Session2:部屋とコンピュータと私 #2

大学に入ってから得た知識が、今も活用されている主な知識である。 ゲームだけのマシンからクリエイションのためのマシンとしての価値に開眼してくる。
1992.9
いつのまにか時代は猫も杓子もNECのPC9801の時代を迎える(まだ9821は無かった)新潟大学に進学し、高校時代と比べて有り余る自由な時間が手に入るものの、暇すぎて逆にうろたえていた。

しかし大学に入ったらX68000を買うという気持ちは持っていたので夏休みに少々無理をしてバイトで稼ぎ、X68000XVI+モニタを購入する。最初から98にするつもりはまったくなかった(過去にNEC2台買ったしね)FMTOWNSという選択肢もあったが、いまいち富士通はいまだに肌にあっていない。 そんなわけで68。けちって低スペックの機種(SCSIコネクタなしや、低クロックのモデル)にする選択肢もあったが、今思えばXVIにしておいて良かった(これがのちのえくしびというハンドル名の由来となる)マシンが来てしばらくはFDでゲームばかりしていたが、すぐに物足りなくなってきた。

BASICマガジンだけでは情報が足りない、というわけで(今みたいにWebもなければパソコン通信もやる前だしね)そんなわけで当時発行されていた「Oh!X」という月刊雑誌がにビリビリと来た。X68kを使った企画が盛りだくさんで、ライターの記事も歯に衣着せぬ文章で単純に面白い。後に読者モニタに当選し、しばらく紙面の感想を掲載されたりもする。最近、復刊されたので興味ある方は覗いて欲しい。

というわけで、68もめでたく手に入ったので大学唯一のコンピュータサークル「EDP」に入部することを決意(というほどでもないが)部内では68ユーザと98ユーザが半分ずつくらいで色々と貴重な話も聞ける。

しかし喜ぶもつかの間、部会に参加してきている1年生が私くらいで、あとの1、2人もあまり来ていないという状況だった。それでも分からない話に首をつっこみ、初の学祭参加でデータ打ち込みをやったりして一人暮し最初の冬を迎える。

その頃はまだモデムの主流が2400bps(今時のモデムの1/10以下。ISDNの約1/25以下の速度)で、それでも2万円くらいしてたと思う。部会での話題は新潟にあるSINNETという草の根ネットでのやりとりが多く、「昨日メールで送っておいたよ」「あのSIGの書きこみ読んだ?」など、参加していないと話がさっぱり分からない。そんなおり、とあるオフ会で先輩が1200bpsのモデムを1200円でわざわざ買ってきてくれた。かなり遅い通信速度だったが(50kのエディタをダウンするのに1時間くらいかかった気がする)なんにせよネットワークでの情報のやりとりは斬新だった。このおかげで、ファイルの種類(バイナリ・テキスト)だの圧縮・解凍だの、チャットだのBBSだの学ぶことになる。。。ISHなんてあったなぁ。e-mailでのバイナリデータの添付と同じような仕組みだけどね。

1993.4
長期休暇ごとに、きばってバイトをしてはパソコンにつっこむ、って今も全然進歩してないという突っ込みがきそうな生活が続く。初めて買ったHDDは100MBで6万円(最近買ったのは10Gで18000円、1/300か・・・)、メモリは4Mで4万円(こちらは128Mで8000円だと1/150ね)思えば安くなったものだ。

その後、MIDIやらMOやらをちびちび買い足しCGAを作って応募したりオリジナル曲を書いたりしていた。モデムも14400BPSが主流になってきて、日本中にいろいろなネットが誕生していた。通信速度がそれくらいなのだから、おのずと流通するデータ量も限られる。PICと呼ばれる68発祥の画像フォーマットは65536色フォーマットにおいてかなりの圧縮率を誇り、RCPというMIDIデータのフォーマットも現行の標準MIDIファイル(MID)と 比較してファイルサイズは小さかった。静止画データをパラパラマンガのように再生するMASLやPANICなんてフォーマットもあった。AVIやJPEGなんて影さえ見えなかった時代である。それもそのはず、やり取りするデータは数10kbが当たり前だったから。

