滑稽文芸と「俳句」    秋尾 敏

2022年4月改稿


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 はじめに
 明治になって、「俳句」という名称は、狂歌、狂句、都々逸等を載せた雑誌の中で普及していく。その背景には、国学を学んだ人たちの国学的世界観があったと考えられる。

1 滑稽文芸の思想的背景
 狂歌や川柳の作者には国学者が多い。彼らは和歌や俳諧も嗜んだが、名を変えて滑稽文芸にも手を染めた。おそらく、その背景には、国学の快楽主義がある。
 国学者というと堅物というイメージがあるかもしれないが、その思想はむしろ快楽主義である。禁欲主義であったのは漢学者の方で、幕府の学問であった朱子学も、生活における禁欲を重視するという点で幕府の方針と合致したのである。
 『古事記』『日本書紀』を繙けば神々の愛があり、『万葉集』には相聞がある。『古今集』は愛の歌で溢れ、『源氏物語』は全編、愛の物語である。それらと向き合った国学者たちは、古来この国が愛の国であったことに気付く。そして、禁欲主義こそが漢学者のもたらした害毒だと感じ始めるのである。
 ある意味でそれは、江戸時代の経済が発展し、覚束ない足取りながらも、近代資本主義に向かう過程で生まれた必然の思想であった。その先に生まれたのが福沢諭吉の『学問のすゝめ』である。福沢は、一人ひとりが豊かになることによって国が富む、と説いた。それは江戸時代の禁欲主義とは真逆の思想であった。
 そうした潮流の中で、幕府朱子学の禁欲主義への反抗として、あるいは自らの自由な欲望の解放として、滑稽文芸が庶民に広がっていく。

2 「俳句」という言葉を生んだ明治前期の滑稽文芸誌

 (1)岡野伊平『滑稽風雅新誌』
 明治10年代、〈俳句〉という用語は、東京の活字メディアに広がり、それが全国に波及していく。
 岡野伊平によって、明治9年10月、東京市京橋区弓町の開新社から創刊された「風雅新聞」(後に「風雅新誌」、「滑稽風雅新誌」と改名)という雑誌がある。その2号以降に〈俳句〉と題された句が出現する。3号に載る〈俳句〉を読んでみよう。

 世(よ)のはじめ思(おも)はるゝなり霧(きり)の海(うみ)   東京 佳峰園等栽
 雲(くも)多(おお)き秋に又この月夜(つきよ)かな 同        小築庵春湖
   姥捨登山良夜清光
 命(いのち)ありてけふ更級(さらしな)の月の本       同  月の本為山
   十六夜(いざよい)はまだ更(さら)級(しな)の郡(こほり)哉(かな)との
   高吟(かうぎん)には反(はん)して待宵(まつよひ)名月(めいぐゑつ)とも
   姥山の清光(せいくわう)に同伴(どうはん)の人々を先立(さきだ)てゝ
 登(のぼ)り下(お)り二夜(ふたよ)までして月の宴(えん)      仝
   善光寺に西(にしの)御門主(ごもんしゆ)の着(ちやく)とて人々群衆
   (ぐんじゆ)なすを見て
 色鳥(いろどり)のわたる仏(ほとけ)の都(みやこ)かな       仝
 物(もの)陰(かげ)に秋(あき)はかくれて法(のり)の声(こゑ)       仝

 等栽、春湖、為山は、幕末の江戸の三大家と呼ばれた人たちで、明治七年に教林盟社という結社を設立している。つまり、当時の俳壇の中心人物であり、この人たちが〈俳句〉という用語を認知していたということは重要である。

 これらの句に〈俳句〉というタイトルを付けたのは岡野伊平であろう。『国学者伝記集成続編』(國本出版社・昭和10年)によれば、伊平は文政8年(1825)、江戸の町家に生まれ、幼少から読書を好み、長じて浅草庵三代黒川春村に学んで浅草庵五世となった狂歌師だという。明治になると、外国人に依頼されて仮名新聞を編集し、同6年には「開花新聞」を編集。「有喜世新聞」に移った時期もあるらしい。壮年に至って井上文雄(香川景樹を支持する江戸派の歌人)に国学を学び、古今集風の和歌を詠んだという。
 言うまでもなく、明治維新を支える思想として国学がある。特に平田篤胤の復古神道は維新の志士の支柱となった。時流の中で、伊平もまた国学を学ぶ必要を感じたのだろう。伊平の師が井上文雄門ということなら賀茂真淵の系統で、本居宣長没後の門人を自称した平田篤胤とは門流を異にするが、大きく言えば復古神道の流れである。日本人が自らのアイデンティティを自覚するということでは共通している。
 さて、この「風雅新聞」には和歌、文詩、俳句が載るが,同時に狂歌、狂句、東都逸(どどいつ)なども掲載され、そこに尊卑の別がない。それが国学者の価値観なのであろう。

