朝 顔 通 り part2

☆2011/02/21 更新  

堀辰雄読書記録   2・21
山本周五郎読書記録 
サン・テグジュペリ読書記録
夏目漱石読書記録           
佐藤多佳子   「黄色い目の魚」
          「一瞬の風になれ」
アガサ・クリスティー読書記録
村上春樹   「羊をめぐる冒険」
恩田 陸   「月の裏側」
北方謙三   「楊家将」
海堂 尊 「チーム・バチスタの栄光」

 

堀辰雄読書記録    2・21

 学生時代に読んだけれども、記憶にあまり残ってない。「死」というもの?こと?が気持ちにいつもあるようになったせいか、もう一度読んで、確かめたくなった。何を?それはもひとつ自分でもはっきりしないけれど。

「ルウベンスの偽画」「聖家族」「美しい村」  
 短編か、長くて中篇。だから読みやすいはずなのに、時間がかかるのは、一行一行が、緻密だから。絵を言葉で描いている、そんな感じがするのは、この三篇の題名を見れば、歴然だ。たぶん作者自身にその意識があったということだろう。ほんとに上品で、貴族の子弟みたいな印象を与える作品群だ。で、内容については、やはりイマイチ、ひとつひとつの違いが、印象に残らない。私小説というのは、こういうことか。ぜんぶひっくるめて一遍?
「風立ちぬ」
 これはいいなと、やはり代表作だなと、読んでいく途中から思う。構成がしっかりしている。考えに考え抜かれて作られている。それにしても風景描写のこの上手さは、なんだろう。軽井沢周辺の風景が、映像そのものように展開される。病状が確実に死へとすすんでいく婚約者と、ともに暮らしながら、自然の中でしずかにともに生活できることの幸せ、それを一つの理想の画として描いている。彼女の中の苦しみや葛藤は、露骨には出てこない。今ある状況を、今あるものとして受け入れることのできる彼女の強さ。軽井沢の自然の中で、彼もまたすべてをしずかにいけいれる。
「菜穂子」
 これまでの作品が「私」からの視線で書かれていたのに、この作品では、さまざまな登場人物の内部に入り込んで書かれている。そういう意味では、画期的である。ただ相変わらず高原のサナトリウム、そして高原の村。
 今の自分は仮の生、自分本来の生き方があるはずだ、しかしそれが何か分からないし、分かりそうにもない、わからないまま、何もできないまま自分は生涯を終えてしまうのではないか、という空虚感、絶望感にとらわれてしまっている、明と菜穂子。
 しかし、明は身を痛めつけた放浪の後、考えつくのは、『おれの過ぎて来た跡には、一すじ何かが残っているだろう。それも他の風が来ると跡方もなく消されてしまふやうなものかもしれない。だが、その跡には又きつと俺に似たものがおれのににた跡を残して行くにちがひない。或運命がさうやつて一つのものから他のものへと絶えず受け継がれだ。』
 ・・これがテーマのようだ。そして、明の後を継ぐのは菜穂子であると暗示されて、話は終わる。
 

 

山本周五郎読書記録    9・22

 周五郎は若いとき、一時期熱中した記憶がある。思い出して、いくつか呼んでみる。

「青べか物語」  
 これはおもしろかった。作者にとって、ここに描かれているのは一つの桃源郷なのだろうか。貝と海苔と釣場で知られる漁師町。地理的に孤立している。ここに出てくる人間が抜群に面白いというか、変わってるというか。その言動、何が出てくるかわからない、のにもかかわらず、当時の下町なら実際にいそうな気がする。いや、もしかしたら、今も、その辺にいそうな気がしてくるぐらいにリアリテイがあるのだ。
読み終わるのが惜しくて、毎日少しずつ読んだものだが、今回読んでみて、やっぱりおんなじ読み方になってしまった。

 

サン・テグジュペリ読書記録

 『星の王子様』の作者、サン・テグジュペリは、職業として飛行士であり、飛行士として優れた業績を残していることは、意外と知られていない、かもしれない。学生時代に読んだ印象が残っていて、懐かしくて、再度読んでみた。
 サン・テグジュペリ、知性と勇気と友情と断固たる意志をもつ男。

