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 §エルサレムの混乱と平和     高 橋  誠


 

 エルサレムの平和を求めよう。

「あなたを愛する人々に平安があるように。
 あなたの城壁のうちに平和があるように。
 あなたの城郭のうちに平安があるように。」

 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。

「あなたのうちに平和があるように。」   詩編 122:6〜8

1.エルサレム、天国のイメージ

 私はまた、新しい天と新しい地とを見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾っ た花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。その時私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ神の幕屋が人の間にあって、 神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも 嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 ヨハネの黙示録21:1〜4

 エルサレム、カナン、シオン...黒人霊歌やゴスペル・ソングには、エルサレムやその周辺を表す言葉がたくさん出てきます。ここでのエルサレムのイメージは天国です。

・I am on my way to New Jerusalem.
   私は新しいエルサレムに向かうところです
 Get ready to go!
   さあ、出発の準備をしなさい!
・I am bound for the Canaan land.
    私はカナンの地へ向かうところです
・We're marching marching up to Zion, that beautiful city of God
    私たちは、あの美しい神の町、シオンにのぼっていこうとしています

 もちろん、これは実際のエルサレムの姿ではなく、神殿があった聖地としてのエルサレム、そして、ヨハネの黙示録で表現されるような、「新しいエルサレム」のイメージです。歌の心は、死後の世界の天国を待ち望むものでもありますが、より生活に根ざした解釈では、生活を正し、教会に通って、クリスチャンの歩みをはじめることによって、いつ死んでもいいんだ、いつ主のお迎えが来ても準備ができている生活をしよう。そしてその生活の毎日こそが、新しいエルサレムに向かう旅路なのだ、という考え方です。
 神の国がここで実現される様子が表現されています。
 聖書を学び、エルサレムを夢みる、私たちのような旅行者にとっても、エルサレムはまさに楽園です。素晴らしい遺跡と一緒に暮らしているような生活。様々な発見!学べば学ぶほど、歩けば歩くほど、人に出会えば出会うほど、新しい発見があります。サンテグジュペリの「星の王子様」の中に、「どうして砂漠はこんなに美しいのでしょう?」「それは砂漠が泉を隠しているから。」というくだりがありました。イスラエルの砂漠にも、エルサレムの町にも、主イエスが歩かれ、話され、苦難を受け、そして栄光を受けられた記憶があるからこそ、私たちは惹きつけられます。
 イスラエルを訪れる旅行者の多くは世界に散らばるユダヤ系の人々と、世界のクリスチャンが大半を占めます。前者の多くは家族で訪れ、後者の多くは団体で旅をしています。私たちは今年も自由旅行、自分たちの足で歩き、時折現地のツアーに参加します。今年は大分慣れたせいか、人々と話し込んだり、会話を交わす頻度が高くなったように思えます。首相がネタニアフからバラクに変わり、イスラエルとパレスチナの対話が再開し、やっと社会に落ち着きが出てきたという一面は、人々の心にも明るい希望を与えているのがわかります。
 エルサレムをはじめて歩いたのは、昨年の旅行の初日。私たちの乗ったイスラエル国営エルアル航空は明け方にベングリオン空港に到着し、シェルートと呼ばれる乗り合いタクシーで砂漠を越え、小さな山々を越え、少しずつ標高を上げて1時間弱、徐々に夜が明け、最後の丘を越えるとたくさんの家々やアパートが見えてきます。
「山々はエルサレムを囲み / 主は御自分の民を囲んでいてくださる / 今も、そしてとこしえに。」(詩篇125:2)と書かれている通りの地形。息を飲むような砂漠の美しさと、胸の高鳴りとを思い出します。旧市街まで数百メートルのエルサレム・タワー・ホテルに到着しても、まだ旧市街は見えません。ホテルにチェック・インして、朝食後に旧市街に向かって歩いていくと、真っ青な空を背景に、エルサレムの城壁が浮かび上がります。

