Little Memory 〜思慕〜 |
玄関を開けると、ムッとくる空気が緑を襲った。今はもう夏が近づき、日が傾くのも遅くなった。緑は窓から差し込む夕日に目を細めながら、空気を入れ換えるため、窓を開け放った。 「暑いなあ……」 額の汗を拭いながら、外を見やった。 道路では、小さな子供が二人、サッカーボールを蹴って遊んでいる。そんな微笑ましい光景を、緑は柔らかい眼差しで眺めていた。子供の身体が小さくて、サッカーボールが妙に浮いた感じに見える。 緑にも、そんな幼い頃はあった。 まだ幸せだったあの頃。 胸の中にある微かな記憶は、薄れかけてはいるが、優しかった母親の記憶だけは淡く残っている。 細い道路の脇で、隣に住んでいた子供と遊んだ記憶。夕方になると、母親が手を引いてくれ、優しい笑顔を緑のためだけに向けてくれた。 美しいという言葉が似合う母親だったことは、鮮明に記憶されている。長く綺麗な茶色い髪を結い、白く細い手で緑はよく髪を撫でてもらった。 まだ裏切られることを知らなかった無垢な、幼い少年は、掌から伝わる母の温もりだけを信じて生きていた。 その熱だけが、緑の生きるすべてだった。 暫らく緑は、昔の記憶を呼び起こしていたが、暑さに堪えられなくなり、エアコンのスイッチをオンにし部屋を冷やし始めた。 「さて、と……。飯でも作るかな」 一度大きく伸びをして、緑はキッチンに向かった。 毎日鉄朗に何を食べさせてあげようか、それを考える時間が楽しくて、料理にも力が入る。 鉄朗がいつも人の倍は食べるため、緑も最近は食事の量が増えてきた。それでもまだ細く、華奢な身体は鉄朗に抱きしめられると、腕が余ってしまうほどだ。 新しく手に入れた温もりは、緑を優しく包み込み、そのすべてで守ってくれている。 今は鉄朗のためだけに生きている。 鉄朗がくれる温もりに身を委ね、その存在を肌で感じている。 いつも近くに感じる存在は、何よりも緑を安心させるのだ。 「それにしても暑い」 緑はキッチンに向かいながら、一人でどうにもならない暑さを詰っていた。エアコンはまだ効いていない。料理をして火を使うため、更に暑くなったきた身体を持て余しながらも、急いで夕飯を作り、緑はリビングで休むことにした。 緑がリビングで休み始めてから一時間後、仕事から帰った鉄朗は、リビングの灯りをつけると、そこに横たわっている緑を見つけた。冷えた部屋は心地良かったが、緑には寒すぎるんじゃないかと心配した。 「緑、起きろ」 「ん? ……え……?」 急に眩しくなった部屋の中で、緑は揺さぶられる感覚に目を覚ました。部屋はエアコンが効きすぎ、緑にとっては寒いくらいになっている。 ブルっと身体を震わせ、思わず自分の身体を両手で抱きしめた緑を、優しい瞳が見つめていた。 「緑、そんなところで寝てると風邪引くぞ」 はっとして顔を上げると、そこには鉄朗が立っていた。いつのまに鉄朗が帰っていていたのか、それさえも気づかなかった自分に恥ずかしくなり、緑は俯いて顔を赤らめた。 「お帰り……」 ボソリと、呟くように言葉を発した緑を、鉄朗は優しく腕の中に抱き込んだ。 「寒いか?」 心配そうに顔を覗き込まれ、緑は小さく頷いた。 「風呂、入るか?」 「ううん、大丈夫。テツ、腹減ってるでしょ?」 「大丈夫だよ」 いつも自分のことより、鉄朗を優先してしまう緑をかわいく思う反面、心配もしていた。 もちろん別れるつもりはない。 だが仕事で、どうしても家を空けなければならい日もある。