「夜間飛行」
 これではない、記憶にあるのは、『人間の土地』の方だと、読んでいて、気づいた。でも一気に読んでしまった。飛行士ファビアンが台風の眼の中を一気にのぼっていき、暴風雨の上に浮かび上がったときの、描写の美しさ。「あまりにも美しすぎる・・・・・彼らは、冷たい宝石のあいだを,限りなく富める者になりながら、死を宣告されてさまよっていたのだった。」
 もう一人の主人公は支配人リヴィエール、郵便飛行の夜間飛行を開拓し統括し、推し進めた中心人物という設定である。彼の哲学「人間を識るためには彼らを愛さなければならないが、それを彼らに言ってはならない」は、ジッドの序文によって、有名になってしまった。 
 全体に詩のような表現がちりばめられている。

 ○人間はまた、その貧しさによっても豊かであり、この地で、窓辺か らもはや変わることのない光景をながめる単純な人間であることに よっても豊かなのだ。
 ○生きているものは、生きるためにすべてを押しのけ、生きるために それ自体の法則を創造してゆく。それはどうしようもないことなの   だ。     
 ○「規則というものは」、とリヴィエールは思った。「宗教の祭式のよ うなものだ。不合理なものようだが、人間を鍛えあげてくれる。」

 

 

夏目漱石読書記録

 久しぶりに「こころ」全編を読んだ。「先生」の心の緻密な描写に驚嘆した。明治時代の「自我」の発生と成長に関わる問題、漱石が「文豪」と呼ばれる理由、まだまともに読んだことがない感じだ、等々から
漱石を読み始めた。今ごろ、と言うなかれ。

「草枕」
「山路を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。。。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
 有名な出だし、漱石は読まない人でもこれだけは知っている。その一人として私はこの作品を随筆だとばかり思っていった。そして今日まで読まなかった。つまり今回初めて読んだ。芸術論議がかなりある。効用という観点でものを考える習慣がすっかり身についている自分を、これで知った。
 それにしても、随筆なぞ読む気分にさせときながら、突然、私などにはとてもわからない漢語がばんばん出てくる、かと思うと、今度はいきなり英文になる。何なんだこれは、と叫びたくなる。注を参考にしながら読み続けるが、ついに、飛ばし読みの体制に入る。志保田の御那美さんが出るところから、いくらか小説らしくなる。
 それにしても、愛子の大梅寺が出たのには驚いた。

「二百十日」
阿蘇山に登った、ちょうど二百十日の嵐が来た、という小説。「草枕」もそうだが、こんな題材で小説が成り立つの? という作品。びっくりこける。描写力がすごい。会話がおもしろい。漱石独特の会話のおもしろさ。

「野分」
けっこう構成を考えて書かれた作品だと思う。漱石は明治元年の前年に生まれたそうだから、文字通り明治の成長とともに、日本の変化を見ながら育ったわけだ。この作品は明治40年発表なので、漱石満40歳、明治も落ち着くところが見えてくる。当時の世相と、漱石の批評とが見える作品。白井道也の演説がおもしろい。高柳君の「ひとりぼっちだ」が効いている。道也の奥さんの愚痴も身につまされる。今もおんなじだよな、と読者はつぶやいてしまいそうだ。

「彼岸過ぎまで」
「彼岸過ぎまで」「行人」「こころ」が三部作と呼ばれる理由が、読んでみてよくわかった。前ニ作は、「こころ」を生み出すまでの、「こころ」に至る過程であった。

「行 人」
これで後期三部作を読んだわけだが、『彼岸過ぎまで』『行人』『心』と、時代への眼、人間への眼が、確実に深化していくのがよくわかる。形においても、手紙の使い方においても、そうであった。そしてより大きな転換は、『行人』の最終章「塵労」にあった。『現代日本の開化』を読み直そうとも思った。最終作『明暗』も読もうと。

「道 草」
当時、これを私小説として非難する人がいたというのを解説で読んで、驚いた。なんにも知らないで読んで、ずいぶんと構成がしっかりしていて、人物造形もしっかり作られていて、テーマも考えねられていて、つまりどう考えても、創作技術上のこれまでの集大成である、という印象を受けたからだ。そういう意味で、とにかくおもしろかった。なんだ、この健三は、と、思わず笑ってしまうこともたびたびあった。当時の社会の中で生きざるをえない人間の生き様が、漱石が創作的に設定した人間関係の中で、如実に描かれているように思うのだ。
    ○「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起こっ    た事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも    自分にも解らなくなるだけさ。」
    健三の口調は吐き出すように苦々しかった。

