昭和初期、日中戦争で大陸に進出する日本に対し、アメリカやイギリスは中国を支援し、日本とアメリカは次第に対立する。
1941年夏、日米関係は悪化は深まり、なんとか外交努力で戦争を避けようとしつつも、裏では交渉が決裂した場合を想定しての計画も進められていた。
当初、軍内部では開戦は、原油確保の為の南方作戦に戦力を結集すべきだという意見と、まずは真珠湾を奇襲してアメリカの太平洋艦隊にダメージを与えてから、南方作戦に出るべきだという意見に別れていた。
軍上層部も、闘う前から、現状では油も豊富で、生産力も高いアメリカと戦争して勝てるなどとは思っておらず、短期決戦でなんとか勝てる道を模索していた。
真珠湾攻撃も反対が多く、作戦に失敗して貴重な艦艇を失ったらどうするんだという意見が出る。
これを山本五十六連合艦隊司令長官が半ば強引に奇襲攻撃を主張して、決定する。
鹿児島ではベテランパイロットを集め、鹿児島湾の地形を利用して真珠湾攻撃の雷撃訓練が行われた。
実のところ、真珠湾に停泊している艦艇を空から攻撃するのは非常に難しいと思われていた。
湾内の水深は浅く、魚雷は投下されると、そのまま海底に突き刺さってしまう。航空機から雷撃をおこなうにはある程度の深度が必要なのだ。
だからといって爆撃では戦艦の厚い甲板にはなかなか穴はあけられない。
しかも海底が浅いから、もし沈めても、簡単に引き上げられ、修理されてしまう。徹底的に叩かねば意味がないのである。
それらの問題を解決するため、いろいろな作戦が検討される。雷撃攻撃に加え、敵艦船の側面を叩く、水平爆撃という命中率の非常に低い戦法も取り入れられた。
また、浅い水深でも効力が発揮できる新型魚雷の開発も行われた。
日本軍は1年も前から、真珠湾攻撃の準備をしていたのだ。
鹿児島湾では少しでも命中率を高めようと、厳しい訓練が繰り返された。
しかしパイロット達には、どんな作戦の為の訓練かと言うことは、いっさい知らされていなかった。
艦隊が出撃するまでは、真珠湾攻撃の事は参加する兵士たちにも秘密にされ、厳重な作戦の機密保持がおこなわれた。
1941年11月26日。千島列島、エトロフ島のヒトカップ湾を艦隊は厳重な情報規制の中、密かに出撃する。
空母「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛竜」「翔竜」「瑞鶴」。
高速戦艦「比叡」「霧島」。巡洋艦「利根」「筑摩」。軽巡洋艦「阿武隈」それに駆逐艦9隻、補給艦8隻の艦隊である。
敵はもちろんのこと、商船などにも見つからないように、慎重な航路設定と索敵、警戒作戦がおこなわれた。
実は出航した時点では真珠湾攻撃実行の是非は決定していない。途中で和平交渉が成れば引き返すということも考えられた。しかし航海上で東京の大本営から作戦決行と作戦日の指示が来る。
作戦日は日本時間の12月8日、ハワイ時間の12月7日の日曜日である。日曜日が選ばれたのは、以前からの調査より、日曜日はアメリカ軍の哨戒機が飛ばない事や艦隊が真珠湾に停泊している可能性が高かったことを知っていたからである。
また、日本軍はこれよる20年前、第一次世界大戦時に、ハワイでアメリカ軍と共同訓練を行っていた。だからアメリカ軍の行動やオワフ島の地形の情報には事欠かなかったそうだ。だから、いつ港に軍艦がたくさん停泊している可能性があるのかを予想し易かった。
幸運なことに(アメリカ側には不幸なことに)その日に限ってハワイ方面にいる全戦艦が真珠湾に停泊していた。
いつもは日曜でも必ず出払っている戦艦がいて、その日まで、真珠湾に全戦艦が揃うことはなかったそうだ。これは歴史の皮肉というべきか、不思議なことである。(これはアメリカの策略だった!という説もあるほど)
