古代のロマンに想いを馳せ、吉備路の散策もイィものですネ(4/4)
  
備中高松城

 天正十年六月、毛利軍最前線である備中高松城は、羽柴秀吉の奇策「水攻め」により孤立していた。秀吉方陣所の下まで漕ぎいでた高松城城主清水宗治は、誓願寺の曲舞を舞い、辞世を詠じる。五千人の家臣を救うため…。

 羽柴秀吉の奇策「水攻め」で有名な“備中高松城跡”をご案内致します(^.-)☆

  
  

  

   

  
【織田毛利軍配備図】攻略開始と信長の応援を求む

 4月14日、秀吉は軍を龍王山に進め、高松城の両翼(4月25日冠山城陥つ・5月2日宮路城陥つ・5月2日加茂城?・4月11日日幡城 上原右衛門秀吉につく)を先ず攻め落とし、続いて加茂・日畑の二城も秀吉の策略により落城、必勝の信念はもろくも崩れ去った。

 愈々高松城の攻撃が始まり、4月27日と5月2日の二回にわたり高松城の総攻撃を行ったが、四面深沼に囲まれた自然の要害に加えて城兵五千人、宗治の心は即ち城兵の心、打って一丸となり死を賭して防戦したため、秀吉軍をして一歩も城地を踏ませなかった。高松城を一挙に攻め落とすことが出来ない、一方では高松城危うしの報に毛利総軍が到着すれば勝敗の目算は計り知ることができない。備中国境が毛利との決戦場となることを予想した秀吉側では軍議の結果、安土の信長に急遽来援を求めたのである。

水攻めの戦略と築堤

 天正10年5月は大雨が降っている、しかも後半は降り続いた記録が残されている。高松城の位置は四面深沼に包まれて三方が山で南が高い、いわば擂鉢状の中心に高松城はある。大雨が降れば必然的に一大湖水の浮島の状態になる。擂鉢状の欠けている所が南東に一ヶ所ある。水越しの地名が現在も生きている蛙ヶ鼻付近である。

 両翼を陥れた東軍は、一挙に高松城攻略を開始した。4月末から5月上旬にかけて、小競合いは数回にわたり行われたようであるが、深沼に囲まれた自然の要害には、さすがの秀吉も為す術もなく、取り囲んだ状態で降り続く大雨に擂鉢状の水嵩は増してくるばかり、この増水を見て泉のような発想力を持つ羽柴秀吉、戦国随一といわれた智謀の将黒田官兵衛の閃きは一致した。銭百文米一升の土俵集めも秀吉の巧みな方法で強行され、又強制的な労働力をもって想像に絶する大工事をやっている。

 しかし、伝記にあるような大堤防はとても出来得なかったであろうし、又当時の地形を考えても、大規模な堤防は必要がなかったのではなかろうか、防塁にしても然りである。ここに秀吉流の戦法が、自然を巧みに利用した水攻策戦として成功するのであるが、高松城水攻の築堤については、別の味方もあるのである。

毛利の援軍到着

 二日後れて5月22日、毛利の援軍は到着した。岩崎山に吉川元春一万、日差山に小早川隆景二万、猿掛山に毛利輝元一万一部は幸山城まで進出、その数四万である。

 一八八町歩(188ヘクタール)は一大湖水となり毛利軍との間にも水が氾濫して接近できず戦いを挑むことができない。城内の苦しみは筆舌に尽し難く、降り続く大雨に手足のでない毛利方では、高松城の城兵を見殺しには出来ずついに軍僧安国寺恵瓊を秀吉の許に遣わし講和を申し入れた。

本能寺の変と講和成立

 秀吉の要請によって信長は、軍勢三万五千に出動を命じ、自らは僅か百騎ばかりで安土を出発して京都本能寺に泊まっていたところ、6月2日の未明明智光秀の急襲にあって自殺した。

 この報が明くる3日の夕刻秀吉の許に知らされた。秀吉はこれを堅く秘めて急ぎ毛利の軍僧安国寺恵瓊を招き、今日中に和を結べば毛利から領土はとらない、宗治の首級をもって城兵の命は助ける、という条件を以て恵瓊は、高松城に至り宗治を説いた。二人の間に暫し沈黙が続いた。宗治の見た恵瓊は既に秀吉薬籠中の人物であることを見抜いた。宗治は恵瓊の心中を悟り毛利方の運命を知った。「予てより死は覚悟している自分の一命により主家を安泰に、そして部下五千の命を救うことが出来れば武士としてこの上ない幸せである」と自刃を承諾した。

宗治の自刃と首実検

 翌6月4日、巳の刻(午前十時)兄月清入道・軍監末近信賀・家臣難破伝兵衛・介錯人国府市介・荒木三河等と共に舟に乗り、石井山の秀吉方陣所の下迄漕ぎいでて、秀吉から贈られた酒肴を検使掘尾茂助より受けて最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を謡い且つ舞い納め「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」・・・と辞世を詠じ四十六歳を一期として見事自刃した。続いて兄月清も「世の間(なか)を惜しまるる時 散りてこそ 花も花なれ色も有りけれ」と詠じ軍監末近信賀は、小早川隆景のいくさ目付けとして、備後から兵二千人を連れて支援に派遣され、宗治とよく心を合わせ百万一心の精神を生かし(百)時至らば(万)力を一つにし(一心)心を一つにしてよく籠城に耐え、隆景公の信頼に十分こたえ、支援の役を果たし、宗治公と死をともにした。

 信賀公の辞世「君がため 名を高松にとめおきて 心はかえる故郷の方」勇士の首級は、秀吉の実検に供せられた。秀吉は宗治の首を前に古今武士の明鑑と嘆賞し、礼をつくし手厚く持宝院境内に葬らせた。首塚は、明治四十二年に本丸に移されて現在に至っている。
  

---“高松城跡保興会資料”より ---


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