 (2) 仮名垣魯文の〈俳句〉
 その後、仮名垣魯文が創刊した「魯文珍報」(明治10年)や「月とスツポンチ」(明治11年)など、都々逸や狂歌を掲載する滑稽文芸の雑誌に、〈俳句〉という用語は引き継がれていく。魯文はそれを「一吟の発句」と定義する。
 魯文の周囲には江戸時代から、豪商の勝田幾久(いくひさ)、細木香以、戯作者の条野採菊(山々亭有人)、河竹黙阿弥、俳人の其角堂永幾、絵師の河鍋暁斎らが、酔狂を愛する一団を形成していた。伊平もそこにいたのだろう。二人の交流は深かったようで、魯文は「風雅新聞」によく寄稿している。とすれば、「一吟の発句」としての〈俳句〉は、伊平と魯文の合作のアイディアだったかも知れない。
 「魯文珍報 9号」(明治11年3月)には、この時代にもっとも人気の高かった俳人、永機の次の〈俳句〉が載る。

 片貝(かたかい)にめしくふ猫のおもひ哉(かな)    其角堂永機
 しのび音も白地(あからさま)なりねこの恋
 研爪(とぐつめ)は恋のねたばかをとこ猫       ねたば=寝刃。切れ味
 門(かど)さすをうらみ顔なり猫の妻                 の鈍った刃。
 黒塀(くろべい)のくらきを猫のまよひ哉
 樋竹(といだけ)を緒絶(をだえ)の橋やねこのこひ  緒絶(をだえ)=緒が切れること。

 俳句連作の嚆矢というべきであろう。七七を付けず、五七五だけを並べた新形式とも言える。魯文の猫好きはよく知られており、猫はまた芸者を表す隠語でもあった。永機も、これらの句を俳諧(連句)の〈発句〉にしようとは思わなかったであろう。〈俳句〉は、〈発句〉とはどこか違う一吟の句として広がっていったのである。とすれば、〈発句〉が〈俳句〉になったのではなく、〈発句〉でないものが〈俳句〉と呼ばれたということになる。
 そもそも俳諧は滑稽に始まったのである。蕉風がそこに精神性をもたらしたが、その模倣が月並調を生んだ。要するに風雅を気取ったことが俳諧本来の力を失わせたのである。狂句・川柳が別ジャンルとなったことで、〈発句〉はますます風雅の模倣に傾き、幕末を迎える。魯文らの〈俳句〉は、その状況を超克し、俳諧本来の魅力を取り戻そうとした運動だったと考えてみたらどうであろう。魯文もまた国学的世界観の圏内にいた人である。

3 明治中期の滑稽系の風雅誌の流行
 明治20年代、東京や大阪を中心に、点取俳諧の大ブームがまき起こる。子規が俳句革新を言い始める直前のことである。
 その背景には、学校という教育制度が成功し、また活版印刷による新聞が普及して、日本の多くの大衆が、文字を使えるようになったという歴史の歩みがある。
 また、郵便という制度が機能し、俳諧を集める文音所が、全国規模で俳句を集めることができるようになったという状況も忘れてはなるまい。
 しかしこの流行は、ひとり俳諧だけの世界に閉じた現象ではなかったのである。そこには点取俳諧の俳誌よりもっと通俗的な、「どどいつ」とか「なぞかけ」とかの大衆文化とも連動した雑誌が存在した。それらを「滑稽系の風雅誌」と呼んでおこうと思う。
 子規以前ということであれば、月並の代表格である三森幹雄の『俳諧明倫雑誌』などは、むしろ明治の俳諧という文化の中心に位置付けられる雑誌であろう。
 もともと俳諧は、和歌から枝分れした周縁の文化であろうけれども、しかしその内部にも中心と周辺はあり、『俳諧明倫雑誌』の外側に夜雪庵金羅らの点取俳諧があるとすれば、さらにその周縁に、例えば仮名垣魯文に連なる滑稽の文芸が存在する。
 そうした層の内部にも、郵便を利用した投稿という手段で結ばれた「座」が存在し、そしてそのもっとも大衆的な周縁の「座」から立ち上がってくる近代というものの重要性もまたあるのである。

