風薫り 走れタチバナ アスコット
(前頁より)
「ねえ、あなた。日本人の名があるわよ、ジュンゾー・カシヤマって」
「エッ、それはオンワード紳士服の樫山さんだ。ニューマーケットに馬
買いに来ているとは聞いていたが、まさかロイヤル・アスコットで走ら
せるとは知らなかったなあ」
「第3レースでクンプウ(薫風)、第5レースでアサマ(浅間)、第6レース
ではあなた、タチバナ(橘)よ。三頭も出走させるなんて、樫山さんすご
いわねえ。
タチバナなんて、なんだか私たちの馬みたいね。」

樫山氏の馬の名前を聞いて、憶良氏こと橘大介氏はいささか、感慨
にふけっていた。
「『橘』と『薫風』とは、懐かしいなあ。こりゃ銀行休んで来たのも何かの
因縁だな」
橘薫り草萠ゆる
ああ玲瓏のこの天地
清き光りに照らされて
幼心もさわやかに
生い立つ我ら若き子よ
ともに学ばむもろともに
憶良氏が歌を口ずさむのを耳にした美絵夫人が、
「それは何の歌ですか?ロイヤル・アスコットの歌とは思いませんが」
「僕の小学校の校歌だよ。まさか『橘薫り草萠ゆる・・・』とアスコットの
スタンドで歌うとは思わなかったなあ。それに『薫風』というのは大学生
のころ下手な散文を書いたときの題なんだ」
憶良氏の故郷は、豊後水道に面した港町で、父の実家は3百年もの
昔から蜜柑作りをしている。
「では今日は何としても樫山さんの馬を応援しなきゃいけませんね」
次頁へ
「ロンドン憶良見聞録」の目次へ戻る
ホームページへ戻る