百軒店有情

百軒店有情



 渋谷の大芽園をご存じの向きも多いだろうが、あそこの餃子はともかく焼きそばはなんともいえないアジがある。メニューといっても食い物はこの焼きそばと餃子だけで、あとはビールと中国酒が何種類か揃うのみの、いわば焼け跡時代からつづくチャイニーズ・カウンターバーだ。夜更けにここでモヤシしか入っていない焼きそばをつつきながら紹興酒をやって酔いを醒ましていると、今はもうない道頓堀劇場のネエさんたちがふらふら歩くのが見えたりした。ここの焼きそばには酢! というのが往時からの私のプリンシプルで麺に練り込まれた鹹水の匂いに安い酢の味がひどくよく合う気がする。今でも行きたいには行きたいのだが、五、六人も入ればいっぱいのカウンター席は食べたいころあいにはいつも満杯でいつも入れない。と、いうよりは入る気になれない。なんとなれば、よきほどの時間には、どこで聞きつけたか知らないがうすら若い、どうかするとアタッシェケースを携えたビジネスマン風やOL風のカップルで犇めいて、いずれ「坂の上」から明るく下りてきた手合いかと思うとどうしても中に入る気になれない。兄妹で引っ越しの相談を道端でしていたら二階から水をかけられたという時代の不見識が懐かしくないこともない。



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続 解酲子飲食 目次| 前頁(二日酔いの朝の食欲)| 次頁(尾張食物考 其の一)|