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 §モーセの恵みとイエスの恵み  高 橋  誠


 
 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、
 恵みの上に、更に恵みを受けた。
 律法はモーセを通して与えられたが、
 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
 ...ヨハネによる福音書1:16,17

1.現代の日本の状況と、出エジプト

 私たちがこの旅に出た今年、1999年夏は、国会で盗聴法案や日の丸と君が代を国旗国家とする法案が小渕政権率いる自民党、自由党、公明党の強行採決によって決まった直後。数の論理だけによる、ごり押しと、それを許してしまう社会。「地獄の釜開き国会」(佐高信)という表現がまさにぴったりです。自民党も、自由党も、民主党も、是非その看板を降ろし、実体に即した命名をして欲しいものだと思います。
 その数週間前、大量消費と効率・収益第一主義で危険な食品、製品を大量生産し、イメージ戦略による広告によって消費者をだまし続ける企業を告発した「買ってはいけない」(週間金曜日刊)という本を手にしました。いかに必要のないものを消費者に買わせるか、発ガン性や、環境ホルモンなど、様々な危険をはらんでいるものを、いかに安全なものと信じ込ませて売るかを目指している企業の姿勢を糾弾するものでした。
 そして数日前、父より「患者よ、ガンと闘うな」(近藤誠著)を借りました。これも、不必要な投薬や手術が日常茶飯事に行われ、患者を危険にさらしても、病院経営のための効率主義がすべてに優先するという、医療における欺瞞を告発するものでした。
共通するのは、「愛」の欠如、隣人愛の欠如、「人権の意識」の欠如。ごく身近な人々に対してもそうですから、これが在日外国人の生活権・人権でも、子供の人権でも、絶滅の危機に瀕する動物でも、自然でも、また遺跡でも、その大切さや、尊重するという心が生まれてこないのは、自明のことのように感じます。そして、これは政治や経済の問題だけにとどまらず、マスコミ、学校、家庭など、広く社会でこれが、大きな根となっています。
 さて、一方、モーセによってエジプトから導き出された、エジプトの奴隷だったイスラエルの人々、「彼らもまた、戦後の日本人に似て、自らの手で自由を戦い取ったのではなかった。そしてシナイの荒野ではじめて『モーセが与えてくれたものは...自由を手に入れるために戦う機会でしかなかった』(モシェ・パールマン)ことを悟った。」(山本七平「シナイへの共鳴」)彼らは、シナイを、荒野を経験し、生きる道を得ました。

「イスラエルよ、聞け、我々の神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精 神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、私 があなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子ら に教え...」(申命記6:4〜7)

「これらの言葉を...あなたの子らに」教えよ、という命令は、その後の世代に何百年も忠実に守り継がれ、ユダヤ人が生き残った −また、今日のイスラエル国が再建された理由の一つになっているのは明らかである。...モシェ・パールマン

 では、日本にとってのシナイの荒野は?という問いに対しての答えは、どうも得られそうにありません。不幸なことに、戦後、日本人は、エジプトからカナンの地へ、飢えと貧しさの他は、シナイ半島を渡ることも、ツィンの荒野を越えることも、内なる葛藤と闘うこともほとんどなしに、何よりもモーセ、そして彼を通して与えられた、神との契約である十戒なしに入ってしまったようです。残念ながら、「自由を手に入れるために戦う機会」を与えられてもその準備ができていない。「自由を手に入れるために戦う機会」を得たことを、自由を得たと取り違えてしまうことは、大変危険なことです。向上心や努力、危機感などが失われ、全く無防備になってしまいます。こうした八方ふさがりのような社会の中で生きる、というのは、私たちの現実(リアリティー)です。そしてまた、私たちは神の福音を得、日々、喜びと感謝をもって生きることができる。これもまた、私たちの現実です。それは、主の導きにより、聖書や教会での学びによって、時代や場所を越え、モーセやイエス・キリストと共に歩むことが許されているからだと思います。

