伝武田勝頼岩櫃御殿

吾妻郡東吾妻町原町、顕徳寺本堂 




 戦国時代に織田信長が甲斐の武田を攻め滅ぼそうとしていた時、信濃の上田昌幸は主君の武田

勝頼を上州岩櫃城に迎え入れようとして岩櫃山の南側に勝頼の為の御殿を三日間で築きました。

しかし勝頼は古参家臣小山田信茂の進言を受けて岩殿山城(現大月市)に向かいましたが、その

小山田氏に裏切られて途中の天目山で自害して果てました。迎えるべき勝頼を失った岩櫃御殿は

真田家臣が貰い受け修験道の潜竜院になりました。潜竜院は明治に廃寺となりましたが(修験道

は神仏混合なので明治政府の神仏分離令に反した)護摩堂が原町の顕徳寺に移築されました。

 という訳で、もし潜竜院の護摩堂が当初のままの建物だったら勝頼の御殿が現存している事に

なりますが、潜竜院はその後火災に遭ったという話もあるようで、廃寺になった事もあって確か

な事は判らないようです。



     顕徳寺本堂


 寺院の本堂というより社殿の

ような造りですが、一方で御殿

玄関のようでもあります。大名

御殿にも(注)似たような向拝

が見られるので、外観を見る限

り御殿だった可能性も捨て切れ

ないように思います。






     岩 櫃 山


 南麓の集落から見た岩櫃山で

いかにも難攻不落の岩山という

感じですが、岩櫃城があったの

は右手の肩から伸びる尾根の上

になります。潜竜院跡は正面方

向の岩山直下にあるのですが、

麓から見ると途中に平場がある

ようには見えません。






    潜 竜 院 跡


 山道を登ると虎口状の切通し

地形があり、それを抜けると潜

竜院跡の平場に出ます。今でも

石垣が残されていて勝頼御殿が

在った様子が目に浮かぶようで

す。この地はすぐ右手に郷原城

があり、また岩櫃城への避難も

容易な場所になるようです。



 注・・御殿建物が寺院の本堂になっている例として千葉の東金御殿があります。