楕円の中心 −虚子と碧梧桐−   秋 尾   敏 

「近代俳句の世界」に戻る

                                「現代俳句」誌 平成7年1月号掲載  
 一 二人
 虚子と碧梧桐は、縄のようによじれ合いながら時代の俳句を作り上げていく。そのとき、時間軸と交差する一方の軸は客観と主観を結ぶ方向にあり、もう一方の軸は写実と理想を結ぶ方向にある――。
 二人を巡る多くの評論は、このような視座を前提として語られている。そのどこに焦点を当てるかという差異はあるにしても、依って立つ枠組みは変わらない。
 だがそのような視座から、彼らの不動の特質を見抜くことはできないのではないか。それはいわば表層の、彼らの意識上の出来事だからである。そうである以上二人は、その存在を維持するためにくるくると立場を変え続けるだけの存在にしか見えないだろう。
 主観と客観、あるいは写実と理想という概念が、句作の差異を語る言葉として用いられるのは、近代俳句の黎明期の作家たちがそのように語ったからであり、かつその方法が、いくばくかの複雑さと明晰さと混乱とを加えつつ受け継がれてきたからにほかならない。
 もっとはっきりさせてしまえば、そのような伝統は子規が作り出したものである。子規以降のほとんどの俳人たちは、子規の作り出した俳句用語のパラダイムに乗って句作を語り合ってきた。
 だが、それらの概念がどのように有効であろうと、その歴史自体を、同じ概念で相対化することはできない。それは本来的にトートロジーである。私たちは、虚子や碧梧桐が意識し得なかった部分から、彼らの本質を語る新しい構造を見いださなくてはならない。
 虚子と碧梧桐の生き方を追っていくとき、気になることが二つある。
 ひとつは、二人の交友についてである。二人は、その主張を常に異なる立場に置きながら、終生その交際を断つことがなかった。
 またひとつは、子規に対する態度の違いである。碧梧桐は、生涯子規を信奉し続けた。にも関わらず、その作品は子規の句風から大きくはずれていく。一方虚子は、子規の写生を継承したようでありながら、子規という人物への評価にどこか客観的なところがある。
 二人は、どうも子規から、互いに補完し合うような世界を受け継いだようなのである。それはまったく異なる結果を生み出すのだが、しかし互いの存在を必要とするような関係に違いないのである。
 二 子規の言葉
 改めて日本の中心となった東京では、新しい話し言葉の様相が定まりつつあり、新しい書き言葉である言文一致体が形成されつつあった。またそれが、新聞や学校などのさまざまなメディアによって地方に伝播され、近代国家としての統一された日本語、つまり「国語」が生まれようとしていた。
 その中で子規は、言文一致の運動に関わりながらも、また同時にそれとは少し異なる日本語の近代化を推し進めていった。
 子規の俳句革新は、単にそれまでの俳諧の類型性を排除したことに意味があるのではない。また、写生という手段を俳句の表現の基底に据えたことだけに意味があるのでもない。子規の仕事の真の意味は、個人が日常の目でとらえた事象を、自分自身の日常の言葉で表現する価値を説き続けたことにある。自分の日常の言葉、それが言文一致の「言」ということである。
 古典の語り口をなぞったり、既に出来上がっている俳諧的なものの見方に自分の言葉を寄せていくのではなく、明治という時代を生きる自分の感覚でものをみつめ、自分の言葉で語ること、これが子規の主張の骨子であって、あとのことはそのための方法に過ぎない。そこにこそ子規の俳句革新の、近代という時代における大きな意味が存在する。子規の俳句革新を直接「言文一致」の運動と呼ぶことはできないが、しかしそれは確実に日本語の近代化を推し進めるものなのであった。
 文学における近代的自我の多くは、庶民に先行する知識人が勝手に自分自身を語るという形式で出現している。だが子規は、庶民が自分自身の自我を表現する方法を、俳句という具体的な場において提示していった。子規は、誰もがあなた自身の言葉で書いていいのだ、ということを説き続けたのだ。
 思えば「書く」という行為の大衆化は、近代化の大きな要素であった。庶民がどう書くか、というテーマに早くから取り組んでいたのが子規なのである。
 相馬康郎が『子規・虚子・碧梧桐』[※1]で指摘するとおり、やがてそれは『ホトトギス』における写生文の全盛として結実する。農民、商人、職人、人力車夫などさまざまな人々の生き生きとした文章がそこに展開されるようになる。庶民が「書く」という文化を個人的に身につけたのである。そこに私たちが見るべきことは、日本語の文体が変わったということと同時に、書かなかった人々が書くようになったという事実であろう。それこそが近代であるのだから。
