苦竹に軍需工場があった・・・・・戦時下の生徒たち
仙台三高新聞部文化祭発表
ここに掲載するのは、仙台三高の新聞部が、2000年の激暑の夏に取材から取材へと歩き回ってまとめたものです。 あの徹底的に資源不足資材不足になやまされた時代に、膨大な資材と膨大な人員とを集め消費しながら、作ったものは実は大部分役に立たないものだったということを知った新聞部の諸君は、苦竹の軍需工場とはどのようなものか、そこに集まった学徒動員のひとびとの生活はどうだったのか、資料の掘り起こしを開始したのです。 |
米軍さえ空襲の対象から外した苦竹の軍需工場とは、 |
『nigatake』
いまから60年ほど前、ここにドラマがあった
平成12年度
仙台三高文化祭新聞部 展示発表
仙台三高などかけらもない頃の話です。 今回、この「苦竹」のことを取り上げた切っ掛けは、一人の新聞部員の祖父が軍需工場で働いた経験があるというので、本当に苦竹にそんなものがあったのかということから調べていきました。60年近くも前のことであるということ、当時は極秘事項に入る内容であることから、資料が少なく、取材も難航しました。しかし、最初の資料を下さった高橋さん始め、五一会の中山さんら多くの方々の協力により、この原稿を仕上げることができました。ありがとうございました。 きっかけはどうあれ、取材を重ねることで、その内容を深めていき、新たなる疑問が沸いてくる。このことが楽しいと思えれば、今後も新聞部としてやっていけると思います。 誰かが「客入んないんだろうな〜。このテーマじや。』と弱きになることもありましたが、人間そんなすてたもんではないと信じながら、これからも堅いテーマを追い続けようと思います。 |
『nigatake』 戦後55年が過ぎましたが、その当時の青春群像はどうだったのでしょうか。今回の文化祭で、私達新聞部は地元に目を向け、約60年前にあった軍需工場を取り上げました。そして、そこで働いた経験のある方々に話を伺ってどのような生活ぶりだったのかを中心にまとめてみました。贅沢が染み付いてしまった日本という国が太平洋戦争末期には物資不足や食糧難に見舞われたことは歴史の授業を通して学びました。しかし、実際の体験者の話は想像以上に心を打ちました。物の大切さ、食べ物の大切さ、そして人の命の大切さをもう一度考えていただければ幸いです。 1.歴史的背景
1938年(昭和13年) 国民に対する経済統制の強化が行われ、生活必需品のほとんどが配給制になった。それまでは、国家予算におけ軍事費の割合が5割未満だったのだが、昭和12年には一挙に7割近く(69%)にまで跳ね上がり、その後5年間で約八割(78.5%)になった。そして終戦の前年である昭和19年には、85.3%にまでのぼった。国民生活の苦しさは、極限状態であったのではなかろうか。 このような歴史的背景の中で生まれたのが、陸軍造兵廠の新設計画であった。仙石線陸前原町駅の東側にあった広大な水田地帯を潰して、157万坪(約530ヘクタール)もの土地が工場敷地の対象になった。現在は三分の一以上が民間に買い取られている。 |
2.『nigatake』と軍需工場 1941年(昭和16年) 4月 苦竹に陸軍造兵廠新設決定 「正式名称・東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」 [行員証が仙台市戦災復興記念館にある] 工業都市建設土地区画整理開始 ⇒土地の買上料は一反歩(約10アール)五百円 ⇒国道45号線南側の埋め立て / 東西2.5km 南北1km 6月 日本軍 フランス領インドシナ南部に進駐 7月 満州に70万の兵力集中 8月 米 対日石油輸出全面禁止 12月 マレー半島上陸 ハワイ真珠湾奇襲攻撃<太平洋戦争勃発> 1942年(昭和17年) 1月 日本軍 マニラを占領 2月 日本軍 シンガポールを占領 5月 金属強制回収 6月 ミッドウェー海戦で日本海軍敗北 1943年(昭和18年) 1月 中学校・高等学校などの修業年限1年短縮 2月 日本軍 ガダルカナル島撤退