パソコン通信にも慣れてきたころ、仲間内独自のネットを作ろうという話が持ち上がった。EDP-NET計画である。必要なものはホストマシン、電話回線、モデム、月々の維持費(電気代、電話代基本料)である。なんとか、i286あたりのPC98を調達してEDP-NETはこの後4年ほど稼動する。ホストプログラムはKT-BBSというもので、ソースをカスタマイズしてTURBOパスカルでコンパイルしなおしたものだ。会員数は100人くらい(アクティブは10人くらいだったが)で、それなりに楽しめた。これで文字コミュニケーションに関する経験をかなり得られたと思う。

このころ、部で購入したマシンがEPSONのPC386ARというノートマシンである。モノクロでWindowsなどもちろんうごかないが、FDDが2基あり、HDDも100Mついていた。どうしようもなく重たいマシンだったが結構な値段のするもので購入時は部内でもめたものだった。386BSDをFDでインストール(40枚)とかも、忍耐を要する作業に過ぎなかった。

1995.6
大学での学科が情報工学科だったため、ワークステーションやらUNIXやら電子メールだのは使う機会はそれなりにあったのだが、X68k、DOS、パソコン通信と比べてそんなにメリットは感じていなかった(アプリもX-Window用ということで小難しいものが多かったし)

しかし、モザイクの登場によるWWWブラウジングは戦慄だった。世界中のあらゆる情報をグラフィカルに瞬時に取り寄せることができるのである。早速自分でもホームページなるものを作ってみたくなり資料を探すが少ないのなんの。本屋に「HTML」という単語の入った本が1冊もまだ無かったと思う。そんなんで雑誌のコピーみたいなのを見ながら見様見真似でHTMLの作成をはじめた。日々、新しい技術が開発されていき、見ていて飽きなかった(訪問者カウンタやフレーム、動画GIF、人気投票(苦笑)etc...)

EMACSの思想にほれ込んで、X-Windowのカスタマイズに燃えていたのがこの頃である。 そういえばX68000用にもNetBSDというUNIXがあって、ちょっとかまったのだが、今でこそUNIXはWINに比べて軽さがうりだが、当時のあのCPUパワーでは耐えがたい代物に他ならなかった。

MIDIで耳コピーなんてのもしていた。耳コピーというのが楽譜のない曲を耳で聞いて、鍵盤などをつかいつつ打ちこんでいく技法(笑)である。先輩に耳コピーの達人がいらしていろいろと教わったものである(DTMマガジンに投稿が載るくらいの人だった)MIDIはなかなかデータが出来上がってこないので(作っている実感が沸きにくい)作業はつらいところがあるが、自分のかいたオリジナル曲に人が口ずさんでいるのを見ると「してやったり」という気になる(苦笑)

1995.11
そして脅威は突然やってくる。DOS/VとWINDOWSである。それまでにもWINDOWS3.1と呼ばれるものを98ユーザの家で見たりはしていたのだが、DOSに比べて遅いし、わざわざそういうインターフェースでやるメリットが無かった。まさにソリティアとマインスイーパーくらいしかやることがなかったのである・・・。

しかし時代の流れとは恐ろしいものであっという間にDOS/V一色に・・・。Macintoshもかなり健闘してたけどね。でも、Macに比べてやれることがそんなに変わらないなら安い方が良い。たくさん出てれば安くもなるし種類も豊富。合理化とはこういうことなのか?

貧乏学生に新品パソコンを買える余裕もあるはずもなく、しばらく68で我慢するもやはり色々厳しくなってくる。なんとなく、インターネットニュースの「fj.freemarket」とかでPC9801NS/Rを買ってみたりもした。さすがに、こいつにWindows95を入れるのはつらかった。一応動いたけどね、486SX16MHz、メモリ5.6Mとかだったかな。。。Pentium133MHzが神の速さに見えたころである。

1996.4

この頃、例年参加しだしたアマチュアCGAコンテストで、「プロジェクトワイバーン」という作品を見て大変なショックを受ける。アマチュアレベルでPSのいわゆるデモムービー以上のものが作れるとは思ってもいなかったからだ。 なにせ、このころEDPではまだ、SVHSデッキ2台で、コマ撮り編集をやってたころである(「プロジェクトえばぁ」参照)