 そのような潮流を作り出した子規の言語行為の内部には、いささか矛盾するかも知れない二つの力が働いている。
 ひとつは、旧来の日本語を壊す力である。
 すでに出来上がっている記述の常識を取り崩していかないかぎり、明治に生きる個人の感性は語れない。そのためには、無意識に決定されている書き方の様式を意識化し、批判し、相対化していく過程が必要になる。子規は、月並の宗匠俳句の言語世界を一度内面化し、自身の言葉とした上でそれを破壊していく。それは江戸の粋を、野暮な地方性が崩壊させていく過程とみることもできる。だが、もはやその粋は生命力を失い、形骸化したものとなっていたのだ。
 もうひとつは、新しい言葉を作り、広げていこうとする力である。
 それは子規の内面においてのことであるとともに、その発する言葉を理解し、解釈する他の言語主体を増やそうとする力でもある。周囲に同志を集め、伝え、語り、それらの行為によってさらに自己の内面の言語の構造の質を高めていく。さらに、新聞や雑誌という印刷メディアを活用し、自身の生み出した言語を、日本のさまざまな場所に送り届ける。それが子規のやり方である。
 子規には日本語に対する暗黙の仮説がある。日本語は本来、近代文明を語り得る深層の力を有している。ただ歴史の経緯の中で、その本来の力が今のところ発揮されていない。日本語が表層の様式をちょっと変化させて本来の力をとりもどせば、近代文明を語ることなどたやすいことだ――。
 おそらく子規は無意識に、日本語の国際性や普遍性を信じていたのである。それは十分に根拠のあることであった。子規は既に中国語を柔軟に取り入れた日本語を、それと意識して日常的に使用していたのであった。
 仏文学者の塩川徹也は、「母語」の反対語は「外国語」ではなく「父語」だと指摘している[※2]が、子規や漱石にとっての中国語は、まさにその「父語」にあたるものであったろう。あるいは、書き言葉としての「文語」自体が「父語」だとも考えられるが、それもまた中国という外国の文化に連なるものだ。
 日本語の普遍性を信じる子規の意識は過去の言葉に向う。芭蕉を読み直し、蕪村を再評価し、さらに俳句分類という途方もない作業を行う。
 それは、日本語というものが持つ根源的な力への信頼である。やがて万葉集を取り上げる子規の意識が同様の発想に基づいていることは言うまでもない。その信頼のために、子規は、壊しかつ作るトリックスターとして時代を生きることができた。
 これは漱石のような西欧での留学体験を持たぬ者の楽観であったかも知れない。だが、百年後の日本語を見るとき、子規の認識が誤っていたとは誰も言えないのである。
 言語を壊す力、それは時代感性から発せられる個人の創造の力である。日々の生活の中で受け止めた事象を言語化するとき、従前の表現、すでに認知された表現では蔽い尽くせない部分を何とかしようとするベクトル、それは個別化に向う個性の力である。個人が作り出した特化された言葉こそが、時代の言語を変容させる力を持つ。
 むろんその力は、個人の内面の創造力だけでなく、地方の言葉やある特定の領域の言葉に支えられたものである。中央の言葉は、地方の言葉や文化を伝える個人によって変化させられていく。
 一方、言語を作るという作業は社会的な行為を伴う。表出された言葉を受け止める主体がなければ、その言葉は意味をなさない。話し手は聞き手を必要とし、作家は読者を持たねばならない。共同化がなされたときに初めて言語は作られたことになる。
 子規は、自らが生み出した新しい五七五の韻律を表出し続けた。その行為は、それまでの俳諧の世界の秩序を破壊するものであった。その構造を打ち壊し、価値観を転倒させるものであった。
 さらに子規は、その価値と解釈の仕方を説きつづけ、その受け手を増やしていった。そして、近代日本語がおおよその形を整えたとき、まるで歴史の使命を果たし終えたかのように没する。
 子規のその二つの力が、虚子と碧梧桐という二つの才能に分化されて継承されたのである。
 言うまでもなく碧梧桐は壊し、虚子は作る。
 作る虚子にとって、言語は個人の外部に普遍的に存在している。それは個人を越える超越的な存在である。それは構造として、どこか個人を超越した空間に、いや、空間を越えた時空に浮かんでいる。
