何年かかかって完全な死体になるのである。
私は私自身の記録である。
私の墓は私のことばであれば十分。
だからこの男の墓は本の形をしている。
「…二十歳になる前に、既に厄介な病気を背負った貴方も、
もしかしたらば、人生を終りの方から生きようと決意した詩人だったかもしれないと
此の頃、僕は思っています。ねじふせることの出来ない体をいつも尻目に見つめながら
あなたが穿いた靴は、少年の靴でした。
…そして四月二十三日、河北病院四百十号室のドアを開けた時、
不思議なことにベッドの下に貴方のサンダルは見当りませんでした。
それ故に、そのことが気がかりで、
寺山修司は、またどこかで、
あの靴を穿いて
青森弁をまくしたてている
ような気がします。
寺山修司がもし死んだらばと、
なるべく考えないようにしました。
それが、心安らかにと述べずに、
このようなアイサツになってしまいましたが、
どこかで、
やはり、
貴方の声が聞こえるように思えます。
寺山の思ったことと、寺山節よ永遠に」
唐十郎
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寺山修司はミスターシービーにダービーの夢を託した。しかしその馬がシンザン以来の三冠馬になるとは予想できていただろうか。
三冠がかかった菊花賞、シービーは4枠に入った。皐月賞、ダービーと5枠だった。ダービーではそのため、命日にちなんで4ー5の馬券を買う寺山好きが多かった。結果シービーはダービー馬になったが、馬券ははずれた。「そんな簡単な出目であてようなんて、虫が良すぎる」と軽くあしらわれたような気がした。寺山修司とシービーに。
そして菊花賞、4枠なので、47歳で死んだことにひっかけて、4ー7のみを有り金全部で買った。4枠は単枠指定だが、7枠には2番人気のカツラギエース、3番人気のビンゴカンタ、そして人気のないシンブラウンという顔ぶれで、1番売れる馬券となっしまっていた。カツラギエースは失速し、ビンゴとシンが2着3着とはいり、400円の配当がついた。2番人気がつぶれても同枠の3番人気が補い、しかももう1頭まではいったてしまうのだから、はずれようがない。シービーが勝って三冠、馬券もとれて10万円近い儲けとなったのに、なぜか心が晴れなかった。寺山修司の死にまつわる馬券がこんなに予定調和的でいいのか?
その後、次の年の毎日王冠でシービーは7枠に入る。あがり3ハロン33秒台で突っ込むもカツラギエースを捉えられなかった。馬券は5ー7となった。秋の天皇賞はまた7枠であった。今度は勝ったが、2着が8枠の馬だった。カツラギエースが4枠だったので、4ー7はかなり売れていたが、来なかった。両方とも7枠にはいったので当然4ー7一本で勝負したのだが、だめった。でもこんなもんだとろうと、気持ち的にはすっきりした。命日馬券はもう終わっているんだ。
しかし、その後もシービーは不思議と4ー7に絡む枠に入った。次の年、引退までの2レースは大阪杯、天皇賞春とも4枠だった。しかしいずれも勝てなかった。
その後も、寺山修司が買いそうな馬が4か5か7のいずれかの枠に入ると命日と没年齢で馬券を買ったものだがあまりあたらなかった。
昭和天皇が死んだのは1月7日、で、その年の春の天皇賞は1ー7だった。そういうことも確かにあるのだが、はやり寺山が天国からしかけたのはあの菊花賞だったのか。