしてしまった!」(マルコ11・17)
 神殿の丘の上には二つのモスクと、イスラム博物館があります。彩色豊かに装丁されたコーランや、美しい古代の陶器、ガラス器、貨幣などが展示されています。中でもいくつかの炊き出し用の大釜は、貧しい人々に対する慈善の行為を証しする感動的な遺物です。しかし博物館の正面入口には血染めの衣服が展示されていて、14名の「殉教者」の名前が掲示されていました。説明書きによると、15年前に礼拝中のモスクに狂信的なユダヤ教徒が乱入して、これらの人々を殺したのです。そして見ていると、教師に引率されてきた小学生たちに博物館員が激しい口調で事件を解説していました。心の痛む情景でした。
 「ああ、エルサレム、エルサレム!」 二千年の昔に主イエスはオリーヴ山から神殿の丘を眺めて慨嘆されました。しかしエルサレムの神殿の丘は一つの象徴であって、今日の人間世界の至る所に主イエスが慨嘆される「神殿の丘」があるのです。
                    一九九四年一一月 六日 礼拝説教




  「 神 殿 の 丘 」(3)


         
 その日ガドが来て、ダビデに告げた。 「エブス人アラウナの麦打ち場に上り、そこに主のために祭壇を築きなさい」 …アラウナが見ると、王と家臣が彼の方に来るのが見えた。アラウナは出て行き、王の前にひれ伏して、言った。「どのような理由で主君、王が僕(しもべ)の所においでになったのですか?」 ダビデは言った。 「お前の麦打ち場を譲ってもらいたい。主のために祭壇を築き、民から疫病を除きたい」 …ダビデは麦打ち場と牛を銀50シェケルで買い取り、そこに主のために祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を棒げた。主はこの国のために祈りに応えられ、イスラエルに下った疫病は止んだ。                   サムエル記下 24章18節〜25節

 人間の顔に一番美しく見えるアングルがあるように、エルサレムが最も美しく見えるのは、オリーヴ山頂からの眺望です。キデロンの谷間を越えて城壁に囲まれた神殿の台地が見えます。その城壁が南面に曲がる角にオフェルの丘の発瀬現場があり、更にそれの南側に見える低い丘がエルサレんで一番古い部分で、「ダビデの町」と呼ばれています。今は貧しいアラブの農民が住むシルワン村で、歴史や考古学に興味をもつ人以外は、観光客も滅多に足を向けない寂しい場所です。しか三千年昔のダビデ時代には、そこが一番の繁華な場所でした。 「昔の光 今いずこ」
 「ダビデはシオンの要塞を取った。これがダビデの町である」(サムエル記下5・7)シオンは、エルサレムの別名です。19世紀にテオドール・へルツルが提唱した「シオニズム」は、離散のユダヤ人の「エルサレム復帰運動」です。現在のエルサレムは相当大きい都市に発展していますが、19世紀までのエルサレムは、殆ど城壁に囲まれた旧市街に限られていました。ましてダビデの時代のシオンは、1つの細長い小さな丘のみでした。そこにカナンの先住民族のエブス人が要寒をつくって二百年余り住み着いていました。それをダビデが攻略して、南ユダと北イスラエルの統一王国の首都といました。
 「ダビデはこの要塞に住み、それをダビデの町と呼び、ミロ(高台)から内部まで、周囲に城壁を築いた」 (サムエル記下5・9)現在考古学的な発掘により、エブス人の石垣とイスラエル人の石垣が見られます。そこにダビデは宮殿を建て、宮殿のそばに天幕(テント)を張って「十戒」の入った「神の箱」を安置しまた。するとダビデはそのアンバランスが気になりました。王である自分がレバノン杉の立派な宮殿に任み、神の臨在のしるしである「神の箱」のためには、荒野の放浪時代の名残りである天幕があるのみなのです。そこでダビデは主のために王国にふさわしい神殿を造ることを思い立ちましたが、その願いは、主によって拒絶されました。主の言葉を預言者ナタンが取り次ぎました。「わたしの僕(しもべ)ダビデの許に行って告げよ。主はこう言われる。