 それは、虚子に主観性や自意識が不足しているということではまったくない。逆である。虚子の内面にはそのようなものが充満している。にもかかわらず、虚子は主体の外部にある言語を追究するのである。
 一方、壊す碧梧桐にとって、言語は一人一人の個人の内部に存在する。したがってそれは、碧梧桐自身の内面にもあり、また子規の内面にも存在するはずのものである。
 碧梧桐は、記述され構造化された言語よりも、彼の目の前で話し続ける主体の言語行為を真実の実体として感じ取る感性の持ち主である。
 言うなれば虚子はラングを信じる構造派であり、碧梧桐は具体的なパロールを信じる主体派である。そしてどうやらこの二人は、この互いの深層の違いを生涯自覚することがなかったようなのだ。
 碧梧桐は子規の革新的な資質を受け継いだようにみえる。そうした見方からは不可解なことだと思われるかもしれないが、虚子の言葉こそが新しい近代の言葉であり、碧梧桐の言葉は、むしろ旧来の日本語の近代から疎外された部分を重く背負っている。
 日本の定型詩における近代性を守り、強化する方向に力を尽くしたのが虚子であり、その過程で疎外され、捨て去られた部分にこだわり続けたのが碧梧桐である。
 これはよく誤解されることだが、虚子は、日本の伝統を守るという意味で守旧派なのではない。子規が生み、虚子自身が育てた俳句という場における近代日本語を守ろうとする守旧派なのである。
 例えば平井照敏の「自然主義にむかい、俳句を近代文学に押し進めようとする碧梧桐と、一句にうかびでる情感を大切にしようとする古典主義の立場の虚子」(「評伝高浜虚子」[※3])というような図式は、一般的ではあろうが、現象の一面でしかない。
 碧梧桐の破壊は、すでに近代日本語の破壊である。それは子規の破壊とはすでに段階が違う。碧梧桐が破壊しようとしたのは、標準化に向い、そのことによって早くも動脈硬化を起こし始めた近代の日本語なのである。むしろ碧梧桐は、近代日本語が捨て去った部分にこだわっていくのだ。
 逆説的な言いように聞こえるかも知れないが、日本の近代化という尺度で測る限り、虚子はあくまで改革の推進者であり、碧梧桐は日本語の伝統を守ろうとする保守派である。この意味で、日本の近代という座標の中で見る以上、いかにも虚子は光であり、碧梧桐は影なのである。
三 虚子の近代 ―非在の構造あるいは関係性について―
 虚子は子規のカリスマ性に対し、常に冷静であった。それは若い頃からのことである。
 明治二十八年に、道潅山で自分の後継者になれと、子規に迫られたときもそうであった。虚子は子規の申し出を辞退し、数日の冷却期間を置いた後の手紙にさえ「生の我侭は終に大兄の鋳型にはまること能はず」(十二月十五日付子規宛書簡)と書くのである。
 それは、単に虚子の自意識の強さであったのだろうか。それならばなぜ虚子は、子規から離れていかなかったのか。
 八十一才になった虚子は、この道潅山の出きごとを回顧した文章に次のようなことわりりを添えている。
 子規の評論をする事は私の任ではない。むやみに褒めるのはをかしいし、又子規をけなすのも心苦しい。子規の事に就ては、たゞ事実を思ひ起して、それを述べるだけである。
『訣別』昭和二十九年[※4]
 子規に導かれ、励まされ、その深い友愛をいやというほど意識しながら、ここでも虚子は子規の中に理想を見ようとはしない。「子規をけなすのも心苦しい」という言葉の裏には、書けばその不完全であった部分も書くことになるという理知性と、交流の深さを懐古する情感とがないまぜになっている。
 だがこれは虚子の、ひとり子規だけに対する態度ではなかったのである。
 虚子は、あらゆる個人の中に言語の完全性を見ない。だから子規の中にも、その完全性を見ないのである。
 碧梧桐にとっては、自分が言語の中心であるように、子規もまた言語世界の中心なのであった。だが虚子にとっては、自分が言語構造の中心となりえないように、子規もまた中心ではなかった。そこが、虚子がリアリストと呼ばれる所以であるかもしれない。
 しかし、その虚子にも理想はあった。
 虚子にとっての完全な言語は、個人の外部に超越的に存在するものである。そこで彼は、目の前にいる個人の言語行為よりは、まだしも書物に残された言葉を信じる。
 虚子は、自分を「非読書主義者」(「子規居士と余」大正三年[※5])と言い、あるいは「無学者」(「無学」昭和二十九年[※6])と呼ぶ。にも関わらず生涯「大文学者」、すなわち大小説家であることを夢見ていた。虚子のかなたに置かれている理想の言葉は、小説という幻想である。それは到達点を持たぬ永遠の幻想であった。
