「俳句」という名称の成立    秋尾 敏


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  1 はじめに
 「俳句」という名称については、既に昭和40年、松井利彦の労作『近代俳論史』に、明治10年の成島柳北『香風夜話』中の用例や、明治13年『風雅新誌』の部立てなどが紹介され、また三森幹雄の『俳諧明倫雑誌』にも多くの使用例があることが示されている。
 しかしこの指摘を見逃している論も多く、いまだに俳句という言葉が一般化したのは子規以降の明治30年代だと考えている向きも多い。
 私の考えでは、「俳句」という名称は、明治10年前後から、俳諧の伝統の中心とはちょっとはずれたところで、発句を連句の第一句としてではなく、独立したひとつの文芸のジャンルとして扱おうとする人々によって使われだしている。
 資料の多さにもかかわらずこうした認識が一般化しなかったのは、俳句の近代化が子規以降のことだとする先入観のせいであろう。
 たしかに近代の詩のひとつとしての俳句がどのようなスタイルであったらよいかを具体的に示したのは子規である。
 しかし、子規以前の、いわゆる旧派の宗匠たちも、明治という時代に対処すべくさまざまな工夫を残しており、それが結果的に作品の成功につながっていないからといって無視してよいことにはならない。
 そのことを明治20年代から遡る形で検証してみたい。

 2 滑稽系の風雅誌
 明治二十年代、東京や大阪を中心に、点取俳諧の大ブームがまき起こる。子規が俳句革新を言い始める直前のことである。
 その背景には、学校という教育制度が成功し、また活版印刷による新聞が普及して、日本の多くの大衆が、文字を使えるようになったという歴史の歩みがある。
 また、郵便という制度が機能し、俳諧を集める文音所が、全国規模で俳句を集めることができるようになったという状況も忘れてはなるまい。
 しかしこの流行は、ひとり俳諧だけの世界に閉じた現象ではなかったのである。そこには点取俳諧の俳誌よりもっと通俗的な、「どどいつ」とか「なぞかけ」とかの大衆文化とも連動した雑誌が存在した。それらを「滑稽系の風雅誌」と呼んでおこうと思う。
 子規以前ということであれば、月並の代表格である三森幹雄の『俳諧明倫雑誌』などは、むしろ明治の俳諧という文化の中心に位置付けられる雑誌であろう。
 もともと俳諧は、和歌から枝分れした周縁の文化であろうけれども、しかしその内部にも中心と周辺はあり、『俳諧明倫雑誌』の外側に夜雪庵金羅らの点取俳諧があるとすれば、さらにその周縁に、例えば仮名垣魯文に連なる滑稽の文芸が存在する。
 そうした層の内部にも、投稿という手段で結ばれた「座」が存在し、そしてそのもっとも大衆的な周縁の「座」から立ち上がってくる近代というものの重要性もまたあるのである。

 3 『人來鳥』
 人來鳥(ひときどり)はうぐいすの異名だが、これは東京市京橋区木挽町の初音会より発行された滑稽系の風雅誌で、この題は「人気取り」に掛けているのであろう。
 情歌(どどいつ)や謎、狂歌、川柳などと並んで俳句が扱われており、月並の点取をさらにポップにしたようなレベルの大衆誌である。

 夫のふす寝床を冷やす団扇かな   秋興
 うれ盛るてんき続きや心太       三峰
 皐月ばれ萌黄ふとんの東山      若竹庵月光
 二階から招ねく禿や葛の水        同
 蓋とれば氷賓桜よ冷しじる       鶴甫

