鉄朗は、緑を抱きかかえたまま部屋の鍵を開けた。緑は一言も話さず、ずっと俯いたままだ。まだ微かに震える、愛しい恋人の身体をベッドに降ろし、寝室を出て濡れたタオルを持ってきた。
「緑、身体拭くか?」
そっと手を伸ばして身体に触れようとすると、緑は逃げるようにベッドを降りて、部屋の隅にうづくまった。
「緑――?」
どうして逃げて行ってしまうのか、見当もつかない鉄朗は、哀しげな顔をして緑を見つめた。緑はただ、自分の汚れた身体を、鉄朗に触られるの事が嫌だった。鉄朗も汚れてしまうように感じたのだ。
しかし鉄朗はそんな緑に再び近づき、怯える緑を抱きしめた。
「どうして逃げるんだ?」
鉄朗は緑の顔を包み込み、涙に濡れている頬を手のひらで拭ってやった。そのたびに緑の身体は震え、鉄朗に抱きつきたい衝動を押さえていた。
「テツ……テツ……」
緑は白く細い手を伸ばし、鉄朗のシャツを握った。
「大丈夫だよ、大丈夫――」
その手を握り返し、鉄朗は力強く緑の身体を抱きしめた。
ずっと心配し、探していた緑が自分の手元も戻って来たことが、鉄朗を安心させ、そして幸せにもした。
感じることができる確かな存在に、鉄朗はたまらず緑を抱き上げ、ベッドに運んだ。しかし緑は、先ほどから何かに懸命に耐え、潤んだ瞳を鉄朗から逸らしている。
(おかしいな……)
緑の様子に、鉄朗は首を傾げる。些細な変化でも、見逃す事はない。それだけ、今の鉄朗には緑しか見えていなかった。
「緑、どうかしたのか?」
シャツから忍び込ませていた手を引き抜き、鉄朗は逸らされている緑の視線を、自分に戻させた。
「おれには何も隠さず、すべて言って欲しいよ。どうしたんだ?」
「……あいつに……、なにか飲まされた。たぶん、催淫剤だけど」
「催淫剤!?」
普段聞きなれない名前に、鉄朗は驚きを隠せない。
充は緑と同じく、麻薬のバイヤーもしていた。その中には、もちろんこのような薬も含まれている。ただのドラッグではなく、セックスを楽しむための薬も売っていたのだ。
緑にとって、このような経験は初めてではない。客の中には、こうして催淫剤を使い、セックスを楽しむ人間もいた。
「だから……、今は、放して――」
どうにもならない熱を持て余し、緑は困惑気味の表情を鉄朗に向けた。熱い欲望が、緑の身体を支配する。
「愛してる、緑。今、永遠を誓ってもいい」
「テツ?」
突然の鉄朗の告白に、涙が浮かぶ瞳を見開き、愛する人の顔を緑はそっとなぞった。
「すべて受け止めるって、何度も言った。緑の人生は、まだまだ長いよ。その人生すべて、俺にくれないか?」
真摯な眼差し、真摯な言葉。
決して嘘が混じっていない、鉄朗の言葉に、緑は胸の高まりを感じた。
この汚れきった自分の過去も未来も、すべて欲しいと言ってくれている。こんなちっぽけな、価値のない人生を欲しい――そう言っている。
「テツ……」
緑はもう、高まる愛しさを押さえる事が出来なかった。ずっと求めていた、永遠。その誓いを、愛する人から告げられた。緑はまるで今、生まれた子供のように、大きな声で泣いた。
催淫剤を飲まされた緑の身体は、少し鉄朗に触れられるだけでも激しく反応し、恐ろしいほどの快感が、緑の身体を支配する。
「んんぁ……、いやぁ、テツっ! ああっ、んぁ……」
鉄朗の指先から逃れようと、無意識のうちに身体を捩るが、力強く腰を押さえつけられてそれもままならない。
「あっ! んっ……、テツ……、テツっ!」
緑は力の入らない拳で、鉄朗の背中を叩きつけてみたが、効果はなく、より一層扱き上げられて再び絶頂に追い上げられた。
「いやっ! テツ――」
髪を振り乱し、爆発しそうな己の欲望を懸命に押しとどめ、緑は泣き声を上げた。
「緑、出せばいいから。我慢するな。苦しいだろ?」
「あっ、あっ! ああぁっ……!!」
白濁した欲望を受け止めた鉄朗は、汗が滲む緑の顔を包み込んで、優しい口づけを与えた。
「っく! んん、テツ……。怖いよぉ……」
いくら放っても、あとからあとから涌き出てくる欲望に怯え、緑は鉄朗に助けを求めた。
「大丈夫だよ。俺が受け止めてやるから、何度でも出せばいい」
「はぁ、んっ! やだぁ、ああっ!……テツ」
鉄朗は、薬のせいで苦しむ力の身体を少しでも楽にしてやろうと、そっと身体を開き、熱を出させてやった。
「んん……、テツ――。やぁ、ああん」
充が緑に飲ませたのは、かなり強力なものだった。興奮性もあるので、緑は自分を手放さないようにするのに、懸命だった。理性を手放せば、楽になれる。しかし、鉄朗の前で、これ以上の痴態を曝すのは、どうしても嫌だった。
「もう、いいから……、ね。テツ……、ああん、ああっ」
緑は震える自分の身体を抱きしめ、鉄朗から与えれる快感を受け止めていた。
「んんっ、もう……、もう、あぁっ……んあぁ」
「愛してるよ、緑。ずっと愛してる……、一緒にいよう」
「うん……、うん」
二人は抱き合ったお互いの肌の温もりを感じ、緑の溢れる涙はシーツに吸い込まれていった。
5
翌日、昨日の出来事が嘘のように空は晴れ渡り、人々を日光が射していた。当然のように鉄朗と緑が暮らしている部屋にも朝は来ていた。
