ガイ・フォークスの火薬陰謀事件とその背景



(前頁より)


(3)エリザベス女王とメアリー・オブ・スコッツの不仲

メアリー女王の跡を継いだのは、エリザベス1世女王であった。
女王は当初はプロテスタントとカトリック両派いずれにも認めていたが、
1559年、英国王を国教会の首長とし、ローマ教皇の主権を否定した。
以後国教会の確立をはかり、カトリックと清教徒ピューリタン(プロテスタ
ントの極右派)を排除した。

そこでエリザベス女王存命中のメアリー・オブ・スコッツとの軋轢を、少し
説明しよう。

カトリックの信者メアリーはスコットランドの女王であり、かつフランス王
フランソワ2世の王妃であった。(スコットランドとフランスはイングラン
ドとの政治力学の関係でしばしば親密であった)
しかしフランス王との間に子供に恵まれず、病弱のフランソワ王が16歳で
他界すると、フランスに居所がなく、スコットランドに帰国した。
彼女はダーンリー卿ヘンリー・スチュワートと結婚し、ジェイムズを生むが、
夫ダーンリー卿と不和になった。
その離婚相談の相手がボスウェル伯ジェイムズ・ヘヴァーンであった。

メアリー女王が王子を出産して間もなく、夫ダーンリー卿は謎の爆死をした。
その3ヶ月後メアリー女王はボスウェル伯と結婚した。伯はプロテスタント
であったから、国の内外に波紋が広がり、スコットランドの貴族たちは女王
を逮捕幽閉し、ボスウェル伯は逃亡した。
かくしてスコットランドの王位は僅か1歳のジェイムズが継承し、ジェイム
ズ6世となった。

したたかなメアリーは幽閉された城を脱出しイングランドに逃亡した。
メアリーの逃亡は、イングランド王位継承権の問題でやっかいなことになる。
血縁のメアリーを逮捕して送り返す訳にもいかず、さりとてイングランドに
置けばスコットランドとのトラブルの種になる。メアリーを自由でも幽閉でも
ない処遇にしたが、メアリーは次々とエリザベス暗殺の陰謀を企てた。

イングランド議会は裁判に掛け、死刑を判決した。エリザベス女王は実行の
署名を渋ったが、遂に1587年メアリーを断頭台にかけた。


プロテスタントのエリザベス女王は、カトリックのメアリーとは不仲であった
が、イングランド王位は彼女の子スコットランド王ジェイムズ6世に譲ること
で忠臣ロバート・セシルなどの重臣も了解し、内々ジェイムズ6世と接触して
いた。

1570年、ヨークシャーに生まれたガイ・フォークスは、波乱万丈のエリザ
ベス女王治世下に多感な青少年時代を送った。

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