荻原井泉水と『層雲』      秋 尾   敏


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 明治末期から大正にかけて、数多くの俳誌が創刊されてい

る。その多くは大正期に終刊してしまうが、中には内藤鳴雪
の『南柯』、荻原井泉水の『層雲』のように長く影響力を保
った俳誌もあった。特に大正四年には、飯田蛇骨の『雲母』、
臼田亞浪の『石楠』、河東碧梧桐・中塚一碧楼の『海紅』、
松瀬青々の『倦鳥』など、重要な雑誌が次々に生み出されて
いる。また河東碧梧桐が『層雲』を去り、荻原井泉水の主宰
誌となるのも大正四年のことであり、そこに、大きな時代の
節目があることが予想される。
 子規の没後、虚子は『ホトトギス』に写生文や俳体詩の欄
を増やして総合文芸誌としての性格を強め、明治四一年、つ
いに俳句との決別を図る。虚子は、文学全般の革新を夢見た
子規の遺志を受け継いだのである。
 一方、新聞『日本』の俳句欄を担当した碧梧桐は、明治三
九年、その俳句欄を廃し、全国俳句行脚に旅立つ。碧梧桐は、
俳句を一流の文学たらしめようとした子規の遺志を受け継い
だのである。彼はそのための方法論を探索し続けた。
 その碧梧桐の前に、大須賀乙字が現れる。「日本俳句」に
投句、「俳三昧」で鍛えた乙字は、優れた理論家でもあった。
古典に暗示性の強い句を見出し、それを根拠に「俳句界の新
傾向」を発表する。
 俳句の新たな展開を考えていた碧梧桐は、乙字の論に飛び
つく。碧梧桐は乙字の論に、季題を背景として心情や情緒を
暗示させる方法を読み取った。人事を詠み、そこに詩情を漂
わせていくこと、それが碧梧桐の理解した「新傾向」である。
しかし、それは乙字の意図とはかなりずれた解釈であった。
 新しい俳句の展開を目指した碧梧桐は、明治四四年に荻原
井泉水が創刊した『層雲』に加わる。乙字も最初参加するが
すぐに去っていく。乙字の考える俳句の理想は、古典の中に
あった。新傾向は乙字の求める俳句ではなくなっていった。
 大正元年、虚子が『ホトトギス』に俳句を復活させる。碧
梧桐らの新傾向に異を唱え、自ら守旧派を名乗って、俳句の
正統を守ろうとしたのである。しかし乙字は、その虚子にも
異を唱える。虚子は、文芸の中での俳句の立場を限定し、そ
の表現法を単純化する。そのことが、俳句の大衆化を推進す
る力となるのであるが、しかし俳句の深淵を深く信じた乙字
から見れば、虚子の俳句観は物足りないものであったろう。
 かくして大正元年、虚子と碧梧桐と乙字は、俳壇に、異な
る三つの立場を形成する。その対立が、大正期の俳句に多様
性をもたらし、さまざまな俳誌を生み出す原動力となる。
 俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の
普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも
追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもあ
る。大正時代は、「現代」の始まる時期でもあったのである。
『層雲』
 明治四四年、荻原井泉水によって『層雲』は創刊される。
 創刊号の扉には、「編集室より」と題し、「層雲は俳壇を
文壇に紹介し文壇を俳壇に紹介せんが為めに出でたるものに
候」(井泉水記)とある。さらに「主として新機運に向かつ
て猛進する作家の道場たらん」、「文壇の諸兄に対しては<
中略>主として独逸文学を唱道する者の舞台たらんことを」
などとある。その言葉に違わぬ編集ぶりで、冒頭は海潮音(小
牧暮潮)訳するヘルマン・バールの「自由」というエッセイ、
自由詩が一ページに続き、碧梧桐評による「十番句合」とな
る。また六十二ページには「文壇と俳壇」という評論もある。
 この作りは、『ホトトギス』に似ている。今日、俳誌に分
類されるこの二誌は、広く文学を視野に収めた上で、俳句を
作り出そうとしていた。このとき井泉水が、当時俳句を軸に
していなかった『ホトトギス』を意識していたかどうかはあ
まり問題ではない。それより、今日より俳句が他の文学に近
かった時代を想像してみることが重要である。
 『層雲』という名の由来については「月の秋雪の冬花の春
を数へながら夏季には何を挙ぐべきかを知らざる我国人に小
生は雲の夏と申したく候自由の夏光耀の夏の近づき候際をも
つて出づる層雲が」と書かれていることから推察できよう。
 また「十番句合」を評する碧梧桐のキーワードは「自然」
である。その句が「自然の感じ」がするかどうかが、評価の
決め手になっている。この語は井泉水の文章にも見られ、「自
由」と「自然」がこの雑誌のテーマだったことがわかる。
 井泉水の「俳壇最近の傾向を論ず」という論が、一巻から
十回連載されている。子規が、「写生」によって旧派を一掃
した快挙を認めながらも、第一回の「先生」の呼称が、第二
回からは「子規子」に変わり、客観的な批評が展開されてい
く。蕪村の理解が一面的であるとか、三十年代の句は、寝た
きりになったために配合によって「こしらえあげた」説明の
句になっていて「芳香がない」、などと手厳しい。今日、子
規を評する人が言いそうなことはおおよそ網羅されている。
 ここで井泉水が、「配合」を「こしらえもの」、つまり「自
然」でないものとして遠ざけていることに注目しておく必要
がある。やがて二句一章を唱える大須賀乙字が井泉水と袂を
分かつ理由の一つがここにあるからである。また、大正四年、
碧梧桐が『層雲』を去るのは、井泉水が無季の句を容認した
ためと言われるが、その大元の原因もここにある。なぜなら、
井泉水は、俳句が自然な表現を見失う原因を「こしらえもの」
の「配合」に頼るからだと考え、その「配合」は、季語にこ
だわることによって生じると考えたのである。つまり井泉水
が無季に向かったのは、季題にこだわって、「配合」による
「こしらえもの」を作らないためだったのである。このこと
は大正三年新年号の「季題のことども」に書かれている。
 『層雲』は、子規の「写生」を土台とし、子規の引いた自
然主義への道の上に現れた雑誌ではあるが、しかし、徹底的
に「自然」を尊重し、俳句形式を破ってまでも俳句の詩性を
追究するという姿勢を見せたという意味では、初めての雑誌
である。そうした意味で、現代俳句は、大正元年の、虚子復
活後の『ホトトギス』と、この『層雲』との対峙に端を発し、
大正四年にそのシーンを確立させたと言えるのである。
 自然主義による『層雲』の俳句は、個人の内面や生活を率
直に表現するようになる。そのため、『ホトトギス』などの
句より社会の変化の影響を直接的に受けることになる。
 野村朱鱗洞、芹田鳳車らの自由律は、大正自由主義の雰囲
気の反映である。表現主義の河本緑石、社会派の大橋裸木ら
の活躍も、第一次世界大戦後の好景気と労働者層の台頭を背
景としている。大正後期、尾崎放哉や種田山頭火らの放浪の
句が評価を受けるのも、その時期の社会不安と結びつけるこ
とができ、昭和期に入ってのプロレタリア俳句も当然のこと
ながら社会のそうした文学運動を前提としてのことだ。つま
り『層雲』は、俳句会に閉じた存在ではなかった。それは創
刊当初から井泉水が目指したことである。『層雲』とは、俳
句の、文芸としての一般性を追求した運動だったのであった。
そうした意味で現代の俳論家は、『ホトトギス』を論じるの
と同じ比重で『層雲』を論じる必要があると考えられる。
                『俳壇』 平成12年11月号掲載

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