 みな季語入りの川柳といった趣で、典型的な月並俳諧であるが、しかし何とか江戸の粋を継承しようとする心意気は感じられる。
 明治二十三年七月の創刊で、「第一聲」というのが洒落ており、第二聲まで発行されて、次からは『匂ひ鳥』と名を改めたらしいが、筆者の手元にも国会図書館にも第二聲までしか残っていない。
 「初音会の定規」という項には、詩文、和歌、俳句、狂句、狂詩、端唄、情歌(どどいつ)、変調(かえうた)、流行歌(はやりうた)、演劇脚本(しばいすじがき)、浄瑠璃、小説、古今の雅人通客及諸芸に堪能たる人の伝記其外あらゆる奇文珍説等を掲げる、とある。
 まずここで取り上げなければならないのは、そこにある「俳句」の二文字であろう。
 明治二十三年七月と言えば、子規はちょうど第一高等中学高を卒業したところで、まだ「俳句」を世に問うてなどいなかった。
 しかもこの雑誌の「俳句」の選者は、あの悪名高き点取俳諧の帝王、夜雪庵金羅宗匠である。
 つまり、「俳句」という言葉は、子規が登場する以前、すでに庶民の一般的な語彙となっていた。しかもそれは点取俳諧の、それも最も周縁に位置する通俗的な滑稽雑誌で使われる言葉だったようなのである。
 この時期の旧派の俳誌に「俳句」の文字はみられない。
 調べた限りでは、「俳句」という語を題に持つ最も古い俳誌は、明治二十六年三月に刊行された『明治廿五年俳句五百題』(飯尾一風編・金沢・北溟社刊)である。
 続いて明治二十七年の刊行らしい『剣神社献納俳句集』(詳細不明)、同年五月刊の『俳句友かゝ美(加々美)』(楠蔭中西波鴎著・大阪・柏原圭文堂)などがあり、その六月に、すでに指摘されているように、三森幹雄編の『奉祝俳句集』が東京で刊行されている。
 明治三十年代には、子規ら日本派が「俳句」という言い方を広め、虚子の『俳句入門』なども出て、「俳句」がいっきに一般的な名称となっていく。しかし、明治二十三年の段階で「俳句」と使った俳書は今のところ見当たらない。
 どうやら俳諧の専門誌以前に、滑稽系の風雅誌から、「俳句」という語は人口に膾炙していったようなのである。
 しかも、同じく滑稽系の風雅誌『雅の力競(みやびのちからくらべ)』にも「俳句」とあって、これも明治二十年代前半の発行である(この本については次項で詳しく述べる)。
 やはり「俳句」は、こうした通俗的な、月並俳諧の世界でも周縁に位置する風雅誌から一般化していったようで、この言葉の成立過程を考えるとき、忘れてならない資料であろう。
 もうひとつ、この雑誌で面白いのが、創刊号の序文である。
「文学の本領」という題で、要するに「情歌(どどいつ)も文学だ」と主張している。冒頭を読んでみよう。

  文学の本領せる其区域の広き事蒼海の如し、漢文、詩文、 小説、筋書、和歌、俳句、浄瑠璃は云ふも愚か、牛飼ふ童、 木を樵る翁、馬士が謡ふ戯れ歌も何れか文学の範囲ならざ らんや

 これが明治二十三年の文章であってみれば、子規の俳句革新についても、その意識の先進性の評価を少し考え直してみなければならないと思うほどである。すでに明治二十三年、俳句は文学であり、その俳句を追うかたちで情歌を文学にし
ようとする意識が存在している。
 文学の範囲は広く、漢文、詩文、小説、筋書、和歌、俳句、浄瑠璃はもちろんのこと、「牛飼ふ童、木を樵る翁、馬士が謡ふ戯れ歌」も文学だというのである。
 続けて筆者は、情歌(どどいつ)という形式にも文学としての可能性があることを説く。

  然り而して世の学者動もすれば情歌の如き者は啻に文学 界の部外に排斥せる而巳ならず之を野卑陋猥の者となし目 にだに触るるを嫌ふにいたる誠に狭隘の識見と云ふべし何 となれば情歌其物の野卑陋猥なるにあらずして、作者其人 の思想の野卑陋猥を発見するの能力なければなり、
 
 「どどいつ」という形式自体が野卑なのではない、作り手の思想が問題なのだ、という主張である。これはまことに一面の理屈にはなっている。
 この筆者は、内容と形式の相関性には無関心のようで、その二つをそれぞれに孤立した別の要素と考える二元論に立っているように見える。しかしそれは、近代の評論の一般的な傾向であろう。
 次に筆者は、文学をその機能面から定義してみせる。

 凡そ文学の要は事物の真想を究め且つ世道人心を教化する の具となさずんばあらず、蓋し俳句、狂句、狂歌の如きは 尤も簡易なる俗言をもって巧みに句調を廻はし自ら風刺を 含みて知らず知らず風教の裨補を為し世の人の醜行を矯正 し若しくは自省せしむるの巧能寔に鮮少ならざるなり