2.神殿の丘の現実

 今年の旅行の初日も、使用した航空会社がブリティッシュ・エアウェイズで快適だった他は、ここまでは全く同じ展開です。昨年はダビデの塔(その基礎部はヘロデ宮殿の一部、ヒッピクスの塔)のすぐ隣のヤッフォ門から入り、今年はダマスコ門から迷わず神殿の丘へ向かいました。
 神殿の丘に立ち、美しい岩のドームやまわりの建造物、2000年前には神殿を見下ろす様に立っていたアントニオ要塞のベッドロック(基礎になっている自然の岩山)の一部を見つけ、オリーブの木の根元で懸命に祈るパレスチナ・アラブ人のおじいさんの姿に感動し、東洋人を珍しがって声をかけてくるパレスチナの女性達の集団につい男の私が応えて笑われたり...。しかし、この一見平和そのものの神殿の丘は、なかなか私たちをゆっくりはさせてくれません。灼熱の太陽に加え、いつも誰かが声をかけてきます。「わたしがあなたおガイドをしよう。」「ここにじっと立っていてはダメだ。」「手をつないじゃダメだぞ!もっと離れて、もっと!ハッハハ」神殿の丘に限らず、アラブの地域では、良くも悪くも、とにかく人々はお互いに干渉し合わないといられないようです。人情にあついのも確か。でも神殿の丘での注意の多さは、大変なものです。
 それでもなお、さぞや美しかったであろうソロモンの神殿の様子(列王記上6〜)、ヘロデによって改築された第二神殿の様子(マルコ13:1〜など)、イエス様が語られた様子(マルコ12:35〜など)、過越の祭りの時に、贖罪の子羊が一斉に屠られる様(ホロコースト)、使徒達が福音を述べ伝えていた様子(使徒行伝3など)、ローマ軍による紀元70年の神殿陥落の様子に思いを馳せます。中でも、後ほどお話しする、主イエスが神殿の境内から商人を追い出された事件については、この神殿の丘の北三分の一程を占めるオリーブ畑をゆっくり歩きながら、静かに考えていたかったのですが、「もう11時半になった。2時まではイスラム教徒だけの祈りの時間だから異教徒のあなた達は急いで出なくては行けない。」限られた時間にせよ、あるいは様々な制約があるにせよ、私たちは自由にここを歩くことができるし、ユダヤ系のアメリカ人とおぼしき人々にも、ここを訪れている人たちはいました。しかし、多くのユダヤ教徒は神殿の西壁、嘆きの壁までしか行きません。
 1週間後、ユダヤ教のオーソドックスたち、ハシディームが多く住むメア・シャリームのはずれのコインランドリーで、セント・ルイス出身の初老のユダヤ人女性に出会いました。私に名前と宗教と旅行の目的の次にきいたことは、「神殿の丘へはのぼりましたか?」彼女自身は32年前にエルサレムに移住して以来、「もちろん、一度ものぼっていない」のだそう。次の質問は現在遺跡見学コースになっている「西壁の地下トンネルの中央部にある岩のモスクの中にあるモリア山のベッドロックにもっとも近い門の跡が私たちの至聖所(the holiest of holy)なのですが、そこへは?」昨年行って大変感銘を受けたことを伝えると、「ユダヤ人の中には、あまりにも聖なる場所には近づかないようにしている人が多いのよ。」彼女も実際はとても行ってみたいのでしょう。しかし、彼らにとって神殿の丘自体は、ローマ軍によって破壊され、占領され、この2000年の間、様々な国々や民族に占領され続けている場所なのです。一方、イスラム教徒にとっても大切な聖地。また、エルサレム旧市街の狭くて大変な住宅事情の中で暮らしているパレスチナ・アラブ人にとっては、祈りの場所であり、特に女性達には唯一安心して散歩ができる場所として生活に密着しています。イスラエル・パレスチナ問題の解決の難しさのまさに中心がこの丘であることを思うと、複雑な思いに駆られます。

3.神殿の境内からイエスが商人達を追い出した、という大事件
(マルコ11:15〜、マタイ21:12〜、ルカ19:45〜、ヨハネ2:13〜)

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして 神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御 覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の 金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はこ こから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、 「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い出し た。...ヨハネ2:13〜17