 いくつもの小説を書き、さらに俳壇の中心となった後でさえ、虚子はまだ見ぬ小説の幻想を持ち続ける。昭和二十九年、既に『ホトトギス』の雑詠選を長男年尾に譲った虚子は、NHKラジオで富安風生のインタビューを受け、「誰か私に、大きな小説を書かんかつていつたら、要求があつたら私は書くかも知れませんよ。」(「放送」[※6])と答えるのだ。
 これは虚子生涯のこだわりである。だいいち自分自身を「非読書主義者」と呼ぶこと自体、書き言葉に対して完全ではない自分への強いコンプレックスが感じられるではないか。
 そこには、体系立てられ秩序立てられて、それ自体が完結する言語宇宙への憧景がある。虚子にとって、その完全な言語構造は、個人の内部などには存在し得ないものだ。それは、外部に記述され、「小説」というものなって初めて信じるに足るものとなる。いや、虚子は、自分の言語の幻想を、小説という概念に託していた、と言うべきかも知れない。
 虚子にとって俳句は、世界のある部分的な真実を表す表現である。そしてあらゆる人々が参加可能な表現形式である。だがどんなに優れた俳句であっても、それは決して世界の構造を語らない。なぜならそれは、個々の主体のつぶやきだからである。世界の構造を語れるのは小説という形式であり、虚子の考える表現の真実は、そこにしかないのであった。虚子にとって俳句は、小説という無限の神の前でたわむれる子羊の群れであったろう。
 虚子には、自分という言語主体の言葉さえ信じようとしない面がある。虚子は昭和二十六年に次のように書いている。
 そして子規は三十六才で死んだ。その後にあって私等は、何も新しい言説を推したてようとはしなかった。樹てる必要はないと考えた。題目は何でもいゝのである。南無阿弥陀仏でも南妙法蓮華経でも差支ない。たゞ全幅の力をそれに捧げて進んで行きさへすればいゝと考えた。
 俳句でも文章でも、私は写生の二字を念仏とし、題目として進んできたのであつた。
『文藝冩生』[※5]
 自己の主体から発せられる独自性、あるいは個性の価値をこれほどおとしめられる近代の自我がほかに存在するだろうか。虚子にとっては、記述されない内面の言葉など、何ほどの意味も持たないもののようである。
 なぜ虚子にとって写生が重要であったかといえば、それが子規の手で書き残された言葉として社会に流布されていたからであり、かつまたその方法が小説に繋がる可能性を持っていたからだ。「写生の二字を念仏とし題目として」という言い方には、別に写生でなくともよかったという言外の意味が込められているだろうが、それは個人の発する概念の相対性、つまりはかなさをよく知った人間の物言いである。
 だが、実は写生の重要性、歴史的意義はもっとほかにあったのである。それは写生が、庶民の目と言葉で、その生活の周辺をとらえ得る表現方法であった点である。それは書き言葉の大衆化なのであり、それこそが近代化の中心となる力なのである。
 書き言葉の大衆化によって、あらゆる人々が知を語る領域に参加可能になる。その圧倒的な量の変化が、例えば知識人という領域を相対化することになる。
 知の大衆化は、庶民のすべてをアウトサイダーとしての知識人にするわけではなかった。庶民のほとんどは、知識を得ても庶民のままだったのである。知識を得、精神が開放されても、庶民や大衆という範疇は存在し続けた。むしろ庶民や大衆というものが、哀れむべき対象から、知識人を笑う存在へと変容していく過程が近代化なのであった。
 この意味で明治三十八年の『俳諧スボタ經』は鋭い。「平等の側に立つて俳句の功徳を歓喜し微妙を愛楽せよ。而して後ち又差別の側に立て。差別の側に立つて勇猛精進せよ」。このような虚子の知の大衆化への発想こそが近代化の核心なのである。
 虚子の言語主体に対する態度は、他者に対してさらに徹底される。個々の主体の個性や才能より、それらの外部に超越的に存在する構造や、主体と主体の関係性の方を信じるのである。
 例えば昭和十九年、虚子が『汀女句集』の序文に、「今日の汀女といふものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力とが相待つて出来たものと思ひます」などと記すとき、多くの人はそこに虚子の権力性を見て顔を背けようとするであろう。むろん人としてそのような側面はあったわけだし、また自尊心という言葉は、虚子の作品に度々顔を出す言葉でもある。
 しかし言語観の根本に立ち降りれば、それは虚子の真実の言葉であった。なぜなら虚子は、個人の才能などというものよりも、そうした関係性に言語の価値を見ていたのだから。
