ケルト文明の興隆とブリテン・アイルランドのケルトについて


(東京都美術館作成のパンフレットより抜粋)


古代ヨーロッパ繁栄したケルト文明は、ケルト人が文字による記録を残さなかっ
たため、長い間古代ギリシア・ローマ文明の陰に隠れていた。
しかし近年の発掘調査により、ヨーロッパ文明の基層をなすものとして、関心を
集めている。

パリ、ウィーン、ミラノなどの都市名、ドナウ川、ライン川などのドイツの多く
の川の名前は、ケルトの地名や部族名に由来する。(たとえばパリはパリーシー
部族の居住地であった。)

発掘された美術・工芸品は、ケルト人の社会や信仰、また古代地中海世界との関
わりの様子などを、文字を持たなかった彼らに代わり雄弁に語りかける。


1 ケルトの興隆

ハルシュタット期
大規模な墳墓遺跡が発見されたアルプス山中の町に因んで呼ばれる。
紀元前8世紀から6世紀末にかけて、ブルゴーニュからオーストリアに至る広大
な地域に優れた製鉄技術、武力、経済力を持つ最初のケルト文化圏が形成された。
強大な権力を持つ王族の間でワインが大流行した。

ラ・テーヌ期
紀元前5世紀からドイツのライン川流域、フランスのシャンパーニュ、チェコの
ボヘミアなどが文化の拠点となる。
ケルト民族は中央ヨーロッパ全域から地中海世界まで征服。さらにローマも占領


ラ・テーヌ期のケルト美術は「初期様式」と呼ばれる。シュロ、ハス、鳥、龍、
人面などのモチーフが導入され、コンパスを使って複雑で流麗な文様が描かれた。
ギリシア、イタリアとの接触が盛んになると、新しい装飾芸術の潮流が生まれた。
代表的な作例の女性首長の墓に因んで「ヴァルダルゲスハイム様式」と呼ばれる。
この装飾様式の主役は植物で、花をつけた茎、葉がうねるように連続する。
その律動感こそケルト的感覚の現れといえる。


2 ローマとの対決

紀元前3世紀に入ると、ローマは本格的な反撃に出る。アルプス以南のケルト族
は次々とローマに屈服。
一方ドナウ川流域のケルトはイタリアを避け、マケドニアから小アジアに進む。
「立体様式」と呼ばれるこの時期の装飾表現は、人間、動物、植物、抽象文など
が融合して、何の形を表しているのか分からないまでに変容を遂げ、奇怪な、超
自然の印象を与える。
金属加工技術も頂点に達したこの時期は、ケルト美術の最盛期である。
ハンガリーでは剣の鞘に線刻することが流行。通商のためコインも作りはじめた。

紀元前2世紀初頭、イタリア全土を制圧したローマ軍は、アルプスを越えて、広
大なガリアの地に迫る。東方からゲルマン民族に押され、緊張の高まったケルト
は各地の小高い丘に都市要塞を構築した。この中で整然とした都市生活を営み、
様々な素材の美術・工芸品を大量に生産した。
ローマの影響が強く、ガリア地方では板状に延ばしたブロンズを使った神像彫刻
の制作が流行。コイン鋳造も頂点に達した。

アルプス以南と南仏の属州総督となったカエサルは、ガリアに出兵した。ケルト
の部族は大連合を結成し対抗するが、紀元前52年、決定的な大敗北を喫し、全
ガリアはローマの支配下に下る。
大陸のケルトの時代は終わりを告げたが、その伝統はブリテン島やアイルランド
島で引き継がれた。


3 島のケルト

ブリテンやアイルランドの島嶼地方に大陸のケルトが移住しはじめたのは、紀元
前6世紀頃といわれる。
ローマは紀元前1世紀後半にはブリテン島南部の支配を確立したが、スコットラ
ンド、ウェールズの一部、アイルランドは独立を保った。

大陸のラ・テーヌ美術はそのまま島嶼部に持ち込まれ、紀元前後から新たな展開
を見せる。
人間や動植物のモチーフが多様化し、コンパスを使って抽象的な曲線が変幻自在
に、量感豊かに表現された。
大陸ではギリシア・ローマの影響で、むしろ地味な装飾が優勢になっていたが、
「島のケルト」では、ラ・テーヌの装飾原理が、新たな想像力を得て、華麗に開
花した。

ローマ化を免れたアイルランドでは、ケルト語や信仰、文学など、民族の伝統が
最も手付かずの形で伝えられていた。

5世紀からキリスト教の布教活動が始まり、各地に設立された修道院を拠点に、
部族の伝統に根づいた独特のケルト的キリスト教が発展した。

修道院で制作された豪華な福音書写本は、聖書の物語の挿し絵ではなく、金工品
に用いられた、動物や植物を巻き込んだ組み紐や渦巻きの装飾で埋め尽くされた。
文様は複雑、精緻を極め、無限の変容を繰り返す。
「天使の御技」と讃えられた装飾写本で、ケルトの造形原理は極限に達した。

ケルト美術展の代表的展示品

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