 この話には、私は長い間疑問を持っていました。大変過激な行動ですが、確かに、こうした両替商や商人達は、神殿の利権搾取構造の一翼を担っていても、問題の核心ではありません。水戸黄門が、越後屋を捕まえて、悪代官を取り逃がすようなものです。
 イエスの当時のイスラエルを振り返ると、ローマの属州としてのユダヤの王ヘロデ大王は正確にはユダヤ人ではなく、イドマヤ人であったといいます。イエスが活動していた時期には、エルサレムはローマの直轄領になっていて総督ピラトによって治められ、ヘロデの息子、ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方とペレア地方を統治。そして、「歴史の中のイエス」(ガーリア・コーンフェルト著)は、大祭司制度による祭司のピラミッド型の過酷な支配制度と、神殿ビシネスの利権にまみれたカヤパやアンナスの腐敗についても報告しています。彼らは神殿警備隊という軍隊をも持っていました。イエスの神への愛と、神殿(のあり方)や人々の信仰を思う心が、この過激な行動を起こさせたことが読みとれます。さらに「問いかけるイエス」(荒井献著)では、マルコによる福音書21章16節の「また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」を分析して、「祭具を運ぶ」こともお許しにならなかったとすると、神殿祭儀そのものまで停止に追い込もうとしたことになり、神殿を汚れたものの手から、祈りの場所として取り戻すという、根本的な改革だったことを示唆します。

4.もう一つの「聖地」聖墳墓教会

 聖墳墓教会にも再訪。ここをはじめて訪れたのも、昨年の旅行の初日でした。ザイオン・ウォーキング・ツアーの「エルサレム旧市街・四つのクオーターを巡る」というツアーの解散地点。午後2時の聖墳墓教会は、観光客の団体で大変な混乱。朝の通勤時間のJRの駅のよう。違いは、人々が一度立ち止まったところからなかなか動かないこと。ヴィア・ドロロサ(悲しみの道)のイエスの受難ステーションごとに各種巡礼ツアーのガイドが立ち止まって様々な言葉で熱弁をふるいます。なんとも過剰なサービス。他の人たちは讃美歌を歌い、儀式をはじめます。それが必ず長いので、修道士が途中で止めさせようとします。喧噪。静かに祈りたい、そういう場所に違いないのに...ギリシャ語でカオス、英語でケイオス、日本語で混沌...まるで天地創造の前の宇宙のような無秩序。昨年、ヘトヘトになった私たちは、夕暮れ近くに、もう一度ここに来ることにしました。午後7時の教会は、静かでまったく別の姿を見せてくれます。入り口を入ってすぐ右の、急な階段を上ったところはゴルゴダ。静けさの中でゆっくり祈りと思索の時間が与えられて大感激。以後、ここは私たちにとっても特別な、安らぎの場になりました。
 今年は夕方でも去年より混んでいましたが、それでもまた何度も吸い寄せられるように通ってしまいます。そして帰る前日の土曜日のこと。最後の夕をここで過ごそうとここに来ると、ここを訪れる人々の数自体はあまり変わらないのに、いつもと大分様子が違っています。この教会に礼拝所を持つギリシャ正教、アルメニア正教、フランシスコ会が、それぞれ別々に教会の中の様々な場所へ行列をはじめたのです。祈りと、歌と、ろうそくと、お香の煙。それぞれが自分たちの宗派の儀式で、自分たちの世界を作り上げます。行列の先頭には人払いをする若い修道士たちが、一般の人たちを懸命に排除します。
 「どけだと?おい!プリーズっていえないのか?」結構熱い性格の私よりも輪をかけて熱い我が細君怒っています。こういう時に、となりでパートナーが私よりも先に爆発してくれると、なぜか気持ちが楽になります。まるで大名行列。見方によっては、美しい部分も、様式美としてはあるでしょうが、排他的で形式的な儀式で、それぞれのテリトリーを主張し合っているようです。それぞれの宗派の人たちと、共に礼拝をして喜びを分かち合うなんていう雰囲気ではありません。これはとても残念。現在の建物ができた12世紀以来、利害の対立や縄張り争いでずっと対立し合っている歴史のせいなのでしょうか?(これについては、新潮選書「エルサレム」に概説が出ています。)それとも、民族や国家や特定のグループを統合するための宗教団体というもののあり方自体に、問題があるのではないでしょうか。彼らの闘争のいったいどこに、キリストの福音があるのでしょう?
 イエスの時代にも、神殿を統括するユダヤ教と、ゲリジム山に神殿を建てたサマリア人との衝突がありました。エルサレム側がこの神殿を破壊するという事態に発展したこともあります。これを背景に、イエスがサマリアの婦人にこう語りました。

 イエスは言われた。「婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山(ゲリジム 山)でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知ら ないものを礼拝しているが、私は知っているものを礼拝している。
 ...ヨハネ4:21〜22

 この聖墳墓教会に、イエスご自身が立たれたら、どうなさるでしょう?このことを思うと、ジェイムズ・クリーヴランドというゴスペル・シンガーが、がらがら声で、ささやくようにこう歌う声が私の頭の中に流れます。

Where is the faith? Tell me, where is your faith in God?
 信仰はいったいどこにあるんだい?
 さあ話してよ、あなたの神への信仰はどこへいっちゃったんだい?

