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カリフォルニア日記


はじめに
1996年、夏の数ヶ月をカリフォルニアで暮らすことになりました。60才を目前にして、老後をどういう風に生きたらいいのかがはっきりと決まらないままでいました。仕事を引退した時には、今度こそ自分の思うような場所で、好きなように暮らしたいという思いがありました。その候補地としてカリフォルニアが頭の隅にあったのは事実です。

しかし、年老いてから、はたして外国生活など出来るものだろうか、毎日の食事や住まいは、身に合うのだろうか、そんな事ばかり考えながらいたずらに日をおくるばかりでした。たどり着いた結論は、一度暮らしてみようということでした。

とり澄ました東部と違い、アメリカ西部は、明るくて自由で、空気が乾いているように感じられました。カリフォルニアとは、いったいどんなところなのかを知りたいという気持ちが強くなっていきました。そんなこんなで一応の大義名分を勝手に作り、連れ合いから休暇の許可を強引にもらって、思い切って出かけたのです。生来、出たとこ勝負の先走り、早とちりのせいなのでしょうか、行ったはいいけど予想もつかないことばかり起きて、とんでもないカリフォルニア日記となりました。

目次

英語のテストは散々 
追突された!!
 
レンタカー屋のおっちゃん 
お人好しおババ

中国女性はスゴイ 
アダルトスクールへ行く 
ダブルブッキング 
レノの航空ショウ
帰り支度
をしなければ、、

もうサヨナラです


アパートの玄関前
★月★日
探してもらったアパートメントは、サンフランシスコ郊外デイリイシテイという街にありました。ここは、パシフィックオーシャンから発生する霧にいつも覆われていて気温が低く、夏の夜はほとんど視界がきかないような所でした。たどり着いた部屋のベランダには息子が置いてくれたピンクのペチュニアの大きな鉢あり、花がちょうど満開でした。霧で煙ったような空気がそこだけ明るく華やいでいました。長時間の飛行機で疲れた目に、それはそれは美しく、キラキラとピンクのガラス玉が盛り上がっているように見えました。

どうしてこんな霧の町にアパートを探してくれたのかと息子に聞いたところ、暑さが大嫌いな母親が住むには、この町だけが夏の気温が低いからだという答えが返ってきました。私は、ジメジメした所も嫌いだったのですが、蒸し暑いよりはましですから、文句は言えません。

北側の小高い丘にはアジア系の人達の墓地公園が広がり、市の端には高速道路ルート280が走っていて、サンフランシスコ空港へは20分くらいでいく事ができます。また1時間程南へ車をとばすと日本人の多いサンノゼの街にも行けます。そして、サンフランシスコのダウンタウンへはグレイトハイウエイで30分くらいということですから、かなり便利で、静かな安全そうな感じの街でした。

アパートは割安料金にしては広く、12畳程のリビングに2畳のキッチン、10畳のベッドルームにバスとトイレ、家具、冷蔵庫、皿洗い機付きという十分なものでした。洗濯室は24時間利用可ですし、地下駐車場はセンサーで開閉する扉付きでパーキング代タダという、結構このうえないものでした。

ただ、、息子が貸してくれたマニアルの中古車の乗り心地がイマイチである点を除けば、もったいないほどの環境でスタートしました。



英語のテストは散々

★月★日
到着翌日、時差ボケのふらふら頭で35年ぶりの英語のテストを受けました。これも探しておいてもらったカレッジオブカリフォルニアという学校です。どうせ滞在するなら少しは勉強もしないともったいないと思ったのです。

学校はアパートから車で15分くらいの所のミルブレイという街にあり、住宅地の中に建っています。もうすでに夏季講習は始まっていましたから、追いつくのが大変そうです。教会に付属したこの学校は、アメリカの大学へ入りたい留学生に2年で入学資格を与えるという予備校のような学校でした。6学級に分けられていて、順調にいけば18ヶ月で卒業させて、大学への推薦状をくれるということです。(休みを入れると24ヶ月になります。正式名はNew College of California.)

案の定、受講テストは散々です。文法も単語も忘れ放題でした、何の準備もしてこなかった頭には、かすかに残っている中学生の頃の英語しかないのですから、答えようがないのも当たり前です。しまいには頭痛までしてきました。どっちみち3ヶ月しか在学しないのだから、、などと早くもエクスキューズを考えるところがトシをくっている証拠でしょうか。学校側の「何年英語をやりましたか?」の質問に、3・3・4の10年も勉強したなどとはとても言えません、「2年くらい、、デス」見栄っ張りは嘘を言いました。

結果、下から2番めのクラスに編入され、早速授業に参加することになりました。当然のこと乍らすべて英語です。今日はトイレの有り場所とお弁当を手に入れる方法だけを「勉強」して帰宅です。

車の運転席が日本と反対なので、咄嗟の時の反応がこわくて仕方ありませんから、「”左”はアカンよ、”右”を走るねんよ!」と自分に言い聞かせながら、ルート280を北上します。高速道路の向こうに霧がかかっている街が見えてきます、あぁ〜あそこが我が家やと、一目散に車を飛ばして帰ってきました。もう疲れ果ててへとへとです。食欲なんてわきようもありません。あ〜ぁしんど!、、なんでこんなことを始めてしまったんだろうと思っても、もうどうにもなりません。床にひっくり返って、天井を眺めているばかりでした。 

★月★日
疲れているのに朝早くに目が覚めてしまいます。早めに部屋をでてガレージに降ります。エレベーターには先客の小母様がいて、ジロリと一瞥されてしまいます。トホホ、、気まずいので「良いお天気ですね、、」などといらぬことを言ってしまいました。

学校は1日4時間の時間割ですが、1時限が1.5時間なので、正味6時間です。しかも凄いスピードの授業の連続ですから、何がなにやらさっぱり聞き取れません。私にはまことに酷で、ビンビンと頭にこたえます。それに宿題が山の様に毎日、しかも夫々の先生別に出るのですから、寝る間もない有様となりました。夕食後7時から12時迄、字引きと格闘です。脳みそが沸騰しそうになってきました。

突然、老眼鏡のレンズが酷使に耐え兼ねてか、ポトンと落ちてしまいました。ネジを探してねじこんでみましたが、まったく駄目です、明日スーパーで探さなければなりません。なんでレンズが落ちるねん!もうお先真っ暗!字もかすみます。

★月★日
クラスを見回す余裕がやっとでてきました。生徒は日本人5人、エクアドル1人、中国本土5人、台湾3人サウジアラビア1人、韓国1人、同じアジア人でも全く言葉も習慣も違う人々です。昼休みにトイレに入っていると、隣のトイレから「次の教室は何番だっけ?」と、大声がかかります、中国本土からの生徒さんですが、これにはほとほと閉口しました。日本人はトイレ同士で話はしまへん、、

お昼時になれば、持参の弁当をレンジで温め、ゆっくりと食事を楽しむのが香港からの学生さん、さすが食の国から来た人達です。午後のスタミナの差はこれで歴然ですね。
先生達もお弁当を売りに来る中国人のキッチンカーからホットドッグ等を買って、生徒と一緒に食べながらタバコをくゆらし談笑しています。驚いたことに、毎日昼時になると中国人のバンが学校の駐車場にやってきて店開きをするのです。

弁当からコーラまで、それはそれはたくさんの種類の食べ物を荷台に所狭しと積んでいます。学生達はその窓にたかって好きな物を物色し、春巻きなどを買ってほおばります。春巻きはスプリンゴロールと言うのだとジャンさんが教えてくれました。そのまんまじゃないですか、、ネ。

ここは全くの自由、風まで自由。毎日毎日が晴れていて同じ気候、気温20度。日本はもう暑くなっただろうな、、と、少し弱気になってきました。

★月★日
教室にはユニークな人がいっぱいいました。サウジアラビアからの学生、といっても、35、6才でしょうか、フセイン君は、とても面白い男性した。イスラムの男性らしく、定番の髭をたくわえて、コロンの香りをさせながら毎朝2番めに登校です。もちろん1番めはこの私デス。朝の挨拶の後に、必ず相手の着ているものを誉めてくれるのです。昨日とブラウスを変えただけなのに、「今朝はベリイグッドだ」と持ち上げてくれます。日本の男性にはとても太刀打ちできない芸当でした。

クラスメート

彼は、少しの単語を縦横に駆使して話す力がクラス1番です。ただ、文法には滅法弱そうですが、そんなことはお構いなしにしゃべりまくるのです、でもそれで通じるのですから、スゴイのです。文法なんて心配していたら、とてもしゃべれません。「文法なんか、あまり役に立たへんやん」と、うっかり言ったら、名古屋から来たMちゃんに聞こえてしまいました。彼女は文法絶対主義ですから「文法は必要なのよ!」と叱られたうえ、ひどくにらまれてしまいました。若いのに頑固やワ、、しかもず〜とご機嫌斜めであらせられましたから、隣の席の私はひたすら知らぬ顔を決め込むしかありません。わたしゃ、な〜んもしてまへん〜!


途中入学で横浜からのTちゃんが入って来ました。日本人が多くなってきて、中国本土からのジャンさんは、人数が多いので2クラスに分けるようにと教務室へ頼みに行ったということでした。すると早速、校長の秘書先生が授業を見学にきました。そして「あと2人くらい増えたら、クラスを分ける」といって出て行きます。結論をすぐに出してくるところが日本とは違います。上に相談して、などとはいいませんから、大したものです。本当は教室が足りないのだそうですが、、

Tちゃんはアメリカ人のボーイフレンドと生活するために単身ここへ来たのだそうです。アメリカ人の彼とのコミュニケーションを深めるために学校へ入学したという娘さんですが、お父さんには内緒で来たということでした。

自分の娘だったらどうするだろうな、などとボーッと考えていたら、ウイル先生にあてられてしまいました。答える個所がとっさには分かりません。「ちゃんと聞いていないとダメだぞ!」と叱られてしまいました、、畜生!ウイルの奴!
「スミマセン、、」と一応謝っておきましたが、早口でまくし立てられた叱責の言葉は、ほとんど聞き取れていませんでしたから、受けたダメージは小さかったです。



追突された!!

★月★日
今日はとんでもない日になりました、こちらに来てから2週間目に入っていました。車の調子がもうひとつだと感じていました。左後輪の空気が抜けるように思えてならないのです。スタンドへ行って空気を入れようとしましたが、スタンドには整備する人なんていませんから、全部自分でやらなければなりません。25セントを入れて空気を入れるチューブを引っ張っている内に25セント分は終わってしまい、またコインを入れなければなりません。非力なおババにはこのチューブを引っ張るのに時間がかかり、モタモタしている内に25セントは切れてしまうということの繰り返しです。もう、イヤヤわぁ〜、、 

やっとの事で空気を入れ終わるともうヘトヘトになり、手も真っ黒です。洗いに行くには車の鍵をかけてハンドルにロックを装着しなければなりません。すぐに盗まれるからと、息子にきつく言われていました。そんなわけで、手を洗い、運転席におさまるまでやけに時間がかかってしまいました。それにガソリンの給油も自分でしなければなりません。ポンプは何日も前から一つが壊れたままですから、うまく作動するポンプを探さなければなりません。こういうところがアメリカのいい加減なところだと、ぶつぶつ独り言を言ってみても、どうなるものでもありません。

重い給油口を持ってガソリンを補給し終わると、やたらにお腹がへってきます。日本ならアルバイトの若いお兄さんが全部やってくれるのに、なんちゅう国や!日本みたいに灰皿を洗ったり、窓を拭いたりしてくれなくてもいいから、ガソリンくらい入れる人を雇えばいいのに、それより機械を直してほしいわと、文句ばかり言っていたからでしょうか。思ってもみなかった大事件が起こってしまったのです。

私が乗っている車は息子から借りた三菱プリモレーザーというハンドルの重い若者向けの車で、おまけにマニアル車、もう何年もオートマチックしか乗っていないので、クラッチ合わせが心配です。それにパワーステアリングにしてはハンドルがやけに重いのもまたやっかいでした。

嫌だ、嫌だ、と思いながら運転をしていたから、車が臍を曲げたのかもしれません。

朝のことです。あと一筋曲がったら学校、という所にさしかかったので右折信号を出し、慎重に曲がる準備にはいりました。その時です。

ガッツーン!!ドーン!!

とっさにブレーキを踏みましたがブレーキはききません!

そのまま5メートル程もズルズルと押し出されました。止めなければ!サイドブレーキを思いっきり引いて、やっと止まりました。

追突されたんだ!! クソ〜ッ!

