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岩山の要塞ジブラルタルの帰趨(2)




要衝ジブラルタル争奪の歴史

 要塞都市ジブラルタルの歴史は古い。
長さ58キロ、最も狭い対岸は14キロという海峡に面したジブラルタ
ルは、ギリシヤ・ローマの時代から、戦略拠点としてヨーロッパ・アフ
リカ・アジアの民族抗争の場であった。

 大西洋から地中海へ流れ込む海峡は、ギリシヤ神話の英雄にちな
んで「ヘラクレスの瀬戸」と呼ばれ、その入口に、あたかも門柱のごと
く聳えている岩山は、対岸モロッコのセウタ島とともに「ヘラクレスの
柱」として有名であった。
 


 AD711年、イスラムの隊長タリクが、ムーア人(べルべル人)を率い
て当時「ヘラクレスの柱」と呼ばれたこの地を占領した。彼はこの要害
を拠点に、イベリア半島に侵入した。以後この岩山は「タリクの山」ジ
ャバル・アル・タリクと呼ばれ、それが「ジブラルタル」となった。

 AD756年にはウマイア家のアブド・アッラフマーン一世が、北アフリ
カからイベリア半島を制圧し、コルドバを首都に定めて、後ウマイア
朝を開いた。
 8世紀から11世紀のイベリア半島(現在のポルトガル・スペインの地
域)は、イスラムの支配下にあった。

 グラナダのアルハンブラ宮殿をはじめ、アンダルシア地方などスペ
インの随所にイスラム文化の影響が色濃く残っているのは、こうした
中世のイスラム支配の背景による。

 後ウマイア朝は国境をフランク王国(フランス)と接していた。
その国境地帯に、ローマ・イェルサレムと並ぶ巡礼地サンチャゴ・デ・
コンポステーラがある。

 10世紀から11世紀に、クリュニー運動(ローマ・カトリック刷新運動)
と関連して、聖地巡礼が盛んになり、聖地サンチャゴや巡礼者をイス
ラム教徒の侵略から守るために、キリスト教徒の国土回復運動(レコ
ンキスタ)が起こった。キリスト教徒とイスラム教徒の戦いが、イベリ
ア半島の処々方々で起こった。

 (注)クリュニー運動については、ノルマン・コンクェストの支援者と
    なったランフランク修道院長(後のカンタベリー大司教)もその
    主要な推進者であった。「見よ、あの彗星を」「邂逅」参照。

 イスラム勢力は次第に半島から追われ、1492年、ナスル朝の首都
グラナダも遂に陥落した。南端の要衝ジブラルタルは両者争奪を競
う場であった。しかし16世紀初頭、遂にスペインはイベリア半島を完
全に奪還した。

スペイン継承戦争の勃発

 ジブラルタルの運命が変わったのは、今から約300年前である。
 
 AD1700年、スペイン王カルロス2世が没したが、王には子がなく、
フランス王ルイ14世の孫フィリップ・ダンジョーがフィリッペ5世として
即位した。
 
 この継承に反対したのが、オーストリアのカール大公であった。
他方、貿易や海上権に脅威を感じた英国・オランダは、スペイン王位
継承権を主張するオーストリアと、3ヶ国連合を組み、スペイン・フラン
スに宣戦した。スペイン継承戦争の勃発である。

 余談ながら、この戦争で活躍したのが英国の将軍マーボロ公(チャ
ーチル元首相の祖先)であった。彼はブレンハイムの戦でフランス・
バイエルン連合軍を破り、戦局を逆転させた。その戦功によりアン女
王からオックスフォード郊外の別邸を下賜された。現在ブレナム(ブ
レンハイム)宮殿と呼ばれており、チャーチルの生家である。

 スペイン継承戦争の推移は省略するが、このとき英国・オランダ連
合艦隊は、ポルトガル沖でスペイン・フランス艦隊を破り、1704年、軍
港ジブラルタルを占領した。

 この時スペインは英国よりオーストリア軍への降伏を選び、大公旗
を掲げたが、英艦隊のルク提督は、怒ってこの大公旗を引きずり降
ろし、英国旗を掲げた。市会と住民は、英国の支配を嫌い全員隣町
に移住したという裏話がある。

 1713年、スペイン継承戦争は終わり、ユトレヒト条約が締結された。
この時英国は、スペインからジブラルタルを、フランスからカナダの
一部などを獲得した。

 スペインの条約解釈は、ジブラルタルの要塞など軍事施設の使用
権を認めるが、領土の主権はスペインにあるという見解であった。
 そのためスペインは、1727年、1783年と立て続けにジブラルタルの
奪還戦争を仕掛けたが、いずれも成功しなかった。

 以後300年、要塞都市ジブラルタルは英国の海外領土となり、特に
地中海やアフリカへの覇権主義政策の推進上、重要な拠点となった。
今はNATOの基地でもある。

大英帝国植民地主義の清算

 スペインはジブラルタルの主権を主張し何度も国連に返還を訴えた。
英国はこれに対して非協力的態度を貫いてきた。

 例えば、1954年のエリザベス女王のジブラルタル訪問(コモンウェ
ルス訪問最後の寄港地)や、1982年のチャールズ皇太子ハネムーン
の出発地とするなど、スペイン政府の取りやめ要望を無視し実行した。

 このため一時は英・スペイン関係は悪化したが、その後両国の政権
の交代などあって正常化した。

   EUの成立は、欧州各国の国境意識を大幅に払拭している。
 21世紀の現在、ブレア首相のUK政府が、ジブラルタル住民の民意
を尊重するとはいえ、基本的にはジブラルタルの統治権を本来のス
ペインに返還しようという基本姿勢ははっきりしている。

 スペインはジブラルタルの返還を300年求めてきたが、意外にもス
ペイン系である住民が、英国・スペインの暫定的共同統治案に反対
して、英国海外領土(つまり自治植民地)であることを望んでいる
のは興味深い。

 ジブラルタルは現在軍港であると同時に、自由貿易港としても賑わ
っている。もしかすると自由貿易港のメリット享受の問題もあるのか
もしれない。

 いずれにせよ300年間の懸案事項である。時間は掛かるであろうが、
ジブラルタルの主権の問題にもブレア首相の英断が見られるようだ。
大英帝国植民地主義時代の負の遺産は、ブレア首相により確実に
清算の方向にあるようだ。



 ジブラルタル問題は他人事ではないような気がする。
北海4島は、地理的にも歴史的にも日本の領土であろう。
ロシアから返還される日が早くくればよいなと思う。

 皆さんは、この歴史の推移と現在を、どうご覧になりますか。



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