運命の12月7日(日本時間の12月8日)。早朝4時。オワフ島、真珠湾北250海里を航行していた日本軍艦隊より戦闘機、降下爆撃機、水平爆撃機、雷撃機、合計183機が攻撃第一派として出撃した。攻撃目標はアメリカの太平洋艦隊の拠点、真珠湾およびオワフ島の航空基地である。
その頃、アメリカ軍のノースシュア陸軍対空警戒信号隊のレーダーは、オワフ島北に日本軍の飛行隊を不明機として捕らえていた。その報告を受けた新米の将校は、問題ないと返答する。
彼はその機影を、その日空母エンタープライズから飛んでくる予定のB-17と判断したのである。また、当時、オワフ島にあったレーダーは最新型で、兵士はあまり扱いに慣れていなかったという事、オワフ島の地形が、レーダーにデットゾーンを生み出していたという事も災いする。
穏やかな日曜の朝、ハワイ時間の午前7時56分。突如として現れた日本の零戦に驚く暇もなく、まずは飛行場に並べられていたアメリカ軍の戦闘機が次々に叩かれていった。制空権を確保した日本軍は、その後、次々と真珠湾に停泊していた戦艦やその他の艦艇に襲いかかった。
その時、そこにいたアメリカ人は、どこの国が攻めてきたのか解らないほど混乱した。ほとんどの人が当時戦争中だったドイツのポケット戦艦かなにかが攻めてきたと思った。戦闘機の翼に表記されている日の丸を見て、初めて相手は日本軍だと解ったそうだ。奇襲は完璧に成功した。
また市民は週2〜3度の軍による飛行訓練を見ていた。だから戦闘機が低空で飛んだり、急降下したりするのを見慣れていたので、最初、誰もおかしいとは思わなかった。
真珠湾はその地形上、天然の要塞となっていて、攻撃されるなんて事は考えにくかった。また飛行場には威嚇する目的のために、軍用機が無防備に並べられていた。まさか真珠湾が攻撃を受けるとは誰も想像つかなかった。その油断がアメリカの軍事史上最大の被害をもたらしたのである。
そしてその日に停泊していたアメリカの艦隊は壊滅的打撃を受けたのであった。
戦艦アリゾナは船首の弾薬庫に爆弾を食らい大爆発を起こした。そして1177人の乗組員の命と共に海に沈んでいったのである。
また戦艦オクラホマは魚雷を食らい鑑内に500人近くの乗員を残したまま転覆。後の救助活動で32名は救出されるが、429名は帰らぬ人となった。
大混戦の中、予定通りエンタープライズからやってきたB−17や本土からやってきた戦闘機は日本軍と、混乱で敵味方の区別か付かない味方の対空砲火の中、次々と落とされていった。
午前8時40分、日本軍攻撃部隊、第1派は撤退、それと入れ替わりに第2派の171機が真珠湾に降下していった。
アメリカ軍側の被害は、戦艦8隻のうちアリゾナ爆発により撃沈、オクラホマは転覆により撃沈。ほか3隻の戦艦大破し撃沈するも引き上げは可能。残りの3隻は比較的軽微であった。3隻の軽巡が多少の被害、3隻の駆逐艦は大損害を被った。
また航空機は海軍機202機のうち実に150機が飛び立つ暇もなく破壊され、残りのうち14機は離陸不能。なんとか飛び立ったのはわずか38機であった。また陸軍機も273機いたが同じような状況である。結局、この攻撃でアメリカ軍は359機の機体を失うことになる。
この攻撃による死者の数は2388名、負傷者は1178名にのぼった。
対し日本側の被害は参戦航空機、355機中、損害は24機。死者64人である。
それと、あまり有名ではないが、日本軍はこの作戦に5挺の小型の特殊潜水艇を潜行させて攻撃に参加させている。しかしこれは敵に被害を与えることなく真珠湾内で全滅した。
この小型潜水艇の9人の乗組員は、戦時中は神と讃えられ、戦意高揚の為に利用された。また一人の乗組員は、アメリカ軍に捕虜として捕らえられ、生き残ったという。彼は敵の捕虜となったことで、神としては讃えられ無かった。祖国から見放された彼は、結局、戦争が終わっても日本に帰る事無く南アメリカで暮らしたという。