 これは虚子の思いつきの言葉ではない。大岡信は『ホトトギス雑詠全集』の次のような「序」の存在を指摘している(「『選は創作』の覚悟」[※3])。
 選と云うことは一つの創作であると思ふ。少なくとも俳句の選と云ふことは一つの創作であると思ふ。此全集に載った八万三千の句は一面に於て私の創作であると考へて居るのである。
 また大正七年に刊行された『進むべき俳句の道』には、次のような言葉がある。
 雑詠は虚子が選をするのであるから、それは虚子趣味以外のものは容れぬのであろうと言う人があるかも知れぬ。それにしたところで、それを作った人は同一人で無いのであるから、仔細にそれを調べていったならば、その各作家にはそれぞれの特色があって、一見似寄ったような句と見えたものにも争うことのできぬ異色を認めるようになるであろう。
「緒言」[※7]
 これは、前の二例とは逆の言い方であるが、しかし句の成立というものを、関係性の中に見ようとしている態度は一貫しているのである。
 さらに遡れば、大正四年の『虚子句集』の「序」には「本書は私の自選したものゝうちから更に水巴君の選抜したもので、水巴君の選であつて、同時に私の自選句集である」という言葉もある。
 つまり虚子は、俳句を主体に固有の文学とは見ず、関係性の中に成立する文学としているのだ。ここにも表出された言語を、主体の外に置いて考える虚子の特性が現れている。
 これは俳諧の世界としては伝統的な態度なのである。むしろ前近代の共同性を引き継いだままの姿に見える。だが、これこそが日本の近代の姿である。日本の近代は、一方に個人の自我の自由を想定しながらも、一方には、近世とはまた違った、近代独特の共同性、関係性を形作っていくのである。
 虚子の言語観は、言語は構造として社会に広く存在しているのだから、個人がそれを専有するとか、構造の全体を自分のものにするとかは不可能だという態度である。ただ虚子にとっては、小説家だけが作品の中でそれを可能にするのだった。
 むろんこのことに虚子は無自覚であったろう。虚子にとってあまりにそれは当然の常識、生来の感覚なのであったのだから。
 虚子にとって俳句が関係性の文学である以上、その価値は、いかに普遍的に多くの人々の共感を得る表現となるかの一点にかかってくる。そこで彼自身の句は、近代日本を生きる者すべてに通じる普遍の真実として語られていく。それはいわば美の標準語なのである。
  遠山に日のあたりたる枯れ野かな
   流れ行く大根の葉の早さかな
 だれもこれらの句を否定することはできない。それは限りなく抽象された近代日本の原風景に向う公約的なリズムである。またそれは、日本の近代化の過程で、特別の懐かしさを加えられた風景である。
 虚子の言葉は、普遍性を目指す。それもまた近代という時代の中心的な概念である。科学も技術もキリスト教も、すべての近代文明が目図とした普遍性を虚子の句も目指し、虚子は俳句の中の近代日本語を作り上げた。
 それにしても俳句という表現手段は言語の断片であって、小説のような全体性を持ち得るものではなかった。だが虚子には、人と人との関係性において、俳句を世界の全体性としようとする思いがあったのかも知れない。そうであるならば、虚子にとっては、「ホトトギス」という座、そこにおける関係性こそが、まだ見ぬ大小説であったということもできよう。
四 碧梧桐の近代 −主体の形成−
 碧梧桐にとって、子規は絶対的な存在であったように見える。子規の死後、もっとも真摯に子規を語り続けたのは寒川鼠骨と碧梧桐であったろう。
 若し言ひ得べくんば、子規は個人としても公人としても、詩人としても実業家としても、何処にも意義ある生活を築き得た常識的天才であつたであろう。
「一家移東」[※8]
 これが、子規に対する碧梧桐の基本的な前提である。幼い碧梧桐に父が語った「若いのに出来る男だ」という言葉は、終生彼の脳裏にまとわりついていたようである。
 しかし碧梧桐は、子規のエピゴーネンとはならなかった。子規の残した近代俳句の姿をもっとも逸脱したのも碧梧桐なのである。またその俳論においても、子規の時代の限界を越えていこうとする姿勢をはっきりと打ち出していく。
 明治四十一年、碧梧桐は『日本及日本人』に「俳句の新傾向に就て」を発表するが、その論の展開は、子規の業績を認めながらも、その論の不備や限界を突き、そこから新傾向を正当化するという書きぶりである。
 そうしてみると碧梧桐は、子規という人物には絶対的な態度をとりつつ、その理論に対しては相対的な態度だということになる。