お前がわたしのために住むべき家を建てようというのか? わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、即ち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルの部族の一つにも、何故わたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか?」(サムエル記下7・5〜7) 聖書の宗教には歴史的に見て、豪華な神殴に対するある種の不信感があります。つまり超越的、普遍的存在者である生命の神を、神殿という一つの場所に限定してしまうことに対する抵抗があるのです。後にダビデの子ソロモンが台地の上に壮顔な神殿を造営しますが、その時のソロモンの祈りの中にも「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか? 天も諸天の天もあなたをお納めすることができません。私が建てたこの神殿など、尚更ふさわしくありません」(列王記上8・印)とあります。豪壮な宗教施設に対する不信感は、健全な精神の証拠です。それは容易に人間的権力と結びつくからです。最初のクリスチャン殉教者ステパノも、この事蹟を踏まえて語りました。「ダビデは神の恵みをこうむり、ヤコブの神のために神殿を造営したいと願った。しかし実際にその神殿を建てたのはソロモンであった。いと高きお方は、人間の手で造った家の内にはお住みにならない…」(使徒行伝7・46〜48) しかし何と言っても、この問題について最も印象深く語られたのは、主イエスです。 「…しかし君たちに言っておくが、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着節ってはいなかった」(マタイ6・29)
 さて、「ダビデの町」に戻りましょう。ダビデの治世に疫病が流行しました。聖書はその原因を、奇妙なことに、ダビデが人口調査を行なった罪にあり、としています。それも主の誘いにダビデが乗ってしまったためだ、というから不思議です。 「主の怒りが再びイスラエルに対して燃えあがった。主は、『イスラエルとユダの人口を数えよとダビデを誘われた。…民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。 『私は重い罪を犯しました。主よ、どうか僕(しもべ)の悪をお見逃し下さい。大変愚かなことをしました』」(サムエル記下24章) なぜ人口調査を行なったことがダビデの良心の呵責となったのでしょうか? これは鋭い信仰的な感覚です。この世の常識から判断すると当然のことのように思われることでも、信抑の良心に照らしてみると、大きな罪であると思われることが沢山あります。 「ある金持ちの畑が豊作だった。さあどうしよう? そうだ倉を建て増しして、食糧を蓄え込んで安心して暮らそう。すると神が言われた、『バカ者め! お前の魂は今夜中にも取り去られるのだ。そうしたら、お前の蓄えた物は、一体、誰のものになるのか?』…」(ルカ12・16〜20)
 その疫病が流行して七万人も死んだが、エブス人アラウナの麦打ち場の所で止まった。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。『もう十分だ。その手を下ろせ』 主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた」(サムエル記下24・14)
 「ダビデの町」の丘の三方は深い谷間ですが、北側に一段と高い場所があり、そこが「オフェル」です。そして更にその北方の高台が「アラウナの麦打ち場」でした。三千年の昔、野武士の頭領のような姿のダビデ王がそのルートを上って行ったのです。彼はその麦打ち場を銀50シェケルで買い取って、その大きな岩の上に主のために祭壇を築いて疫病の除去を祈りました。現在、黄金のドームの真下にある「聖岩」こそ、昔の「アラウナの麦打ち場」でした。              一九九四年一一月一三日 礼拝説教