 (1)『人來鳥』

 人來鳥(ひときどり)はうぐいすの異名だが、これは東京市京橋区木挽町の初音会より発行された滑稽系の風雅誌で、この題は「人気取り」に掛けているのであろう。
 情歌(どどいつ)や謎、狂歌、川柳などと並んで俳句が扱われており、月並の点取をさらにポップにしたようなレベルの大衆誌である。

 夫のふす寝床を冷やす団扇かな       秋興
 うれ盛るてんき続きや心太           三峰
 皐月ばれ萌黄ふとんの東山      若竹庵月光
 二階から招ねく禿や葛の水          同
 蓋とれば氷賓桜よ冷しじる           鶴甫

 みな季語入りの川柳といった趣で、典型的な月並俳諧であるが、しかし何とか江戸の粋を継承しようとする心意気は感じられる。
 明治23年7月の創刊で、「第一聲」というのが洒落ており、「第二聲」まで発行されて、次からは『匂ひ鳥』と名を改めたらしいが、筆者の手元にも国会図書館にも第二聲までしか残っていない。
 「初音会の定規」という項には、詩文、和歌、俳句、狂句、狂詩、端唄、情歌(どどいつ)、変調(かえうた)、流行歌(はやりうた)、演劇脚本(しばいすじがき)、浄瑠璃、小説、古今の雅人通客及諸芸に堪能たる人の伝記其外あらゆる奇文珍説等を掲げる、とある。
 まずここで取り上げなければならないのは、そこにある「俳句」の二文字であろう。
 明治23年7月と言えば、子規はちょうど第一高等中学高を卒業したところで、まだ「俳句」を世に問うてなどいなかった。
 しかもこの雑誌の「俳句」の選者は、あの悪名高き点取俳諧の帝王、夜雪庵金羅宗匠である。
 つまり、「俳句」という言葉は、子規が登場する以前、すでに庶民の一般的な語彙となっていた。しかもそれは点取俳諧の、それも最も周縁に位置する通俗的な滑稽雑誌で使われる言葉だったようなのである。
 もうひとつ、この雑誌で面白いのが、創刊号の序文である。
「文学の本領」という題で、要するに「情歌(どどいつ)も文学だ」と主張している。冒頭を読んでみよう。

   文学の本領せる其区域の広き事蒼海の如し、漢文、詩文、小説、筋書、和歌、
  俳句、浄瑠璃は云ふも愚か、牛飼ふ童、木を樵る翁、馬士が謡ふ戯れ歌も何れ
  か文学の範囲ならざらんや

 これが明治23年の文章であってみれば、子規の俳句革新についても、その意識の先進性の評価を少し考え直してみなければならないと思うほどである。すでに明治23年、俳句は文学であり、その俳句を追うかたちで情歌を文学にしようとする意識まで存在している。文学の範囲は広く、漢文、詩文、小説、筋書、和歌、俳句、浄瑠璃はもちろんのこと、「牛飼ふ童、木を樵る翁、馬士が謡ふ戯れ歌」も文学だというのである。
 続けて筆者は、情歌(どどいつ)という形式にも文学としての可能性があることを説く。

   然り而して世の学者動もすれば情歌の如き者は啻に文学 界の部外に排斥せ
  る而巳ならず之を野卑陋猥の者となし目 にだに触るるを嫌ふにいたる誠に狭隘
  の識見と云ふべし何 となれば情歌其物の野卑陋猥なるにあらずして、作者其人
  の思想の野卑陋猥を発見するの能力なければなり、
 
 「どどいつ」という形式自体が野卑なのではない、作り手の思想が問題なのだ、という主張である。これはまことに一面の理屈にはなっている。
 この筆者は、内容と形式の相関性には無関心のようで、その二つをそれぞれに孤立した別の要素と考える二元論に立っているように見える。しかしそれは、近代の評論の一般的な傾向であろう。
 次に筆者は、文学をその機能面から定義してみせる。

  凡そ文学の要は事物の真想を究め且つ世道人心を教化する の具となさずんば
  あらず、蓋し俳句、狂句、狂歌の如きは 尤も簡易なる俗言をもって巧みに句調
  を廻はし自ら風刺を 含みて知らず知らず風教の裨補を為し世の人の醜行を矯
  正し若しくは自省せしむるの巧能寔に鮮少ならざるなり

