Session1:部屋とコンピュータと私 #1

普段、何気なく触れているコンピュータ。私にとって一体いつからこうなったのだろう。

大学時代のサークルの先輩方にはヘビーユーザが多かったので、その中で下っ端だった人間の昔話など、読んだところでなんの足しにもならないかとも思うが、今の自分を形作っている時間を振り返るという意味で、第1回目のテーマはこれで行こうと思う。


1980.4
恐らく初めてコンピュータっぽいものに触れたのは小学校低学年の頃であろう。 LEDや液晶を使ったゲームウォッチのようなものがたくさん発売され自分もハマったものだ。駄菓子屋のゲーム機にドンキーコングが出たとか、そんな時代だった。

その頃、何かコンピュータの説明会(ショー?)のような物に親に連れられていったことがあった(物心もついていなかったかも)そこで見たのが私の最初のパソコンとの出会いだったと思う(パソコンというよりは、マイコンとかコンピュータとかそんな感じ)

4インチくらいのグリーンモニタ(緑色しか出ないのよ)に8インチFDDが2台、頭に巨大なプリンタ、確かそんな感じだった。親の会社でデータ管理だか処理だかに使うということでえらく高額だったようだが、結局あまり使われなかった不遇のマシン。 私は付属のゲーム(といってもテキストキャラクターで、ドットを取りつくすとか、オセロとかそんなんだった)をちょっとやっただけ。チョロQや田宮の工作キットの方が面白かった時期だった。

1984.1
電子ゲームにも一通り飽きてきた頃、本屋である本(マンガ)を見つけた。すがやみつる先生の「こんにちわマイコン」という本である。内容はNECのPC6001を使ったプログラムの説明などで、「君にも作れるインベーダーゲーム」みたいな感じだった、と思う(いつのまにかどこかにいってしまったが・・・。後にMSX対応版も出たはず)

それにのっているBASICのプログラムにすっかり魅了されてしまった単細胞の小学4年生 はどうにもパソコンが欲しくなってしまったのだが、なんと当時PC6001は定価89800円!!お年玉何年分やねん。そこで、町の小さな電気屋さんに通ったり、書店に置いてあるPC8001mkIIなんかにBASICのプログラムを入力して我慢していた(これが初めてのキーボード入力だよな。10 PRINT ”HELLO”とか入れるのに、どうやったら大文字が出るのかとか、ダブルクォーテーション(「”」ね)はどうやって出すのかわからず店頭で一人で悩んだ)

しかし、そんな年明けのある日、甲府の町を母親とぶらぶらしていたとき衝撃的な出会いがある。時期的にはPC6001mkIIが発売されていたのだが、そのために6001が在庫処分セールなのか、29800円というのである(それでも十分高いが)。 今思うと高い買い物だったのか安い買い物だったのかは分からないが(否高い)とにかく1度欲しいと決めたら何がなんでもという困った小学生だった私はなんとか交渉して購入。まだパソコンの書籍なんて全然なくて、確かナツメ社かどこかの「はるみのパソコンライブラリー」とかいう小さなプログラム集みたいな本を買ってきて毎日のようにプログラムを打ち込んでいた・・・。

ところで、買えたのは本体のみなので、これだけでは使えないのだが本体を買うので精一杯だったためすでに資金は無い。と言ってもモニタは普通のTVで代用できたので(低解像度だよねぇ)標準出力はなんとかなった(苦笑)だが、TVにつなごうとするのだが居間にあるTVは占有できないのでじっくり打ち込みもできない。仕方なくとった手段は自室にあった白黒TVにつなぐことである・・・。目にやさしいな(T_T)q。

そしてもう1つの問題は外部記憶装置である。今でこそMOだのCDRだのとあるが、そんなものはなくFDすらない。打ち込んだプログラムはメモリ上にのみ存在しているだけである。しかしそれでは打ち込んだプログラムは電源を切ったら消えてしまう。そこでデータレコーダ(テレコとも呼ばれた)である。600ボーと1200ボーが選択でき音楽用のカセットテープにデータを記録する装置である。

しかし、買えばこれも数万円する代物。そこで家にあったビクターのラジカセ、こいつでデータ保存することに。メディアが音楽テープでいけるのは良かったのだがなにせ保存ミスが多発する(テープエラーね)苦労して(何時間も打ち込んでセーブして次の日ロードできなかったなんてのはザラだったのでそれを思えばWINDOWSなんて・・・。(そういえば、16KROM/RAMカートリッジなんてのも14800円であったっけ。TINYゼビウスmkIIをやるのに必要だったんだよなぁ・・)

まあ、それでもPSG3音の音楽データをBASICのMMLで打ち込んだり(PLAY文ってやつね)、8色の色数で直線だけでドラえもん書いたりとかで適当に楽しんでた頃。半角ひらがな・カタカナ英数しか出なかったので1画面の横文字数は40文字、プログラムの保存に10分とかかかったりしてた時代は、そんなに長く続かなかった。

1986.9
その後、ファミコンだのラジコンだのブームが来てしばらくパソコン熱は冷めていた。 中学に入った頃のことである。久しぶりに電気屋に足を運んだ時にずいぶんとパソコンが進化している様を目の当たりにする。5インチFDが登場し、画面もファミコンよりも綺麗と来ている。NECのPC8801mkIISR、PC9801VM、富士通のFM77AV、SHARPのMZ-2500、なんかが並んでいたかな。 なににつけてもFDは速かった。プログラムの読み込み書き出しに1分以上かかることはないのだから(当時は2Dだったので容量は320kbyteだけど)でもって色数も65536色中の8色、音はPSG3音に加えFM音源(OPN)3音、そうそう漢字もこの時初めて入力できるようになってたっけ(88でいうとこのN88日本語BASICとかいうの)