そんなときの緑の様子が容易に想像でき、鉄朗は一緒に連れていこうとさえ思ってしまう。 心配事はいつまでたってもなくならないのだ。 「テツ、着替えてきなよ。そのあいだに夕飯、温め直すから」 「でもまだ寒いだろ?」 「もう、大丈夫。テツに暖めてもらったからね」 綺麗な顔に笑みを浮かべ、鉄朗を見つめる瞳には、最近身につけた強さが宿っている。 今でも、鉄朗に守られているという意識は緑の中に大きくあったが、逆に緑も鉄朗を守りたいという気持ちも現れてきた。 守るものが出来た人間は強くなる。 だから緑も強くなったのだ。 鉄朗と出会った頃とは違った強さ、人を寄せ付けないようにしていた暴力的な強さじゃなく、愛する人を守るための精神的な強さが備わってきたのだ。 そうしてまた魅力的になった緑に、鉄朗は更なる愛情を感じていた。 「テツ、用意できたよ」 寝室に顔を覗かせて、鉄朗をキッチンに呼んだ。 「今行くよ」 鉄朗は愛しい恋人の身体を抱き寄せ、一緒に寝室を出た。そして暑さのため薄着でいる緑を心配し、そっと肩に持ってきたカーディガンをかけてやった。 「ありがとう」 優しい眼差しを向けてくる鉄朗に微笑み返して、湯気の立つ夕食の前に座った。 「しかし今日は暑かったな」 「本当にね。だから今日はすごく忙しかったんだ。客がいつもの倍は来るし、ジュースの補充には何度も行かされるし」 「でも頑張って働いてるじゃないか」 「まあね」 二人は顔を見合わせ、そっと微笑みあった。 緑は独りで生活していた時は、こんな甘い時間を過ごせるとは思っていなかった。 いつも孤独と不安と戦っていた。全神経を尖らせ、周りの人間すべてを拒絶していた。 今はそれもすっかりなりを潜め、安心して鉄朗にすべてを任せているのだ。 「クシュン!!」 突然、二人きりの部屋に緑のくしゃみの音が響いた。 「大丈夫か? 今日は早く風呂に入って、身体を暖めないとな」 「うん……」 まだ身体の奥に感じる寒気を払い、残りの食事を片付けた。 「三十九度ニ分。きっと風邪だな、これは。今日はバイトも休んで、一日おとなしく寝てるんだぞ」 熱で潤んだ瞳で鉄朗を見つめる緑は、微かに頷き、そっと手を伸ばした。鉄朗はその手を力強く握ってやり、ベッドの脇に腰掛けて緑の髪を梳いてやる。 「すぐそばに電話、置いとくから何かあったらすぐに連絡してくれ。飛んで帰ってくるから」 緑はわかっているのかいないのか、ただじっと鉄朗を見つめているだけだ。繋いだ手に力を込め、無意識のうちに鉄朗を引き留めた。 鉄朗の出勤時間が、間近に迫っている。 しかしこのまま高熱の緑を放っておくわけにもいかない。仕事と緑のどちらを選ぶか、そんなことは考えるまでもなく、答えは出ている。 鉄朗は手元にある電話を手にすると、緑の手をそっと離して、布団の中に戻した。 「ちょっと待ってろ」 ポンポンと布団の上から緑を軽く叩いて、鉄朗は寝室を出ていった。緑は閉じられた扉を見つめ、離れてしまった鉄朗をじっと待った。隣の部屋にいることはわかっているのに、どうしても不安になる。 「テツ……」 掠れた声で呟くが、まだ電話をしている鉄朗には聞こえていない。 「いや……。テツ……、テツ」 か細い声が、静まり返っている部屋に響いた。 「緑?」 電話を終えた鉄朗が寝室を覗くと、緑が泣きそうな表情を向けていた。 「どうした? 苦しいか?」 額に浮かぶ汗を拭ってやりながら髪を撫でてやると、緑は安心したような顔で、鉄朗に笑いかけた。 「違う……、けど……。仕事は?」 