真珠湾攻撃は第3派も予定されていたが、実行されずに、日本軍は撤退する。航空部隊総司令、淵田美津雄は第3派の出撃を進言したが、空母「赤城」の八雲司令官は攻撃中止を命令した。これは、この時点で外洋に出ているアメリカの空母艦隊の位置がつかめなかったのが理由とされている。予想以上の戦果が出た今、無理に真珠湾攻撃に固執する必要はないと考えたようだ。
しかし、混乱していたオワフ島では、第3派のがくると皆が思っていた。
それどころか、日本軍が上陸してきて、占領されるとさえ思われていた。街には戒厳令がひかれ灯火管制が命じられた。
救出活動と平行して、日本軍の上陸に対する準備も行われていた。また、日本軍が真珠湾から上陸してきたとデマが流れた。ハワイにいた多くの日系人は監視され、怒りの矛先を向けられた。夜、アメリカ本土からやってきた味方の飛行機7機を、日本軍と間違って打ち落としてしまうという悲劇も起こった。日本軍が撤退した後も、それを知らないハワイの人々の混乱はなかなか収まらなかった。
過去の事をとやかく言うのは愚かだと思うが、私は真珠湾を目の当たりにして、60年前、ここで起きたことがなかったら、日米共に、戦争中に起きた数々の悲劇は起きてなかったかもしれないと思わずにはいられない。
当時、日本はアメリカに単独で勝てるとは思っていなかった。ヨーロッパで闘っていた同盟国のドイツの勝利を計算に入れた上での開戦だった。真珠湾攻撃の1ヶ月後、ドイツは降伏している。もし真珠湾攻撃がなんらかの理由で1ヶ月遅れていたら、日本は無謀な戦争を断念していたかもしれない。
この真珠湾攻撃の成功は、皮肉なことに日本の立場を悪くすることになった。「リメンバー・パールーハーバー」を合い言葉に日本やドイツに対して戦争することに賛否両論あったアメリカ国内の世論を一気に戦争へと導いた。
また、この奇襲の反省からアメリカは、時代が戦艦から航空機へと移り変わっている事に気づく。そして、建造中の戦艦を急遽空母にするなど、今後の兵器生産を航空機中心の生産に変えている。
逆に日本はこの作戦の成功にうぬぼれ、昔ながらの戦艦主義にこだわった。日露戦争時の日本海海戦で、当時、世界最強といわれたロシアバルチック艦隊に勝った時の栄光をずっと引きずっていたのだ。
後にミッドウェイ海戦で負けた日本海軍は、その後も敗退を繰り返し、世界最大の戦艦と言われた「大和」「武蔵」もその活躍の場もあたえられぬまま撃沈され、壊滅への道をたどることになる。
真珠湾攻撃作戦で、作戦を指揮した山本長官をはじめ作戦に参加した将兵たちは、自分たちのやっている作戦が、宣戦布告前の卑怯な作戦だとは夢にも思っていなかった。本来、奇襲直前に宣戦布告が行われる予定だったが、連絡のトラブルで1時間ほど遅れてしまった。
このことが世界に戦後後々まで汚名を残し、日本のやった卑怯な作戦と世界から認識されることとなったという。
真珠湾で起こった悲劇について、日本人としていろいろと複雑に思うところはあるけど、やはりこの場で亡くなられた多くのアメリカ人、アメリカに比べると僅かであるが、戦死した日本兵、特に特殊潜行艇に乗って玉砕された兵士たちのご冥福を祈らずにはいられない。
真珠湾にしても、この後日本で繰り広げられる、南方戦線や沖縄、本土空襲や原爆投下などの悲劇。それに対してどちらが悪いかなんて非難すべき問題ではないと私は思う。結局、究極の解決手段として戦争を選んだ両国の過ちであって、国民の命を政治の道具として利用する戦争行為自体が愚かしい事であると、戦争の悲劇を学ぶたびに私は思う。
●参考資料●
「真珠湾攻撃」(淵田美津雄・著/PHP文庫・刊)
DVD「パールハーバー-PEARL HARBOR THE TRUTH-」
(発売元:(株)コムストック/販売元日本コロムビア)
ほか

▲海の中にある白い建造物が沈没艦の記念碑
右の石碑には「USS CALIFORNIA SS」と書いてある

▲船からレイを海に投げて戦死した英霊の
冥福を祈る人々