      「 神 殿 の 丘 」  (4)

 ソロモンはエルサレムのモリヤの山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現わされ、ダビデが予め準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。建築を始めたのは、その治世第四年の第二の月の二日であった。
                        歴代誌下 3章1節〜2節

 私はエルサレムにいる間、何度も神殿の丘に上ってみましたが、本当に心を決めて上ったのは、旅の終わりの近づいた8月9日のことでした。その日、ヤッフォー門の近くに店を出す両替商ハッサンの所で40ドルを一二〇シェケルに替え、ダビデ通りをまっすぐに行って西壁を経て神殿の丘に上りました。そこはアラブ人の聖域です。入口で拝観料20シェケルを払うと、二つのモスクとイスラム博物館に入る一連の入場券を渡されます。
 先ず銀のドームのあるエル・アクサ・モスクの前に行き、下駄箱の中に荷物と靴を入れます。現金とパスポート以外の荷物は持ち込み禁止です。外に置いた荷物と靴は盗まれる危険があります。入口で係の者に券を渡すと、ビリッと裂け目を入れて返してくれます。内部は全くイスラムの世界です。広々とした空間、床に敷きつめたじゅうたん、白い大理石の列柱、色彩豊かな欄間、高い側壁に二重に並ぶステンドグラス、正面にはメッカの方位(キブラ)を示す壁龕(へきがん)(ミーラヴ)。そして立ったり、ひざまずいたり、ひれ伏したりして拝礼しているイスラム教徒。「イスラム教徒は豪華な『岩のドーム』よりも、より簡素なエルアクサのモスクを重要とする。清水で身を清めた人々は、靴をぬいでエルアクサに入り、『岩のドーム』を背にして、南東の方を向いて祈る。敬虔なイスラム教徒は、黄金のドームよりも遥かなる(エル・アクサ)モスクを、飾りで埋まった狭い空間よりも簡素で広い空間を重要視する。古代イスラエルの宗教が、偶像を禁じ、目に見えぬいと高き永遠の神と人間との生ける対話にこそ最上の美を見出したように、イスラムの教えは、一切の彫刻や絵画を排除して、魂が『限りなき平安(サラーム)の神』に向かう祈りの時を最高の喜びとする。古代イスラエルの宗教もイスラム教も、神殿そのものを否定しない。しかし同時にそれらは神殿の絶対化を強く否定する。自己の有限性を認め、永遠なるいと高き神を指し示す場としての神殿や聖都のみ価値を認める」(池田 裕)
 そのモスクを出て北へ向かい、階段を上ってしばらく歩くと、黄金のドームのある「岩のモスク」です。これはイスラム教の世界で最も古く、最も華麗なモスクであると言われています。モーセの十戒を忠実に解釈して、一切の絵画や彫刻の製作を禁じられたイスラムの芸術的な創造力と美的な情熱は、聖堂の装飾に出口を見出して噴出しているようです。「讃むべきかな、夜半にその僕(しもべ)を聖なるモスク(メッカ)より遥かなるモスクへと運びしお方は」(コーラン) ユダヤ教とキリスト教の影響の下にイスラム教を興したマホメットは、最初エルサレムに向かって拝礼することを教えていましたが、ユダヤ教徒の反抗にあって、その方向をメッカに変えました。そしてコーランの「遥かなるモスク」とは、最初人々は天の意味に理解していましたが、やがてそれは天ではなく、エルサレムであると解釈されるようになりました。預言者マホメットは、天空を翔ける馬アルブラク(稲妻)に乗って、一夜のうちにメッカからエルサレムへ行き、そこから天に上って神の啓示を受け、再び地上に戻って来た、と言われています。その証拠として「聖岩」の上にマホメットが昇天した時の「足跡」があると指摘されています。
 ローマに反抗して敗れ、エルサレムから追放されたユダヤ人たちは、年に一度だけエルサレムに入り、神殿の崩壊と国の滅亡を嘆くことを許されましたが、その場所は最初、この聖岩の前でした。しかし紀元六三八年にエルサレムがイスラムの支配下に入った後、神殿の丘はイスラム教の聖地となり、ユダヤ人の立ち入りが禁止されて、嘆きの場所が「西壁」に移されたのでした。この聖岩と神殿の丘の史実の上に伝説が付着して行きます。
 歴代誌の著者は、ソロモンが神殿を建てたのは、族長アブラハムが最愛の息子イサクを燔祭に捧げようとしたモリヤの山であり、その岩こそその場所であった、と書きました。古代イスラエル王朝の興亡史を、サムエル記と列王記の著者はリアリズムで著し、歴代誌の著者はイデオロギーで書き改めました。前者はダビデ王の姦淫と殺人の罪、ソロモン王の偶像礼拝の罪に言及していますが、後者はそれら一切を省き、ひたすらダビデ−ソロモン王朝の栄光を讃美しています。前者は「アラウナの麦打ち場」の値段は銀50シェケルと書きましたが、後者は「オルナンの麦打ち場」の値を金六百シェケルと書きました(歴代誌上21・25) その両著の評価に関して、ユダヤ教の学者の判断は的確でした。彼らは前者を「前の預言者」としてモーセ五書とヨシュア記の次に置き、後者を「諸書」の中に入れて巻末に置き、その両者を区別しました。福音書の研究においても、史実と伝説をでき得る限り明確にするという学問的な良心は尊重されなければなりません。私たちは聖書の読者として、史実と伝説の隙間から微妙に漏れ出てくる天啓の光を促えることが、一番大切なことなのです。聖書の読者には大胆な精神と繊細な心が必要です。
 「聖岩の表面にははっきりとした加工の跡が見られ、一隅の角が直角に彫り取られている。おそらくエブス人が祭儀用の高き所として用いたもので、これをアラウナから買い取ったダビデが、燔祭の祭壇にしたのであろう」(聖書大辞典) ダビデの後ソロモンがその高台を整地して大神殿を建てた時、その聖岩の上に祭壇を置いたのか、それとも、その上に至聖所を造ったのか、学者の意見は分かれています。後にそこに第二神殿(前五一五年)が再建され、更にヘロデ大王が大改築を行ないましたが、その際にも聖岩の用途が不明のままなのです。
 「女よ、私の言うことを信じなさい。あなた達が、この山(サマリヤ人の聖所(ゲリジムやま))でも、またエルサレムでもない所で、御父を礼拝する時が来る。…真(まこと)の礼拝者が、霊と真理とをもって御父を礼拝する時が来る。そうだ今きている。御父は、このような礼拝者を求めている。神は霊であるから、礼拝者も霊と真理とをもって礼拝すべきである」(ヨハネ福音書4章21節以下) 主イエスは、神と人間が対話する場所を限定せず、あらゆる宗教的、民族的な障壁を超えて、真の聖所は、個々の人間が真心をもって、直接的に「アッバ!(父よ)」と呼びかける場所にこそある、と教えられました。
                  一九九四年一一月二〇日 礼拝説教




