〈俳句という名称    秋尾 敏

2022年4月改稿


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 はじめに
 「俳句」という名称については、松井利彦の『近代俳論史』(桜楓社・昭和40年)に、明治10年の成島柳北の『香風夜話』や、明治13年の『風雅新誌』の用例が紹介され、また三森幹雄の『俳諧明倫雑誌』に創刊号から使用されていることが示されている。
 しかし、いまだに俳句という言葉が一般化したのは子規以降の明治20年代後半からだと考えている人が多い。
 実は〈俳句〉は、江戸時代から使われている。

1 江戸時代の〈俳句〉
 江戸時代の〈俳句〉の用例については、かつて三好行雄が「近代俳句をめぐるおぼえ書」(『三好行雄著作集 第7巻』(筑摩書房・平成五年)所収)に5点を挙げたが、中に活字本を見たことによる誤認と思われるものがあって批判され、以来、江戸期の〈俳句〉は話題にならなくなった。
 しかし、三好の指摘のうち、其角編『虚栗』(天和3年(1683))と、六平斎亦夢『俳諧一串抄』(天保元年(1830))には〈俳句〉があり、また、『世界大百科事典』(平凡社)で坪内稔典氏が指摘する上田秋成の『胆大小心録』(1808年)にも〈俳句〉はある。
 さらに捜せば、其角篇『句兄弟』(元禄7年序(1694))、砂岡雁宕編『夜半亭発句帖』(宝暦2年(1752))、麦水著『俳諧蒙求』(明和7年(1770))、同『新虚栗』(安永6年(1777))、三宅嘯山編『許野消息(きょやしょうそこ)』(天明5年(1785))、几董著『井華集』(寛政元年(1789))、菊舎尼編『手折菊』(文化9年(1812))、包寿等編『成美家集』(文化13年(1816))、夏目成美文集『四山藁』(文政4年(1821))に載る「『発句帖』序」等に〈俳句〉が見られるから、江戸時代を通してその用例はあると言ってよいだろう。
 しかし、その用語が一般化したのは明治時代になってからのことである。明治初期まで、〈俳句〉は俳文芸全体を指す意味に使われていたが、明治9年頃から、単独で鑑賞される発句を表す名称となった。
 〈発句〉は俳諧連歌(連句)の最初の一句で、それが単独で詠まれる場合にも、やがては脇の句が付けられることが想定されていたと考えられる。ところが、時代の変遷とともに単独に終始する作品が増え、そこに〈発句〉とは別の名称の必要が生まれたのであろう。

2 其角が〈俳句〉と書いた理由

 江戸時代の〈俳句〉の用例中、もっとも古いのが『虚栗』の巻末に置かれた「戯序」で、漢文で次のように書かれている。実はこれは杜甫の「貧交行」という七言絶句のパロディである。右に元の詩を示しておく。

   噛古人貧交行之詩一吐而 戯序     貧交行  杜甫
  翻手作雲覆手雨              翻手作雲覆手雨
  紛々俳句何須数              紛紛軽薄何須数
  世不見宗鑑貧時交             君不見管鮑貧時交
  此道今人棄如土              此道今人棄如土
  凩よ世に拾はれぬみなし栗

 二行目の「手を翻せば雲となり、手を覆えば雨となる」は、人の為すことはころころ変わるということで、三行目の「軽薄」が「俳句」に置き換わっている。「何須数」は、数えるまでもなく多すぎるということであろう。四行目の、春秋時代の管仲と鮑叔牙の交りが、山崎宗鑑の話に変えられているが、本当に大切なものが忘れられていくという主題は踏襲されている。
 同じ其角が編んだ『句兄弟』における用例でも、〈俳句〉は漢文脈で用いられている。
 とすれば、〈俳句〉は、〈俳諧連歌〉を漢文脈中で言い表すために其角が思いついた用語だったのではなかろうか。其角の漢文の素養には定評がある。漢文中に〈俳諧〉と書けば詩の種類には見えず、〈俳諧連歌〉も、漢語としては得体が知れないという感覚があったと思われる。それを〈俳句〉と書けば、少なくとも〈俳〉の〈句〉ということで、漢語として意味をなす一般名詞になると発見したのは、おそらく其角の手柄であったろう。〈俳句〉はまさに、日本文学と漢文学の境界で生まれた用語だったのである。

3 明治時代の〈俳句〉
 明治期における〈俳句〉の早期の用例としては、明治8年刊の和装の句集『夜たゝ鳥』(梅痴編)の漢文の序がある。これはまだ俳文芸全体を漢語で言い表そうとした語のようである。江戸時代の用例も多くは漢文脈の中に見られることから、「俳句」が俳諧連歌を漢文脈で表すための語であった可能性が高い漢文中で「俳諧」と書けば滑稽という意味にしかならず、何のことか分からない単語になってしまう。そこで「俳句」と書いて、面白いこという短い詩だと分からそうとしたのであろう。
 単独の五七五を〈俳句〉と呼んだ事例は、明治9年に岡野伊平によって創刊された「風雅新聞」、明治10年に仮名垣魯文によって創刊された「魯文珍報」、11年に魯文によって創刊された「月とスツポンチ」などに見られる。これらはみな、都々逸や狂歌などを掲載する滑稽文芸の雑誌で、俳文芸を専門とするものではない。
 俳諧の専門誌では、明治13年創刊の「俳諧明倫雑誌」の創刊号が〈俳句〉という用語を用いている。これは三森幹雄が社長を務める明倫講社の機関誌である。明倫講社は、明治政府の神道国教化政策に添って活動した結社で、瓦斯灯や陸軍記念日などという新しいテーマも詠んだ革新派であったから、この〈俳句〉は、従来の〈発句〉とは違うという自負の意識もあっての用語であったかもしれない。
 書籍では、明治14年刊の『玉競四季廼魁 俳句、狂句の部』(和歌山県・万寿堂)、同年刊の『岩木の栞 第一編』(青森県・秋元源吾)に〈俳句〉という用語が見られるが、これは全国に多くの読者を持っていた「俳諧明倫雑誌」の影響と考えられる。
 「風雅新聞」以降の事例は、ほとんどが活字メディアである。この時期の俳書は、ほとんどが和装木版という古風な伝統を守っていたのだが、その中で〈俳句〉が活版印刷のメディアから使われ出したということには意味がある。〈俳句〉は、それまでの〈発句〉とはどこか違う雰囲気を持った新しい五七五を指す用語だったと考えられるからである。
 明治20年代になると、活版で刊行されるさまざまな雑誌に、〈俳句〉欄が設けられるようになる。尾崎紅葉の「我楽多文庫」の10号(明治19年)と11号(同20年)に〈俳句〉が掲載されている。また、点取俳句誌として全国から句を集めていた「俳諧一日集」(松風会出版部)にも第3号(明治22年)から〈俳句〉の語が使われている。日本最初の学生向け投稿雑誌として知られる「穎才新誌」にも、明治23年から俳句欄が設けられる。
 つまり、明治26年に正岡子規が新聞「日本」に俳句欄を設けたころには、すでに〈俳句〉は一般的になっていたのである。

 上記の詳細は、「俳壇」(本阿弥書店)令和3年1月号から3月号に連載。
引用はそちらからして下さい。