 碧梧桐にとって、子規は絶対的な言語主体である。それは新たな表現を生み続けるという意味で絶対的なのである。またそれと同様の理由で、自分自身もまた一個の完全な言語主体である。そのゆえに碧梧桐は子規を認め、同時にそれと異なる言葉を発する自分自身をも認め得るのである。
 しかし碧梧桐にとって、子規の言葉の内容が普遍的である必要はない。人はそれぞれに異なる意見を持ち、異なる言葉を発すればよいというのが碧梧桐の考え方だからである。碧梧桐にとって、言語は個人のものである。それは、個人の中で個別に高まり、洗練され、力をもっていくものなのであった。
 個性発揮を自覚し、主観的結合をするといふことも、作者先天の性質と、境遇の差によつて種々な情態で現はれるといふことは言ふ迄もないが、句作の方法として言へば、明らかな進歩で、さうして大なる発展である。若し、俳句に新傾向なるものがあるとすれば、この進歩と発展に基くものであらうと推察される。
「俳句の新傾向に就て」明治四十一年[※9]
 複数の対象の間に、表現者が独自の関係性を見出すこと、それを碧梧桐は主観的結合という。そのときの個性に、彼は俳句の新傾向を見出そうとする。
 けれど、一人一人の個性の裏には、必然的にその人の地方性が住み着いている。そしてその地方性が近代的であるという保証はどこにもない。むしろその個性、すなわち地方性は、無意識の領域に刷り込まれた土着の伝統性である可能性が高いのである。
 むろんここで言う地方性とは、碧梧桐が松山の方言を内包していたというような意味に留まるものではない。中心や標準というものに対し、周辺的な位置にある文化のすべてである。
 碧梧桐が自然主義文学に接近し、内なる言語の自然な表出を試みれば試みるほど、その伝統に根差した地方性が表出される。
 碧梧桐の地方性、あるいは周辺性の具体的な要素を考えてみよう。
 ひとつに、漢文訓読調のリズムがある。「炉開いて灰冷たく火の消えんとす」などの句に現れたリズムであるが、かなり早くから、碧梧桐の句に見られるリズムである。
 大正期になると、『俳壇の最近の傾向を論ず』にもあるように、五七五をさらに細分化した形式、つまり五五三五や五五五三などの句が多くなる。大正元年の「カラ梅雨の旅し来ぬこの蚊雷や」や三年の「遠く高き木夏近き立てり畳む屋根に」という句の傾向である。こうした分節は、すでに漢文訓読のリズムをも越えて複雑なものであるが、これらを碧梧桐に根付いた謡曲のシンコペーションとしてとらえると読みやすい句となる。
 さらに松山方言がある。内的なリズムに自然に従おうとする結果、自己の地方性が素直に句に現れることとなり、その結果新傾向の句は次のような批判を浴びることになる。
 「太し(偉也の意)」「居る(生活すの意)」等の特殊の方言的用語を、其語の背景たる作者を俟つ事なしに、虚偽の襲用を事として悪癖を撓めて欲しい、季題と共に十七字の束縛は、是れ我等の自由に遊ぶ天地の境である。とは諸君の常に口にするところである。その諸君が、自ら十七字の境を狭しとして、「鉱夫」「校庭」等の造語を用ゐて、強ひて求めて自家の弱点を暴露しつゝある事に反省を乞い度い。
 大正六年に発行された『月並研究』[※10]の最後にある楽堂の批判である。後半部分は、後の「ルビ俳句」のさきがけとして興味ある部分だが、このような批判は碧梧桐にとってまったく問題とならないことであったろう。碧梧桐にとって言語表現とは、中心や標準にずれを生じさせていくことであったのだから。構造的な言語の正統性にずれを生じさせていくのが個性的な表現というものなのである。
 またルビの問題も、やはり言語の地方性として理解できる問題である。鉱山で「ヒトが足りない」と言えば鉱夫のことであるし、学校で教師が「ニワに集まれ」と言えば当然校庭の意味である。そうした特殊な領域での状況的な言語の意味作用をことさら強調していくところに、パロール派としての碧梧桐の面目がある。おそらく彼は『三千里』の旅で、日本のさまざまな地方の人々に接し、日本語の地方性、領域性の広がりに自信を深めていったのではないか。
 むろんそれらの地方性は、虚子の内部にも存在するはずのものである。だが、そうした既得の言語リズムに対して、虚子は多少なりとも意図的であろうとし、碧梧桐は無自覚的であろうとする。
 虚子は注意深く中央になじまない言葉を排除し、近代の正統を作り上げていく。それは極めて意識的で理知的な作業である。それは規範的な構造を志向するがゆえに、文字言語を前提とする行為である。