遠慮がちな問いかけの答えを、鉄朗は柔らかい唇を味わってから、緑の望む答えを返してやった。 「休むよ。こんな緑を放っておけるわけ、ないだろ?」 「でも……、いいの?」 「いいんだよ。だからずっと、傍についてるから寝ろよ」 「うん……」 緑はすぐに薬の効果も手伝ってか、眠りに引き込まれていった。 しばらく鉄朗は緑を見ていたが、完全に緑が眠ったことを確認すると、ベッドを離れ、煙草を吸うため部屋を出た。 自分が病気をしたわけではないから、仕事をただ休むわけにはいかず、鉄朗は家でも出来る仕事を始めた。 煙草を咥え、じっとパソコンの画面を見る。 そんなことを二時間近く続けていると、仕事も終わってしまい、緑の様子を見るためソファを立ちあがった。 音を立てないようにベッドに近づき、鉄朗はときどき眉を寄せ、少し苦しそうに眠っている緑を見て、最近ますます綺麗になったな、と現金だと思いながらもそう感じた。 出会った時から確かに緑は綺麗だった。好きだと気付く前も、何度もその顔に見惚れた。 でも今は顔じゃない。 緑のすべてに惚れていて、まるごとそのままの緑を愛しているのだ。 ベッドに腰掛け、鉄朗は手を伸ばし、そっと緑の頬と項に触れた。まだ熱が引いておらず、熱い。 「ん、テツ……?」 潤んだ瞼をそっと開けた緑は、愛しい恋人の顔に触れる。 「ごめん、起こしちゃったな。苦しいか?」 熱い掌の上に自分の手を重ね、鉄朗は顔を覗き込んだ。鉄朗の問いかけに首を横に振るが、熱が高すぎて意識がはっきりしていない。 緑の頬は薄っすら紅色しており、いつになく色気が漂っていた。そんな緑を見てヤバイな、と思いながらも、鉄朗は氷に浸したタオルを乗せ変えた。 「テツ……」 「ん?」 緑は怠い身体を起こし、両手を鉄朗の首に巻きつけて、熱い身体を押しつけた。鉄朗はそのふらついている身体を受け止め、細い腰を支えてやった。 「テツ……」 掠れた声で、何度も鉄朗の名前だけを口にする。鉄朗は優しく背中を撫でてやり、細い身体を再びベッドに横たえた。 「俺はここに居るから、安心して寝てろ。な?」 「あのね、喉……、乾いた」 「喉? じゃあ何か持ってくるな。腹は? 減ってないか?」 「減ってない……」 「そうか。すぐ戻ってくるから」 鉄朗はそう言い置いて、ベッドを離れた。 冷蔵庫の中にはビールやお茶、水などが入っていた。鉄朗はその中の水を手に取ると、緑のもとへと急いだ。 緑は鉄朗が持ってきたペットボトルの水を、半分以上一気に飲み干した。 「ついでに着替えるか? 汗かいてて、気持ち悪いだろ?」 まだ熱のせいで、緑は身体が痛かった。そっと鉄朗に寄りかかって、おぼつかない指先を動かし、着ていたTーシャツを脱ごうとするがうまくいかず、結局鉄朗に脱がせてもらった。 「ごめん……」 力ない言葉に、鉄朗はもう一度熱を測ってみた。 ピピッピピッピピッ…… 小さな電子音が鳴り、体温計を見ると、熱はまだ三十九度あった。 「緑、病院行くか?」 新しいTーシャツを着せてやりながら、鉄朗は問いかける。しかし緑はその問いに、首を横に振った。 「どうして?」 「病院は好きじゃない」 「俺だって好きじゃないけど、このままじゃ熱、下がらないぞ?」 「……注射が、……いやだ」 小さな子供みたいな理由に、鉄朗は思わず噴き出してしまった。 (かわいい奴だなぁ) そう思って、まだ熱の引かない細い身体を抱き寄せ、髪に唇を寄せてキスをした。 「笑うなんて、酷い……」 フイっと顔を背けて拗ねてしまった緑の顔を自分の方に向かせ、鉄朗は優しい口づけをして機嫌をとる。 