 エルサレムにはたくさんの教会があり、それぞれに由来があります。ベテスダの池(ヨハネ5)があり、マリアが生まれた場所だという聖アンナ教会、オリーブ山にあるイエスが主の祈りを教えられたといわれる場所の主の祈りの教会(ルカ11)、エルサレムの滅亡を予言したとされる主の泣かれた教会(ルカ19:41〜)、ゲッセマネの園(マルコ14:32)のある万国民の教会、シオン門のそば、当時の上町のカヤパ邸があったとされていて、イエスが幽閉され、ペテロがイエスを三度知らないと言った場所だとされる鶏鳴教会(マルコ14:66〜)、旧アントニア要塞のあたりにある、ピラトがイエスを指して「この人を見よ」と言った場所だとされるエッケ・ホモ教会(ヨハネ19:5)、そしてオリーブ山の頂上、キリスト昇天のモスク(使徒行伝1:9)、この山のふもとで、ゲッセマネの園のとなりのマリアの墓の教会...。それぞれとても良いところですが、そのいわれのありがたみと、霊験あらたかな御利益を求めて集まるだけならば、ほかのどんな宗教とも変わらないことになります。そして、この世の権力構造を支える要素として、それぞれの教会が運営されるのなら、これもまたイエスの福音とはかけ離れたものということになります。

5.グレイト・シナゴーグのシャバット(安息日)の礼拝

 

 メア・シャリームには、ハシディームと呼ばれるオーソドックスのユダヤ人達と共に、多くのロシア、東欧からのユダヤ人移民が職人や商人として暮らしています。少し会話をすると、「聖書を勉強しているのかい?それはいいことだ。タムルードも勉強しているのかい?」「日本にはユダヤ人は何人くらいいるの?」私が「日本に少なくとも二つはシナゴーグがあるよ。東京と横浜に。横浜のはとても小さいよ。これは探したんじゃなくて、たまたま見たことがあるのがこの2つだから、きっともっとあるよ。」そうこうするうちにロシア、チェコ、グルジア、ウクライナなどの出身地と、移民してきた年の話になる。’80年代後半からのロシア、ルーマニア、チェコ、グルジア、ウクライナ...。この2つを話すことで、この人達がどんな苦労を通ってきたかを伝え、聞き手はそれを察します。その空気がお互いに伝わった時の堅い握手と、みけんにしわをよらせたままのほほえみ。家族や友人は無事かい?ここでの生活は軌道に乗ったかい?シャローム!主があなたとともにおられますように!
 綾子さんのお気に入りのアヤラさんの銀細工の店で、金曜の日没時間、すなわち、シャバット(安息日)のはじまりの時間をきいて、グレイト・シナゴーグへ。シナゴーグは一階が男性、二階は女性。カンター(独唱者)と指揮者がリードして祈りと歌と聖書の朗読が一時間半ほど続きます。美しい歌声と旋律は、ヨーロッパの音楽の伝統を受け継いでいます。しかし、私のこの日一番の感動は、この礼拝すべてが終わった後に訪れました。車を運転することは、安息日にはできません。シナゴーグから帰る人々は、徒歩で家路につきます。礼拝の後、暗くなり、ほとんど車の通らない道を家族や友人達と共にゆっくり歩いて帰っていく人々の静かな後ろ姿。神と共に歩む、静かな市井の人たちの平和。
 この旅行の終わり頃、我がパートナーがふと、「神様にまもられているね。」と言ったことが心に残ります。本当にそうだね!アーメン!個人旅行では、自由な反面、常に問題解決のプレッシャーが心のどこかにかかっているのは事実です。そして、この自由のために、私たちは喜んで苦労を選びます。まるで私たちの人生ではないですか。そしてどんな苦労も、イエスが共にいてくださるのでなければ、何とむなしいことでしょう!
シャローム!

 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。
 わたしの愛にとどまりなさい。 ...ヨハネ15:1,4,9

 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言わ れた。「神の国は、見えるかたちでは来ない。『ここにある』『あそこにある』と 言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 ...ルカ17:20〜21

1999年10月17日 証 し


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