絶対謝らないぞ!スミマセンなんて決して言わんとこ!

何かの本で読んだ一説が頭に浮かびました。

「「スミマセン」と日本人はすぐ言うから立場が悪くなってしまうのだ。本当に悪くなければ、謝る事は無いのだ」と。

膨れっ面をして座席に座っていました。40才くらいの女の人が車から降りて、こちらに向かってきます。

「ごめんなさい、怪我はなかった?」と済まなそうな困惑した顔で走って来ました。住宅街でシーンとして広い道なのに、なんでぶつかってくるねん!さっきの曲がり角でやたら近づいてくると思っていたらやっぱしや!どないしよう、、

気がついてよく見ると、相手の車は日本車です。ホンダ シビックの旧型で、フロント部分が見事にぐちゃぐちゃになっているではありませんか。こちらはとみれば、後部が大きくへこんで、しかもバンパー部分に相手のナンバーがくっきりと写っています。真っ直ぐに、強くぶつかっているのが一目でわかりました。



こう見えてもこっちは運転歴35年以上、自動二輪のおまけまで付いていた時代から乗っているんですヨ、上級運転者表彰状もあるんですヨ、警察は断然こっちの言い分を認めます、、と思ってから、ヒエー!ここは日本じゃなかったと気がつきました。彼女が自分の免許証を出して何かわめいています。

エッ?こっちの免許証だって?勿論持ってますよ!薄っぺらな国際免許を取り出しました。エッ保険?勿論!3日程前に手続きをしたばかりです!何たる幸運!でもそっちが悪いのになんでこっちの保険がいるねん、と思い付く(いつも後から気が付くから始末が悪い)警察を呼ばないと、と言いかけると、

「オフィサーはいらない!いらない!保険屋に電話するからあとは保険屋とロイヤーに聞いてほしい」と言って自分の保険証書を差し出しのです。

それを手帳に控えようとするのですが、やはり気が動転しているとみえて字がさっぱり見えません、読めない!落ち着け!と自分にいいきかせました。

な〜んだ、老眼鏡がないから見えないだけだと、そこでやっと気がつきました。私もアホやな、と少し落ち着いてきました。でもロイヤーだって、さすが訴訟大国のアメリカ、へーえ、ロイヤーね、、感心している場合じゃないですよ。

エッ?仕事は何だって?すぐそこの学校、、と言いかけると、

「先生なの?」と心配顔、「No、学生」途端になあんだ、という顔をしはる。年格好に不足はないのですから、「先生よ」と、はったりかました方がよかったかナ、なんて考えるところがオオサカオババですね。

とにかく時間がないし、夕方の5時に電話してと言って車に戻りました。トランクの蓋が開きません、下を覗いて見ると、ガソリンタンクにシワが入って今にも壊れそうです。でもエンジンをかけたらかかりました。乗ってみると、何と、座席が前に押し出されていて後ろに戻りません。

ステアリングと自分の間隔がペッタンコに等しい妙な格好で学校の駐車場にたどりつきました。もう遅刻寸前、そこへ「オッオー!どうしたのその車」と声がかかります。台湾からのブランダン君でした。彼は本当に紳士です、優しくて聡明でとても真面目な30才の若者です。顛末を手短かに話しました。お互い上手くない英語ですから、手短かしかないやんかねぇ、手長?になんてしゃべられへんのです。

「先生に相談しなよ」と心配顔で薦めてくれましたが、兎に角授業が終わってからのことです。授業中に首と肩がやけに突っ張ってきました。気持ちも体もクタクタで勉強になんか身が入りません。

昼休みに保険会社に電話をいれましたら、「今日は担当者がいないから明日にして」とにべもない返事です。息子に電話しないと、と思いましたが、25セントが足りなません、またまたブランダン君が集めてくれます。有り難くて泣きそうになりました。でも息子の住んでいるサクラメントは遠距離通話ですから、すぐに25セントは足りなくなってしまいます。ブランダン君は見かねて、自分の下宿の電話を使えといって連れていってくれました。断然台湾が大好きになりました。台湾は立派な国です。決して中国の一部じゃないデス!

そして夕方、壊れそうなガソリンタンクをぶら下げて、とぼとぼと車を低速で走らせてアパートに帰ろうとしました。しばらく行くと、横にパトロールカーがピタリと併走しています。何も悪い事はしていないし、スピードも出していませんから、不思議に思っていると、若い女性の警官が横に寄れ、という仕草を繰り返しています。仕方なく車を止めました。太ったがっしりとした女性警官は思いの外優しい声で「どこか具合でも悪いのか」と聞いています。「いいえ、別に、、」

カリフォルニアでは70マイル以下で高速を走ってはいけないのだそうです。へ〜ぇ、、変な国!事故車ですからスピードは出せないのですよ。「気をつけてね!」ポリさんは去っていきました。ドアのない車、窓が壊れたままの車、ヘンテコな車があちらこちらに走っている車検のない国ですから、事故で壊れていても、そのことには何も言われたりはしません。とにかくアパートに帰り着きました。そして夕方5時が過ぎました。電話はいっこうに鳴りません。

「ピーンポーン」誰か来たようです。急いでドアを開けました。 息子が立っています。不覚にも涙がドッと出そうになりましたが、こらえてヘドモドしていますと、

「すっごく壊れてるじゃないか、怪我しなかった?」と

聞いてくれます。「どうしてこんなことになったんだ!」などと言われても仕方ないと思っていましたから、優しい言葉が身にしみました。だいたいこの子は小さい時から優しさだけが取り柄だったんだ、などと思ったりして、なんとも情けない母親でありました。

息子は駐車場へ先にいって見てきたらしく、

「よくあれで運転してきたね!サービスを呼べばよかったのに!途中でタンクが壊れてガソリンが漏れてもおかしくない状態だよ」と言います。驚きました。

もし壊れていたらバーベキュウーになっていたらしいです。骨すじおババのスペアリブなんて、いただけない話でありますよ。

「だってサービスのお兄さんは大抵がプエルトリコ系の人が多く、すごいスペインなまりでね、、ただでさえ聞き取り出来ないのに、しゃべるだけでも肩が凝るんやもん、、」

今でも肩が痛い、、首も痛い、、日本語だとまあ良くしゃべること、まるで母親にいいつけるように息子に事の次第を報告している自分自身に気がついて、みっともないと気がついたのは、もう大半をしゃべくり散らした後でした。

「相手に電話してみる」と言う息子に、後はまかせたからね、もう知らない、、と思ったら途端にお腹がへってきました。それまで殆ど食事をしていなかった事に初めて気がついたのです。

息子が電話しています「ハロウ、、マイマミイが、、」あとはよろしゅう頼んます(笑)。

本人が出ずに、ご主人が出てきて、保険屋と弁護士の住所をいっただけで全く謝らない、と息子はブツブツ文句を並べます。だいたいアメリカ人は運転が下手だから、こっちが気をつけなければ駄目だと彼は言いますが、どうやって気をつけたらいいねん?後ろばかり見ていたら、前も危ないやんかネ。

★月★日
保険屋指定の修理工場まで車を運ぶ事になりました。バーベキュウになるのはごめんだし、それがわかった後では乗りたくないけれど、ギリギリのガソリンでソロソロと出かける事にしました。

もう1台の息子の車といえば、ほぼ10年くらい前のトヨタカローラ、日本だったらとても車検が通るはずもないオンボロです。ドアも満足に閉まらない代物ですから、ドアを閉めた後、窓から手を出して外からロックを掛けないと途中で開くのだそうです、オソロシヤ、、日本の畑に捨ててある物の方がずっと上等だと思いましたが、そんなことは言えません。良い状態の方を貸してくれたのですから、そんなことは言えないのです。

ヨタヨタと彼の車の後ろについてサンフランシスコのダウンタウンまで「冷や汗三斗」の思いで運転して行きました。変な人、、という好奇の目にさらされながら、なんとか焼き鳥にもならずに修理工場に着きました。

全部直すのに約1ヶ月半かかるそうです。そして70万円くらいの修理代だから、この車を買った値段と同じだと息子は言います。相手の保険から全部出るらしいのですが、明日からの通学の足がなければ困りますから、レンタカーを借りることになりました。



レンタカー屋のおっちゃん

又レンタカー会社へいかないといけないんでしょ!もう疲れた!などと文句を言ってみてもはじまりません、ボロ車に乗ってこんどはレンタカーの店へ向かいます。

レンタカーの会社は保険屋指定の二流どころですが、仕方ありません。ややこしい書類にサインし終わると、白とグリーンのトヨタターセルから選べるといいます。来た車をみてなんと小さい車、と思ってしまいました。アメリカは周りの総てが大きく出来ていますから、小さい物はより小さくみえてしまうのでしょうか。

エッ?こんなチッコイ車?と思っていると、おっさんが「トヨタはグッドだ」と言います。グッドはわかりますよ、なんてったって日本を代表するトヨタやもんね、でも周りが大きいせいか、やけにちっこく見えるなぁ、、見栄っ張りのおババとしては、せめてもう1ランク上げたいけど、、

でも1日40ドルを20ドルの計算で貸してくれるということですし、保険の限度いっぱいなんだそうですから、これで手を打ちました。

「色?」勿論「白」がいいもんね。 目の前に車が来ました。ボディには小疵がいっぱい、あれもこれもとキズを申請します。だって後で又ロイヤーなんかが現れて、つけてもいないキズまで文句を言われたら困りますもんね。

一応の点検と手続きが終わり、さてっと乗り込みました。シートベルトをしめます。
ン?アレッ??何で金具が止まらないのだろう、もう一度、エッ??すぐ抜けるなんて、、面白いベルトやわぁ、、

おっちゃん!ベルトがブロークンでっせ〜!!

メカニックのおっちゃんが手に何か持って走ってきます。なんだか見た事のあるスプレイ缶だなぁ、、

「OK OK! これで No problem 」

シュッとベルトの金具にぶっかけました。アレッ?あの缶、、滑りを良くするためのスプレイ缶に似てるけど、違うんかなぁ、、。

「もう一度はめてみな」

と言うからカチャッと締めてみました。スルッ!と抜けて前より滑らか?!に抜けるではありませんか。

「、、ったくもう!なにやってんねん!よけい抜け易くなってしもたやんか!

アホかいなと腹が立ってきました。どうしてアメリカ人はこんなにいい加減なんだろうとついついぼやいてしまいます。そういえば毎朝の通学に使うルート280でも、故障して右端に止まって、救援を待っている車とか、煙を噴いている車とかが必ず一台は有ありますもんね、仕方ないか、、

車検が無く、全て自己責任で走っている国だから他人に迷惑を掛けなければどんな物でもいいのでしょうが、これで大事故にならないのがまた不思議やねぇ。

営業のお兄さんがいやーな顔をして肩をすくめます。白の方は駄目だからグリーンにしろって、もう、、イヤヤなぁ、、緑色の車は嫌いやねん!、余計ちっこくみえるやんか、、

でもベルトは本格的に修理しないと使えないからダメだって言うし、仕方ないか、、もうっ、、いちからチェックのやり直しになりました。もし私ががベルトをしないまますぐに車を動かしていたらどうなっていたんやろ、そう思うと、じわーと腹が立ってきましたが、文句の言いようもありません。

気がつくとメカニックのおっちゃんはもうどこかへいってしまい雲隠れしてしまいました。グリーンのターセルが来ました。シートにコーラの汚れが大きく付いていますし、いまいち好きにはなれません。どうしてこんなに汚すのでしょうね、これもきっちりチェックしてやっと出発進行となりました。

しかし、走り出してみると、さすが我がトヨタ(急に愛国者になります)軽いステアリング、それに助手席にもエアーバッグが付いていますし、足回りも予想以上に軽いです。OK OK これなら前の車より乗り心地も良いし、だいいちオートマチックなのがなによりやん、とすっかり気を良くしてアパートに帰りついきました。

★月★日
「おはよう!」と元気いっぱい教室に入ります。しばらくすると、かのフセイン君の登場です。もう抱きかかえんばかりに「怪我は無かったか、大丈夫か」と心配してくれるのです。次々クラスメイトが入ってきてみんな色々お悔やみ!?を言ってくれます。事件の広がる事の速さはどこでも一緒だと感心してしまいました。

中国本土からの人達の反応は違ちょっと違っていました。病院へ行って診断書をもらって相手に弁償金を請求しろと口をそろえて言うのです。たいした事は無いから良いと言っても兎に角病院へ行け、といってききません。権利の主張という点ではアジアNO1 の国からの人達だけのことはあると妙に感心させられてしまいました。ホンマは病院へ行っていろいろと述べ立てる程の英語力は持ち合わせていないのですよ。首の痛いのももうおさまってきたし、もういいや、ほっとこ、、

★月★日
アパートのメイルボックスに見慣れない封書が入っています。ほーら来た、保険会社のロイヤーからだ。難しい法律用語がならんでいます。えーっと「期日までに怪我の申請が無い場合は、後で申し立てても無効です」だって、、サインをして送り返せと書いてあります。あっちも痛いこっちも痛いと書いたらどうなるのかな、でももういいや、メンドクサイ、サインしとこう。

トヨタターセルになってから運転は格段に簡単でラクチンになりました。少し遠出をしてみよう。ロイヤーからは同じような内容の手紙が数通来たが、もう首の痛みは何ともないし、なにより面倒な事は避けたいのが本音ですから、車を元に戻してもらってレンタカーの費用さえ払ってもらえばいい、と言う事で一件落着いたしました。

★月★日
今日はテストも終わったし、サンノゼのかの有名な”ヤオハン”へ行ってみようと思いつきました。日本の物は大概が揃っているというのですが、電気釜の古い物をお高い値段で売っているのにはあきれました。粗大ゴミの日にしかお目にかからないような年代物を並べていることにびっくりです。日本の最近の電気釜は、もはや「ファジイ」ですぞ!微妙な火加減をコントロールするIH機能まで付いているのですぞ!もっと新しい品揃えをしなさい!