2.シナイ山へ

 さて、こうしてモーセとイエス・キリストへの思いは募り、昨年に引き続き、二回目の聖地旅行をすることになりました。今回は、モーセの出エジプトの足跡の一部で、神と出会い、十戒を授かった、シナイ半島のシナイ山(ジェベル・ムーサ)と、約束の地を目の前に息を引き取った、ヨルダンのネボ山や途中の砂漠や荒野を訪ねることと、昨年行くことができなかったエルサレムの神殿の丘やベツレヘムなどをしっかり見てくることが主な目的でした。
 昨年は、ほとんどエルサレムに滞在し、ガリラヤ湖方面や死海方面にも出かけていきましたが、今年はシナイ半島やヨルダンのネボ山まで脚を伸ばすため、移動が激しくなります。最初の日はエルサレムでゆっくり。昨年、パレスチナとイスラエルの間の緊張が高まったため、閉鎖されてしまっていた神殿の丘に、すんなりと入ることができ、不思議な気持ちになります。アブラハムがイサクを捧げようとした、モリア山の頂上の麦打ち場に黄金のモスク、岩のドームが建っています。モスクで祈りを捧げる人々、オリーブの木の下で祈りを捧げる人、イスラムの人々にも、律法に忠実に生きる伝統を感じます。
 インターネットで見つけた、一週間ユースホステルの個室宿泊とレンタカー使用とのパックを申し込んだので、二日目からはレンタカーで南下。ベエルシバでアブラハムの井戸に寄って、ツィンの荒野(民数記20)、ミツペラモン付近の大クレーターを通り、ネゲブ砂漠(民数記21)を下って紅海沿岸の町エイラットへ。想像を絶する風景です。モーセたちはこんな砂漠を歩いたのか、と思いますが、今もこの砂漠で暮らす人々がいることは驚きです。そしてエイラット、ここは、ソロモンが海の貿易港として整備したエジオンゲベルがあったあたりで、東隣の町はヨルダンのアカバ、南隣はエジプト領のタバ。私たちは最初の1週間、ここを拠点にシナイ山やヨルダンを巡ります。

 翌日午後、エジプトの国境を越えてシナイ山に向かいます。ベドウィンのタクシーと値段の交渉をして乗り込み、出発してから3時間半、砂漠の道を時速120キロでとばします。もちろん?エアコンはなし。タクシーに乗り合わせたアメリカ人の紳士が彼らを評して、「シナイ半島に住むベドウィンは、大変誇り高い人たちで、心の中ではエジプト人を軽蔑しているんだ。この地域でホテルの中以外で働いているのはたいがいベドウィンだよ。タクシーでも値段を決めるまでは大変だけれども、一度契約が成立したら、その契約に実に忠実な人たちで信頼できるんだ。」また、旅人を決してこばまないという伝統があるそうで、それは、この過酷な気候の土地にあって、困っている人をこばんだり、また自分がこばまれたりした場合、即、死につながることからくる古代からの知恵なのだろうといいます。日没が近づいて、我らが運転手、モサードは、「10分だけ」と断って、道路沿いのベドウィンのテントへ。私たちにコーラやジュースをすすめた後、頭にかぶった布を地面に敷いた絨毯の上に広げ、祈りを捧げます。掟と戒めに生きる、愛すべきベドウィンの兄弟。このイスラムの兄弟の中にも、モーセ以来の伝統が見えます。
 シナイ山のふもとの聖カテリーナ修道院のゲストハウスに宿泊して、早朝2時に登りはじめます。ひたすら登って3時間半、途中、暗闇の中で突然、ラクダに乗らないかと、誘う人たちがたくさんいます。「キャメル・キャメル・スモール・キャメル・グッド・キャメル」。中には、「ラクダ、ラクダ」と日本語で話しかける人も。ヘトヘトになって登る私の耳に、この「ラクダ」が、しだいに「楽だ、楽だ」と聞こえ、シナイ山ではなく、誘惑の山へ来てしまったのではないかと、思えてきます。このラクダ屋の呼び声を気に入ってまねする私に付き合う我がパートナーも、楽ではなかったでしょう。彼女がラクダに乗るアメリカ人に、「ラクダの乗り心地はどう?」ときくと、「あんまり乗り心地よくないわ。」と焦燥しきった様子。おまけに最後の一番大変な三千七百段に及ぶ石段は、結局ラクダを降りて登らなければならないのです。