    「 オ リ ー ブ 山 」

 ダビデは頭を覆い、はだしでオリーヴ山の坂遣を泣きながら上って行ったアヒトフェルがアブサロムの陰謀に加わったという知らせを受けて、ダビデは、「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにして下さい」と祈った。
                     サムエル記下 15章30節〜31節

 内憂外患。神に愛された人ダビデの生涯はまさに内憂外患の連続でした。晩年になって、王の後継者の選択が取り沙汰される時期が来た時、愛する息子アブサロムによってクーデターが起こされ、ダビデ王と家臣たちは慌ただしく都落ちしました。ダビデは悲嘆にくれて、はだしで泣きながらキデロンの谷を渡り、オリーヴ山の坂道を上って行きました。敵に対しては強い戦士であったダビデも、息子に対しては弱い父親でした。一行は大急ぎでオリーヴ山を趣えて、ユダの荒野を横切り、エリコ街道を通ってヨルダン川方面へと落ちのびて行きました。しかしやがてクーデターが失敗に終わり、反逆の息子アブサロムは、ダビデの意に反して、ヨアブ将軍によって殺害されてしまいました。その知らせを聞いた時、「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った、わが子アブサロムよ、わが息子よ! わが子アブサロムよ。私がお前に代わって死ねばよかった! アブサロム、わが息子よ、わが息子よ!」(サムエル話下19・1)
 オリーヴ山の坂遣を、私はこの旅で何度か上り下りしました。 「聖苔の訟録に現われたダビデは、人間的欠点と弱さをもった非常に人間的な人物である。彼は誘惑におちて後侮し、悲嘆にくれるかと思うと、神の箱の前で喜びに欲れて恍惚状態で踊る。彼は独力で出世した人物である。自然のままの無骨者であり、移り気であった」(テディ・コレック)聖書の神はこのような人物を選び、愛し、御自身の目的のためにお用いになるのです。自然児といえば、ナザレのイエスについてこのように描写している人もいます。「手は太く肌(はだえ)は黒く並の人と すごし給い田舎人(いなかびと)かも」(尾島浸治)
 エルサレムとオリーヴ山の位置関係はどうでしょうか。「エルサレムからキデロンの谷を間に挟んで、北、北東、東にいくつも頂上をもって見える小さな山脈。白亜期に属する標高八二六〜八〇〇mの山脈は、北から南に向かって傾斜している。それによってオリーブ山は冷たい北風や熱い東風からエルサレムを守るが、雨を運ぶ西風はここにきて障害にぶつかり、雨を降らせる。こうしてエルサレムが町として成り立つ自然条件をつくり出している」(聖書大事典) オリーヴ山頂を境にして、その東側には乾燥しきったユダの荒野が広がり、死海まで下っています。その西側斜面は、地中海方面から吹き寄せてくる湿気を含んだ西風が、露や雨や、時には雪を降らせるので、樹木がよく生い茂ります。
 オリーヴ山は旧約時代から、終末の日の神の審判と関連づけて考えられていました。「戦いの日がきて、戦わねばならぬ時、主は進み出て、これらの国々と戦われる。その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーヴ山の上に立たれる」(ゼカリヤ書14・3) これは終末の日の戦争の描写です。その日、諸国民がエルサレムを攻撃し、その惨状は極まるが、終には万軍の主がその大能を発揮して敵を粉砕し、全地に支配を確立する、というゼカリヤの預言です。預言者エゼキエルも、神顕現の場所としてオリーヴ山に言及しています。「イスラエルの栄光は高くその上にあった。主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった」(11・23)
 「イエスがオリーヴ山で、神殴に向かって座っておられると…」(マルコ13・3)のイエスの姿勢は、ひょっとするとゼカリヤとエゼキエルの預言の言葉が下敷きにされているのかも知れません。なぜなら、イエスはそれから終末の日の出来事について弟子たちに語り出されるのですから。そう考えると、イエスはただ「座っていた」のではなく、神の子の権威をもって、エルサレムの裁き主として、審判の席に「座っておられた」のです。福音書において「山」は、しばしばイエスの権威を現わす場として用いられています(マタイ5・1、17・1、28・16)
 オリーヴ山は、主イエスの足跡が多く印されている場所で、彼の足跡のある場所に、記念として教会が建てられています。山頂から山麓にかけて、昇天(インボモン)教会、主の折り(エレオナ)の教会、主の泣き給うた(ドメヌス・フレビット)教会、マグダラのマリアの教会、御苦悶(ゲッセマネ)の教会、マリアの墓の教会、少し離れて、ガリラヤ人の教会。そして二つの修道院。この山はキリスト教徒の聖地です。
 オリーヴ山におけるダビデ王と主イエスは、千年の歳月を隔てて、類似的でもあり、対照的でもあります。ダビデは、愛する息子に背かれ、裏切られて、王位を追われ、「頭を覆い、はだしで泣きながら、オリーヴ山の坂道を上って」、都落ちしました。主イエスは、オリーヴ山の下り坂にさしかかり、視界が開けて、キデロンの谷間の向こうに、城壁をめぐらした神殿の丘の上に建つ豪華な神殿の景観を眺めた時、声を上げて泣いて言われました、「もしお前が今日にでも、平和に至る道を知りさえすれば! しかしそれは今、お前の目から隠されている。敵が来て…」(ルカ19・41) 主イエスは愛するエルサレムの悲劇的な運命を予感して、声を上げて泣かれました。 「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に道わされた人々を石で打ち殺す者よ。丁度めんどりが翼の下にひなを集めるように、私はお前の子らを幾たび集めようとしたことか…」(ルカ13・34)イエスと同様にダビデも又、愛する者に理解されず、背かれる苦悩を味わわされました、「わが子アブサロムよ、わが息子よ!」
 イエスの敵は、神殿の権力者たちでした。 「祭司長、律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと謀った」(マルコ11・18)それに呼応するかのように、12弟子の一人ユダは敵方に寝返り、神殿警備隊を案内して、ゲッセマネの園で祈るイエスを逮捕させました。その時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った」(マルコ14・50) その後、大祭司カヤパ邸で、イエスの裁判が開かれますが、その庭で、イエスに最も信頼されていた一番弟子のぺテロが、三度もイエスを否認しました、「あんな男は私と何の関係もない!」そして主イエスは孤独の中に十字架につけられて死ぬのです。こうして、キリストの福昔はゼロから出発することになります。「オリーヴ山の坂道」は、私たちを深い思索に誘います、人間について、愛について、信仰について、そして神について。
                       一九九四年一一月二〇日 礼拝説教



