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「老いの道連れ」を読んで

渋い脇役なのに存在感はたっぷり、、時には主役を食うほどに、達者な芝居をみせてくれた女優、沢村貞子の「老いの道づれ」を読んだ。
最愛のご亭主の「お骨」を入れた壷を包んだ風呂敷と、同じ色あいだと言う表紙は、錆び赤というのだろうか、深い赤色で、目と心をひいた。文章は、沢村流の、すっきりとした分かりやすい自然体で、文字も大きく、難しい引用も無く、読みやすい。亡くなってからも、小股の切れ上がった粋な女性、沢村を彷彿とさせる本だった。

「この先、どういたわりあって生きても10年がせいぜいだと思う。どちらが先になるかは分からないけれど、先立った者が待っていて、来世も一緒に暮らしましょ、来世もこうしておしゃべりをして、おいしいものを食べて、楽しく暮らしましょ」二人の晩年の会話である。

そして、先に亡くなった夫の遺稿に「どちらが先に、火葬場へ一人だけで送り出されるのか、なんの予測も立たない。そしてこの葬送の日のたった一つのよりどころは、「来世」という想像もつかない虚空の一点で、今と同じ笑顔で待っていてくれる人が居るという事を信じるほかはないのだ。そして、自分が生きてこられたのは、唯一人、貞子という心優しく、聡明な女性にめぐり遭えたからである」と、書かれてあるのを発見し、涙が止まらなかったという。

これを読んで強く思ったのは、彼女は夫たる人が、大切で、好きで仕方なかったのだ、ということだった。そしてそれはご亭主にとっても、同じだったのだろう。

結び違えてしまった夫々の「糸」を二人は自らの意思で断ち切って、解き放ち、新しく、太い赤い糸を結びなおした。旧態のあの時代、どんなにか勇気が要ったことだろう。しがらみを乗り越えて得た幸せの重さを、しっかりと抱えて、大切に生きた人の潔さが伝わってくる。

今の時代、「現世の相手と来世も暮らしたいか」との質問に、かなり高い確率で「NO」と答えたのが女性だ。数パーセントしか「YES」がなかったという。

自分に置き換えて考えてみたとき、ただ「同じ人生」は嫌だなと思った。再び、幸運にも人間に生まれ変わることが出来たなら、やはり全く違う人生を歩んでみたい!同じ人と同じことを、繰り返せるほどの熱情が無い、ということなのかもしれないが、全く予知できなかったから今までやってこられたこの人生、分かってしまったことを、もう一度繰り返すなどはとても出来ない。

たとえ今より苦難が多く、辛苦が山ほどあったとしても、全く予測できない道を見つけて、最後に行き倒れたとしても、先の知れない道を歩いてみたい。

しかし彼女はちがった。間違いなくその人は来世でも結ぶ「赤い糸」の相手だったのだろう。「来世の虚空の一点」で、待っていた相手とめぐりあい、おしゃべりに花を咲かせ、甲斐甲斐しく夫の食事をしつらえ、嬉しそうに笑う沢村の声が聞こえてくるような、一途な本だった。本当は、これが「幸せ」というものの正体なのかもしれない。そう思う自分もいた。2003.3.14.


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