 五時半に頂上について日の出の方向、東を確かめて座ると、30分もしないうちにまわりは人でいっぱいになりました。静かに太陽が昇るのを待つひととき。息を飲むような素晴らしい景色です。刻々と色が変わり、山々が輝きます。日の出の後、すぐ降りる人々が多い中、私たちはゆっくり頂上を散策できました。下りは一時間ほど。聖カテリーナ修道院を見学して、再びかのモサードの運転でエイラットに戻ります。

3.ヨルダン紀行。ネボ山へ、そしてペトラへ。

 翌日は海底見学センターに行った他はゆっくり休んで、次の朝にはヨルダンへ。
 国境を越え、アカバの町からはまたレンタカーでデザート・ハイウェーを北上し、カラクという十字軍の要塞の町を通って今度はキングズ・ハイウェーを北上してマダバへ、およそ300キロのドライブ。途中、まるでグランドキャニオンのような壮大で険しい渓谷、ワジ・ムジブことアルノン川(民数記21:10〜)がいきなり現れ、この高低差800メートルの渓谷を越え、町々やベドウィンの山羊や羊の群に何度も出会いながら町を越えていきます。
 こうした険しい山を越えるごとに思うのは、これが徒歩だったら、どんなに大変だろう。このアルノン川越えだけでも、きっとあのシナイ登山ほどの苦労だろう。しかも、こんなに巨大な渓谷でさえ、川に水は一滴も流れていないのです。借りた韓国製の大宇(Dae Woo)はこの渓谷を、たった30分で越えさせてくれます。
 マダバでは、聖ジョージ教会にある、最古のエルサレムの地図のモザイクをゆっくり見学。ガイドブックを見たり、ギリシャ語で書いてある地名を拾い読みしたりと楽しみ、ネボ山へ。ここはモーセの最期の地。ここからの景色は、緑の広がるヨルダン渓谷と、その彼方のイスラエルの山々。

 この「モアブの地の谷」でモーセは死んだ。しかし、「今日までその墓を知る人は ない。」(申命記34:10)場所は死海の岸から東北約11キロほどのネボ山の 近くであろうが、はっきりはしていない。彼の墓が注意深く隠されたのは明らか で、そこが崇拝の場所となり、神聖な祠(ほこら)となって、この巨大な人物を神 格化するのを避けようとしていたのである。「イスラエルには、この後モーセのよ うな預言者は起こらなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった」 (申命記34:10)...モシェ・パールマン

 今世紀のほとんどの「解放者」がそうであったように、圧制からの解放者であるヒーローは、必ず新たなる圧制者となります。しかし、モーセがしたことは、あくまでも、十戒や神の言葉を通して、民を神と結びつけ、神との契約の基での自由を得させることでした。これは素晴らしい恵みです。