小さい真っ赤に着色したタラコが500円だなんて、高すぎ!たくあんが半分干からびたようなものが300円、もうたまげました。ここの日本人達はこんな質の悪い物を買っているのだろうかと思うと、気の毒になりました。(この後ヤオハンは倒産しました、やっぱしね)

サンノゼにはエジプト美術館があります。スカラベの珍しい物がいっぱいあって、その割りには見物人も少なく、ゆったりとした雰囲気と綺麗な庭がなかなかのものだと聞きました。日本ならさしずめいっぱいの見物人であふれそうなものですが、ひっそりとして空いています。

意外にもエジプト古代文明の粋がたくさん集められていて、ゆっくりと見物出来ます。古代エジプトの人々の仕事の確かさは、小さな飾り金具などにも遺憾なく発揮されていて、驚嘆に値する細かい技術を見ることが出来ます。この"EGYPYIAN MUSEUM ”は、Rosicrucian Park、San Jose にあるのでお好きな方にはお薦めです。

それからもう一つ、同じサンノゼに、かの有名なウインチェスター銃を一手に製造していた会社の社長夫人が住んでいたと言われている家があります。夫人は晩年になってから精神的に不安定になり、少し変わった生活をしたそうなのですが、その夫人が建てた館です。ただの館ではありません。建て続けなければ不幸が起きると占い師に言われ、それを信じて次々に増築を繰り返した結果、迷路のような家になってしまっています。

「ウインチェスター銃のたたり」だと言われているのだそうですが、なんだか憐れですね。これが「ミステリーハウス」として公開されているのですが、立て板の水という言葉がぴったりするような早口の英語で説明がまくしたてられましたので、もとより私には理解できるはずもありません。

家の中は何ともいえず不気味な雰囲気で、隠し階段や隠し部屋等、まるで忍者屋敷の様な棟が延々とつながって建てられています。もう息が詰まりそうな感じになって外へ出てしまいました。あまり幸せとは言えなかった夫人の怨念がこもっているようで心が疲れました。

変わった事の好きな人には面白かろうと思いますが、どうなんでしょうか。うんと昔に「ウインチェスター銃73」という映画がありましたが、アメリカではこの銃は伝説的な銃であるようです。



お人好しおババ

★月★日
それでもヤオハンで食材を色々買い込み、久しぶりに料理をする気になりました。一人の生活は自分の為だけに食事を作ることの空しさを実感させられます。やはり料理は食べてくれる人があって、はじめてやる気にもなるし美味しくもなりますね。

クラスの日本人はみんなご飯に飢えているようにみえました。彼らを招待する事にしよう!今回の車の事件で親身に心配してくれたブランダン君と親切に心配してくれた中国からのドーンさんを忘れる訳にはいきません。お礼に何か美味しい物を作ろうと思うのですが、台湾と中国の人達だけではかなりしんどい、どうしてかと言いますと、英語で話しながら料理を作り接待するなどという器用なことは、この私にはできそうもないからです。しゃべるのにけっこう集中しなければなりませんし、ネイティヴのアメリカ人だと解ってくれることもあるのですが、下手な英語は、台湾、中国の人達には聞き取ってもらえませんから、説明に大汗をかくのは明らかなのです。クラスメートで静岡から勉強に来ている日本人のSさんに同席してもらう事にしてパーティ?!をする準備に没頭しました。

ブランダン君はスチームライスは嫌い、と聞いていたのに、カリフォルニアローズという銘柄のお米で炊いたご飯にカレーをかけて、美味しい美味しいと、お代わりまでして食べてくれました。ドーンさんは本土では使用人を沢山使っている貿易会社の社長夫人ですから、お料理は得意ではないらしく、私の作ったものを美味しいと言ってこれまた全部食べてくれました。嬉しくなってお人好しの癖が出て、又のご招待を約束してしまったのです。すぐ煽てに乗るのが悪い癖ですわ。

同席してくれたSさんは典型的な日本人らしい若者です。言葉の端々にお育ちの良さが感じられます。敬語がしっかり使えます。6月にアメリカに渡ってきたばかりなので、まだあまり英語が得意ではありません。授業で、「もっと大きな声を出せ」と何時もMr ウイルに怒られているます。とてもシャイな青年なのですが、女の子を次々お友達にする才能は、ちゃんとどこかに持っているという面白い人で、迫られているMちゃんから逃げるのに今は必死、という状態だということでした。

彼は醤油を使った海老料理がお気に入りだったらしく、折角のお話役など知らぬ顔で、せっせと食べるのに専念するものですから、結局、しゃべりとコックの二役でオタオタしてしまい、疲れはててしまったのでした。

霧の中をみんなが帰っていきました。ここは霧の街ディリィシテイですから、すべてが白い霧にかすんでボウ〜っとしています。辺りが真っ白で何もはっきりと見えるものがない中で、オレンジ色の街灯だけががぼんやりと連なって霧ににじんでいます。

ついつい家のことを思い出しました。

大阪の家ではそろそろ作ってきた冷凍食が底をついてきたやろなぁ、、どないしてはるんやろか、、

★月★日
ルルルルと電話がなります。又新聞の勧誘かな、、驚く事に、日本と同じく新聞の勧誘は多いのです。おそるおそる「ハロウ」、、

「ハロウじゃないわい!僕や!モシモシ、、ニッポンの旦那です!」

ウヒョー!!

「済みません!モシモシ、、」

解らない書類があるとかいうことで、すこぶる機嫌が悪いです「一度帰ってもらわんと、困るわ!」エライッコチャ、、
なんとか話をして、ようやく納得してもらいました。
あ〜ぁしんど、、

ついでに聞いた話によれば、日本ではOー157とかの細菌による食中毒が蔓延していて、えらい騒ぎになっているのだそうです。医師会も情報が無くて困ったのですが、唯一インターネットで情報が入るということがわかり、K医師会ではパソコンクラブを発足させることになったということでした。そのクラブに、こともあろうに連れ合いも参加すると言うのですから驚きました。医師会最高齢の爺ですから、アカンと思いますヨ。

機械にはかなり強いのですが、電子関係には滅法弱い人がなにを言出すんやろ、と反対しましたが、決心は固いようです、なにせ一旦言出したら後には引かない人ですから、パソコンを買う事にしたと、もう決めているのです。テレビの録画予約すら上手くいったためしがないのに、どないするねん、私もワープロをちょっぴりかじっただけですからお手伝いはできませんよ!絶対出来ないよ!と念をおしました。

「もう、もったいない!そのお金で、旅行にでも行った方がましやのに、、どうせ粗大ゴミになるのに」と、翌日息子に電話して、二人で「アホやね〜」と言いあいました。日本にいたら反対出来たのに困った事になりました。

★月★日
お食事会の事はすぐ他の人の知る所となり、それからはテストの前以外は、かなり予約?が入るようになったのです。今夜は横浜から来たのTちゃんとアメリカ人のマイケル君、それとMちゃん。名古屋人がいるので「海老フリャ〜」にしようかな。

近くのラッキィストアーに行って材料を調達します。食料費は日本の二分の一くらいですみます。何と言っても基本的な物が安いです。この点ではカリフォルニアは暮らし易いですから、輸入品さえ使わなければ、結構楽に生活出来るようになっています、さすが人民の為の国だと感心しました。日本は政府や官僚サマのために政治が行われているような気がしてなりません。

ラッキィストアに売っているナパやソノマのワインも美味しくて、しかも安いのです。大阪の家の近くにも同じ名前のスーパーがあったので、妙に安心して足繁くこのスーパーへ通いました。ただ生鮮食料品はまるっきりダメでした。毎日おなじ魚の切り身だドテンと台の上にのびていますし、海老は塩っ辛い液に浸かったままです。お肉はブロックで大きな固まりしか売っていません、薄切りやシャブシャブ用やサイコロ切りなどはありませんから、まことに不便なのです。

日本の食文化の見事さは、こんなスーパーの売り場にさえ感じられました。缶詰を開け、レトルト食品を多用する国民性の違いでしょう。きめ細かいなどという言葉が何一つ適用されていない大雑把な売り場でした。トウモロコシの季節になったと見えて、スーパーの床一面にひんむいた皮が散らばっていて足の踏み場もありません。何ということかと驚きましたが、家に帰ってトウモロコシを剥くと、皮を捨てるのが面倒だから、みんなここで剥いて、ゴミとなる皮をその場に捨てていくのです。あきれてしまいました。翌日にはそれでも店が大きな籠を用意してそこへ捨てるようになっていましたが、すぐにいっぱいになってしまい、結局、皮は床に散らばり放題でした。日本の方がまだましです。

★月★日
ラッキイの隣のフィルム屋さんに写真の現像と焼き付けを頼んでおきました。袋に住所と電話番号を書いて箱に入れるだけでOKです。翌日にはネガ一枚につき二枚のL版の写真が出来上がってきます。これも日本の半額程の値段です、またまた日本の物の高さに腹が立ってきました。どうして日本は物価があんなに高いのでしょう、どこかが間違っているんやないの!

でも、人間は教育制度の違いからでしょうか、断然日本人の方が良いのです。買い物をしたらお釣りを確かめんとあきまへん、ぼけ〜っとしていると大概損をします。お釣りを間違える事の方が多いので気をつけなければならいません。レジの人は引き算が出来ない人が多いのですから、これは信じられないことの一つでした。

「ちょっと!このワインは今日30パーセントOFFと書いてありましたよーっ!」

どうして定価を打ち込むねん!こちらも段々図々しくなってきました。

★月★日
ラッキイといえば今日はひどい目にあってしまいまいした。ここへ来てから2番目くらいの大事件です。

ベトナムから3日くらい前にHちゃんという20才の女の子が大学を中退して教室にやって来ていました。ふっくらとした優しげな顔で、とても素直な感じで、可愛いお嬢さんです。割と英語には慣れているようでしたが、すごくフランス語的なまりがあって、良く聞き取れないのです。先生方も何度も何度も聞き返しておられました。ベトナムはフランスの影響が多い国だから仕方ないのでしょう。

そのHちゃんが学校の出口で困った顔をしてしょんぼりしていました。それを見て、ついついでしゃばりおババは世話やきの癖をだしてしまったのが運の尽きでした。

「どうしたの?」と聞いてみましたら「帰りのバスが出てしまって、1時間も待たないと次ぎのバスが来ない」と言うのです。みんなが車で移動する国ですから、公共の乗り物が全くあてにならないのです。かわいそうに思って、どこまで帰るのか聞いてみました。意外な事にラッキイの傍だと言うではありませんか。自分のアパートの近くじゃないの、オッチョコチョイで早とちりのアホな私は、すぐ「送ってあげるから乗りなさい」と言ってしまったのです。

喜んだHちゃんは、隣に乗るなりあのフランスイングリッシュでトントンコンコンと話し掛けてきます。さっぱり聞き取れません、ジュ.ヌ.セ.パ.です。やっとの思いで想像をめぐらせて、意味を判読して答えながら運転します。実のところ、運転に専念すれば話がチンプンカンプン、話に集中すれば運転がやばい、、オタオタしながら、ようやくラッキイにつきました。