      「 昇 天 教 会 」

 イエスは、彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神を誉めたたえていた。
                       ルカ福音書 24章50節〜53節

 ナザレのイエスの生涯は、人間的に見れば、失敗の生涯でした。結婚することもなく、従って子孫も残さず、宗教運動を起こして一時は世間に喧伝されたけれども、ローマとユダヤの官憲に圧迫され、大衆のメシア期待に応えなかったために離反者が続出し(ヨハネ6・66)、やっと踏み留まった12人の弟子の一人によって敵方に売り渡され、逮捕された時には、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った」(マルコ14・50)のです。そして孤独の中に「わが神(エロイ)、わが神(エロイ)、何故わたしを見捨てられたのか?(ラマ サバクタニ)」と叫んで、十字架上で絶命しました。イエスが生涯の中でふと漏らした言葉が伝えられています。「狐には穴があり、空の鳥にはねぐらがある。しかし、人の子には枕する所がない」(マタイ8・20)ホームレス・イエス。「すべてのものを 与えしすえ、死のほか何も 報いられで、十字架の上に あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ」(讃美歌一二一番)
 しかし不思議なことに、その後、本当に「この人を見た」という人たちが次々に現われはじめ、「イエスは今も尚、生きておられる。神はイエスを死人の中から甦らせて、主とし、キリストとしてお立てになった。これは神の御技(みわざ)である。従って、このイエスをキリストと信じる者は、その信仰によって救われる。これこそ福音(グッド・ニュース)。この福音は、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、男と女などという差別の障壁は一切なく、すべての人に平等に与えられるものだ」と言って、伝道し始めたのです。こうしてキリスト教という世界宗教が誕生しました。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、君たちに伝える。今日、ダビデの町に、君たちのために救い主が誕生された。このお方こそ主なるキリストである」(ルカ2・10) クリスマスの天使がベツレヘムの野で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに伝えたこの福音は、原始キリスト教徒たちの間で生まれたキリスト讃美の詩(うた)なのです。今日クリスマスの讃美歌をうたう私たちは、天使の歌声に唱和しているのです。ベツレヘムの「聖誕教会」は、私たちの中にあるのです(ルカ17・21)
 「こう言い終わると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった」(使徒行伝1・9) イエスの昇天の記事はこの個所と、冒頭に上げた個所の二個所に出てきますが、いずれもルカの文章です。イエスの昇天は、物理的には不可能なことですが、これも又、キリスト讃美の詩なのです。人の子イエスという地上的存在から、神の子キリストという天上的存在へと移行する過程が「昇天」なのです。そして、主イエスによってこの「天国行き」のルートが開通されたことにより、主に従う者たちも、その恩恵に与かることができるのです。「私は道であり、真理であり、生命である。私によらなければ誰も、御父の許に行くことはできない」(ヨハネ14・6)
 復活後、イエスは40日間、弟子たちの間に姿を現わして教えと命令を与え、彼らをオリーヴ山頂へ連れ出して、そこから昇天されました。今日エルサレム市街から東のオリーヴ山を見ると、一際高い塔が目をひきます。ロシアの女子修道院の「昇天教会」の塔です。それは19世紀に建てられたものですが、その近くに伝統的な「昇天教会」があります。
 「紀元三二六年のある日のことであった。アエリア・カピトリーナ(エルサレム)の入口で馬を降り、大地に口づけする旅人の一行があった。その指導者と思われる人物は、高齢の貴婦人であった。市内に入った婦人は、旅の疲れも忘れて早速キリスト縁(ゆかり)の場所を尋ねて回るのであった。彼女の心は感動で震え、目は少女のようにきらきらと輝いていた。 婦人の名をヘレナといった。ローマ帝国の新しい支配者となり、首都を東のコンスタンティノープル即ちかつてのビザンティウムに移したコンスタンティヌス大帝の母であった」(池田裕) 皇母ヘレナの到来によってエルサレムはキリスト教徒の聖地となり、各地に聖堂が建てられ、ビザンチン文化の花が咲き競いました。彼女は先ず主イエスが死んで復活されたゴルゴタの丘へ行き、ハドリアヌス帝によって建てられたヴィーナス神殿を取り除き、そこに聖墳墓教会を建てました。今日その教会の地下にヘレナを記念するアルメニア教会の聖堂があります。その聖堂へ降りて行く石段の側壁に、昔、巡礼者たちが刻んだ無数の小さい十字架が見られます。その十字架を指でなぞると、幾山河を越えて聖地にたどり着いた巡礼者たちの感動が全身に伝わってきます。ヘレナ聖堂まで来る観光客は少ないので、私は片隅のベンチにじっと座っていたものでした。ある時一人の婦人が来て、聖堂の更に下にある洞窟の上方に描かれている十字架のキリスト像を指して、「あそこは何ですか?」と尋ねました。「あそこは皇母ヘレナがキリストの十字架を発見した場所と言われている洞窟です」と答えると、「あっ!」と叫んで大急ぎで夫と子供を呼びに行き、今得た感動を語り伝えていました。
 「皇帝の母は、人類の救い主として天に上げられたお方の記念として、オリーヴ山上にも堂々たる建物を建てた。その山の頂上に聖堂と神殿を建設した。そして実際に真正な歴史が、この洞窟の中で救い主が弟子たちに秘義的啓示を告げられたことを伝えているのである」(エウセビウス) ヘレナがオリーヴ山頂に建てたのが「昇天教会」であり、それと同じ時期に、その近くの洞窟の上に建てられたのが「主の祈りの教会」です。前者は、ラテン語訛のギリシャ語でインボモン(高き所)と呼ばれ、後者はラテン語でエレオナ(オリーヴ)と呼ばれています。その二つの教会はキリスト教徒の巡礼地として栄えましたが、六一四年にペルシャ軍の侵入によって破壊されました。その後十字軍によって再建されましたが、インボモンは一一八七年にサラーフ・ディーンによって占領され、イスラム教のモスクに変形されました。「イスラム教徒がこれを礼拝用モスクとして使用するのは、コーランに、神はイエスを御自身の許へと上げられたと記されており、それが彼らのイエス昇天の信仰の基礎になっているからである」(関谷定夫) その八角形のモスクのドームの真下に、「昇天したイエスの足跡」(長さ約40センチ)の残る「石」があります。こういう遺物には、眉に唾をつけて拝見しても不敬にはならないでしょう。
                  一九九四年一二月 四日 礼拝説教


      「 主の祈りの教会 」


 イエスはある所で祈っておられたが、それが済んだ時、ひとりの弟子が言った、「主よ、ヨハネが彼の弟子たちに教えたように、私たちにも祈ることを教えて下さい」 そこで彼らに言われた、「祈る時にはこう言いなさい、『父よ、あなたの御名が聖別されますように。あなたの御国が来ますように。その日のパンを、日毎(ひごと)に私たちに与えて下さい。私たちの罪をお赦し下さい、私たちに負い目のある人を皆ゆるしますから。私たちを試練(誘惑)の中に導き入れないで下さい』」
                       ルカ福音書 11章1節〜4節