 文学の中でも「俳句、狂句、狂歌」などは「簡易なる俗言をもって」人を教育するものだというこの主張には、明らかに福沢諭吉の学問観が影を落としているように思われる。社会を近代化する実際の力となるものが学問であり、文学もそのひとつだとする考え方である。
 明治二十年代は特にさまざまな分野で、「改良」の名のもとに近代化への運動が起こされた時期であった。この主張もそうした時代の流行の中にある。
 筆者は次のように結論づける。

 情歌の如きも亦卑近の句調を以て楽しみの内に自ら是非曲直の意義を悟らしめ人情の如何をも窺知せしむるの妙味を有せり

 つまり、俳句や狂句だって人の役に立ってるじゃないか、どどいつだって、ということである。形式で差別するな、中身が問題だという主張には一理ある。『人來鳥』は、実に大衆的な文芸誌ではあったろうが、しかしその主張にはそれなりの筋が通っている。これはなかなかの書き手ではないか。
 いったいどのような人達が、このような雑誌に作品を投稿し、「俳句」という言葉を日常的に使い、「どどいつ」までも文学にしようとしていたのであろうか。
 表紙の裏に印刷された「初音会の定規」には「本会は世の粋士通客は勿論芸能家等をもって組織し文芸風雅の道を研究するを以つて目的と為す」とある。「芸能家」を特記してあるのが気に掛かるが、これだけではまだ具体的なイメージがわいてこない。もう少し詳しく理解するために、執筆者の筆名を検討してみよう。
 第二号には、『匂ひ鳥』と題して、古狂歌を紹介した短文を寄せている「夏のやこだち」という人物がいる。どうもこの雑誌の編集に携わっている人らしい。この名から思い起されるのは、この年の二年前、明治二十一年に、言文一致体への試みとして刊行され、話題を呼んだ山田美妙の小説集『夏木立』ということになろう。
 「夏のやこだち」が美妙その人の別号であるとはとうてい思えないが、美妙がこのころ数々の新しい文体の作品を発表して世間の注目を集めていたことを考えれば、これが美妙にあこがれた文学青年であったという予想は許されるだろう。
 さらにこの雑誌の中心となる情歌の作者を見ると、「花の家色香」「桃の家秋興」「お蔭様息齋」などの名に混じって「春のやさくら」という名が見られる。この人も編集者らしいのだが、この名からは、明治十八年に発表された『当世書生気質』の作者「春の屋おぼろ」こと坪内逍遥を思い起こさずにはいられない。やはりこの雑誌は、新しい文学の潮流に敏感な人達のものだったのだろうか。
 もっともこれは現在から見ての解釈であって、当時の俗謡の世界での号の付け方としては「夏のや」も「春のや」もごくありふれたもので、むしろ逍遥が戯作を気取って「春の屋おぼろ」と号したと考える方が自然であるかも知れない。
 しかし、この序文の筆者が、時代の潮流を体で感じ、それに乗り遅れないような知識の獲得の仕方をしている人であることは序文の内容から明らかである。ただの伝統的な粋人とは思えないのだ。
 第一号巻末の「笹なき」という編集後期にあたるような記事を見ると、「よし町布袋屋」の「八千代子」「千代治」という二人の「大姐さん」から、『人來鳥』の発刊を祝って「花も実もあるアノ梅が枝に初ねゆかしきひときどり」という歌をもらったという記事がある。どうも夏のやこだち氏や春のやさくら氏は、「布袋屋」の常連であったらしい。
 また「住吉町伊勢屋」の「お半大姐」からも「谷の戸訪づるアノ春風に誘ひ出さるゝ人來鳥」という情歌も届けられており、加えて「夏のやこだち」氏は編集が終わるやいなや、みなまだ忙しいのに伊香保温泉に行ってしまったなどという記事もあって、これはかなり暮らしも豊かな遊び人の「座」であったようだ。
 さらに、会員の葉歌、替歌、都々逸などは徳永里朝と春風亭梅枝によって高座で歌われるからたくさん投書をしてほしいという記事もあるから、これが花柳会にかなり通じた集団であることは確かである。
 その「笹なき」の最後に、「やまと新聞社」の一筆庵主人による『鴬宿梅』という小説を掲げるはずのところを紙面の都合で二号に掲載するとあって、たしかに二号には、たった二ページであるが、『鴬宿梅』が掲載されている。
 しかし文学史に残る『鴬宿梅』という作品は、菊地幽芳によって書かれ、明治二十五年に「大阪文芸」に発表されたものである。
 幽芳も新聞記者ではあるが、明治二十四年から大阪毎日新聞社に入社したのであって、それまでは茨城県取手市で小学校教師を務めていたはずである。
 その間の一時期、幽芳は「やまと新聞社」に籍を置いていたのであろうか。既に述べたように『人來鳥』第一声は明治二十三年七月の刊行であるから、その可能性もなくはない。とすれば、この投稿者は菊地幽芳ということになり、この座の姿が少し見えてくることになる。
 残念なことに今手元に「大阪文芸」版の『鴬宿梅』がないので確認ができない。今少し調査を進めてみたい。