「ここがラッキィ、お家はどの辺かな?この近く?」

彼女は車を降りて、あたりを見回し、困惑した顔で言いました。
「このラッキイは来た事が無い」と。

「エッー!?ラッキイはココだよ!」

「でもココは見た事ない、、」

しまった!ラッキイはどこかにもあるんや!どうしよう、、

「自宅の住所は?」と聞いてみますと、細かく折った紙を取り出して見せてくれますが、聞いた事もない地名がもの凄い字で書いてあって、電話番号もまだ覚えていないといいます。困った事になってしまいました。ここのラッキィしか知らないと言って放り出すわけにもいきません。どうしたらいいのでしょう、、

彼女は私の買い物が済むまで待っているから、家まで連れていって欲しいと泣きそうな顔で言いますが、泣きたいのはこちらです。彼女の家がどっちにあるのやら、全く方向すら解らないのです。あ〜どないしよう。さすがに途方にくれました。これは買い物ナドしている場合ではない。必死になって考えました。このラッキィはスーパーだけでなくて洗濯屋さんや本屋、中華の店などが周りにあります。たしか宅配屋らしい店があったのを思い出しました、そこへ行って聞いたら方角くらいは分かるかもしれません。

兎に角、方向だけでも確かめよう、ドアを開けるとおばさんがいました、「この方角へ行きたいんだけど、ラッキィという店はこの辺りにもあるかしら?」簡易郵便局のおばさんは中国系の親切そうないい人でした。他のラッキイはよく知らないけれど、東の方にありそうだと教えてくれたのです。地獄に仏とはこの事だと頭を何度も下げて、もうやみくもに東の方向へ走り出しました。

行けども行けども、荒れ野原の道が続いているだけで、車の通行もないのです。ただ茫々とした大地が広がっているばかり、日本だったら人家もあり、誰かに聞くこともできるのですが、、アメリカは何も頼れるものはありません。

「ここを見た事はない?」「ここは?」といいながら30分も走ったでしょうか、今度は自分のアパートに帰れなくなりそうな事に気がついて、またまたパニックに陥りそうになりました。いくら走っても広い畑や荒れ地ばかりで一向に街らしい影も見えません。どないしょう、、

もうこれで引き返そうかと思った時、ず〜っと黙り込んでいたHちゃんが突然声を上げました。

「あっ!ココ知ってる!」

「ほんと?」「確か?」

ブレーキをかけながら、こちらももう泣きそうになって聞きかえしました。

「ウン、あそこにラッキイが有る!」と言うのです。

そういえば小さな建物が見えてきていました。見ると小さなストアーがあり、ラッキイと書いてあったのです!

「やった!よかった!」ほんまにラッキイ!! です。

ほっとしていっぺんに力が抜けました。お家の前で、やっとHちゃんを降ろしましたが、どっと疲れてハンドルに顔を伏せたまま、しばらく動くことすら出来ませんでした。やっと一息ついて、エンジンをかけ、もと来た道を戻り始めました。夕暮れがせまり、辺りは誰もいないし、車もなにもない荒れ野の道をノロノロと運転しながら、ここで曲がったっけ?ここは?などと考え考えして、もと来た道を走り、ようやくアパートの近くまでたどり着きました。あたりはもうすっかり薄暗くなってきていました。

「お前はアホや!」と、お人好しでオッチョコチョイの自分に腹が立って、ご飯も食べずにしばらく床にひっくり返っていました。

お節介も程々にしいや!

★月★日
1時間目が終わると昨日のHちゃんが寄って来て、何か袋からゴソゴソと取り出しています。

ナビスコのクラッカーを4つ、私の手の平に載せてくれました。

「昨日はごめんね」

「いいのよ、いいのよ、クラッカーを有り難う!Hちゃん」

そしてHちゃんは言いました。日本のテレビの「おしん」が大好きで3回も見たんだって。日本が大好きなんだって。
有り難うホーちゃん!日本を好きになってくれて。



中国女性はモノスゴイ

★月★日
この学校には女性の先生が数人おられたのですが、ミセスマルコバは目の大きなはっきりとした顔立ちの、とっても厳しい人でした。午後の購読が担当で、毎日の出来事や新聞記事からわかりやすい話を抜粋して、みんなに話をさせるというけっこう高度な授業でした。

彼女はご先祖がギリシャからアメリカに渡って来たということです。こわ〜い先生だともっぱらの評判でした。午後の眠たくなる時間の講読ですから、出席率が最も悪い講義の一つでした。若い生徒達は密かに彼女のことを「めんどり」と呼んでいることを知った時、思わず「うまい!」と思ってしまったのですから、私も不真面目ですワ、ほめられたものではありません。頭のてっぺんから出てくるような甲高い声は、この渾名が当を得ている事を示すに充分なものでしたから、つい、、

今日は午後になって気温が上がり、華氏86度を超えて暑くなってきました。その上に外が工事中で喧しく、皆いらいらしていました。摂氏でいうと28度以上はあったでしょう。「華氏(F )−30÷2=摂氏(C)」の計算で大体の温度の感覚が(C )で計れるようですが、なんでアメリカは華氏などという数値の高くなる単位を使うのか不思議です。

ソフィアの授業はフリートークでした。一枚の紙が配られ、その内容について自由に話せ、と言うことです。紙には新聞記事と写真が載っています。派手な衣装のマタドールが、のけぞって牛をやり過ごしているカッコイイ写真でしたから、「スペインの闘牛」の記事と写真だということは、おおかたの生徒が解ったと思いました。しかし、中国本土からの人達の間がざわざわと騒がしくなってきました。どうも彼等にはこの写真が何なのか見当がつかない様子です。

メンドリさんが一段と声を張り上げて、、

「解説の出来る人はいませんか?」

もにょ、もにょ、ぶつぶつ、、誰もなーんにも言い出しません。中国からのシェレンが(中国人は大抵の人がアメリカ名前を持っています。)

「こんな難しい単語ばかりで全然解らない!」

と言ったものですから、メンドリ先生は単語の説明を早口でワーと解説されました。聞き取れないほどの早口です。

「さあこれでわかったでしょう、誰か答えなさい!」

と、次々にあてはじめました。

かろうじてフセイン君が記事について話しました。「OK、、」「ヒサコはどう思う?」そ〜ら来た。仕方ないから、写真から想像出来ることを答えました、世界初の女性闘牛士に関しての記事だと言ってお茶を濁しました。幸いな事にマドリードの闘牛場へはうんと昔、たまたま行った事があったので、少しは話に尾ひれをつけることが出来ました。ヤレヤレ、、

「Good! 」次ぎ!

「シェレンはもう解ったでしょう?話しなさい!」

「Idon't understand about this topic !」

「Why not ? 」

さあ大変です、メンドリさんの声が一段と高くなりました。

「何故わからないの?全部説明したでしょう、他の生徒は答えたのだから出来ないことはありません!」

「でもさっぱり解りません!これは難しい単語ばかりで何のことやら全然解りません!もうっ、難しすぎる!」

「どうして解りませんか?こんなに説明をして、他の生徒も答えているのを聞いているのに、解らないなんて、それではシェレンはtoo bad です!」

「Too bad ?!」

シェレンの顔色がさっと変わります。ヒャ〜えらいこっちゃ、、

「何がtoo bad だ!解らないのは私だけでは無い!みんな解っていないんじゃないの?それなのに、なんで私だけが悪いと言われなければならないの!」

さすがは毛沢東の国から来た女性です、「天の半分は女が支えている」という国の人だけのことはあります。メンドリさんの顔もさっと白くなりました。(すぐ切れる人ばっかしやなぁ、、)

「悪いから悪いと言ってどこが悪い!」

「大体あなたは私語が多い、よく人の話を聞いていないから答えが出てこないのです!」

「私はちゃんと授業に出て勉強は真面目にしている!夜働いているから予習が出来ないことが多いけど、そんなことを言われる覚えは無い!」

彼女は旦那様を本土に残して単身ここへ来て、仕事を探して永住の準備をしてしているらしいと聞いてたことがありました。

「先生はこんな問題を出して、この教室で何人が解っていると思っているのか!たった2、3人だけしか答えていないのに、なんで私がtoo bad なのか説明して欲しい!!」

メンドリさんの眼に涙が盛り上がって来ます。やばい!何とかしなければ、

「シェレン、彼女は教師でしょ、あなたは教えて頂く生徒なのだから、もうそのくらいに」

こんな日本的なとりなしを聞くようなシェレンではありませんでした。

「なにが教師だ、教師は教えるのが仕事でしょうが、教え方が悪いから生徒が解らないのだ、教師も生徒もない!!」

「ハイッ、、」

駄目だこりゃ、引き下がるしかありません。情けないことです。バトルはそれからも続きました。言葉に限界のある生徒達は、同じ中国人にシェレンをなだめるようにと頼んでみましたが、そんな事では彼女の怒りはとうていおさまりません。

「英語がうまくないからお金を払ってここへ習いにきているのに、解らないからといってそんなに人を侮辱していいのか!?」

もうめちゃくちゃになってきました。シェレンは真っ青な顔ですっくと立ち上がり、足音高くドアの所まで行って、

「こんな所二度とこない!」

と、ドアを蹴って出て行ってしまったのです。呆然としてみんな声もありません。それからは本当にシェレンの姿は学校では見られませんでした。聞くところによると、あれから校長先生に直訴した上で、出ていったのだそうです。

凄い! !

うわさは翌日には全校に知れ渡りました。メンドリ先生には気の毒なことになってしまいましたが仕方ありません。中国の女性は強い!驚嘆!

★月★日
ソフィア先生は今日も元気がありません。「皆さんに悪いことをしました。」とあやまっている彼女の大きな目は気のせいかグレイ色に見えて、思わず目を伏せてしまいました。気の毒に、、

でも、講読に入ると、いつもの顔でバシバシとあてていくのですから、さすがに先生もプロ根性を持ってはります。生徒はもう必死で質問に答えなければなりません。

今日ははウクライナから来た移住者の家族のお話で、比較的授業は順調にすすんでいきました。

「皆さんにも大切な思い出が一人一人あることでしょう、それについてお話して下さい。」

教室はシーンとなってしまいます。アジア人は自分について話すことが苦手なのですよ。マルコバ先生。

今度はMちゃんがあてられました。

「え〜っと、、私はボーイフレンドと別れて飛行機に乗ってから悲しくて、泣いていました」

「それは気の毒でしたね、彼は一緒には来なかったのですか?」

「NO、来なかったのです。彼は奥さんが居るのです」

「エッ!駄目駄目!Mちゃん!そんな事を言っちゃ」

「エッ!奥さんが居る人と恋愛しているのですか?」

メンドリさんの顔がまたキッと変わりました。ほーれ言わない事じゃない、大変だ、怒ってるもん、、

「M!そのお付き合いはすぐやめなさい!」


「どうしてですか?」

あ〜ぁ、もう知〜らない、雲行きが怪しくなって来たやないの、何でも言っていいもんとちゃうねんよ。

「すぐに止めなさい!それはよくないことです」

Mちゃんはム〜ッとして黙り込んでしまいます。

「私の離婚の原因もそれなのです!」

「えっ誰が離婚だって?」「先生の事にきまってるよ」

生徒達は、ヒソヒソゴモゴモ、、

又大嵐がやって来てしまいました。メンドリ先生はひとしきりいわゆる「スキャンダル」について真っ赤な怒り顔でしゃべりまくった後、黙ってしまいました。教室は妙な雰囲気になってきます。

「もういい加減にしいや、やってらんないよ〜」

窓の外を向いて知らん顔をきめこむことにしました、年寄りはズルイのです、もめ事からは逃げるのが一番です。まだ時間は30分も残っているのに、ほんまにどうすんねん、、

メンドリ先生は気を取り直しはりました。やっぱり先生です。

「さあこれから何をしましょうか?」

何をしましょうか?って何を言うねんと思った途端に彼女とバッタリと目が合ってしまいました。マズイッと思うまもなく、

「何をしたらいいですか?」と聞かれてしまいました。

「何をって、、じゃあ昨日習った歌の練習でもいかがですか?気分が変わっていいかもしれません」と言ったら、

「歌など、唄う気持ちではありません!!」とメンドリ先生。

そんなら聞かなければいいやんか!私もふくれてしまったですよ、やってらんないよ!こんな授業、、

聞くところによると御主人と別れられてから日も浅いのだそうです。人生色々です。でもご主人だった人も、こんなに冗談が通じない女性だと、つらいものがあったのだろうに。見たこともないその旦那様に少し同情してしまいました。