 オリーヴ山頂にある「昇天(インボモン)会」から南西に約70mはなれた所に、「主の祈りの教会」があります。その正式の名は「パーテール・ノステールの教会」、即ち「われらの父よ、の教会」です。通称はエレオナ。イエスが受難される前に、オリーヴ山頂の近くの洞窟の中で弟子たちに「主の祈り」を教えたという伝承に基づいて、その洞窟の上に四世紀に建てられた教会です。四世紀末に聖地を旅行して巡礼記を残したスペインの修道女エテリアは、「棕櫚の日曜日」の行進の様子を書きました。「人々は朝早くゴルゴタの大聖堂に赴き、7時にはエレオナに上って行く。それから9時になると、讃美歌を歌いながらインボモン、即ちそこから主が天に昇られた場所に上る。最後に、11時に彼らはオリーヴ山の頂上から麓までの全道程を徒歩で下って行く。そして町の中を通って、十字架とアナスタシス(聖墳墓教会の復活聖堂)へ戻る」 このビザンチン時代の行進の行事は、今日までも続いています。
 「イエスが弟子たちに祈りを教えた、と言われている教会。内部の壁のタイルには、エスペラント語を含む、77カ国語で主の祈りが書かれている」(「地球の歩き方」) 福音書には二個所に主イエスが弟子たちに教えた祈りの言葉が出ていますが、互いに状況を異にしています。マタイ福音書6章9〜13節の方は、5章1節からの「山上の説教」の続きですから、その場所はガリラヤの山の上で語られたものです。そしてもう一つ、冒頭に上げたルカ福音書11章1〜4節の方は、ベタニア付近の「ある所」で教えられたものですから、この「主の祈りの教会」の位置に符合しています。即ちルカの伝承に従って、この場所にこの教会が建てられたのです。
 ところがこの教会の会堂や回廊の壁の上に美しいタイルのパネルにして張り出されている「主の祈り」の本文は、マタイ福音書の方のものです。こちらの方が「祈祷文」として整えられているためでしょう。しかし恐らく、より素朴で、より簡潔なルカ福音書の「主の祈り」の方が、主イエスが教えられたオリジナルに近いものと思われます。
 「エスペラント語を含む77カ国語」で掲示されているという意味は、キリスト教が世界宗教であることの証しです。紀元30年のある日、オリーヴ山の山頂付近の暗い洞窟の中で、イエスと12人の弟子たちがボソボソと語り合っていた問答の中から生まれた祈りが「主の祈り」として、今日地球的な規模で唱えられているという事実に驚嘆させられます。神の御言葉は、このようにして伝えられるものです。「この日、言葉をかの日に伝え、この夜、知識をかの夜に送る。語らず言わず、その声きこえざるに、その響きは全地にあまねく、その言葉は地の極てにまで及ぶ」(詩篇19) さて、主の祈りの内容について学びましょう。わずか五項目から成り立っている簡単な祈りですが、その意味するところは実に深いものがあります。その中に人間の基本的問題がすべて含まれています。
 「父よ」 イエスの不思議さは、ユダヤ人たちがその名を口に上げることすら恐れていた超越絶対の神に対して、幼児が愛する父親を、親しみをこめて呼ぶ時に使う「アッバ」という語を使って呼びかけている所に見られます。後にこれがキリスト教徒の祈りの呼びかけの言葉になりました(ローマ書8・15) 私たちが祈る時、「天の父よ」と呼びかけるのは、イエスの霊によって神の子の意識を授けられているからです。それで、イエスの御名において、御父との親しい交わりが成り立つのです。イエスの御名を省いて、「一天父 四海兄弟」というように、人間が「天の父」と直接的な関係を結ぶということは、キリスト教的ではありません。何故なら、そうすることによって、人間は必ず「他の教祖」(偽キリスト)を立て、神の御名を利用することになるからです。
 「あなたの御名が聖別されますように」 「聖別される(ハギアセートー)」とは、特別なものとして取り分けられる、他のあらゆるものに優って尊まれる、という意味です。モーセの十戒に、「安息日を覚えてこれを聖別すべし」という安息日規定がありますが、安息日を他の労働の六日から聖別して、神を拝し、その御言葉を学ぶ日として守れということです。紀元70年ローマに滅ぼされて国を失ったユダヤ人は、異郷にあって安息日を守ることによってアイデンティティーを失わなかったことが幸いして、一九四八年のイスラエル国の復活につながりましたが、その奇跡的事実をユダヤ人は、「安息日がユダヤ人を守った」と言いました。神の御名を一番大切なものとして聖別することが、信仰生活の基礎なのです。
 「あなたの御国が来ますように」 神の国とは、地上の国家のようなものではなく、神の支配領域のことです。神の愛と正義による御支配に、家庭や教会が服従しているならば、もう既に神の国は実現しているのです。「見よ、神の国は君たちの内側にある」(ルカ17・21) 私たちが主の日を聖別して、教会の礼拝に集まる理由がここにあるのです。 「その日のパンを、日毎に私たちに与えて下さい」 私たちは肉体と魂の飢えを癒すためにパンの配給を、天の父から日毎に受けている者です。よく考えて見れば、私たちが自らの力によって生きているのではなく、天の父の恵みによって生かされているのです。肉体をパンによって、魂を神の御言葉によって養われている人は、幸いです。
 「私たちの罪をお赦し下さい、私たちに負い目のある人を皆ゆるしますから」 この祈りが可能になるのは、自分がもう既に神に愛され、罪を赦され、受け入れられているという自覚が前提になっているからです(マタイ18・21以下) 神によって自分の大きな罪が赦されているので、自分はひとの小さな負い目をゆるすことが可能になるのです。
 「私たちを試練(誘惑)の中に導き入れないで下さい」 この世にあって試練は絶えず付きまといますが、その中に嵌まり込んでしまわないように、との祈りです。この祈りの基にあるのは、弱さの自覚です。「主の祈り」はあなたの人生を守ります。
                  一九九四年一二月一一日 礼拝説教


     「 受胎告知教会 」

 さて、六カ月目に、天使ガブリエルが神から、ガリラヤのナザレという町に住む一人の娘の所へ遣わされて来た。彼女はダビデの家系のヨセフという男と婚約していた。その娘の名はマリア。天使は彼女の所へ来て言った、「喜べ、恵まれた女よ、主があなたと共におられる」 すると彼女はこの言葉に大変戸惑い、この挨拶は一体何のことかと思いめぐらした。すると天使は言った、「恐れるな、マリア。あなたは神の恩寵(めぐみ)を受けている。見よ、あなたは身ごもって、男の児を産むが、その名をイエスと名づけなさい…」                       ルカ福音書 1章26節〜30節