 文学の中でも「俳句、狂句、狂歌」などは「簡易なる俗言をもって」人を教育するものだというこの主張には、福沢諭吉の学問観が影を落としているようでもある。社会を近代化する実際の力となるものが学問であり、文学もそのひとつだとする考え方である。
 明治二十年代は特にさまざまな分野で、「改良」の名のもとに近代化への運動が起こされた時期であった。この主張もそうした時代の流行の中にある。
 筆者は次のように結論づける。

  情歌の如きも亦卑近の句調を以て楽しみの内に自ら是非曲直の意義を悟らしめ
  人情の如何をも窺知せしむるの妙味を有せり

 つまり、俳句や狂句だって人の役に立ってるじゃないか、どどいつだって、ということである。形式で差別するな、中身が問題だという主張には一理ある。『人來鳥』は、実に大衆的な文芸誌ではあったろうが、しかしその主張にはそれなりの筋が通っている。これはなかなかの書き手ではないか。
 いったいどのような人達が、このような雑誌に作品を投稿し、「俳句」という言葉を日常的に使い、「どどいつ」までも文学にしようとしていたのであろうか。
 表紙の裏に印刷された「初音会の定規」には「本会は世の粋士通客は勿論芸能家等をもって組織し文芸風雅の道を研究するを以つて目的と為す」とある。「芸能家」を特記してあるのが気に掛かるが、これだけではまだ具体的なイメージがわいてこない。もう少し詳しく理解するために、執筆者の筆名を検討してみよう。
 第二号には、『匂ひ鳥』と題して、古狂歌を紹介した短文を寄せている「夏のやこだち」という人物がいる。どうもこの雑誌の編集に携わっている人らしい。この名から思い起されるのは、この年の二年前、明治二十一年に、言文一致体への試みとして刊行され、話題を呼んだ山田美妙の小説集『夏木立』ということになろう。
 「夏のやこだち」が美妙その人の別号であるとはとうてい思えないが、美妙がこのころ数々の新しい文体の作品を発表して世間の注目を集めていたことを考えれば、これが美妙にあこがれた文学青年であったという予想は許されるだろう。
 さらにこの雑誌の中心となる情歌の作者を見ると、「花の家色香」「桃の家秋興」「お蔭様息齋」などの名に混じって「春のやさくら」という名が見られる。この人も編集者らしいのだが、この名からは、明治十八年に発表された『当世書生気質』の作者「春の屋おぼろ」こと坪内逍遥を思い起こさずにはいられない。やはりこの雑誌は、新しい文学の潮流に敏感な人達のものだったのだろうか。
 もっともこれは現在から見ての解釈であって、当時の俗謡の世界での号の付け方としては「夏のや」も「春のや」もごくありふれたもので、むしろ逍遥が戯作を気取って「春の屋おぼろ」と号したと考える方が自然であるかも知れない。
 第一号巻末の「笹なき」という編集後期にあたるような記事を見ると、「よし町布袋屋」の「八千代子」「千代治」という二人の「大姐さん」から、『人來鳥』の発刊を祝って「花も実もあるアノ梅が枝に初ねゆかしきひときどり」という歌をもらったという記事がある。どうも夏のやこだち氏や春のやさくら氏は、「布袋屋」の常連であったらしい。
 また「住吉町伊勢屋」の「お半大姐」からも「谷の戸訪づるアノ春風に誘ひ出さるゝ人來鳥」という情歌も届けられており、加えて「夏のやこだち」氏は編集が終わるやいなや、みなまだ忙しいのに伊香保温泉に行ってしまったなどという記事もあって、これはかなり暮らしも豊かな遊び人の「座」であったようだ。
 さらに、会員の葉歌、替歌、都々逸などは徳永里朝と春風亭梅枝によって高座で歌われるからたくさん投書をしてほしいという記事もあるから、これが花柳会にかなり通じた集団であることは確かである。
 その「笹なき」の最後に、「やまと新聞社」の一筆庵主人による『鴬宿梅』という小説を掲げるはずのところを紙面の都合で2号に掲載するとあって、たしかに2号には、たった2ページであるが、『鴬宿梅』が掲載されている。
 しかし文学史に残る『鴬宿梅』という作品は、菊地幽芳によって書かれ、明治25年に「大阪文芸」に発表されたものである。
 幽芳も新聞記者ではあるが、明治24年から大阪毎日新聞社に入社したのであって、それまでは茨城県取手市で小学校教師を務めていたはずである。
 その間の一時期、幽芳は「やまと新聞社」に籍を置いていたのであろうか。既に述べたように『人來鳥』第一声は明治23年7月の刊行であるから、その可能性もなくはない。とすれば、この投稿者は菊地幽芳ということになり、この座の姿が少し見えてくることになる。残念なことに今手元に「大阪文芸」版の『鴬宿梅』がないので確認ができない。今少し調査を進めてみたい。