「明 暗」
おもしろかった。具体的に書いているのだけれど、きわめて象徴的な、まるで神話のような造形があって、この未完は、ほんとに惜しい。
女性の映像がすばらしい。また、日本の小説にはめずらしい「小林」の人間性も、この話をどんなふうにもっていく働きをするのか、ほんとにたのしみ。さあ、というところで、終わってしまった。構成力、造形力がどんどん増してきて、どんな作品がうまれてくるのだろうという、そういう作家だったのだ、と、思った。昔、高橋和己という作家がいて、どんなスケールの作品を生むのだろうと、私なんか、あぜんとしていたところ、早くも亡くなってしまったということがあったが、そのことも思い合わせると、この人達にとって、作品を書くということは、かくも命を削るものなんだなと、つくづく思う。

 

佐藤多佳子   『 黄色い目の魚 』
          『 一瞬の風になれ 』
「黄色い目の魚」
これは、外女の生徒に勧められて読んだ本である。奇妙に魅力的な高校生が出てくる。それがまた実によく描かれているから、まったく新鮮だった。なんだこれは、と思った。
 しばらくして、今回また読んだ。おもしろかった。二回目だから目新しさはなく、普通に生きてる人間として読めた。絵に特別な才能、描く側の才能と、見る才能と、二人の、一般的に見たら風変わりな高校生が出会って、魅かれていく、その辺りは、実にぷろふぇっしょなるだ。上手い。周囲の人物も、動いている。

「一瞬の風になれ」
第28回吉川英治文学新人賞、2007年本屋大賞、この文句に引かれて一冊目を買って読んでみたら、とんでもなく面白い本で、すぐ二冊目、三冊目と買って、あっという間に全編読み通してしまった。「黄色い目の魚」と同じ作者と知ったのは、しばらく経ってからだった。あれは絵、こちらはアスリート、短距離走者の高校生だ。中学時代普通のサッカー選手が、高校で陸上部に入り、短距離を始め、三年かかって、次第にスーパースターへの道を歩み始める。まずはよく調べたもんだ。そしてよくもリアルに書いたもんだ。読んでて、自分が走ってる気分になってしまうだなんて、とんでもない本だとおもった。そして、この作者、これから、どんな作品を書くようになるのかと、思った。

 

アガサ・クリスティー読書記録

 推理小説を楽しむということがよくわからないので、とにかく読んでみようと、始めた。初心者の素朴な読書記録。

「オリエント急行の殺人」
私が読んだ中では、最高傑作だね。お見事と、うならざるを得ない。
この列車、オリエント急行という設定がすごい。確かこの間終わってしまった国際列車だ。密室殺人なのだが、じわじわとくる謎解きの醍醐味みたいなのがある。すげえと思ってしまうカラクリだった。

「ねじれた家」 
これまで読んだ三冊のうちでは、抜群におもしろかった。文章に自由さがある。息がつける。そうして読めるのがよかった。人物のキャラクターも面白かった。犯人のキャラは、現代ではその辺にいっぱいいそうで、怖い。

「そして誰もいなくなった」
題名の奇抜さにほれた。ほんとにいなくなるのだが、初めに設計を引いて、その設計にそって、外れないように、慎重に書き勧めていくような窮屈さがあり、私にはあまり楽しめなかった。

「ひらいたトランプ」
ブリッジの詳細な説明が幾度も出てくるが、ブリッジを知らないものには、そこをとばすしかなく、したがって緻密な推理を楽しむということからは、ちょっと遠かったかな。

 

村上春樹   『羊をめぐる冒険』
恩田 陸   『月の裏側』
 水が、本人も気づかないうちに、人間を盗み、再生して送り届ける話。これが『月の裏側』。悪魔のような羊がいて、人間の中に入り込み、操る、というのが『羊をめぐる冒険』。

 この二つをならべたのは、偶然に続けて読んだからだ。そして材料の傾向としては、おんなじ方向の気がしたからだ。でも作品として出てくると、こんなに違う。
 いろいろわかるには少し時間がかかるかもしれない。まず村上春樹の文章はやわらかくて、恩田陸のこの作品の文章は固い。なぜだろうか。リアリテイへの取り組み方が違うからだ。恩田は写実的に描くことでリアリテイを出そうとし、村上は、心情の描き方でリアリテイを出そうとしている。だから恩田のこの作品の文章はひたすらまじめであり、一方、村上の文章には時折遊びさえ感じられる。

 ヒロインについて、あまり意味の無い比較。『月の裏側』の藍子は、意外とどろどろしていたりするが、何かちぐはぐな存在である。『羊をめぐる冒険』に登場する女性は、みな妙に透明で、存在感が希薄あるが、耳の彼女は、透明感が成功していて、とても魅力的だ。だから、最後の、作品からの粗末な消え方が、私は気にいらない。

 双方とも怖い世界であるが、怖さの質が違う。一方は怖いだろう怖いだろうと言う怖さで、一方は・・・なんだろう?