どうやらワイバーンを作ったソフトはLightWave3Dというらしい。まだまだLWがマイナーなソフトだった頃である。そんなわけで、LWを使うためにAMIGAを導入するわけにはいかないので、仕方なくWindowsの導入になったわけだが・・・。

当時はPentium200くらいが最速だったと思う。しかし、まだまだ高く(AMDとかとの競争も今ほどなかったし)とても買えそうに無かったので、片落ちのパーツをいただいてそれで組むことにした。486SX-40MHzにPentiumODPで100MHzにし、VLバスにCirruslogicのビデオカード(2M)、ISAのSCSIカードにSCSIHDD540M、SIMM(EDOじゃないよ)を40M。CPUがへぼくてもメモリがそれなりに載っていたので意外と使い物になった。これで、この後、LWでの作品を数作制作する。

せっかくそれなりのPCATが手に入ったので学祭でLinuxでWebサーバを作ってみた。今みたいにapacheがなかったからNCSAで組んだっけか。ネットーワークに関する知識がなかったので、DNSで引くことができないようなサーバになってしまったが、IP直打ちでそれなりに楽しんだ。学祭インターネット中継はそれから毎年やれているようだ。ぜひ、これからもマルチメディア配信していけるといいな。

1997.5

後輩がマザーを新しくするというので(そういえば最近もしてたな(苦笑))、お下がりでP5-133のマザーとCPUを譲ってもらう。(長い間ツケにしておいてもらってすまんかった。)メモリもEDOで64Mになり、ビデオカードはS3Virge/VX8M。HDDはIBMのSCSI2Gだったかな。やっと人並みになったというところ。へんてこなCGA作品を乱造してたね。最近はそれすらしていないから怠慢だよなぁ。いかんいかん。新しいケースを某研究室からいただいてきたので、元のケースは「にせ牛」というあだ名の元、牛模様に勝手にカラーリングして研究室にもっていった。マシンのカラーリングは楽しいので是非やってみてほしい。シンナーを吸い過ぎないように・・・。

大学の生協と実はつながりが少しあって、生協で春に学生に購入してもらうノートパソコンの初心者向けの講習会を企画したりする。これもボランティアだったなぁ。徹夜でテキストつくったり(当時一太郎DASH)、それをBJ-10で印刷してコンビニでコピーして。。。次にきたのが生協のカウンターでのコンピュータに関する相談室。なんか今の仕事と似てるな(苦笑)プリンタのインクを探したり、注文とったり、お勧めのパソコン探したり、今でも後輩に引き継いでやってたりする。今思えばそれほどわがままな客もいなくて気楽な仕事だったかも。現場はあんなもんじゃないしね。

1997.12

技術の進歩のおかげか、ノートパソコンもどんどん小さくなって性能もよくなってきた。そんなわけで、このころ、IBMのPalmtop110や東芝のLibretto20をちょっと使ってみるがやはりキーの入力時のストレスがすごい。タッチタイピングできないわけではないのだが・・・。それでも、Webboyを入れたり、PHSのヘッドフォン端子を使ってみなし音声通信を接続キットを作ってやってみたりした。素直じゃないモバイラー(単に貧乏なだけ)

そういえばこの年に忘れることのできない作業があった。某生肉工場のプロモーションビデオ製作である。ノンリニアで画像をつなぐことができそうだったので思わず引き受けてしまったのだが、えらくひどい目に会わされた。おかげで貴重な経験もできたといえばできたけど、結局すっきりしない仕事だった(ビデオはそれでも完成したのだからすごい。ロケ、インタビューなどを含め20分弱。AVIファイルで8Gくらいになったんじゃなかったかなあ。640MMOでバックアップとりながらやったけど地獄だった。撮影用カメラは壊れるし、撮影の日は天気悪いし、クライアントはわがままで。一番まずかったのはそこだよな、お互いに素人だった、っていう)

そんなわけで大学生活も終わるときがきた。コンピュータとつくこと一通りに手を出してきたって感じだ(プログラミングは嫌いだったのでほとんどやっていないのだが) いろいろ果たしきれなかった野望(CGクリエータを後輩に残す、とか)はあったが自分なりにはがんばったつもりなのだがはてさて。。。

今日はここまで