 一方碧梧桐は、その地方性を独自性として表出し、共通化され固定された構造になろうとする中央の言葉を歪ませようとする。それは内なる音声言語の表出を目指す即自的で肉体的な作業である。碧梧桐自身はそれを自然と呼ぶ。
 「無中心論」は、こうした碧梧桐の態度の上に成り立つ論である。
 明治四十三年、響也の「雨の花野来しが母屋に長居せり」の句に対し、井泉水が感じたという「ゆつたりとしたといふ明瞭な感じ」が自分には感じられないとして、「一日の出来事の或る部分を取り出して、それを偽らずに叙したといふ所に興味を感ずる」と述べ、「ゆつたり」という概念を「中心点」とした解釈の仕方に疑義をさしはさむ。
 碧梧桐のいう「中心点」とは次のようなものである。
 温かいとか、冷たいとか、大きいとか、雄壮だとかいふ風に感じを一点に集めるのが、従来の句作の傾向であつた。(中略)
 感じを一点に纏める、何人にも普遍的に明瞭な限定した解釈が出来るようにする、といふことを従来句に中心点があるといふてゐた。
「無中心論」明治四十四年[※11]
 つまり「中心点」とは、形式的には虚構あるいは構成のことであり、内容的にはテーマの問題と考えてよい。いずれにせよそれは表現における意図性である。碧梧桐は、その意図性を解体し、自然へと向う。
 中心点を捨て想化を無視するといふことは、多くの習慣性に馴れた人々に破壊的であると考へらるゝ。其破壊的であると考へらるゝ処に新たなる生命の存することを思はねばならぬ。中心点を捨て、想化を無視するといふことは、出来るだけ人為的法則を忘れて、自然の現象其ままのものに接近する謂ひである。偽らざる自然に興味を見出す新たなる態度である。[同前]
 むろんこれは自然主義である。漱石の『文学論』を意識し、また虚子が作りだそうとする都会の言語構造を敵に回す思想である。記述文字言語として、規範的かつ普遍的に構造化されようとする虚子の近代俳句に対し、碧梧桐は肉体的な言語の特殊性を主張する。
 俳句は、その出自からして文字的な文芸であったと言える。それはうたとしてよりも、庶民の記述の芸能として発展してきた。そのために俳句は、宿命的に空間的な構成から逃れられないはずなのだが、碧梧桐は、その俳句にうたを取り戻そうとする。
 無中心論の萠芽は、すでに明治三十六年にはあった。碧梧桐の『温泉百句』の「温泉の宿に馬の子飼へり蝿の声」をめぐる虚子とのやりとりである。
 虚子は、「馬の子」と「蝿の声」の調和の悪さを指摘し、蝿がうるさい様を主として読むなら「馬の子」とまでいう必要はなく、可愛らしい「馬の子」を出したいなら「蝿の声」は割愛した方がよいと指摘する。
 虚子が碧梧桐を技巧的だと難じたのに対し、碧梧桐が句の短所は認めながらも、それは技巧的であろうとした結果ではなく、逆に見たままを自然に詠もうとした結果だと反論する。 しかし虚子の主張が、技巧を否定したというより、句の「中心」を構成すべきだというところにあるのは明らかである。一方の碧梧桐は、それに対して、意図的な構成、つまり、分かりやすい一つのテーマにすべての言葉が向って行くような方法論を拒否している。
 虚子のアプローチは理知的で構成的であり、碧梧桐の理論は感覚的、肉体的なもので、自然主義的だと言えよう。
 だが、「中心点」という概念を提示したのは子規だったのである。既に明治三十二年一月『ホトトギス』誌上に「俳句新派の傾向」と題し、虚子の「箒木は皆伐られけり芙蓉咲く」と、碧梧桐の「枯葛を引き切りたりし葎かな」とを並べ、「右の二句は時間的に二個の光景を連続して、しかも二個の中心点を有する者なり」と言い、さらに、
 総ての美術文学に二個の中心あるを許さゞるは従来一般に信じ居りし原則なれども俳句には二個中心あるものを出せり。近時西洋にも此種の小説ありと聞く。余は、二個三個の中心点ある者も亦結合の如何に因りて趣味ある詩又は絵となるべきを信ず。
 と述べている。ここでも二人は、子規によって仕掛けられたパラダイムの上にいる。
 碧梧桐のこうした方法論は、明治三十九年以降の新傾向俳句に顕著となり、人はそれを自然主義の影響と呼ぶ。だが、それは碧梧桐の資質でもある。「中心点」とは、言語主体の表出力を飛び超えて、抽象化され構造化されるものである。碧梧桐にとってそれらはまやかしの幻想と感じられたろう。
 そこには碧梧桐の読み手の解釈に対する期待、あるいは深い信頼がある。碧梧桐には他者という言語主体が存在するのだ。日本の私小説にはほとんど登場しないと言われる他者という視点を碧梧桐は持っている。彼の妻に対する誠実さもこれに関係することであろう。彼はおそらく妻に対し、一個の言語主体としての個人性を認めていたのである。
