「いいですね。行きましょう、砂浜へ」
「決まりね。じゃあ、ついてきて」
優紀さんは俺の手を取る。フェンスのない部分から庭を抜け、松林の中を海岸の方へ駆けていく。幸い、月が明るくてけっこう走りやすかった。
マリン文化会館は海洋施設も備えている為、海岸のすぐ近くに立てられている。海まではほんの数百メートルほどしか離れていないので、すぐに浜辺に着いた。
波の音がする。海風が心地よい。
青い薄明かりに照らされた海岸は昼間とは違った印象を受ける。月の光が海面に反射してとても綺麗だった。
引いては返すその波のリズム。静かで神秘的な夜の海がそこにあった。
「ほぉーら、こんなに綺麗じゃない。あんな所で礼儀だの作法など堅苦しい事してるよりよっぽどいいわ。嫌な人たちとも顔合わせないでいいしね」
俺の手を引っ張りながらはしゃぐ優紀さん。
なんか今までの優紀さんのイメージとは全然違う。
でも、嫌いじゃないな。というより、なんか安心した。いつも沈着冷静で悪い言い方をすれば冷たくてお高くとまったイメージがあった優紀さん。彼女がこんなにはしゃいでいるなんて。
まぁ、お酒のせいもあるだろうけどね。
「どうしたの? 早く向こうまで行きましょうよ」
俺は優紀さんに導かれて波打ち際までやってきた。靴の先まで波が打ち寄せている。
そこで、やっと優紀さんは手を離してくれた。
う〜ん、少し名残惜しいかも?
優紀さんは大きく背伸びをしながら夜空を見渡した。
でも、よくよく考えてみると、なんで知り合い以下の関係だった彼女と、夜の海に2人っきりでいるんだろう。けっこう複雑な心境。
俺は優紀さんの横顔を覗く。
「何? まこと君」
少し怪訝そうに俺の顔を見返す優紀さんに慌てて視線を反らす俺。
おいおい…なに俺は動揺してんだ。
「ね。海に入らない?」
「え?」
優紀さんは靴を脱ぎ、スカートを軽くまくり上げると、海の中に入っていく。
「ちょ、ちょっと優紀さん」
「なぁに?いいから入っておいでよ。冷たくて気持ちいいから」
笑いながらこちらにゆっくり向き直る優紀さん。一瞬、俺は目を奪われる。月明かりに輝く海に溶け込んだ彼女の姿が一枚の幻想的な絵に見えた。
綺麗だ…。
俺は心の底からそう思えた。
次の瞬間、水しぶきが飛んできて、俺は我に返る。優紀さんがこちらに向かって海面を蹴飛ばしたからだ。
「呆れてんでしょ?歳甲斐もなくこんな馬鹿な事してるから」
ちょっと怒ってこちらを睨む優紀さん。見とれてたなんて言えないしなぁ。
「いや…ちょっと意外だなって思って」
「がっかりしちゃった?」
「まさか。俺はどちらかと言うといつもの優紀さんより今の優紀さんの方が好きだな」
「こら。大人をからかうもんじゃないわよ」
「からかってなんかいないさ。いつもの優紀さんも魅力的だけどちょっと近寄りがたいっていうか、いろいろ厳しそうで冷たい感じがしてた」
「…まぁね。大人は色々大変なのよ。虚勢でも張っておかないといけない時だってあるわ」
少し寂しそうにつぶやく優紀さん。俺も靴と靴下を脱ぎズボンをまくり上げて海に入る。水は少し冷たかったが暑い夏の夜には心地よい。波にさらわれた砂が足をくすぐっている。