しかしこのNECのPC8801シリーズ(通称ハチハチ・武田鉄也や斉藤由貴が宣伝してたりしたのよ)は高かった。モニタとセットで20万以上といういまどきのマシンと同じくらいするではないか。とても買えたものではない。そんなわけで本屋で何を思ったか今は無き雑誌、「PCマガジン(当時280円から380円になった頃)」を買ってえらく難しい内容も気にせず「ハイドライドIIやりたいなぁ」とか「今月もザナドゥが1位かあ」とか言いながら読んでいた。

それで半年ほどした頃、突如買ってもらえるという話になった(あまりいきさつを覚えていない)思えばこれは今までで一番親不孝な買い物だった気がする(汗)。それはさておき、88のモデルチェンジは激しく、基本的な機能は8801mkIISRから変わっていないのだが、その後FR(N-BASICがROMじゃなくなった?)、MR(2HDFD対応)、FH・MH(Z80のクロックが4MHz→8MHzになった)と発売され、我が家に来たのはFHである(そういえば音響カプラつきのTRなんてのもあったな) しかし、この後88は衰退の一途をたどるのだが・・・。

ちょうどその頃、BASICマガジン、通称ベーマガの購読を始める。最初に読んだPCマガジンに比べてえらくヤワい雑誌だったのでかなり読みやすかった。88用のプログラムも色々載っていてあの、古代祐三氏の耳コピー打ち込み音楽データが毎月掲載されたりしていた(YK-2ね)。あとは山下章のゲーム攻略記事とか楽しみにしていた。 88になってPC6001に比べ格段とデータの打ち込みやすさが改善されたので(キーボードも普通になったし)かなりのデータを打ち込んだ(どれくらいだろう。1Mくらいは打ち込んだかもしれない。

ソフトが買えないから本に載っているプログラムを打ち込む、なんて今どきの人しないよね。ゲームはもちろん、ペイントツールみたいのも打ち込んだし、ダンプリストを直接何十ページも打ち込むゲームもあった(これが一番きつかった。00 FF AD CD EB BF 0D とか、延々打ち込むの。目がおかしくなる。ちなみにゲームはSEGAのフリッキー)

しかし、流石の88でも、まだ思い通りのものを製作するにはいたらなかった。作曲とかもしようかと思うも、まず音色を作るためのパラメータの打ち込みがきついし、思い通りの音色なんてまずならない。音符の長さも最小の長さに単位をあわせないとテンポずれなんて起こすものだから、4分音符を使うのに、16分音符x4とかいちいち書いてやらなきゃダメ。(実際にはC16&C16&C16&C16&...とかで、何個書いたかわかんなくなったりする)

そんなこんなで、結局ファミコンをやる時間の方がおおくなっちゃった。それでもゲームミュージックのMMLが死ぬほど載ってる電波新聞社から出た「大全集」みたいの(今も持ってる)買って、かなり打ち込んだりもして。そういえばその頃はゲームミュージックの楽譜が貴重だった。

1990.4
高校に入った頃は、自分の歴史的にはアーケードゲーム全盛期で、学校帰りにゲーセンによるのが日課と化していた。どれくらいひどかったかというと、次の日の英単語の試験勉強を「パロディウスだ!」を2人用でプレイして、1Pが死ぬまでの待ち時間に勉強をしていたくらい、である(わかりにくー)。 試験中も回答後、あまった時間に攻略法を考えたりしてたなぁ。そんな中、MSXに入れ込んでいる友人わがっち氏(後にX68kについても色々世話になる)と2年の時に同じクラスになりDEEPな話題?で盛り上がる(MSXのSRAMカートリッジを自作したり、グラフサウルスというソフトでロゴ作ったり、マシン語入力用モニタを使ってFMPACを直叩きしたりとか)

そんな時、また別の友人EDO氏宅にX68000というパソコンがあることを知る。当時、パソコンサンデーという今でも珍しいパソコン番組(今だったらこういう番組受けそうなのになぜかあまり無い。ゲーム批評番組は結構あるのに)が日曜にやっていたのだが、SHARPが提供だったので当然SHARP製のパソコンしか出てこない。

そこにX68000は燦然と輝くマシンとして紹介されていた(それまではX1とかMZとかだった)。脅威のAV(AudioVisual)能力により、初代68に付属したのはアーケード版そっくりのグラディウスという強さ。ゲームが好きだったのも欲しかった理由の1つだが、縦型の黒い筐体は格好良い以外の何物でもなかった(今でもこれを越えるデザインのマシンを見たことが無い)

というわけで、スタパ斉藤の宣伝並みのものすごくウルトラ超絶激むちゃほしくなったのだが、68はモニタとセットで30万以上はするマシンで(どんどん高くなってるなー)とてもとても手の届くものでは無かった。しかたなく68ユーザの家でちびちびといじらせてもらう(後に一緒に68関係のサークルを某有明に出すまでになる)。

当時、ジェノサイドというゲームがあったのだが、ADPCMをドラムに使ったBGMがあまりにも活かしていてショックを受けた。他のスペックも、65536色同時発色、スプライト128個(ファミコンはちらつきなしなら4つが限度だったっけか)というスペックはあまりにショッキングだった。その後、グラディウスIIにて、68上での移植ゲームは最高峰を迎える。

今日はここまで