 『人來鳥』については、今少し調査を進めていかないと、それがどのような人達の座であったかを具体的に位置付けることはできない。
 しかし彼らが、江戸の粋の伝統を守ろうとする通人で、しかも近代文学の夜明けにも敏感であった人達であったことは確かである。
 『人來鳥』はどうみてもアマチュアの同人誌という趣ではない。新しい文学に対する理屈には若さが感じられるが、花柳会に対しては新参者とは思えない関わりを見せており、雑誌の編集も伝統文芸に手慣れたプロの余技という手際である。
 おそらく彼らは、売出し中の若手の芸人や、これから新聞で文芸欄を担当しようという野心を持ったジャーナリストの卵たちであったのだろう。彼らは自ら雑誌を組織し、ぞの座に参加する読者を募り、近代における伝統文芸の位置付けを実践的に模索していたのだ。それはおそらく、そのような世界に生きている彼ら自身のアイデンティティーを、近代という新しい世界において確立するための行為にほかならなかったはずだ。まさに「どどいつ」は彼ら自身であり、「どどいつ」が意味を持つことこそが、彼らの存在に意味を持たせることにほかならなかったのである。
 
 (2)『雅の力競』
 ここでもうひとつの雑誌に目を向けてみよう。『人來鳥』が突出したひとつの特異点でないことを認識しておくためである。
 『雅の力競』(みやびのちからくらべ)は、「東京市京橋区八丁堀仲町十四番地」の萬文堂から発行されていた滑稽系の風雅誌で、編集発行人は大嶽松太郎とある。
 筆者の手元にあるものは、明治24年の6月25日出版御届の「七の巻」、8月21日出版の「八の巻」、9月21日出版の「九の巻」の三冊で、いずれもB6版縦長の仕立である。単純に類推すれば、この年の正月に刊行が始まったということになろう。
 大嶽松太郎は出版を業とする人で、明27年1月に、加藤景山編、柿本庵岸笑甫長吉増補『全国俳家画像小伝百員集』を東京の「万交社」という出版社名で刊行した記録が残っている。
 「六の巻」序は鴬亭金升。序の署名に金舛とあるが、文中に金升とあって「おのれ」とルビがふってあるから、これは誤植であろう。
 金升は明治元年下総に生まれたジャーナリストで、改進、万朝報、中央、やまと、読売、都、東京毎日と数多くの新聞社を転々とした不思議な人物である。落語や長唄、小唄などをよく作り、雑俳の宗匠としても名を上げる粋人である。このときは24歳という若さであるから、雑俳の選者として売り出し中のころであろう。序の次の部分からこの雑誌の座の連なりが少し見えてくる。

  五面喃史君粋花園醒水と改号ありて副評の席に座をしめ
 られ仮名垣翁の後見にて二つの星なす光輝を添えらるるは
 其一夜の逢う瀬よりうれしきことならん金升露垣大人の此
 集を退るるに遇て分に過ぎたる一人舞台なりしを助給ふが
 為め心強き秋となりぬ