しかしいつもは鉄朗より早く起きているはずの緑は、ベッドの中で静かな寝息を立てて眠っていた。鉄朗はそんな緑の寝顔を、愛しそうに見守っていた。
「愛してるよ」
そっと耳元で囁き、額に口付ける。
静かな部屋に、突然来客を告げるチャイムが響き渡った。鉄朗は仕方なしに緑のそばを離れ、玄関に向った。
「はい、どちらさまで……」
そこには充の姿があり、俯いたままじっと地面を睨みつけていた。
「なにか用?」
鉄朗は怒るでもなく、問いかけるように充に来訪の理由を尋ねた。
「緑は?」
「まだ眠ってるけど」
「そう……」
短いやり取りの後、また沈黙が降る。
「上がっていくか?」
そう言って、鉄朗は部屋の中に入っていき、また緑のそばに戻った。
充は鉄朗の思いがけない誘いに、驚きを隠せなかった。昨日自分がしたことを許すわけがないと、充は当然のように思っていたのだ。
「怒らないのか? 俺のこと」
眠る緑を見つめつづける鉄朗は、充の言葉に優しく微笑み、緑の手を握ったままで振り返った。
「だってレイプ、したんだぜ? 緑を。あんたの恋人だろ?」
力ない声を発し、握る拳にさらに力を加え、充はじっと鉄朗の目を見据えた。
鉄朗は怒ってないわけではなかったが、緑はこうして自分の手元に戻ってきた。変わらぬ綺麗な顔を、鉄朗に見せてくれている。
それだけで十分な気がしたのだ。
ただそれだけで、鉄朗は幸せだから。
いまさら充を怒鳴りつけ、殴ったとしても、それは緑をさらに傷つけることになるんじゃないか、とも思ったのだ。
「あんた、すごい人だな。本気で緑のこと、好きなんだな」
苦笑する充を、鉄朗はだたじっと見ているだけだった。
否定も肯定もしない。
「おれはずっと、緑のことが好きだった。本人に言った事は、なかったけどな。あいつも俺と同じで、結構な数の客の相手をしてた。あの顔だし、客が途絶えたことはなかったよ。でもどんな男に抱かれてても、緑は綺麗だった。どんなに身体を汚されても、俺の目にはすごく光ってるように見えた」
充はそこで一旦言葉を切り、一息ついて、また口を開いた。
「俺、あんたに嫉妬したんだ。緑は、俺には一度も心を開いてくれたことはなかった。それがこの前、あんたと一緒にいる緑を見て、無性に悔しくなって、緑が憎くなった。俺はダメで、あんたならいいのかって」
充は次第に言葉が詰り、こみ上げてくる涙を、懸命に堪えた。
誰もいない部屋で、いつも声を殺して泣いていた。子供の頃、声を上げて泣くと必ず母親に殴られていた。そのトラウマが、今でもなお残っている。
「羨ましかったのかもしれない。緑が、日の当たる場所であんたに笑いかけてるのを見て、悔しかった。俺には、そんなふうに笑える人間が、いないから」
溢れてくる涙を止められず、充は自分の膝に顔を埋め、声を殺した。鉄朗はそっと繋いでいた緑の手を離し、充の元へ歩み寄った。
「充君。君にもきっと、心から笑える相手が現れるよ。まずは、自分から心を開かなきゃ、誰も心を開いてくれない」
鉄朗は手を伸ばし、充の顔を上げさせた。
口唇を噛み締め、濡れた瞳を向けた充。その瞳はひどく傷つき、悲しみで溢れていた。
「出会った時の緑も、充君みたいに傷ついてた。俺は、緑を守ってやりたいと、心から思った。愛して、大切にして、心を開かせた。でも緑も、自分から俺に、心を開いて接してくれたんだ」
出会ったばかりの緑の姿を、鉄朗は目の前に浮かべた。ケガをしていた緑を、なぜだか連れて帰った。そうしたいと、その時は思ったのだ。
この世に運命があるならば、きっとこの出会いは運命なのだろうと、鉄朗は思う。あの時、あの場所で緑を見つけなければ、きっと一生出会うことがなかった。自分のすべてをなげうってでも守ってやりたいと思う人間を、見つけることが出来た。その相手が男でも、そうしたいと思うのだ。
「人は誰でも、日向に出られるよ。自分がそうしたいと、強く願えば願うほど、そうする事が出来る。誰にでも、可能性はあるんだ。緑は君よりも、その時期が早かっただけだ」
充は鉄朗の瞳を、じっと見つめた。
優しさが、瞳にも溢れている。言葉の一つ一つに、力強さを感じる。
「もっと早く、あんたに会ってたら、少しはまともな人生、歩めたのかもしれないな。どうあがいても、今までの俺の人生を、クリアになんて出来ないけど」
そっと視線を移し、充は緑を見た。
充の瞳に二人は眩しくうつった。でもまだ、これからがあるんだと鉄朗から教えられた。
人生にリセットは効かない。
でも前を向いて歩くことはできる。
緑が暗闇をさまよっていた時、鉄朗という光を見つけて暗闇を抜け出したように、誰にでも目指すべき光はあるのだ。
二人はいま、遥かなる道に向って、手を繋いで歩いている。
これからの人生をともに歩むために、苦労を、喜びを、悲しみを共有するために、繋いだ手を離さないようにするためにいまは、時間を共有している。
永遠を信じて。。。。。。
The End |
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