 虚子は、個人としての他者の解釈力をほとんど信頼していない。だからこそ、有季定型の、だれにでもその分節点が分かる作品を作り続けた。
 碧梧桐は、俳句のリズムを細分化し、視覚的な意味と音声的な意味とを分解し、読者の解釈に期待を残した。ここでも碧梧桐は主体を信じ、虚子は表出された言葉の普遍的な構造を作ろうとしている。
 だが昭和になり、碧梧桐がルビ俳句を手掛けるとき、彼の方法論には矛盾が生じてしまう。自然の肉体に俳句を取り戻し、うたとして再生するはずの俳句に、ルビ俳句という文字の技法を取り入れたからである。
 ルビは確かに、時間効率を高め、意味や喩の重層性を生み出すかもしれない。またそれ
は標準語と地方性を切り結ぶものでもあったろう。
 しかしそれは、碧梧桐が求めていた自然な肉体のうたから、俳句を遠ざける結果となった。それは視覚的な文字の空間的な構成力にたよる方法なのである。
  西日あのも指宿低雪てし鉢割れて桜島
 ことし在宅る挨拶を二人が前髪ひ障子つ
 門人でさえも、例えば師を愛して止まない滝井孝作のような人物でさえも手におえなくなるような作品を残し、昭和八年、碧梧桐は俳句界を去るのである。
五 楕円の中心
 子規を中心とする近代俳句の場は、伝統と近代の均衡を保つことによって円形を保っていた。が、その均衡が崩れたとき、たちまち円は楕円となり、その中心は二点に別れた。
 その二点は互いに補完し合いながら、新しい表現を作り出していく。
 虚子は、碧梧桐なしには自らの位置を確認することができなかったはずだ。俳句に関する限り、初めに位置を提示するのはいつも碧梧桐であり、虚子はそれを目安として間合いを測り、自らの足場を定めていく。それが二人の関係である。子規との出会いも、写生句の実現も、新しい句風への挑戦も、常に碧梧桐が先行する。虚子はその碧梧桐に異疑を唱えるようにして、近代俳句という場を作り上げていく。
 また碧梧桐も、虚子という中心がなければ、その地方性や固有性をこれほど明瞭に表出することもなかったであろう。
 特化する碧梧桐と共通化を図る虚子。一人は自分を中心とし、一人は場の中心となる。 この二人の対立したように見える思想は、実は対立などし得ない思想である。なぜなら、この両面は、言語の両面なのであって、互いに補完し合うことによってしか機能することはないのである。
 これはそのまま日本の近代の構造にも重なる。日本の近代は、一方で個人の自我の自由を想定しつつも、一方では近代独特の共同性を形成していく。その二点の位置関係の緊張の中に近代の歴史が編み上げられていくのだ。
 新しい言葉が作られつつある時代を生きた子規、虚子、碧梧桐。その時代は日本語の激動期であった。彼らの個性が存在しなければ、現在の俳句はまた違った姿であったろうが、その状況がなければ、彼らもまたそれだけの仕事はなし得なかったであろう。それは言葉に関わるものとして、至福の時代であった。
 今を生きる私たちには、もうそのような幸運は残されていないのであろうか。
 溢れかえる言語情報にまぎれ、今私たちは私たちの言葉の状況や変化をとらえかねている。既に私たちの時代の言葉は、安定した構造を持っているという錯覚を持ってしまう人々も多い。
 だが今、日本語は大きな転換期にある。敗戦という衝撃さえなし得なかった日本語の構造変更が今進みつつある。それは子規の時代に劣らずに根底的な変容である。その流れが見えるものだけに、これからの日本語の創造に加担する幸運がもたらされるであろう。
−完−

※引用文献・参考文献
・引用文は常用漢字を原則とした。
・子規の文言はすべて講談社版子規全集からの引用である。
※1相馬庸郎『子規・虚子・碧梧桐−写生文派文学論−』一九八六・洋々社
※2「母の言語・父の言語」塩川徹也(『言語』一九九四年十一月号・大修館)
※3『新潮日本文学アルバム高浜虚子』一九九四・新潮社
※4『文学』昭和二九・岩波書店
※5『子規と漱石と私』昭和五八・永田書房
※6『虚子自傳』昭和三十・朝日新聞社
※7『進むべき俳句の道』・昭和四七・新樹社
※8『子規を語る』昭和九・汎文社
※9『明治文学全集高浜虚子・河東碧梧桐集』一九六七・筑摩書房
※10『月並研究』大正六・実業之日本社
※11『碧梧桐全句集』・一九九二・蝸牛社

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