 私たちはこの山を降りてヨルダン渓谷へ。この日はヨルダン川の河口近く、スウェイメというところにある、ヨルダン国営のレストハウスのバンガローに泊まります。ここはイスラムの国ヨルダン。女性が水着で泳いだら大変なことになるようなところ。ヨルダンの女性達は黒い服を着て、頭のかぶりものも、中にはベールまでそのままで水に入っている人もいます。我がパートナーもTシャツに長めのスパッツでプカプカ。翌朝、死海の東岸を下って死海の塩の産地、サフィーを通って山を越え、ペトラへ。美しい遺跡!数時間を過ごした後、アカバを通ってエイラットへ戻ります。
 途中、ガソリン・スタンドが滅多にないため(ヨルダン国の地図にガソリン・スタンドが載っているほど)、何度か人にきいて、やっと見つけられます。綾子さんに教えてもらったアラビヤ語の挨拶が役に立ちました。車を止めて外に出た瞬間に、その辺でのんびりしている人々に「アッサラーム・アレイクーム!」と呼びかけて、後は英語。多くの人たちが片言の英語を話します。それにしても親切なこと。ホスピタリティーのかたまりで、すぐに、「ミント・ティーを飲みなさい。アラビック・コーヒーを飲みなさい。家に来なさい。食事をして、泊まっていきなさい。」ということになる。申し出でをすべて受けていたら、ここに住んで骨を埋めることになりそう。車がパンクしたときも、飛び出してきて、嬉しそうに手伝ってくれます。観光地では何をしてもバクシーシ(チップのようなもの)ということになりますが、どうも普通は本当に親切なようです。また、ヨルダンは治安が良いといわれます。エルサレム旧市街のパレスチナ・アラブの人たちも、ヨルダン統治時代は、治安が良かったといいます。しかし、問題も。町には女性がめったに歩いていないのです。そして働いてもいないのです。現金収入を得るまっとうな仕事は男のもの。ということは、男性に依存しない女性は社会の中でまっとうに生きていけない、ということになります。これは、旧約聖書の時代のままです。(cf.ルツ記)
 結婚はまるで新しい車でも買うような様子。ペトラの食堂のウェイターと話していると、子供が四人いるという。「もっと子供が欲しいね。」ー「あと何人くらい欲しいの」−「全部で十人くらいかなあ。でも、次は第二夫人の子供が良いね。もうしばらく、一生懸命働いて、もう一人奥さんをもらうんだ。ひとりじゃ足りない!」まったく。これが大まじめなんだからね。我が細君が怒り狂い、この国を息苦しく感じるのは当然です。イスラムの国、ヨルダンも、おしなべて人の良い、戒律には厳しい、まじめな人々。でも、こういう感覚で暮らし、いままで生きてきた人々が、男女が平等で、そういう社会を作ろうと考えることは、不可能に近いように感じます。そして、今現在、日本を含め、まがりなりにも男女が平等でなければいけないと考えはじめている人々がたくさんいるということ自体、イエス・キリストの大変な奇跡であり、恵みだと思います。そして、非常にまじめに戒律を守るユダヤ教徒。その中でも過激に心は旧約聖書の時代のままに生きる人々を抱えるイスラエルと、彼らを全く排除してしまおうという人たちを抱えるパレスチナとが、隣人として対話をはじめ、別々に共存しようという動きが現れているのも、素晴らしいことだと思います。そして、この奇跡も、約二千年前にイスラエルで人々に語られたイエス様のことばからはじまっていることに、感動を覚えます。

「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを 尽くし、力をつくして、あな たの神である主を愛しなさい。』(申命記6:4)第二の掟はこれである。『隣人 をあなた自身のように愛しなさい。』この二つにまさる掟は他にない。」 ...マルコ による福音書12:29〜31

 

「あなたがたも聞いているとおり、隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 ...マタイによる福音書5:43〜44  

 

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗 礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。そこ ではもはや、ユダヤ人も ギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も 女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」 ...ガラテヤの信徒への手紙3:26〜28 

 

 善きサマリア人のたとえ話(ルカによる福音書10:25〜)によって、愛すべき隣人を、同胞や同じ信仰の枠を破ってすべての人々に広げ、神を愛することと、隣人を愛することを何よりも大切な掟とし、さらには敵をも愛することすら教えられたこと。主の言葉は、人が作ったどんな芸術品よりも、どんな遺跡よりも美しい!
 ヨルダンを後にし、イスラエルのエイラットへ戻って心からリラックス。車で夕暮れの砂漠を北上しながら、主に感謝!今度は死海の西岸のマサダのふもとのユースホステルについたときには午後10時。翌朝起きて驚いたことには、部屋をでて、廊下の窓いっぱいに見えるのは朝日を浴びて輝くマサダ!この日はゆっくりマサダを歩いてエルサレムにもどります。そして、一週間、エルサレムとベツレヘムをゆっくり廻りました。そのお話しはまた後日!シャローム!

1999年8月29日礼拝 証し


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