4月 苦竹養成工員第一期生入所
いよいよ二つの勤労令の公布により、学徒動員が始まり、苦竹軍需工場で武器の生産活動に従事することになる。その当時の従業員総数は一万人にも及ぶ。 |
3.造兵廠・・・もうひとつの学校・・・ (1) 通勤風景 勤務体制が十一時間拘束の二交替制(昼勤と夜勤を一週間ごとに繰り返す)だったために、仙石線(当時は宮城電鉄)の苦竹駅には毎朝満員の乗客が乗降した。当時この周辺には駅がなかったのだが、この工場ができたために「新田駅」を廃止して「苦竹駅」をつくった。苦竹駅には単線にもかかわらず線路の両側にプラットホームがあり、通勤してくる人たちと夜勤明けで帰宅する人たちが同時に乗り降りをおこなった。 [五一会:中山廣信さんの証言] (2) 工員構成 技師、養成工、徴用工、女子挺身隊、学徒動員による生徒・学生たちがおり、魚屋をはじめ八百屋、芸者など様々な職業の出身者がいて、庶民的な雰囲気をかもし出していた。学徒勤労動員のほとんどは県内の旧制中等学校生(13〜17歳)だったが、旧制二高生や東北帝国大学の法文系学生もいて、有意義な交流もなされた。『軍需工場というと悲惨なイメージがあると思うが、世代を越え交流を通して、学校では学べない事をたくさん学んだ気がする。』と言っていた。 [五一会:中山廣信さんの証言] 女子の学徒には古川高女、石巻高女、朴澤学園の他、陸前高田高女など県外(岩手・山形・福嶋)から動員された者も数多くいた。 (3) 宿 舎 家族持ちの工員と事務員は案内、中原、中江、などにあった住宅に、また学徒動員の学生や独身工員と自宅通勤以外の者及び郡部や県外出身の女子挺身隊員などは中江にあった寮に入っていた。もちろん、構内に宿舎と寮が完備されていた。 (4) 食 事 構内中央にあった大食堂〈数千人収容)で食事を取るのだが、主食は大豆と米、コウナゴ〈シラス類小魚の干物)と米の混合で副食に不自由はなかったそうだ。しかし、食べ盛りの学徒にとっては、例えば「芋の蔓の入った茶碗一杯の御飯(米はほとんどなし)と腐る一歩手前の鰯一匹の煮付けくらいだった。」 =五一会:塩津茂さん=では空腹も日常化しており、ー番辛かったとしても無理はない。夜勤の場合は午前○時に夜食があり、白い御飯を丼一杯とおかずに烏賊の塩辛などが付いたが、=五一会:春日清さん=のように「苦手の塩辛がどうしても食べられず、御飯に味噌汁をぷっかけて食べた。」という人もいたようだ。 過労で休んだ人の弁当を食べる為に早食いをしたり、通路脇の枝豆をとって食ぺたりしたことが当時の食料事情の一端をかいま見るようであるが、不足していたのは食料だけではない。物不足も深刻だった。工場周辺の囲囲から発生する蚊に悩むされ、蚊帳の代わりに「ヨモギ」を焚いて対応したり、油で真っ黒になった手の汚れを落とすのに、冷却用の菜種油苛性ソーダ−を混ぜて石鹸を作ったりした。また活字に飢えていた学生たちは造兵廠内の売店に時々入荷する岩波文庫を競って買い求めたりした。中にば独和辞典を買って、ドイツ語を覚えてしまった人もいたという。 (5) 軍需工場 敷地はコンクリート製の塀に囲まれていた。北側と南側には通用門があって、守衛によってボディチェックがおこなわれていた。この工場では、主に、20ミリと12.7ミリの航空機関砲の弾丸を作っていた。この工場は第1から第4工場まであり、その他に養成所(教育工場)や木工場、本部、病院、宿舎、所長宿舎、貯水槽、事務所、大食堂、石炭庫などがあった。 各工場の役割は以下の通り。 第1工場⇒機関砲弾の弾体の製造 第2工場⇒機関砲弾の薬莢づくり 第3工場⇒機関砲弾への火薬装填作業 第4工場⇒機関砲弾の信管工場 教育工場⇒養成工としての訓練を受ける所 木工場 ⇒防火用の柄杓作りなど 工具工場⇒制作工具を作る所 また、構内には、できた製品を輸送するために、鉄道の引込み線があった。二本の引込み線は陸前原町駅まで続いており、そこから仙石線を経由して空軍へ運ばれたという。現在、構内には線路はないが、当時のホームの面影を伝える場所が残っている。 