 エルサレムから、イスラエル国内の各地へ行くバスの路線は大変発達しています。ホテルのフロントにバス会社のパンフレットが置いてあるので、その中から行く先を選び、出発日時を確かめて電話で予約しておくと、その日の朝バスがホテルまで迎えに来てくれます。私が7月30日に利用したのは、ユナイテッド・テュアーズ・バスで、エルサレム−ナザレ−カペナウム−エイン・ケヴ−ガリラヤ湖横断(フェリー)−ティベリアス−ヨルダン川−エルサレムの一日コースで、費用は47ドルでした。スペイン語圏からのグループがいたために、若い女性のバスガイドは、英語とスペイン語で説明していました。
 エルサレムを出たバスは、オリーヴ山を越え、ユダの荒野を横切り、海面下二五〇mの古代都市エリコに着きました。エリコは既にパレスチナ人の自治区になっていたので、その入口と出口で簡単な検問を受けました。それから、ヨルダン川沿いの道路を北上して、標高三五〇mのガリラヤの町ナザレに着きました。所要時間は約三時間。
 ナザレはヨセフとマリアが住んでいた町で、イエスが生長した町ですが、当時知名度は低かったようです。「キリスト教以前の時代にはナザレは名もない町であり、旧約聖書にもヨセフスにもタルムードにも言及されていない。後四世紀までは、ナザレには純粋にユダヤ人の住民しかいなかったようである」(聖書大辞典) 後日、イエスに出会って彼の弟子になったピリポは、親友ナタナエルに言いました、「私たちは、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」 するとナタナエルは答えました、「ナザレから、何の良いものが出ようか?」(ヨハネ1・43以下) ナザレの町の知名度が上がったのは、紀元三二六年にコンスタンティヌス大帝の母ヘレナが聖地巡礼に来た後、即ちビザンチン時代以後のことです。現在のナザレは人口約四万五千人、アラブ人クリスチャンが多く住む都市にになっています。
 バスを降りた私たちはおみやげ屋で休憩した後、徒歩で受胎告知教会に向かいました。「現在の大聖堂(バジリカ)は一九六九年に完成したものだが、それは最初ビザンチン時代に建てられた教会と、後に十字軍時代に再建された教会の遺構の上に建てられている。もともと、マリアが天使ガブリエルから受胎を告知された場所と言われている洞窟を保存するために建てられたのである。その直ぐ北側に、聖家族の住居跡に建てられたと言われている『聖ヨセフの教会』があるが、発掘によってこの両教会の間の地下から、無数の洞窟とそれらを利用して造られた穀物貯蔵用サイロ、水槽、ぶどうとオリーヴの絞り場、粉ひき臼などが発見された」(「新約聖書の考古学」 関谷定夫著)
 一九五五年〜六九年、14年間かけて建てられたフランシスコ会所属の受胎告知教会は、超モダンな大聖堂です。ゆりの花を伏せた形の大屋根は、大変印象的です。その下にある礼拝堂の正面には、キリストとペテロを中心に、右側に使徒たちと聖職者たち、左側に全世界のクリスチャン達を描いた大モザイク画があります。またその側壁には世界の国々から贈られた聖母子の絵があり、日本人画家長谷川路可(ろか)作の「花の聖母子」も飾られています。しかしこの教会で最も重要なものは、マリアが天使からお告げを受けたと言われている地下の洞窟です。
 聖地の由緒ある教会を訪れる時、観光客は地上にある壮麗な建築物に目を奪われがちですが、大切なものは地下にある遺構や遺跡や遺物などです。それらは二千年前の人々の生活ぶりを物語ってくれます。受胎告知教会の地下にある洞窟や道路や水槽などは、マリアとヨセフの家庭がいかに倹(つま)しいものであったかを証ししています。「馬槽(まぶね)の中に 産声あげ、木工(たくみ)の家に ひととなりて、貧しき愁い 生くる悩み、つぶさになめし この人を見よ」(讃美歌一二一番) 神は、御業を行なうために、高貴なるもの、強大なるもの、有力なるものを選び給わず、卑賎なるもの、弱小なるもの、無力なるものをお選びなさることを発見する時、私たちの人生観は「コペルニクス的転回」を遂げます。「神は、大帝国には倦むが、ささやかな花には倦まない」(ラビンドラナス・タゴール)
 貧しい庶民の若者と娘であっても、婚約期間というものは、人生の蕾が開き始める時期であり、毎朝、目が覚める時に、期待と喜びで心が満ち溢れているものです。その日のマリアも同じように目覚めて、日常の生活を営んでいたことでしょう。伝説によると、マリアが泉から水を汲んでいた時に、天使のお告げがあった、とのことです。天使の出現と受胎の告知は、婚約中の娘にとって、晴天(せいてん)の霹靂(へきれき)、将来の希望と計画を一瞬にして粉砕してしまうものでした。「彼女はこの言葉に大変戸惑った」 身に覚えのない娘が、妊娠して男の児を産むだろうという告知は、大変に残酷なものでした。
 神との出会いは、人生の幸福を約束しません。むしろ信仰の故の苦しみを負うことになります。後日、マリアとヨセフが幼児イエスを抱いて宮参りに行った時、シメオン老人が幼児イエスの運命を預言した後、マリアの運命にも言及しました。「そして、あなた自身も剣で胸を刺し貫かれるでしょう」(ルカ2・35) 聖墳墓教会のカルバリの聖堂の正面にある十字架のキリスト像の傍らに、胸を剣で刺し貫かれたマリアの木像があります。「立ち給える聖母(スタバット・マーテル)」です。その木像には、金や宝石の装身具がまばゆいばかりに着けられています。この悲しみの聖母像によって、自分の悲しみを和らげられた巡礼者たちが献げたものです。マリアは母として、イエスの幸福を願ったことでしょう。しかしイエスの使命は彼女の理解を超えたものでした。その結果の恐ろしい十字架刑。しかも尚、そのことを見通して天使は、「喜べ、恵まれた女よ…あなたは神の恩寵(めぐみ)を受けている」と言うのです。そしてこの言葉も真実なのです。「不合理なる故に、われ信ず」(アンセルムス)        一九九四年一二月一八日 礼拝説教


    「 聖 誕 教 会 」

 その頃、全ローマ帝国の人口調査をせよとの勅令が皇帝アウグストから出た。これはローマ政府第一回の人口調査で、クレニオがシリア州の総督であった時のことであった。すべての人が登録するために、それぞれ自分の故郷の町に帰った。ヨセフもガリラヤの町ナザレを去って、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へと上った。彼はダビデの家系であり、またその血統であったからである。すでに身重であった婚約者マリアと共に登録するためであった。彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリアは月が満ちて初子(ういご)を産み、産着(うぶぎ)にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのための場所が無かったからである。
                       ルカ福音書 2章1節〜7節