人間、どんな時も遊び心は必要ですよ、もっと大きい目を開いて!(充分大きい目なのに)フレキシブルに暮らしたほうが、楽しい事がいっぱいありますよ。

★月★日
ニュウ カレッジ オブ カリフォルニアは3ヶ月毎に学期が終了し、終業式なるものを行って一応の区切りをつけるらしく、しきりに先生方の査定の用紙が配られはじめました。日本ではあまり見られない制度ですが、どこの学校もこれを生徒に書かせて、その場で封をして先生が教員室へ持ち帰り、校長先生が封を切ってその先生の今後を検討するのだそうです。

「解り易い授業をしたか」「親切だったか」「生徒を差別しなかったか」「遅れたり、早く終わったりしなかったか」など

など、夫々の教師について書き込むのです。生徒の方も簡単に○をつける者や、長い間何やら書き込んでいる者やらさまざまで、興味深いものがありましたが、人ごとながらあの「メンドリ先生」が気にかかりました。大丈夫かしらん、、

ユニヴァシティはこの制度が厳重で、次ぎの学期を「首」になる教師もあると聞きました。そんな中で卒業パーティの準備が始まり、2年目の最終学期の生徒が中心になって進められていきました。朝食会の後のアトラクションのチラシも配られ、9月の夏休みを控えて学校中が沸き立つような感じでした。

★月★日
今日は10時からの朝食会の後、学校へ戻り、いよいよ終業式(終了式といった方が適当)が始まります。ここでもびっくりしてしいました。何故って、先生も生徒も普段のままのジーンズ姿ですし、おまけに欠席して早々とどっかへ出かけてしまった生徒も多くいるとかで、終業式とは言っても、なんとなくダラダラとして締まらない感じだったからです。

校長先生が立ち上がって挨拶を始められたのですが、開口一番
「次ぎの学期の授業料を10日後迄に払い込んだ人には学費を15%OFFにする」と言われるのです。驚きました。へ〜っ?早く授業料を払い込むと、まけてくれる学校なんて聞いたことないやん。

難しい訓話も無く、先生方も思い思いの格好でリラックスして笑い合ったりして、格式の無いこと甚だしいのです。変な式やわぁ、、

各教科毎に一応「優等生?!」の表彰があるというから、どんなんやろか、と身を乗り出しました。

「2クラス・HISAKO IKEDA ]

えっ? 誰の事?隣の席のブランダン君が私の脇腹を突っついたので慌てて立ち上がりました。へ〜ぇ?!どうして賞状なんかくれはるねん、、おかしいやん、

何十年ぶりかで賞状を戴きにでます。最敬礼をいたしました。大して勉強もせんとウロウロしていただけなのに何か下さるというのが信じられません。驚いてしまいました。

でも、どうせならきちんと貰おう、と思いましたので、横に並んでいる先生方にも改めて最敬礼をいたしますと、慌てて膝を揃える先生もいてはるので、少し愉快でした。日本人の賞状のいただき方をどうぞご覧下さいマセね。
賞状とTシャツ

他の学生たちは、頭を下げるでもなし、あやふやな様子で賞状を戴いています、握手するならもっと胸を張って!お辞儀をするならきちんと頭を下げる!と、つい言いたくなってしまいます。ばたばたと賞状の授与式は終わりました。後はビスケットとお茶で卒業生の演じる芝居見物に打ち興じ、お開きとなります。

あちこちで写真を撮ったり、お話をしたり、別れを惜しむ人もいて、ごたごたしていた時です。ツ、ツ〜、とメンドリ先生が近づいてきて、私の横に立ちはったのです。

「あなたを推薦したのはこの私ですよ!」

アラ?そうでしたか、それはまた有り難うございますデス。きっとこの学校始まって以来の最高齢の生徒に「良く頑張ったで賞」のノリで、下さったのだと思っておりますデス。先生のおかげでゴザイマス。ほんまにお世話様でした。



アダルトスクールへ行く

★月★日
あと3週間程滞在期間が残っています。有効に使わないとバチが当たります。ポプラ通りに外国人用に英語を教えるアダルトスクールがあることが分かりました。以前からいろいろ資料を集めたり、クラスメートの話を聞いたりして情報を集めていました。早速電話をかけるとテストがあるようです。又テストかと思いましたが、どうせ恥はいっぱいかいたし、かきついでにでかけてみました。

地元の高校の夏休み期間に、無料で外国人相手の英語教室が開かれています。移民の国アメリカならではの教室です。世界各国からの生徒達でいっぱいでした。

大勢の人が集まっていましたが、一瞬、職業安定所へ迷い込んだのかと思ったくらいにいろんな年代の人々であふれかえっています。年寄りと言ったら悪いけど、前の学校とは違い年配者から若者まで、さまざまな人でワイワイの状態です。

テストの紙を貰って思い思いの場所で書き込みます、今度はおおかたのことを思い出した後だったので、文法も割合簡単に書けました。クラス分けは簡単な面接の後に発表されます。今度は一番上のクラスに配属になりました。もっと下にしてもらうようにテストを加減すれば良かったやん、、なんでも目一杯頑張ってしまうのが悪い癖やんか、と思いましたが、ほんの少しの期間だし何とかなるやろ、と登録を済ませて帰ってきました。

前の学校は280号線でしたが、今度は高速ルート1なので少し遠いけど、速くいけます。でも車の量が圧倒的に多いですから、気を引き締めなければ危ないのです。なにせ日本人と違い、アメリカの皆さんは運転そのものがあまりお上手ではありません。いきなり4車線の端から一気に出口へ突進してくるオバサマもあるので、恐ろしいのです。

★月★日
4車線の最高速レーンから低速レーンへ斜めに突っ込んで来る車にヒヤヒヤしながらどうやら無事にアダルト学校へつきました。先生は元精神科の医師で、その後教師になられたという変わり種の男性で、トシは50才くらい、穏やかなおじさんでした。まずはひと安心して席につきました。

昨日の新聞記事からの話題をとりあげ、生徒の発言から話を発展させていくという風で、自由ですが、しかし厳しく授業は進められていきます。生徒は発言のためには必ず手を上げる事を義務づけられているのですが、ドンドン我先に発言する人ばっかりです。もう圧倒されてしまいます。とにかく発言権を得ないことには何も始まりません。前の学校とは大違いです。生徒の必死性の現れなのでしょう、ものすごく熱心で、日本人には割って入ることすら出来ません。

しかしここで負けていてはどうしようもありませんから、恥も外聞も捨てて、隙間をぬって手を挙げ、大声を出して質問権を手に入れます。むちゃくちゃな話です。なぜなら、まったく分からない単語ばかりなのに、1語だけ聞き取れたら、それを頼りにあとは想像力にお任せなのですから。授業が終わった頃にはもう疲れはててしまい、エネルギーゼロという感じになりました。

あ〜ぁしんど、、かなり難しい内容の話を、単語なんかほとんど分からないのに、人生経験?!と「勘」だけで乗り切っている状態なのですから、どだい無理があるのです。久しぶりに脳ミソがクタクタな状態を味わいました。

★月★日
同じ教室に、ウクライナから来て2年目のイレイーヌおばさんがいました。世話好きな人で、お茶の買い方や、清潔な方のトイレの有り場所などを親切に教えてくれたうえ、食べかけのビスケットまで分けてくれます。ロシア系の真っ白な顔に赤い口紅が良く映えて、とてもおしゃれなおばさんです。何の苦労もなさそうに見えましたが、家族を置いて単身アメリカに来て、仕事を探しているとのことで、ウクライナ人というだけであまり詳しくは言えない、と声をひそめてささやいてくれました。

此処に来ている人の大半は何らかの仕事を持ってはいますが、おおっぴらに稼ぐことが出来なくて(就労ビザが取れていないのでしょう)少し密やかで、そして少し貧しい風なのですが、それぞれが個性的で面白い人達ばかりでした。

若い留学生にはない生活の匂いと、寂しさと貧しさを感じさせられましたが、前向きの姿勢で自分で運を切り開こうという気力に溢れています。そして本当に勉強する気迫があり真剣でした。遊び半分の私は、なんだか恥ずかしくなりました。
アダルトスクールのクラスメート

日本の「N外語学校」で良い成績だったというお嬢さんは、授業のスピードについていけないと言い、2日で「ネ」を上げて、自ら下のクラスに変更したと話していました。そして、日本の英語教育の欠点をしきりに指摘しましたから、きっと悔しかったのだと思います。ここではまず手を挙げて何かをしゃべることをしないと、まったく取り残されてしまうのです。文法も決まりもどうでもいい、自分の意志が伝わりさえすれば、まずは第一関門突破、それでいいのですから。

大丈夫やって!あなたはすぐに聞き取れるようになる!体当たりでいけば何とかなるよ!基礎があるんやから、頑張ってね!全部わからなくても一つでも分かったらあとは想像力を働かせばいいやん、文法はしっかり出来ているんやから、あとは根性あるのみやん」

なんてえらそうに言うのが悪い癖デス。

★月★日
いつもの先生が風邪を引いたとかで欠勤だそうです、代りに大学の女先生が現れました。弁護士のご主人を持つ怖そうな先生でした。教室に入るなり1枚の紙を配りはじめます、なんだか悪い予感がしました。前の学校でも1枚の闘牛士の新聞記事からとんでもない事件が起こりましたから。

それは「妊娠中絶」について考えを述べよ、ということのようでした。何で今こんな話題を?と思いましたけれど、仕方ありません、先生からどう思うかと尋ねられてしまいましたので、ヘドモドしながら、母体の安全のためには仕方ないけれど、余程のことがない限りするべきではないというようなことをモタモタと答えました。

先生は「今、世界には政府が中絶を奨励している国がある」と、話し始めたのです。

中国本土の事だと分かりましたが、この教室には中国人も沢山いるのに、話題が悪いワとも思いました。ここでもまたひと悶着起きそうな気配です。困るやんかね、、

台湾人のヤンさんがすっくと立ち上がり、意見を述べます。

「中国は貧しいし、人口がこれ以上増えたら困るから、政府が黙認しているのです」

先生は「コントロールの方法をもっと政府が教育するのが先決です」と強い口調で言うものですから、中国本土からの生徒2、3人が同時にキッとして立ち上がりました。

ほ〜ら、又ややこしくなってきたやん。

「政府のする事をあなたが非難するのはおかしい、夫々の国には夫々の事情が有る。先生は明らかに中国人を差別している」
(このような発言だったのではないかととおぼろげに思います)

それでも先生は同じ事を繰り返して、他の国の生徒に意見を聞きはじめましたから。気まずい雰囲気になってしまいました。すると、一人立ち、二人立ち、三人立ち、そして教室に中国人は誰も居なくなってしまったのです。

ドアを蹴ることもなく、静かに去っていった人達の胸中と、それを無視して授業を進める先生の考え方が、交わることなく永久に伸び続けていく2本の平行線のように思えました。世界は一つなんて、ノーテンキな話だと、つくづく考えさせられました。政治も外交も、きっとこんな些細な所にその難しさの根っこがあるのかもしれません。後味の悪い授業でした。

カリフォルニアはその自由な風土のせいで東洋からの移民が多く、特に中国からの人達はこのところ何処でも多く目につきます。スーパーなどでは、まるで東洋の国かと思うほどですから、白人にとっては何か違和感があり、歓迎出来ず、中南米からの人達にとっては仕事を奪われはしないかという脅威の対象となるらしくて、いたるところで中国人への警戒の声を聞きました。

日本人街の美容院のお兄さんは、いまにサンフランシスコは中国人の街になってしまうと、そのパワーにおそれをなしていました。スーパーの勘定場が滞っている時は、大概が中国人と会計係がもめています。その強情さと、何事もやりぬく突進力、中国は世界一番という思い込み、そして頑固さ、それに公共マナーの欠如などが重なって、好意をもたれていないようでした。

日本人との違いはチャイナタウンとジャパンタウンの賑わいの差にもよく現れています。華やかだったジャパンタウンは寂れ果てて、今は中国と韓国の街のほうが活気にあふれています。日本人には帰れる国「日本」があるからでしょう。国を捨てて出てきている中国人には、その覚悟の気持ちからして、すでに日本人は負けているのかもしれません。

もっと中国を知る事がこれからの政治や経済にとっても重要なポイントになるのだろうと、柄にも無い事まで考えさせられてしまいました。


ダブルブッキング

★月★日
もうすぐこの学校ともサヨナラだし、最後の休みを使って、かねてから行ってみたかったシアトルへ小旅行を計画しました。世話をかけた息子にお礼の意味もあって、格安航空券を手に入れて、シアトルに向かいました。