熟練工のような技術と精密さを要求される作業を、それも大正15年製などという古い旋盤機械を使って、ほとんど素人が行っていたのだから、満足いくような製品はごく一部しかできなかったらしい。 終戦直後、進駐軍がこれら造兵廠の不良品や日本の兵器、建物などを取り壊したり、焼却したりして、今の宮城野原総合運動場の所に、直径およそ100mの大きな穴を掘って埋める作業をした。 こうして「苦竹軍需工場」はその短い生涯を終えた。着工から、わずか4年半のことだった。 戦後55年を経過した現在、陸上自衛隊仙台駐屯地には当時を偲ばれる物はまったく残っていないのだろうか。 陸上自衛隊広報官の太田さんによれば、「旧陸軍時代の物はほとんど残っていませんね。ですが、(前述の)引込み線のホーム跡や当時の建物を利用した施設を米軍から受け継いで、今も使用しているものが、いくつかあるんですよ。」そう言って案内してくれた。 ◇倉 庫1 ⇒当時の状態を残す唯一の建造物。しかし、あまりにも老朽化が進んで危険であることから、近く取り壊す予定とのこと。側に寄って見ると破損が激しいことがわかる。 ◇煙 突 ⇒ダイオキシン問題の発生で使用中止。数本残っている。 ◇倉 庫2 ⇒現在も倉庫として使用。窓枠などはピンで止めてある。入り口を見るとかなり古い。 ◇排 水 ⇒現在も使用。 ◇貯水槽 ⇒埋めてしまったのがほとんどだが、一部残っているのは当時と同じ場所。カルガモが数羽、のどかに泳いでいた。 ◇H形建築物⇒上から見る地Hの形をしている。造兵廠の頃に建てられ、立派に補修して使っている。現在は「業務班衛生科」として歯の治療など健康管理をするところ。 (6) ひとときの安息 辛い作業の合間の休憩時間を学徒の人達はどう過ごしたのか。ドラム缶に薪や廃油を燃やして、団欒を楽しむのが一番で、色々な職種の人達から苦労話しを聞かせてもらったりした。あるいは燈火管制下の暗い光の下で、本を読んだり、先輩から教えてもらった歌を合唱したり、卓球などもできた。夜勤明けの午前中は軽く眠って、午後から映画を見に行く人も多かったようだ。「姿三四郎」「無法松の一生」などの邦画のほか、国分町の日乃出映画劇場ではフランス映画やドイツ映画も見れた。 |
4.万人の中の一人の死をとおして・・・ 昭和19年11月14日、痛ましい事故が起きた。気仙沼中の阿部享くんが、足を滑らせてパーカー槽に転落したのだ。パーカー槽とは弾丸や薬莢を洗浄する為のもので、縦1メートル弱・横2メートル弱・深さ1メートルくらいの長方形の水槽である。蒸気管を配管した容器に薬液(稀硫酸)を入れ、沸騰させた中に落ちたのだから、全身の熱傷は計り知れない。廠内病院に運びこむも、帰らぬ人となった。同世代の仲間が命を落とすという事故を耳にして、いっしょに作業をしていた学徒動員たちの悲しみはいかばかりであったであろう。阿部くんが亡くなる時刻、帰宅するため苦竹駅にいた大勢の人々が東の空に飛んで行く大きな流れ星を見たそうだ。 =五一会:目黒嘉憲さん・高橋東衡さん= その死を悼んで、土井晩翠が一首を詠み、その色紙が霊前に捧げられたが、今はない。人の死を身近に感じるなどそうあるものではない。なのに、メディアを通して、明らかに人の死は毎日伝えられている。高校生も確かにそれらに関わりを持つ世の中だ。だから、人の死は身近になった。はたしてそうだろうか。 戦争だって同じじゃないかと言うかもしれない。でも違う。感じ方が、そして、受け止め方が・・・目の前で人が死んでいくのだから・・・心で感じていたはずだ。人の死を、そして痛みを・・・ 今はどうだろう。同じように人の死は毎日伝えられている。ただそれはメディアを通した情報という、心を持たない伝達にすぎない。画面や活字を通しての出来事は、物理的に身近でありながら、精神的にはまったく心に届いていない。"戦争の悲惨さ"や人の命の大切さ"は知識にすぎない。よく「先人に学ベ」という言葉を耳にしたが、我々はいったい何を学んできたのであろう。 情報はあるのに情けがない! |
『苦竹造兵廠』に関する参考文献と資料
完 |