 ヒーローは、性格としては、とても似ているような気がする。今は、このような人物が主人公としてもてはやされているのだろうか。どこかボーツとしている。あまりまじめに人生を生きていない。どこかまわりの者とペースが合わない。そのくせ、いざというときには、すごい切れ味を、一時、示したりする。そしてまた、元にもどるのである。

 おもしろいけど、でも、どうしてこんなこと、まじめに一所懸命書くんだろう、と思ってしまったのが、『月の裏側』だった。そう思わせない分だけ、村上の方が巧者ということか。

 

北方謙三    「楊家将」
         PHP文庫   上¥648   下¥619
 中国で『「三国志』を超える壮大な歴史ロマンとして人気の『楊家将』。日本では翻訳すら出ていなかったこの物語だが、舞台は10世紀末の中国である。宋に帰順した軍閥・楊家は、領土を北から脅かす遼と対峙するため、北辺の守りについていた。建国の苦悩のなか、伝説の英雄・楊業と息子たちの熱き闘いが始まる。衝撃の登場を果たし、だい38回吉川英治文学賞に輝いた北方「楊家将」、待望の文庫化。・・・・・・・・・・・・・・・                 帯の宣伝文より
 面白かった。この面白さは、日本国内という話では出てこないよな、とおもいつつ読んだ。ロマンが空間の広大さを必要としたとき、日本の作家は「クインサーガ」を初めとして、ファンタジーの方面でその力を発揮してきた。そのようにして力をつけてきて、今度は、小説は、外国にその題材を求めるようになったようだ。イタリア、フランス。そして中国。宮城谷昌光の一群の作品には、私もはまったけれど、『北方三国志』『水滸伝』『楊令伝』等々(みんなとっても長い)の北方謙三の中国物の面白さは、また格別である。娯楽作品としては飛びぬけている。どうせつくりものの世界だから、熱中したって、作者は都合で話を作ってるだけだし、そこから何かが得られるわけじゃないし、と、最近人生にふてくされている私は思うのだが、それなのに、そんな気持ちふっとばされて、イッショケンメイ読んでしまうのだな、これが。

 『楊家将』に戻って、英雄その1、楊業。戦の神様扱いである。その宿命のライバル、耶律休哥がその2。楊業に翻弄されながらも、最後には楊業を撃つ。楊業の子供達がまた一人ひとりすごいが、その英雄としての活躍は次号「血涙」まで待つとして、その前に遼の蕭太皇、いわば女帝なのだが、この人、すごい。一方、宋の帝は、なかなかいいのだが、肝心のところで、でっかい判断ミスがでる。困った皇帝。

 とにかくあの広い大陸広野の騎馬隊の闘い。その裏に潜む権謀術数、英雄の力を殺ごうとする。だからなおさら英雄達がかっこいい。男は夢中になる。最後は死ぬ。死に方が実に潔い。こういうのに、日本の男である私は夢中になる、みたいだ。

 

海堂 尊敬   『チーム・バチスタの栄光』
 東城大学院医学部付属病院で発生した連続術中死の原因を探るため、スタッフに聞き取り調査を行っていた万年講師の田口。厚生労働省の役人・白鳥のとんでもない行動。二人の活躍?で次第にあきらかになる一面。・・・医療小説の新たな可能性を切り拓いた傑作。
                     ・・・・・帯の宣伝文よりまとめる
 初めて読んだときは、夢中になって読んだ。新人がなんでこんな面白いの書くんだ、とうなったくらいだ。今回久しぶりに読んでも、やはり、おもしろい。現役の医者が、医師としての仕事をはたしつつこのようなすごい小説を書くなんて、私の常識を超えている。映画になったり、テレビだったりして、内容は一般化しているわけだけれども、そして、田口・白鳥コンビはシリーズ化しているわけだけれども、でも、このおもしろさは、二度とは出せない、つまり、これを超える田口・白鳥コンビはない、と思う、そんな切れ味がある。新鮮さがある。

 高階病院長、藤原看護師、もいい。大友看護師の裏表もいい。

 戻 る