シアトルSeattleは、シアトルマリナーズがある都市として知られています。アメリカの北西部にあり、ガーデンシティと呼ばれるほど美しい緑の街です。先住民はスクアミシュ族ですが、19世紀頃に強制移住をさせられたのだそうです。その部族がこの地を離れる際に、族長が行った演説の1行が有名で、いまに語り継がれているということでした。それは、

「シアトルはかつてグレート・ノーザン鉄道を父とし、日本郵船を母とする」

思いがけないところで日本という言葉を見つけました。
 
シアトルタワーとタコマ富士

白い雪をかぶったレーニエ山(タコマ富士)が見えたと思ったら、もう着陸。思いのほかに暑いのにびっくりです。カナダ国境に近いのに、なんでこんなに暑いのかしらんと、文句を言いながら、今日泊まるホテルを探すためにまずはレンタカー借ります。夏休みですからどこも人でいっぱいです。やっとのことでマリーナに近い所にマリオットホテルをみつけました。息子は空き部屋を聞きにいきます。

夏休みのハイシーズンで一杯とのことですが、スイートなら一つだけ空いていると言います。スイートと聞いただけで日本の値段が頭に浮かびました、とても無理だと思いましたから、高いに決まっていると言いますと、息子は一応聞いてみると言い、またフロントに戻っていきます。車を止めっぱなしですから、入ってくる老人がいや〜な顔をして車を寄せてきます。

運転手がいないのだし、レンタカーで触ったことのない車だから、、と無視していましたが、よけろと怒鳴ります。通れる幅はあるから行けばいいいのに、、

真っ赤な顔で怒ってにらみますから、動かすしかありません。もうやけくそで運転席に移り、ギヤーの入れ場所を探して、幅寄せをしました。どこの国でもジジィは頑固ですねぇ。もう汗ビッショリです。

部屋は300ドル程でいいということでした。なんだそれなら日本のツインと変わらないじゃないの、ここに泊まることにしました。 広い部屋に荷物を下ろし、早速あちこち見物にでかけます。

街の中心にシアトルタワー(スペースニードル Space Needle)が建っていて、夜12時までオープンしているそうです。真下に遊園地もあって、家族連れが楽しんでいます。夜は危険だと思っていたので、意外でした。こんなに遅くまでの労働力が確保出来るのもスゴイなと感心しながら見て回りました。

このタワーは1962年の万国博覧会の時に建てられました。高さ184m、幅のもっとも広い所は42m、総重量9,550トンで、M9.1クラスの地震に耐えることができるように設計されているということです。展望台からは、シアトル市街地やカスケード山脈、レーニア山、エリオット湾に浮かぶ島などが見渡せます。

マリーナのレストランのアサリのワイン蒸しや、サーモンはさすが本場の味で絶品でしたから、良い気分であちらことらほっつき歩きました。街の市場は、沢山の海産物で溢れんばかりです、思わず鮭を買い込んでしまいます、主婦の習性はおそろしいですね。

こんなに楽しいことばかりででいいのだろうか、、いいえ、とんでもありません。やはり「楽あれば、苦あり」、でした。

アメリカの航空会社のダブルブッキングについては、本を読んで知っていましたが、現実に自分にふりかかってくるとは思ってもいなかったので、驚き慌てました。

★月★日
午後1時頃の帰り便なので、午前中にあの有名なボーイング社の航空博物館へ寄ってから空港へ行くことにして、急いでボーイングの駐車場に入りました。すぐ傍に大きな4発のプロペラ機がとまっています。これは忘れもしないあの爆撃機です。第二次戦争で日本の都市をことごとく爆撃したB-29 でした。

昭和20年、すでに制空権を失ってしまって、やられ放題だった日本列島の上空に、毎日といっていいほど大編隊で現れて、日本の空を覆いつくし、絨毯爆撃を繰り返した爆撃機です。独特のウオーンという地響きのような爆音を覚えておられる人もおられるのではないでしょうか。展示されて、静かに羽根を休めている姿はとても美しく、プロペラ機の見本といっても過言ではない程の完成された姿です。全体が銀色に光っていて見とれてしまいました。

もう飛行機を作る材料も無くなり、戦闘機すらベニヤ板で作っていたあの頃の日本とは雲泥の差としか言いようがありません。それでも神風特攻を繰り返していたのですから、日本軍部の無力ぶりにもあきれます。いかに人間の値段?!が日本では安かったことか、一銭五厘の葉書き1枚で戦争に駆り出された人達の無念さなどを言いだしたら、きりがありません。

展示場内部はきちんと整理されてわかりやすく分けられて航空機の展示がなされ、ロケット部門の部屋もありました。初めてロシアの有人ロケットとアメリカのそれとを見比べて見ました。乗り組み員に対する配慮の差が両国の間でいかに大きいかが理解できました。居住性を考えて窓を設置しているアメリカと、球形に形作られ、全く閉塞されたロシアのロケットを見て、さまざまなことを考えさせられました。

ゼロ式戦闘機も1機展示されていて、これには息子がおおいに関心を寄せて熱心に見学していました。ここで本当はもう空港へ戻らなければならなかったのですが、航空機の制作過程の展示室に息子の関心が集中してしまい、なかなかそこから離れないものですから、時間が思いの外経ってしまったのです。もう飛行機の時間が迫ってきてギリギリです。もっと見たかったのですが、振り切って空港に急ぎました。

シアトル空港に滑り込みました。まだ30分の余裕がありました。良かった!間に合った!とゲートに急ぎました。日本は国内国外を問わず、ゲートの近くには乗客以外は入れないのですが、アメリカの国内線は、ゲートでチェックイン出来ますから、見送りやお迎えの人と乗客がいっしょくたになって、ガヤガヤとごった返しています。かなりの人がカウンターに並んでいますから、いらいらしながら順番を待っていました。そして、ようやく番がまわって来ました。

「サンフランシスコ行きですね?」

そうですよ、チケットに書いてあるじゃないですか、何をもたもたしてますのん、、

係の女性の顔が少し困ったように見えたのは気のせいではなかったのです。

「アノゥ、、あなた方の席は有りません」

「エッなんで席がないの?ちゃんと予約してあるのに!」

「もう10分早ければ有ったのですが」

「なんでやねん!いっぱい人が並んでいたから順番を待っていてこの時間になってしもたんやないの!早くからここへは来てましたよ!」

「でも席は他の人にまわってしまいました」

「まわってしもたって、、どうゆうことやの?」

息子が頭の上で一言ポツリと、、「やられたな」

彼が聞いてみても返事は一緒、「お席はございません」

アッ!ゲートが閉まってしまう、、目の前で無情にもぴしゃりと2人の乗る予定の便の扉は閉まってしまいました。もう次ぎのにするほかないのです。

すぐに次便の予約をいれる、すると次ぎは満席で、どこやらから飛んで来るので乗れません、と言って係のお嬢さんはすましています。どうなってんのこの会社!さすがに文句を言っていた息子も観念した様子であと2便待とうと言います。

どうしようにもないのでベンチに座り込んであたりを見ると同じ状況らしい人が沢山いるようです。段々腹が立ってきました。誰かが書いた小説で読んだ事が現実になったのです。あの小説の主人公はエリートサラリーマンで、ニューヨークへ会議の為に急いでいて同じ目に会い、カウンターのお嬢さんと派手に喧嘩してしまうのです。しまいには留置所まで連れて行かれたという話だったように記憶しています。日本人なら誰でも怒りますよ。こんないい加減な事は、日本では考えられないことですから。

ひたすら待つしかありません。責任者らしい人も現れないし、お嬢さん達は苦情を聞く「係」ではないという風で、一向に気にもしないし、とりあってもくれません。その内に係のメンバーが交替をしはじめます。あの人に言ってあるのに、ちゃんと申し送りしているのかしら、、もうイライラは極限です。次便のゲートも目の前でピシャンと閉まってしまいました。

息子は新聞を読んでいて一向にこたえた様子もない感じです。今度は彼に腹が立ってきました。

「今度も乗れなかったら文句を言って来てよ」

「物理的に席が無いのだからしょうがないじゃない、ちゃんとコンピュータに打ち込んであるんだし、彼女達は仕事をしているから、今は言いに行っても無駄なんだ」

「何を言うてるねん!だいたいあんたが早くここへ来ないからアカンかってんよ!悠々としている場合やないよ!ほーれ又ドアが閉まってしもうたやん!」

「あのね、アメリカはこういう国なの!、仕方ないの!今の僕たちの状態は全く予約席もなく、ただキャンセル待ちの状態と一緒なんだよ」

「なんで?ちゃんと航空券を買って、予約したやないの!」

「でもね、もうその席は誰かに使われてしまったから、無いわけ」

「そんなアホなこと」

「ぎゃあぎゃあ言っても仕方ないの」

「どうしてやねん」

こんな事を言い合っているうちにまたもやシスコ行きは飛び立ってしまいました。

前のベンチでこちらの様子をうかがっていた老夫婦が心配そうに私たちをみています。余程ひどい顔で彼にくってかかっていたのでしょうね。でも、こんなことってあっていいの?

「もう一度言ってみてよ」

「言っても同じだよ」

「もう4時過ぎだよ何時になったら乗れるねん!あんたの英語は10年も使ってきた英語やろ、こっちは2ヶ月の英語なんよ、文句を言ってきてよ」

「さっきの中国の人のように大声で文句を言えっていうの?ごめんですよ、馬鹿にされるだけなんだから」

「もうたのまへん!自分で言ってくる!」

しかし、係のお嬢さんはやはり

「やってます!やってます!」

と繰り返すだけでした。もうっ!ほんまに!腹立つ。明日はテストが有るのに、困るやないの。いつ名前を呼ばれるかもしれないからやたらにベンチを離れるわけにもいかないし、ご飯も食べられへん。トイレを交代で行って張り付いていないと、名前が呼ばれた時に居なかったら又とばされてしまいます。

アナウンスが始まりました。今度は呼んでくれるかな、すると何という事でしょう、

ピンポンピンポーン、、「ボランティアを募集します」

「今日中にサンフランシスコに帰らなくてもいいお客様、又はロスアンジェルス経由でもいいお客様は、今申し出たら60ドルを支払わせてもらいます」

すると驚いた事に2、3人の人がカウンターへ出てくではありませんか。しばらくしてまたアナウンスです。今度は80ドルに値上がりしました。又2人程の人が申し出ています。

これもボランティアっていうのかいな、ボランティアとはお金を貰ったりしないんじゃないの?

「困っている人の為だから、ボランティアなの!」

へえ〜?変な国、、

6時になり7時になり何便出ていったのか解らないほど長い時間がたちました。さすがに息子も、もう今度乗れなかったら払い戻してレンタカーで帰ると言って、カウンターに話に行ったのですが、憤懣やるかたない様子で戻ってきて言いました。

「これは格安航空券だから、払い戻し出来ないんだって」

「エ〜ッ?!」

なんで払い戻し出来ないのかさっぱり理解できないまま最終便が出ていってしまいまいました。でもいっぱいの人がまだ残っています。また聞きに行きました。

「もし今日乗れなかったらどうなるの?」

返事は

「Tomorrow ] 、、、、

臨時便が出るらしいアナウンスです、これには何があっても乗らなければなりません。名前が次々呼ばれます。でもこちらの名前は全然呼んでくれないのです。すると息子は私の手をぐいっと引っ張って、ゲートに向かったのです。

「まだ、名前、呼ばれてないよ!」

「いいの!」

なにがいいねん、、するとゲートのおばさんは(カウンター係は、いつの間にかおばさんに替わっていました)

「ちょっと!名前呼ばれたの?」

と叫んでいます。

「呼んだよ!さっき、イカダってよんだでしょ!」

と息子、(イカダじゃないよイケダだよ)。すると、おばさんは

「そうだった?ほんとに呼ばれた?」

なんて言いながら、待望のボーディングパスを2枚差し出しました。しめた!もうこれさえ貰えばこっちのモンです!何も言わずにズンズン飛行機の搭乗口に向かう息子に引っ張られながら、何とか機内に入ることが出来ました。ヤレヤレ、、あんたもけっこうやるやん!