 『人來鳥』については、今少し調査を進めていかないと、それがどのような人達の座であったかを具体的に位置付けることはできない。
 しかし彼らが、江戸の粋の伝統を守ろうとする通人で、しかも近代文学の夜明けにも敏感であった人達であったことは確かである。
 『人來鳥』はどうみてもアマチュアの同人誌という趣ではない。新しい文学に対する理屈には若さが感じられるが、花柳会に対しては新参者とは思えない関わりを見せており、雑誌の編集も伝統文芸に手慣れたプロの余技という手際である。
 おそらく彼らは、売出し中の若手の芸人や、これから新聞で文芸欄を担当しようという野心を持ったジャーナリストの卵たちであったのだろう。彼らは自ら雑誌を組織し、ぞの座に参加する読者を募り、近代における伝統文芸の位置付けを実践的に模索していたのだ。それはおそらく、そのような世界に生きている彼ら自身のアイデンティティーを、近代という新しい世界において確立するための行為にほかならなかったはずだ。まさに「どどいつ」は彼ら自身であり、「どどいつ」が意味を持つことこそが、彼らの存在に意味を持たせることにほかならなかったのである。
 
 4 『雅の力競』
 ここでもうひとつの雑誌に目を向けてみよう。『人來鳥』が突出したひとつの特異点でないことを認識しておくためである。
 『雅の力競』(みやびのちからくらべ)は、東京市京橋区八丁堀仲町十四番地の萬文堂から発行されていた滑稽系の風雅誌で、編集発行人は大嶽松太郎とある。
 筆者の手元にあるものは、明治二十四年の六月二十五日出版御届の「七の巻」、八月二十一日出版の「八の巻」、九月二十一日出版の「九の巻」の三冊で、いずれもB6版縦長の仕立である。単純に類推すれば、この年の正月に刊行が始まったということになろう。
 大嶽松太郎は出版を業とする人で、明二十七年一月に、加藤景山編、柿本庵岸笑甫長吉増補『全国俳家画像小伝百員集』を東京の「万交社」という出版社名で刊行した記録が残っている。
 「六の巻」序は鴬亭金升。序の署名に金舛とあるが、文中に金升とあって「おのれ」とルビがふってあるから、これは誤植であろう。
 金升は明治元年下総に生まれたジャーナリストで、改進、万朝報、中央、やまと、読売、都、東京毎日と数多くの新聞社を転々とした不思議な人物である。落語や長唄、小唄などをよく作り、雑俳の宗匠としても名を上げる粋人である。このときは二十四才という若さであるから、雑俳の選者として売り出し中のころであろう。
 序の次の部分からこの雑誌の座の連なりが少し見えてくる。

  五面喃史君粋花園醒水と改号ありて副評の席に座をしめ
 られ仮名垣翁の後見にて二つの星なす光輝を添えらるるは 其一夜の逢う瀬よりうれしきことならん金升露垣大人の此 集を退るるに遇て分に過ぎたる一人舞台なりしを助給ふが 為め心強き秋となりぬ

