UKを知ろう


歴史の偶然か、
スピンコップの激戦の渦中にいた若き日の三雄


ウィンストン・チャーチル、マハトマ・ガンジー、ルイス・ボサ




このところ南アフリカでの英連邦会議やボーア戦争関係のレポート記事を
続けている。
大英帝国時代の植民地侵略支配に対し、現代のUKがどう対応し贖罪し
ているか、またコモンウェルスがどう活動しているか、日本の参考になると
思うので、「UKを知ろう」という観点からお読みいただきたい。
それはTPOを心得た心憎いばかりの王室外交戦略のような気がする。

Time・・・・・・・・・・・ボーア戦争100年記念と千年紀
Place・・・・・・・・・・・南アフリカ
Opportunity・・・・・英連邦会議


11月13日のBBC NEWSは、エリザベス女王の夫君エディンバラ公爵
フィリップ殿下が、ダーバンからヘリコプターで僻地のスピンコップの戦
跡に飛び、慰霊碑に二つの赤いポピーの花輪を供えたと報じている。
ポピーの花は、戦場に散った兵士の血を表している。

花輪には下記のメッセージがつけられていた。
「この地で戦い散華した両軍の勇敢な兵士たち、ならびにアングロ・ボー
ア戦争の間に落命した、白人黒人、男女や子供たち、全ての人々の霊
に捧ぐ・・・二度と起こさないと・・・Never again-nooit weer nie」

ボーア戦争の最大の犠牲者は英兵でもボーア人でもなく、英軍の強制
収容所などで亡くなった28、000人の現地人であった。

この慰霊の献花には英国の大宰相ウィンストン・チャーチルの孫娘と曾
孫も参加していた。
ウィンストン・チャーチルが?そう、若き日の彼もこの僻地の丘にいた。

包囲されたレディスミスの町を救援するために、英軍の大部隊が派遣さ
れた。部隊は、町を見下ろす丘を占拠すべく行軍し、夜中長い浅い塹壕
を掘り休息した。
夜が明けてみると、塹壕はボーア軍が陣取る二つの高台からは、ライフ
ルどころか弓矢でも届く標的の場所であった。
たちまち銃撃となり、英軍の指揮系統は乱れ、連絡はとれず、戦死者
負傷者、捕虜が増え、大混乱のなかに退却した。
少数のボーア軍に、大軍の英軍が僅か24時間で大惨敗を喫した。

英軍の戦死者        322名
    負傷者         563名
    捕虜         約300名

ボーア軍の戦死者      58名
   負傷・捕虜       140名

英軍の捕虜の中に、若干24歳のウィンストン・チャーチルがいた。
チャーチルは当時陸軍士官学校を出てインドに配属されていたが、特別
許可を得て、従軍記者(Correspondent)としてボーア戦争に加わり、戦争
記事を新聞に掲載していた。

多くの負傷者を運んでいた担架の担ぎ手(Stretcher-bearer)に、弁護士
ガンジーがいた。ガンジーは、1893年にインド人の商人の訴訟の弁護を
依頼されて南アフリカに来ており、ボーア人の現地黒人やインド人に対
する人種差別を見ていた。弁護士の彼が英軍の担架の担ぎ手となって
戦場に赴いたのは、人種差別反対の正義感からであろう。

これを迎え撃つボーア軍には、後に初代南アフリカ首相となるルイス・
ボサがいた。



捕虜となったチャーチルは脱走して英国へ帰国した。この脱走の成功
で、国民的英雄マーボロウ公爵の末裔、保守党蔵相ランドルフ・チャー
チルの息子ウィンストン・チャーチルも一躍国民的人気者となった。
彼はこの人気をバックに保守党下院議員となり、政治家への道を歩む
ことになった。

マハトマ・ガンジーは、南アフリカの人種差別に触発され、インド移民の
人権擁護闘争をリードした。後に帰国して非暴力・排英・不服従のイン
ド独立運動の指導者となった。
彼は英国に学び、英国のために協力したが、英国に裏切られ、排英独
立を指導し、実現した。


激動の20世紀前半の、UK、インド、南アフリカ三ヶ国の大政治家や大
思想家が、若き日この僻地の丘で、僅か一日の激戦の渦中にいたの
であった。
歴史の偶然か、それとも神の悪戯であったろうか。

皆さんはこれでチャーチルのご子孫が同行された由縁がおわかりにな
ったでしょう。


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