結局アパートに帰り着いたのは夜中の1時過ぎでした。ほんまになんという国でしょう!これで事故でも起きたら、乗客リストなど無いに等しいじゃありませんか。何がコンピュータ大国や!と、目いっぱい文句を言いました。


レノの航空ショウ




★月★日

カジノの街レノではAIR SHOW(NATIONAL CHAMPIONSHIP AIR RACES)が毎年開かれます。

今年(96年)は9月12日から15日までの開催とか、ポスターがしきりに呼びかけていました。さほど遠い距離でもないし、行こうか、、決めるとすぐに出発したくなるたちですから、息子に電話をして彼のスケジュールの都合を確認します。大好きな懐かしい昔の飛行機も沢山飛ぶというので、もうワクワクです。何を置いても出かける事に意見が一致しました。夜中に住んでいるディリイを出発し、一路ネバダ州のレノへ向けて車をとばしました。

サンフランシスコからサクラメント経由で夜中じゅう走り続けて、レノに着いたころには朝陽がカジノの街を赤く照らしはじめていました。


朝露に光っていた街は、太陽が昇るとすぐに乾いてきてカラカラの上天気です。会場になる小さな空港の周辺はあちこちからの見物人の車でごったがえしていて、舗装していない畑を固めたような駐車場は、近い所からドンドン埋まっていきます。簡易トイレがズラーと並び、テントが張られ、ちょっとしたお祭り騒ぎです。

観覧席は結構高くて20ドル、どうせ空を飛ぶのだからどこからでもタダ見はできるのですが、低空でのアクロバットもあるらしいので、中央の良い席を確保ました。ブリキの椅子はまだ露に濡れていて、それを拭く雑巾や敷物を皆用意している手慣れた人もいて、毎年のファンなんだぁ、、とわかります。

ここの観客は年配の人が多いことに気がつき、
またびっくりです。日本ではこの種の催しは若い人達が多いと相場がきまっていますが、ここでは40才から60才くらいの人達が圧倒的に多いのです。中年ご夫婦らしい二人連れが多く目につきます。機体が古く、プロペラエンジンばかりだからかしらん、、

テントの中では町民というか大勢の村の人たちが、記念のTシャツや帽子を売っていて、嬉しそうに立ち働き、年に一度のビッグイベントに老いも若きも総出といった雰囲気で、日本のお祭りの御神輿かつぎのような賑わいでした。

今年の呼び物はカナダの空軍チームです、しかも女性パイロットが参加して妙技を披露するという事で、見物人は期待に目を輝かせて開会を待っていました。勿論この私も大の飛行機好きですから、ワクワクしながら見物桟敷に座っていました、
「皆さん!!ようこそレノへ!」昔のプロレスの司会者のような節回しのアナウンスが始まり、ショウの幕は切って落とされます。(表現が古くて済みません)スピードを競うものや、集団演技や、派手なアクロバット飛行などが矢継ぎ早に繰り出されますから、時間を忘れて上ばっかり見ていて、気がつくと首がガチガチで、なんや疲れてきます。

演目が終わる度にパイロットがオープンカーで場内を一周するのですが、ピーピーという口笛と拍手の中を誇らしげに手を振ってスタンドの前を通るパイロット達、、カッコイイ!!アホみたいに立ち上がって拍手をして奇声を発しているものですから、息子はあきれた顔です。何でもすぐのるのは昔からの癖ですから、勘弁してください。

「イエ〜ィ!カッコいいよー!」誰も知った人もいないアメリカです、思いっきり大声を出してわめき、すっかりストレスは飛んで行きました。周りものりまっくっていますからどうって事はないのです。

「ひやー凄い!ウワー落ちる!ヒエー!」



すっかり堪能しました。気がつくともう午後3時をまわっています。今のうちにここから出ないと、車をすのに手間取るという息子の意見にしぶしぶ従い、後ろを振り返りながら外に出て、帰り支度をいたしました。

日本では以前、航空アクロバット隊ブルーインパルスの乗員が、飛行中に気を失い墜落死した事がありましたが、本当に危険と背中合わせで、墜落スレスレのヒヤヒヤ飛行もあり、危険であればあるほど面白いという人間の単純な心理が良く理解できます。本当はあんなことを少しだけでもしてみたかったのですが、そんなことを言ったらバカだと言われますから、黙って車に戻りました。

帰り道は、眠くて眠くて仕方ないという息子に代わってサンフランシスコまで運転を引き受けました。最初のうちは「スピードの出しすぎだ」「何か有った時に止まれるスピードで」とかいろいろ言っていた息子も、観念して寝てしまって一向に起きないものですから、彼のアパートのあるサクラメントは素通りして、一気にディリイシティまで5時間、ベイブリッジを渡り、霧の中を突っ走ってアパートに帰り着きました。

ヤレヤレ少し疲れたかな、でもとてもオモシロかったです。同じように飛行機好きのニッポンの旦那は、これを聞いたら、きっと羨ましがって、そしてご機嫌が悪くなるに決まっています、内緒にしておかなアカンわね、、それにしても楽しかったわぁ、、身が軽うなったやん、、やはり空を飛ぶ物は何でも素敵だわぁ、、と、大昔に触らせてもらった操縦桿の感覚を思い出しました。気持ちが若い頃に戻って、ほっこりとしました。気持ち以外に何が戻りますのん、、アホですね(笑)。
                  
★月★日
さすがに今朝は疲れたので少し寝坊です。洗濯物を洗濯室に持って行くと、5台がフル回転中です。10室に5台くらいの割合で洗濯機が設置されているのですが、休日はやはり混んでいます。仕方ないなと思って見回しますと、1台はとっくに乾燥が終わっています。持ち主がもうすぐ取りに来るだろうからと、ちょっと待つことにしました。しばらくしてもう一度行ってみましたが、まだそのままです。仕方ないので乾燥機の上の籠の中に、乾燥機の物をそっと取り出して入れ、25セント3個入れて自分の洗濯物を入れてスイッチを押して部屋に戻りました。

頃合いを見計らっていってみますと、スイッチオンにして30分程たっていますから、前の人の籠の物は、もうなくなっていましたが、こちらの乾燥機の中は一向に乾いていません、生ぬるいのです。おかしいなと思いましたが、又3個の25セント玉を入れて部屋に戻りました。故障やろか?又行って見ますと、今度も乾いていません。入れた時は確かに「普通乾燥」になっていたはずなのに、と思ってよくよく見ると弱乾燥の所までスイッチが戻されいます。

「あれっ、見まちがえかな、おかしいな」またまた3枚の25セントがいるやんか、何でやねん、、そしてはじめて気がつきました。先に済んでいる洗濯物を取り出した事に腹を立てた前の人が、スイッチを戻したんやと。
部屋に戻って、泊まっていた息子に言いますと、多分その推理はあたっている、とのことでした。「仕返しされたね」でも乾燥がすんでから、長い間ほっておいたら次ぎの人が使えないやん。おかげで25セント玉が底をついて、随分高い乾燥代になってしまいました。でも、他人の洗濯物を触った私が悪かったのです。集合住宅は気をつけなければなりません。

★月★日
学校から帰るとドアに何か挟まっています。何かな?タイプの文字がゆらゆらゆれて、手書きの手紙のようです。読んでみて、驚いてしまいました。日本だけにある物と思っていた「不幸の手紙」らしいのです。今週中に20人に同じ手紙を出せば、あなたはきっと大金が手に入り、幸せになる。しかしそれをしなかったら、不幸になる、、なんやこれは?!アホらし!ばかばかしい!置いてある屑籠に捨てました。

封筒には切手が張ってなかったから、外から配達されたものではないようです。手紙は全て一階の鍵付きボックスに配達されることになっていますから、部外者はキイが無いと入れない構造です、これはきっとこのアパートの住人の誰かから来たものにちがいありません。

昨日の洗濯物の恨みかしらん?もしそうだとしたら割りとしつこい人やね。でも用心しなければなりません、なんでもありのアメリカですから、、もしこれが以前の追突事故の前だったら、きっとこの「不幸の手紙」の「たたり!?」だと、さすがに思ったかもしれません。


帰り支度をしなければ、、

★月★日
ポプラ通りの学校も、もうあと少ししかいく日が残っていません、折角雰囲気にも慣れたのに残念ですが、もう帰る日が迫って来ていました。皆良い人達で、言出しにくいし、あと一週間は黙って通う事にしました。したい事、しなければならない事が沢山あるし、帰国の支度で忙しくなりますが、ひとつひとつ、こなしていかなければなりません。

ワイン好きのニッポンの連れ合いサマの為に、もう少しワインを買い足ししなければなりません。安くて美味い物を探すのはなかなか大変です。観光客の多いピア39の近くにある高級スーパーまで買い物に出かけました。夏休みが始まり、フィッシャーマンズマーケットの周りは浮き浮きした感じで、心なしか木々の緑も一段と濃くなってきたように見えます。海には船がいっぱい浮かび、空は青くて、海からの潮風は微風、浮かれ歩く人々の群れ、いかにもカリフォルニアの夏でした。

★月★日
住んでいた街は緑が多く、街路樹が茂っていて静かでした。所々にある空き地や草地などにはリスがやってきて、いつも遊びまわっています。人間をまったく恐れていません。こんな平和な感じのアメリカの都市で凶悪な犯罪が毎日起きているということが信じられませんでした。

穏やかな顔と悪魔の顔、二つの顔はどの国の都市にも見られるのでしょうが、殺人事件の新聞記事や、TVの報道に驚き、その反転の大きさに戸惑い、そして呆れながら暮らしてきた3ヶ月も、もう終わろうとしています。幸いなことに生命が危険にさらされることはありませんでした。まったく幸運だったとしか言いようがありません。日本の常識では計れないことも多くて、オタオタした数ヶ月でしたが、振り返ればアッという間のことでした。ここは様々な国からの人達が入り乱れ、人種の問題を嫌でも考えさせられます。レストランなどではあからさまではないのですが、れっきとして座席の差別がありますし、夜遅い仕事についているのは、たいていがアフリカ系の人たちです。

スーパーの売り場係には南米の人が多いようでした。商店にはアジアからの人たちが大勢働いています。レジ係はおしゃべりをしながら計算機を打つものですから、金額が信用なりません。買い手はしっかりと計算して、合わなければ断固として主張しないとそのままです。

何も言わなければ、誰も何もしてくれません。要求があればしっかりと相手に伝えることが必要です。言わなくても察してくれる日本人は世界では希有な存在なのかもしれません。

だからといってアメリカは嫌な国ではないのです。何とも言いようのない漠とした感じのアメリカの魅力、、それは「まったくの自由」ということからくるものではないでしょうか。自己責任に基づいた本当の意味の自由は、けっこうきついものがあると思うのですが、それでもこの国の魅力に取りつかれてしまう人が多いのは、この「自由」というものが何物にも代え難いものであるからでしょうか。

★月★日
追突された車の修理が出来たと電話がかかりました。引き取りにいかなければなりません、窓の外を見れば、朝から雨がぱらついています。なんとこの2ヶ月あまり1度も降ったことのない雨が降っているのです。よりによってダウンタウンに出ていく日に降るなんて、やっぱり「雨女」はアメリカへ来ても抜けへんのやなぁ、、といささか落ち込みました。

海岸通りのグレートハイウエイをモタモタと走って、やっとの思いでサンフランシスコの修理屋につきました。ナビゲーターは息子の書いてくれた地図だけですから、いささか方向音痴気味の私は間違いなく行き着けるかどうか、非常に不安でした。修理屋の親方は、ニコニコ顔で現れて、

「上手く直したぜぇ」と、

自慢げに車をだしてくれます。確かに、どこが壊れていたのかわからない程綺麗に直っていて、前よりピカピカで疵もすっかり消えています。よかった!「ありがとうね!」良い腕してるね!たどたどしくお世辞の少しも言いながらサインをして、引き取り完了です。

ここへ来てから2ヶ月あまり、一度も動かしたことのないワイパーをカタコトしながら、灰色の雲の下、海から吹きつける雨と風の中を、やっとの思いでアパートに戻りました。

ガレージに入れて車を眺めます

「やれやれ又”君”と行動を共にしなければならないんやね、これからはオートマチックギアでないから嫌だ、なんて文句を言ったりしないからヘソを曲げんといてね」

「よろしく頼んまっせ!後ちょっとやからね」

★月★日
息子に借りた家財道具を整理して、返す物を出来るだけ積みこんででサクラメントまで持って行くことになりました。僅かな期間でしたが、それでも台所用品がけっこうあります。炊飯器やフライパン、食器などを車に積み込むと、ちょっとした引っ越し屋のような荷物です。サクラメントまでの道を地図で確かめて、5号線をめやすに出発です。ベイブリッジを渡り、東に向かって走ります。こ1時間も走れば、そろそろ高速を降りる地点が現れるはずです。飛行機の看板が出たら、次ぎのゲートで出るんだと教えられていました。アッ!次や!と思った矢先に、大きなトラックに前を塞がれてしまいました。急いで車線をかえたのですが、アッという間に出口を通り過ぎてしまいました。高速走行料は原則として「タダ」の国ですから、日本のように数キもロ手前から「出口あと何キロ」、などと伝えてはくれません。料金所なんて無いのですから見落としてしまうのです。アリャ、、しまった、どないしょう、、アホやんか!自分を怒ってみてもはじまりません。減速するとかえって危ないので、そのまま突っ切ってシティに入ってしまいました。仕方ない、Uターンです。