 どうやら金升はこの雑誌の選者であるらしい。別のページを見ると、露垣大人は霧垣夢文という人のようで、露は霧の誤植であるようだ。
 仮名垣魯文の後見で始めたこの雑誌の選者から霧垣夢文宗匠が去ることになり、金升一人の仕事となったところに粋花園醒水が副評として加わったということであろう。
 後の都々逸のページを見ると、はじめが金升一人の選になる作品が続き、次に「立評仮名垣魯文、副評粋花園醒水」の選というふうになっている。魯文はおそらく名を貸しているだけであろう。戯作界の大ボスであった魯文は、明治二十三年「名納め会」を開いて文壇を引退している。
 序の次に「叢話」として戯作や滑稽雑誌のニュースがあり、誰それの号が変ったとか、霧垣夢文の門下が運座の席上で暴力沙汰をおこしたとかの記事がある(どうも霧垣夢文が選者を退いた理由と関わりがあるらしい)。
 しかし注目すべきは、他の風雅誌や会の動向である。次のような記事から、滑稽系の風雅の会がいかに数多くあったかを窺い知ることができる。
 ・横浜で『可愛良誌』という風雅雑誌が発行された。
 ・金升が『頓知会雑誌』の編集を始めた。
 ・『花たら誌』第三十五号発行。
 ・金沢で『我楽多雑誌』一冊五銭で発行。
 さらに八号、九号を見ると、
 ・『みやび雄』が九月から発行される。
 ・神田で『寝覚めの友』という俳句の月並集が企てられた。
 ・『風雅会』が都々逸狂句を廃し発句狂歌を専門にする。
 ・『源氏会』再興。
 ・『万情連』印刷料の不払いで訴えられる。
 ・『矯正会』の源氏楼氏『みやび雄』一号へ金升の徳と霧  垣の不徳とを書く。
 ・銚子で都々逸流行。
 ・青山の頓知会が『滑稽』を創刊。編集は金升。
 ・団々連『第二回都々逸句集』を刊行。
 ・本所の『情海の灯』が『千曳の石』と改題。
 これらはすべて、都々逸と並んで、月並俳諧、あるいはそれともちょっと違う狂体の五七五を募集していた雑誌と考えられる。これらの中に、最初に「俳句」と言い出した座があるのかも知れない。
 『雅の力競』の「叢話」は、これらの会に派があることを匂わせ、霧垣宗匠の万情連をスキャンダルの中に陥れようとしているようだ。それはこの「叢話」にドラマ性を与え、読者の興味を繋ぎとめる役目を果たしている。そうした「叢話」を巻頭に持ってくるような編集方法は、単にこの雑誌が愛好家による文芸誌ではなく、プロのジャーナリストの手になる商業誌であることを示唆している。これに比べると、『人來鳥』ははるかに純粋な文芸の愛好誌に見えてくる。
 そして、この「叢話」の次に「俳句の部」がくる。
 すでに「叢話」にも「月並の俳句」という言葉が使われていたが、滑稽系の風雅誌においては、すでに「俳句」が通常の言い方になっていたのであろう。それは狂体の句に対してばかりでなく、月並俳諧に対しても使われているのだ。
 選者はまず桂花園桂花。

 十分な秋の小口やくさのいち  東京本港町 雪の本喜山
 はつ汐や幸い舟のおろし初め  阿波国里村 田中 田亀
 初汐に月も満ちたるひかりかな 東京柳島  花垣 可文
 はつしほや産声たかき男の子  東京八丁堀 調髪軒花友
 うつくしい夕空になる花野かな 陸中尾去沢 芝山 樵夫
 文月となりぬ扇のつかひぶり  信濃松尾村 呑々亭一志
  「褒賞の部」
 草市や裾もたもともしめり勝    横浜市 北方 山人
 文月や星も砂子のよるのそら   千代田連 辻  霞洲
 
 などとある。この宗匠の選は、概して柔らかな口調を採るようで、内容は穏やかでややロマンチック、表現や比喩が曖昧模糊としていおり、輪郭のはっきりしない句が多い。
 次に夜雪庵金羅宗匠の選で、

  「秀逸の部」 
 つる草の根強くからむ残暑哉  東京本港町 雪の本喜山
 白露や雨にはとうき空のいろ  阿波国里村 田中 田亀
 白萩や琴もおしえる禰宜の妻  東京本所  不繋庵為船
 鈴虫の篭をこぼるる高音かな  伊豆国子浦 齋藤 晴佳
 つえ入れて起してみるや雨の萩 艶文連   岸の家 柳
  「巻中感吟」
 余り温泉の落口くらし啼河鹿  団々連   吟亭 斗升
 こぼるるはまた置露の力かな  伊豆国稲取 小林  孝
 遠音すむ簫吹は誰そ萩のおく  東京浅草  旭  山人

 こちらは同じ作者の句でも力強い句が採られ、焦点が明確で、多少読み応えがある。しかし、「巻中感吟」をみると、本当はもうひとひねり意味を穿った句を求めていたらしいことがわかる。しかし雪の本氏の「つる草の根強くからむ残暑哉」や岸の家氏の「つえ入れて起してみるや雨の萩」など佳句であると思うがどうであろうか。

  以下 『子規の近代 −滑稽・メディア・日本語−』 に詳説。