What is vipassana?

ヴィパッサナーとはなにか?










 ヴィパッサナー瞑想というのは、耳慣れない言葉かもしれません。ヴィパッサナーというのは古代インドで使われていたパーリ語の単語です。

 Andersonの『PALI READER』の辞書によると、vipassanaのviとはprefix to verbs and nouns、つまり動詞や名詞の前につく前置詞ということになります。その意味はasunder,out,away,aboutあるいはin various directionsとあります。名詞と使われるときはしばしばnegation,separationという意味。動詞と使われるときはintensity「強調」を意味する、とあり、例としてvipassatiという動詞が出ています。

 passanaはpassatiという動詞から来る名詞です。passatiを辞書で見ると、to see,look at,consider,perceive,notice,find outという訳語が出ています。大体において「見る」「観察する」「気がつく」という意味です。
 このviとpassanaをあわせるてみると、vipassanaは「くわしく観察する」「細かく分けてよく見る」という意味だと分かります。

 仏教の瞑想には大きく分けてサマタの瞑想とヴィパッサナーの瞑想があると言われます。大乗仏教では瞑想を意味する止観という言葉を使いますが、これはsamatha vipassanaサマタ・ヴィパッサナー(サンスクリット語はシャマタ・ヴィパッシャナー)の漢訳です。

 サマタの瞑想はひとつのことに意識を集中することによって、気持ちを落ちつかせ、心を静かな状態に導きます。仏教でいうところの禅定、静慮(pali=jhana)という心の状態をつくりだします。これはたいへん高い心の状態ですが、これだけでは悟りには至りません。そこでヴィパッサナーが必要になります。
 ヴィパッサナーとはくわしく観察する、という意味です。ではなにを観察するのかというと、今、目の前にあるもの、目の前に起こっていることを、ありのままに、ただ、観察するのです。具体的には身受心法、つまり、からだ、感覚器官、心、心の対象である一切のものごとを、観察していきます。そしてありのままの真実に気づいていくのです。


 仏教の実践は三学という言葉で表されます。戒定慧、つまり戒律・禅定・智慧です。正しく戒律を守り生活を整え、禅定という静まった心の状態において、ものごとをありのままに見ることによって深い智慧が生まれてくる、ということです。

 現在、世界中で広まっているヴィパッサナー瞑想のその多くの部分は、ミャンマーの仏教僧マハーシー・セヤドーやビルマ政府の高官を務めたサヤジ・ウ・バ・キンが戦後になって再発見したものです。今回の記事の中で、鈴木一生さんの体験はミャンマーのマハーシー・セヤドーの伝統の道場でのもの。稲葉のものは、ミャンマー出身のS.N.ゴエンカさんの道場におけるものです。またアメリカではジャック・コーンフィールドというひとがインサイト・メディテーションとしてヴィパッサナーを広めています。

 日本に伝えられた仏教は中国や朝鮮半島を経由した大乗仏教なので、南方に伝わったヴィパッサナーの教えは、ずっと日本では知られていませんでした。現在はスリランカ出身の高僧スマナサーラ師が教える日本テーラワーダ協会やゴエンカさんの日本ヴィパッサナーセンターで、教えが受けられます。

 ヴィパッサナー瞑想のテキストはパーリ語経典の『マハーサティパッターナ・スッタ』つまり『Mahasatipattana sutta』です。漢訳で相当するのは『大念住経』『四念処経』。残念なことに、まだよい日本語訳は無いようです。コメンタリーとしては英語なのですが、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師による『TRANSFORMATION&HEALING』(Parallax Press)が分かりやすく絶対おすすめです。


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