1997/02/11(TUE)

1997/02/11(TUE)



女々しいと言われた。わたしのあなたに対する気持ちに較べたら女々しすぎる。もっと元気のいい人じゃないと応援する気にならない、とナーダは言う。
そうは言われてもねえ。こっちはぎりぎりのところにいるんだよ。女々しいと言うのならそれがいまのわたしの姿だろうし、しようがないよ。開き直るというんじゃなくて、それしかないんだよ。
もしかしたら、それがわたしの目下の戦略かもしれないよ。
もういいや、どうでもいいや、といった文体が、いちばん楽なスタイルかもしれないし、また、このスタイルで多くを表現できるのかもしれないじゃないか。
女々しいかもしれないが、結局のところ、多くを表現したほうが勝ちだろう。
そうなると、女々しいのが一概に悪いとは言えなくなるだろう。
わたしは、文体を変えようと、実は密かに思っているのだ。
この真面目腐った物言いに、われながら、嫌気が差してきているのだ。
この文体では、何ものも新しくはならないし、変化もしない。
この優等生のような文体に、すべての停滞の原因があったのかもしれない、と思うようになった。ナーダに女々しいと言われたあの文体こそが、すべてを建て直す上で重要なものとして、いま、浮上している。

詩法に関しては、デタラメ、支離滅裂の超自由詩が完全に限界にきた。もうこの詩法では一歩も前進は不可能である。自由は暗礁に乗り上げた。
もうこの後は、自由に制限を設けること。抑制を入れること。自由のスケールを小さなものにして、できるだけ楽な書き方で書くことだ。
出たラーメン(出鱈ー目ン)製法は決壊した。
たとえば、日が沈んでいく途上で、あたりには競技が終わった後のグラウンドのような小さなざわめきが満ちて、ふと、埃の匂いが鼻を打ってくる。その埃の匂いは微かだが確実にわたしの体の側にあり、わたしだけの言葉の世界を作ってくれている。
このようなものが一つあれば、世界がどうのといった議論は要らないのではないだろうか。いまのわたしには、この埃の匂いが、限りなく貴重なもののように思われるのだ。
それは、わたしの実感であり、その言葉は、わたしをしっかりと掴んでいる。
わたしは、いままで、あれやこれやの他者をいくら否定しても、結局、かれらの言語は否定も破壊もできていなかったのだ。
わたしは、自分が否定した他者と、同じ言語を使って話していたのだ。
自分が破壊したと思い込んでいる相手と、同じカマのめしを食って適当に妥協していたのである。きょうからは違う。
わたしは、かれらと同じ言語は話さない。
同じカマのめしは食わない。わたしは、かれらと別居する。
わたしは、わたしだけの言語の世界を紡ぐんだ。
埃の匂いは、わたしが誰とも共有しなくていいものであり、同時に、すべての人々と共有したいと念願しているものだ。

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夏際敏生日記 [1997/01/21-1997/02/22] 目次| 前頁(1997/02/09(SUN))| 次頁(1997/02/12(WED))|