 「ああベツレヘムよ などかひとり、星のみ匂いて 深く眠る、知らずや今宵 暗き空に、常世の光の 照り渡るを」(讃美歌一一五番) ベツレヘムは、昔も今も小さい町です。しかしこのひなびた小さい町は、二人の大人物を産み出したことによって、世界的にその名が知られるようになりました。その二人の大人物とは、一介の羊飼いから身を起こし、イスラエル12部族を統一して、都をエルサレムに定めたダビデ王と、全世界のキリスト教徒から神の子救い主と信じられ、愛し慕われているイエス・キリストです。
 7月27日、私はエルサレム−ベツレヘム−ヤド・ヴァシェムの半日コースのバス旅行に参加しました。その日のガイドは小柄な初老の婦人で「私は英語とフランス語で説明します。スペイン語ができなくてごめんなさい」と言いました。ベツレヘムはエルサレムの南10キロ程の所にあり、標高七五〇m程の丘の町です。町の入口近くに族長ヤコブの最愛の妻ラケルの墓があります。彼女は旅の途中で難産の末、ベニヤミンを産みましたが、彼女自身はそこで死にました。「ラケルは死んで、エフラタ、即ち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた。ヤコブは彼女の葬られた所に記念碑を立てた」(創世記35・19)
 それから数百年後、ベツレヘムの野を舞台にして、農場主ボアズと異邦の女ルツのラヴ物語が展開されます(ルツ記) そしてその二人の結びつきを通して、それから3代目にダビデが誕生します。そしてダビデから27代目がヨセフで、28代目がイエス・キリストである、と言い伝えられています(マタイ1・16) それで、ベツレヘムはダビデの出身地という意味で「ダビデの町」と呼ばれ、エルサレムは、ダビデがイスラエル統一王国の都に定めたという意味で、同じく「ダビデの町」と呼ばれています。
 「飼葉桶(メインジャー)」広場(スクエア)でバスを降りると、百mほど先に聖誕教会の建物が見えます。これはナザレの受胎告知教会の超モダンで優雅な聖堂とは大違いで、四方を堅固な石壁で固めた要塞を思わせる建物です。「コンスタンチヌス大帝は、キリスト教の伝承に基づいて、最も重要な意義を有する三つの場所に、それぞれ教会を建てた。即ち、キリストの生誕されたベツレヘム、復活されたエルサレム、昇天されたオリーヴ山。…皇帝の母ヘレナが三二七年に死去する直前、皇帝は東方巡礼のためベツレヘムを訪れた時に、献堂式が行われた。ヘレナはその時、80歳の高齢だった」(関谷定夫) その後この教会は、五二九年にサマリア人の暴動によって破壊されましたが、ユスティニアヌス帝(五二七〜六五)の時に再建されました。現在の建物は、11世紀の十字軍時代に手直しされた部分の外は、殆ど6世紀のものです。要塞のような外壁は、外部からの敵の襲撃を防ぐためのもので、教会の入口は、腰をかがめて人が一人やっと通れる程に小さいものです。
 礼拝堂の正面祭壇の傍らに石段があり、それを降りると、「聖誕の洞窟」があります。そこは長さ12m、幅4m,高さ3mの岩屋で、北側に石製の飼葉桶があり、正面の大理石の床には大きな銀の星が嵌め込まれ、それにラテン語で「此処でイエス・キリストは処女マリアから生まれた」と刻まれています。ローソクの光で照らし出されている、ほの暗い寒々とした聖誕の洞窟と、いま世界中で行われている「メリー・クリスマス」と、いかなる関係があるかと、不思議な感じがいたします。いや、他人事ではなく、私自身のこととして考えると、敗戦後の焼け跡で、親なく、家なく、金なく、食物なく、いかに生くべきかと模索していた時に、「われに従え」と招いて、生きる道を示して下さり、今日までお弟子の一人として導き育てて下さった「主」が、このような場所で誕生されたと思うと、暖衣飽食を貪る勿れ、富貴栄達を求める勿れ、と戒められている感じがいたします。「この世の栄えを 望みまさず、われらに代わりて 悩み給う、貴き貧しさ 知り得しわが身は、いかに称えまつらん」(讃美歌一〇七番)
 三八五年に、不思議な三人連れの巡礼がベツレヘムに着きました。40代半ばの男は、苦行の修道士ヒエロニムス。30代の女は、ローマの富貴な家の出で、元老院議員の夫に死別した後、ヒエロニムスの弟子となったパウラと、その娘エウストキウム。パウラはその財産を用いて聖誕教会のそばに修道院を建て、修道生活と聖書の研究に余生を送りました。彼女はギリシャ語とヘブル語に堪能でした。また男子修道院にはヒエロニムスのための書斎を作り、彼はそこで聖書の翻訳に没頭しました。四〇四年にパウラが死んだ後、彼女の頭骸骨を机の傍らに置いて、四二〇年に彼自身が死ぬまで、35年間、聖書の翻訳に専念しました。当所人々は彼の訳業の価値を認めませんでしたが、時代を経るにつれてその評価は高まり、やがてそれは「ウルガタ」(共通)聖書と呼ばれて、全西方教会(ローマン カトリック)公認の標準聖書となりました。「これは在来のラテン語訳聖書に大改訂を加えたもので、旧約の部分はヘブル語からの翻訳であった」(キリスト教大事典)
 それから約千年後、ルネッサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチは、苦行中の「聖ヒエロニムス」の絵を描いて、この聖者に対する尊敬の念を表わしました。
 聖誕の洞窟は、その北側にある聖カタリナ教会の地下洞窟に続いており、そこに石牢のような感じのヒエロニムスの書斎があります。「私はここが一番好きです。静かで、観光客がいなくて」と、14年前の訪問の時に、山本七平先生が言われました。そこから地上に出ると教会の中庭があり、その中央に、右手にペンを、左手に聖書を持って立つヒエロニムスの石像があり、彼の足元にはパウラのドクロが置かれてあります。生前、人々から疎外された主イエスは、後世、ヒエロニムスとパウラのような人々に愛され、献身的に仕えられて、彼の愛の福音は全世界に宣べ伝えられてきたのです。
               一九九四年一二月二五日 降誕節礼拝説教