「ごめん。でもあまりにかわいいからさ」 鉄朗は緑の身体を包み込んで、一緒に布団の中に入った。 「テツ?」 「ほら、まだ熱あるんだから、寝なきゃだめだぞ」 胸に緑を押し付けて、鉄朗も寝る体制に入った。緑は目を閉じた鉄朗を見つめてクスッと笑うと、耳元に唇を寄せた。 「ねえ、テツ。しよっか」 少しづつ睡魔が襲ってきていて、寝ようとしていた鉄朗は、緑の言葉に驚いて飛び起きた。 「何、言ってんだ……? 緑」 「だって、熱がある時にヤルといいって言うじゃん」 声は掠れて、熱のせいで瞳は潤んで、まだ顔が赤いのに、とんでもないことを言ってのける緑に鉄朗は少しばかり呆れながら、自分の腕を掴んで放さない緑をじっと見据えた。 「溜まってるのか?」 「違うよ」 「もういいから、とにかく早く熱を下げろ」 「汗かくと、熱って下がるんだよ」 鉄朗はがっくりうな垂れて、困ったように緑を見た。 緑はただ鉄朗に一分、一秒でもいいから触れられていたかったのだ。 「緑。違う方法で熱は下げよう。な? 熱が下がったらたくさんしよう。緑が望むだけ、何回でも」 不安そうに鉄朗を見つめていた緑から安堵の吐息が洩れ、鉄朗はそんな緑に啄ばむような優しい口づけを額や瞼、頬、そして唇に何度も与えた。 「テーツ。好きだよ」 温かい鉄朗の胸元に頬を摺り寄せ、甘えるように縋りついた。 まだ幼かった時、緑が熱を出すと必ず、母親は付き添って看病してくれていた。ずっと髪を撫でて、あやしてくれていたのだ。 緑はその時のことを思い出していた。 独りで暮らしていた時は、いつも気を張り詰めていたので熱を出すことも少なかった。微熱程度はよくある事だったが、自分自身を壊したくて仕方なかったのでそのままにしておいてばかりだった。 だからこうして他人に看病してもらうのは、五歳以来だった。 「ゆっくり眠って、早く治せよ」 囁きかけると、緑は力なく頷き、身体の欲求に素直に従った。鉄朗も腕の中に納まっている緑の髪を梳きながら、瞼を閉じた。 しばらくして、緑が身動ぐのを感じ、鉄朗は目を覚ました。そっと、緑を起こさないように額に触れる。掌に感じる緑の額はまだ熱く、熱が下がっていないことを鉄朗に伝えた。 (無理にでも、病院に連れていくべきか……?) 鉄朗がそう考えていると、緑は眉間に皺を寄せ、苦しそうに呻き声を上げた。 「母さん……」 うなされながらの緑の呟きに、鉄朗は目を見開いた。 出会ってから一度も、緑の口から母親を思う言葉を聞いたことはなかった。それが熱に冒され、朦朧とした意識の中で本音が呟かれたのだ。 緑は普通の十六歳とは、少し異なった人生を歩んできた。 生まれた時から母親の温もりしか知らず、それに縋りついていた。しかしそれさえも五歳で失い、強がることで自分の身を守ってきた。 しかし心の中ではまだ、母親の幻想を追い求め、心許ない手をあてもなく伸ばしていた。決して握り返されることがないのはわかっているのに、緑の心のどこかで微かな期待が渦巻いているのだ。 「緑……」 伸ばされた緑の手を力強く握り返した鉄朗は、緑のまだ完全には癒されていない心の深い傷を、ゆっくり時間をかけて自分が癒してやろうと誓った。 きっとすぐには無理だろう。しかし鉄朗には、緑の傷を癒す自信はあった。 それだけ愛しているし、何物にも代え難い、この世で一番大切な存在だから。 もう少しで緑は、十七回目の誕生日を迎える。 きっと人生最高となる誕生日を、鉄朗と一緒に……。 |
ブラウザの戻るボタンで戻ってね |