車を戻して、今来た道を逆方向に走ります、もうこのあたりでいいかなと思い、高速にのってみると、まだもっと戻らねばならないようです、、相当戻った筈なのにと、不服を言ってもしかたありません。またUターン、今度はかなりの距離を戻って、さぁ元の高速道路に入ろうと道を探しましたが、日本と違ってさっぱり表示がないものですから、見当がつきません。出口と入り口の距離がえらく離れていて案内板もまったくありません。また「迷子」」になってしもうたやんか、、

どこをどう走ったら元に戻れるのか分からないままにやみくもに「勘」と「度胸」だけで先に進みます。だだっ広い畑の中の一本道を「多分」だけで走るのですからバカな話です。辺りには何にもありません、車も、勿論人も、ただ荒野と地平線だけが茫々と広がっています、いややなぁ、、

アレッ?なんだか道が曲がっている、ここから入れるのかなと走っていくと、幸運にもそこが入り口のようです。ヤレヤレ迷子にならずにすんだと思ったとたんに汗が吹き出しました。

横から今まで一台も来なかったのに車が寄せてきていますが、強引に直進して前へ出ました。「チッ、、」と相手の車から舌打ちの音が聞こえました。でもここへ入らなければ、目的地に行けないんだとの思いから、かまわず突っ切って前へ出ました。慎み深い日本人の心は、この際、ひとまず忘れたふりをしたのです(笑)。

余分なことで息子のアパートには40分遅れでよれよれ到着しました。私の遅いことを心配して、彼はもう5分たったら降り口まで出ていってみようと思っていたそうでした。カッコ悪いから道を間違えたことは内緒にしました。我ながらまったく見栄っ張りおババだと思います。たいした事は無かったよなんて言いながら、実はもうヘトヘトだったのですから。

★月★日
アメリカの食の均一性に関しては、様々に言われていますが、概して大味で大盛り、大雑把というのが通り相場です。日本とは比較にならない「食物への無関心さ」には驚かされました。夕方になるとスーパーには大量のトレイがうずたかく積まれます。家族分を買って帰り、チンすればすぐに食べられるお弁当のようなものです。この辺の人はかなりの人数が同じ物を晩ご飯にたべているのかと思うと、なんだか不思議でした。

スーパーの食材は安くて豊富ですが、同じ物が毎日毎日並んでいるだけで、季節感があまりありません。春の気配を「菜の花のおひたし」で感じるなどという芸当は、日本人にしかできないことなのでしょう。年老いてから住むにはいささか問題ありの感じでした。

アメリカ特有のお料理で何かおいしい物はないのかしらんと、本を開いて見ました。でも、雑誌に載っているチャイナタウンにあるブッシュ大統領が立ち寄った有名店などは覗いただけで入る気が失せました。本に紹介してある店はあまり当てにはなりません。所詮、味覚は人それぞれですからしかたないのですが、どこか良いところはないのでしょうか、、

おいしい物の為なら千里の道もいとわない息子は、週末になるとやって来て、料理学校のレストランに行ってみようと言います。前から興味があったということでした。

サンフランシスコシビックセンターに威風堂々と建っている古いけれど格調高い伝統ある料理学校は、レストラン部を開放し、厨房部分を公開しているのが人気で、評判は上々とのことでした。普通のレストランは厨房に近い席はあまり上席とは言われませんが、ここでは反対で、近い所が一番人気で、そこから先に席が埋まっていくのだそうです。

早い時間を予約したので悠々と良い席に座れました。静かに、しかも流れるように料理が作られていくさまは、ここはホントにアメリカなのかと思うほどです。シェフ達の気迫がこちらまで伝わって来るような雰囲気で、緊張してしまいます。

サービスのギャルソンも、ここの生徒2人が組んでつきます。新米に目くばせしながら、合図を送り、空いた皿を下げていきます。セオリー通りの立ち居振る舞いが少しぎこちないものの、ベテランによくある知ったかぶりや押し付けがなくて、お客の質問に対して、心から答えようとする真面目さが感じられるので、とても好感が持てました。

しかし彼らは「違うだろ!厨房へ行って聞いてみろよ!サーモンは巻き込みの筈だよ」などと、二人で小声でもめて、小競り合いをしていたと、お抱えの通訳さん?!が教えてくれたが、早口のこのての英語は、私には全く聞きとれませんでしたから、かえって幸いだったのかもしれません。

満足いく料理でしたが、アメリカ料理の常で量が多いのにはまったく閉口してしまいました。はみ出さんばかりに盛り込まれていて、見た目を大切にする日本人には理解し難いものがあります。空間の大切さなどというものは、文化の違いだと、片づけられてしまわれそうですが、この点だけはペケ印です。胃袋の大きさの絶対的な差からくるものですから、いたしかたないのでしょう。日本人の4人前がアメリカ人1人分といった感じですから、言ってみれば不経済な人種です。

日本のレストランでフルコースを食べ終わったアメリカ人が「さて今日のメインディッシュは何ですか?」と聞いたという笑い話がありますが、嘘話ではなく本当の話に思えてしまいます。でも日本のお皿も、たしかに空間が多すぎて腹が立つ時がありますもんね。そんなことを思いながら、残したら作った人に悪いと頑張って無理して詰め込んだものですから、もう胃が満タンで、死にそう、、オタオタと退散しました。しばらくはサーモンもステーキも見たくないデス、明日1日何も食べんとこ、、



もうサヨナラです

★月★日
アダルトスクールもいよいよ今日でおしまいです。ヴァシリ先生にお礼を言うと、今日は私のための授業に切り替えようって言わはる、、えらいことです。

クラスを3人くらいのグループに分け、夫々に寸劇を作って披露せよとおっしゃいます。組んだのはエンジェル君、名前と風体が一致しない見本みたいな感じの明るいブラジル人です。それに台湾からののコウさん、彼は日本語もうまくて、助かりました。お互いまともではない英語で話し合い演じなければならないのですから、ほとほと困ってしまいました。

”稼ぎの悪い亭主と喧嘩して飛び出した奥さんがフラメンコダンサーになって踊っているのを、友達と酒場に来ていた元亭主がみつけて大騒ぎになる”、、なんていう筋書きを、エンジェル君が考え付いて、、3人で演じるのですが、、この後はもう書きたくゴザイマセン(笑)。

顔中口だらけにして大爆笑している先生が恨めしくなった程の大笑いの中で、ちょうど時間となりました。皆「又来てね」と大袈裟に別れを惜しんでくれます。帰りかけたら先生が大声でお呼びです。教室に戻ると「来年もくるのか?」とお尋ねです「多分」「来たいとは思うけど」、、すると先生は「君のお陰で日本人の女性に対する考え方が少し変った」と言われる。どうしてですか?それって、、私が恥知らずで、でしゃばりってことですよね、心中複雑です。机の引き出しから紙を一枚取り出してさらさらとサインをして下さいました。
This certifies that Hisako Ikeda has successfully completed the course of study.
「有り難うございました先生!」

ここでも、おぼつかない片言で、しかも3週間しか通学していないのに「トシ」に免じて終了書を下さった。だって、サインし終わってからニヤッとウインクしはったんですよ、、明後日にはいよいよ帰国します。お世話になりました! バッシリ先生。

★月★日
3ヶ月の間に買い込んだ2ダース!のワイン、これが唯一のお土産です。サンフランシスコの空港で手荷物としてカウンターに出しますと、後のコンベアベルトにドシンと載せてくれました。しかし、重量が重すぎるから、超過分を払ってもらいたいと言われてしまいました。しかも数千円でかなりの金額です。「えぇ〜?お金がいるの?!」なんてもたついているうちに、箱が載ったベルトが動き出しました。係員は「アッ!それ、重量を量っているんだから、降ろして!」などとわめきましたが、ベルトの係のお兄さんは、「もう行ってしまたよ〜ん、まあいいやん、、重たいし、、」などと言って降ろそうとしませんから、ワインの箱はすぐに向こうへ行ってしまいました、もう誰も貨物ベルトを止めようとはしません。

カウンターのお姉さんは、「モウッ、、しょうがない!」なんてブツブツ言いながら、お金はいらないと言います。たまげてしまいました。日本の空港では決してあり得ないことです。規則ならば守らなければならないのが当たり前ですが、その時の事情でなんとでもなるというところがまた、なんといいましょうか、びっくり仰天でした。なんといい加減なんやろ、、と思いながらも、タダになったことはラッキーですから、ご指示にはもう黙って従いましたデスよ。

関西国際空港に到着しました。ムッとした暑さがよどんでいます、あぁ大阪やなぁ、、と、大嫌いな蒸し暑さまでが懐かしく感じられたのですから、住んでいた所の威力は恐るべしです。荷物が出てきてぐるぐる回っていますが、あんまり重くてベルトの上から自力で引き下ろすことが出来ません。

ベルトの縁を回りながら箱を追いかけてバタバタしてみましたが、とても無理です、ベルトが停止するまで待つしかありません。映画などでは、カッコいいイケメン君が「降ろしましょうか」などと言いながら、頼もしくもサッと引き下ろしてくれるのですが、ここは日本の大阪です。ましてや若くないどころか、れっきとしたおババですから、誰かがかまってはくれるはずもないのです。清掃のお兄さんにお願いして重い箱を下ろしてもらい、遠慮しはるのにチップらしきものをむりやり押しつけて、それからやっと税金を支払って、最後の乗客になって出口をでました。

「もう乗ってへんのかと思うたわ、遅いなぁ、 何しとってん!」

「だってワインが重うて、、」

「これみんなワイン?こんなに沢山のワイン?、アホやな」
、、、

迎えに出てくれたニッポンの連れ合いと無事再会です。
アホなドタバタ旅行は、あっけなくこれでEND になりました。 


終わりに
サンフランシスコからアメリカ人が好きな観光地ヨセミテまでの道中には風力発電用の風車が低い丘全体にいっぱい立っています。いつもグルングルンと草もない茶色の丘で風任せに回っています。無機質な風車の姿は、オランダやスペインで見られるような情緒あふれる時代物ではありません。何事にも機能優先のアメリカを感じさせられます。

人気が出始めたワインの生産地、ナパやソノマでは、近代的かつ清潔な工場で厳重な温度管理のもとにヨーロッパを凌ぐ勢いでワインが均一に衛生的に製造されています。天候がフランスのように毎年変化することは少なく、一定の収穫が計算出来る土地柄もあるでしょう。しかし、何事も人の手を離れすぎると、味の薄い均一な文化になってしまう、、そんな事も考えさせられた3ヶ月でした。

発想が面白くて、科学分野でも他の追随を許さない優秀なアメリカの頭脳が、伝統に支えられて、より人間的な文化を生み出して行くには、もっと長い年月が必要なのでしょうか。成熟した文化とは誰もが自由な発想で生活を楽しみ、政治に意見をのべることが出来てそれを反映出来る事であるとしたならば、今でもこの国は充分に文化的であるとも言えるのでしょう。おおらかに他人を受け入れる懐の深さは、きっと受け入れてきた多くの人種を混ぜ合わせ、その良い所を抽出して、望ましいアメリカを作り出していくことでしょう。

カリフォルニアでの幸運を感謝しながら、頂いた沢山のご好意を、私の宝物として大切にしようと思います。この旅によって、私はこの日本で、老後のおまけ人生を歩き出す決心をつけることが出来ました。まだ命があるならば、精一杯それを燃焼させて、老いと仲良くしながら、楽しく生きていきたいと思っています。 有り難うございました! (2012.5.20.)

   

あれから16年も経ってしまいました。旧「アメリカ日記」に手を入れ、文章の削除や追加をし、「カリフォルニア日記」として再編集したものです。当時は必死になって覚えた単語も、今はすっかり忘れ果て、何一つ覚えてはいません。これは、カリフォルニア生活を「感と度胸」だけでやみくもに乗り切った数ヶ月の笑い話を、単に記録として残すためにUPしたものです。(2012.5.20.)
 
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