 どうやら金升はこの雑誌の選者であるらしい。別のページを見ると、露垣大人は霧垣夢文という人のようで、露は霧の誤植であるようだ。
 仮名垣魯文の後見で始めたこの雑誌の選者から霧垣夢文宗匠が去ることになり、金升一人の仕事となったところに粋花園醒水が副評として加わったということであろう。
 後の都々逸のページを見ると、はじめが金升一人の選になる作品が続き、次に「立評仮名垣魯文、副評粋花園醒水」の選というふうになっている。魯文はおそらく名を貸しているだけであろう。戯作界の大ボスであった魯文は、明治23年「名納め会」を開いて文壇を引退している。
 序の次に「叢話」として戯作や滑稽雑誌のニュースがあり、誰それの号が変ったとか、霧垣夢文の門下が運座の席上で暴力沙汰をおこしたとかの記事がある(どうも霧垣夢文が選者を退いた理由と関わりがあるらしい)。
 しかし注目すべきは、他の風雅誌や会の動向である。次のような記事から、滑稽系の風雅の会がいかに数多くあったかを窺い知ることができる。
 ・横浜で『可愛良誌』という風雅雑誌が発行された。
 ・金升が『頓知会雑誌』の編集を始めた。
 ・『花たら誌』第三十五号発行。
 ・金沢で『我楽多雑誌』一冊五銭で発行。
 さらに八号、九号を見ると、
 ・『みやび雄』が九月から発行される。
 ・神田で『寝覚めの友』という俳句の月並集が企てられた。
 ・『風雅会』が都々逸狂句を廃し発句狂歌を専門にする。
 ・『源氏会』再興。
 ・『万情連』印刷料の不払いで訴えられる。
 ・『矯正会』の源氏楼氏『みやび雄』一号へ金升の徳と霧  垣の不徳とを書く。
 ・銚子で都々逸流行。
 ・青山の頓知会が『滑稽』を創刊。編集は金升。
 ・団々連『第二回都々逸句集』を刊行。
 ・本所の『情海の灯』が『千曳の石』と改題。
 これらはすべて、都々逸と並んで、月並俳諧、あるいはそれともちょっと違う狂体の五七五を募集していた雑誌と考えられる。これらの中に、最初に「俳句」と言い出した座があるのかも知れない。
 『雅の力競』の「叢話」は、これらの会に派があることを匂わせ、霧垣宗匠の万情連をスキャンダルの中に陥れようとしているようだ。それはこの「叢話」にドラマ性を与え、読者の興味を繋ぎとめる役目を果たしている。そうした「叢話」を巻頭に持ってくるような編集方法は、単にこの雑誌が愛好家による文芸誌ではなく、プロのジャーナリストの手になる商業誌であることを示唆している。これに比べると、『人來鳥』ははるかに純粋な文芸の愛好誌に見えてくる。
 そして、この「叢話」の次に「俳句の部」がくる。
 すでに「叢話」にも「月並の俳句」という言葉が使われていたが、滑稽系の風雅誌においては、すでに「俳句」が通常の言い方になっていたのであろう。それは狂体の句に対してばかりでなく、月並俳諧に対しても使われているのだ。
 選者はまず桂花園桂花。

 十分な秋の小口やくさのいち  東京本港町 雪の本喜山
 はつ汐や幸い舟のおろし初め  阿波国里村 田中 田亀
 初汐に月も満ちたるひかりかな 東京柳島  花垣 可文
 はつしほや産声たかき男の子  東京八丁堀 調髪軒花友
 うつくしい夕空になる花野かな  陸中尾去沢 芝山 樵夫
 文月となりぬ扇のつかひぶり   信濃松尾村 呑々亭一志
  「褒賞の部」
 草市や裾もたもともしめり勝    横浜市 北方 山人
 文月や星も砂子のよるのそら   千代田連 辻  霞洲
 
 などとある。この宗匠の選は、概して柔らかな口調を採るようで、内容は穏やかでややロマンチック、表現や比喩が曖昧模糊としていおり、輪郭のはっきりしない句が多い。
 次に夜雪庵金羅宗匠の選で、

  「秀逸の部」 
 つる草の根強くからむ残暑哉  東京本港町 雪の本喜山
 白露や雨にはとうき空のいろ  阿波国里村 田中 田亀
 白萩や琴もおしえる禰宜の妻  東京本所  不繋庵為船
 鈴虫の篭をこぼるる高音かな  伊豆国子浦 齋藤 晴佳
 つえ入れて起してみるや雨の萩 艶文連   岸の家 柳
  「巻中感吟」
 余り温泉の落口くらし啼河鹿   団々連   吟亭 斗升
 こぼるるはまた置露の力かな  伊豆国稲取 小林  孝
 遠音すむ簫吹は誰そ萩のおく  東京浅草  旭  山人

 こちらは同じ作者の句でも力強い句が採られ、焦点が明確で、多少読み応えがある。しかし、「巻中感吟」をみると、本当はもうひとひねり意味を穿った句を求めていたらしいことがわかる。しかし雪の本の「つる草の根強くからむ残暑哉」や岸の家の「つえ入れて起してみるや雨の萩」などは、ある程度の水準にあると思うがどうであろうか。

  以下 『子規の近代 −滑稽・メディア・日本語−』 に詳説。