「蕪村句集講義」を読む
  秋 尾   敏  
平成10年「軸」に連載

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  『蕪村句集講義』 その1

  『蕪村句集講義』 その2

  『蕪村句集講義』 その3

  『蕪村句集講義』 その4


『蕪村句集講義』 その1


 俳諧は、座の文芸として発生し、人と人との関わりの中でその世界を広げてきた。
 座とは連歌を行おうとする人々の集まりである。俳諧連歌は、時候の挨拶としての発句をモチーフとし、その座に居合せた人々の発想の類似と相違とによって次々に全体が折りなされていく。
 作り手となった人々は、連歌を初めとするさまざまな過去の文芸についての知識を披瀝しつつ、前句の新たな展開を試みる。それは周囲の人々への誘惑であり、また挑戦でもある。
 このことは、近代になって、俳句が文学の仲間入りをした後も変わらない。俳句は、句会という場で集団的に詠み合われ、読まれ、取捨され、また指導者による批正なども当然のことのように行われてきた。
 俳句が近代の文学としてなかなか認知されなかった理由もその辺りにある。個人の個人たる所以を言語の作品によって証言しようとした近代文学は、集団として文体を決定する俳句に対して、あるとまどいを見せずにはおかなかった。
 近代文学は、明治期の政治小説やプロレタリア文学、あるいは日本文学報国会にかかわる戦争文学など一部の例外を除いて(いや、もしかするとそれらも含めて)、言葉が社会的な機能であることをしばらく脇に置き、個の内面を追究するような意識で書かれ、かつ読まれてきた。近代文学は、言語が個々人に固有な所有物であることを前提にしてきたといってよいだろう。
 文学作品を、歴史や社会から超越した個人の自我によって独創的に創作されるべきものと考える人々は、過去の作品を踏まえたり、集団の関係性によって創作されたりする俳句を非難し続けた。解釈が多様になったり、暗合による類似が起きやすいという点でも、俳句は文学として二流とされた。
 そこにおいて文学を読むとは、作者という特権的な存在の絶対性を前提とし、その思想を矛盾なく描き出す緊密な構造体としての作品から、作者の内面のひとつの主題を追究する作業ということだったのである。
 だが、そうした文学の読み方が相対化されつつある。
 ロラン・バルトは、文学を、単一の意味を持つ作品ではなく、複数の意味が交錯するテキスト(織物)として想定し、またミハイル・バフチンやジュリア・クリステヴァは、テクストを、過去のあらゆる言語表現を縦糸に、読者との関係を横糸としたものとし、作品を、時間的にも空間的にも外部に開かれた存在として再構成しようとした(*1)。
 つまり文学作品は、それ自体で完結した独自の言語空間ではなく、過去の諸テクストの再構成や変形であり、また読者との関わりによって永久的に新たな意味を与えられ続けるものだということである。
 日本においても、すでに大正期に木村毅は、文学を社会性やメディアの問題として論じており(*3)、また一九六〇年代からの比較文学の流行や、また読者論の普及の中で、文学を開かれた存在として見直そうとする動きは徐々に広がってきている。比較文学研究は、文学作品が時間的、空間的に孤立して存在し得ないことを明らかにし、読者論は、作品の意味が、読み手の関わりによって生成されることを検証した。
 前田愛は、「日本の近代文学を自我の発展史として鳥瞰するこれまでの文学史研究のパラダイムに対する意義申し立て(*4)」を都市論や読者論などの視点から行い、日本文学を多様に読み解く可能性と方法とを示した。日本の近代文学においても、テキストの内部に立ち上がる意味空間が、作者の自我ばかりを描き出しているわけではないことを実証してみせたのである。
 八〇年前後からは、いわゆるニューアカとかニューウェーブとか呼ばれる人達の仕事が、近代文学の読み直しに拍車をかける。柄谷行人は、『日本文学の起源』において、言文一致体の成立の過程で「風景」「内面」「病」などの諸概念がどのような意味持ったかを現象学的に問い直した(*5)。ここにおいて文学を読むことは、「文学」の枠を越え、世界を読みとるための知の営みとなった。現在では、近代文学に対するこのような立場はむしろ多数派であろう。
 だが、こうした思潮は、俳句の世界ではごくあたりまえのことであったと言わざるを得ない。
 読者論やテクスト論が、作者の思想を絶対一意の内容とする近代の読みのアンチテーゼであるならば、俳句はそれ以前から、そして近代を通過する間も、作者と読み手の複数性の中で意味を生成し、また先行する諸作品との関わりを当然のこととしてきた。俳句はまさに、過去のあらゆる言語表現を縦糸に、またその座にいる読み手との関係を横糸として成立してきたのであり、しかもそのことに自覚的であった。
 例えば高浜虚子は、昭和十九年、『汀女句集』の序文に、「今日の汀女といふものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力とが相待つて出来たものと思ひます」などという不遜とも思える言葉を残し、また『ホトトギス雑詠全集』の「序」にも次のように述べているのである(*2)。
  選と云うことは一つの創作であると思ふ。少なくとも俳
 句の選と云ふことは一つの創作であると思ふ。此全集に載
 った八万三千の句は一面に於て私の創作であると考へて居
 るのである。
 つまり虚子は、俳句を主体に固有の文学とは見ず、関係性の中に成立する文学としているのだ。
 これは、俳諧連歌の世界としては伝統的な態度である。俳諧において作品とは、先行するさまざまな芸能の言語表現を踏まえてのものであることは当然のことで、またその座の捌き手を中心に、そこに居合せたさまざまな人々とのやりとりの中で付句が決まっていくことも当然のことである。
 しかもできあがった作品は、全体としてひとつの統一した思想を持つわけでもなく、読み手によって極めて多様な意味を浮び上がらせる表現体なのである。
 つまり俳諧連歌には、近代文学で言うところの「作品」の概念が存在しない。さすがの子規も、自らは俳諧連歌を好みながら、これを文学として定義づけることはしなかった。
 だが、子規が近代文学として鼎立しようとした俳句も、そうした要素を多分に残しているのだ。冒頭に述べたように、俳句もまた先行する作品を踏まえ、座や場の関係性の中に成立する文芸なのである。
 さて、『蕪村句集講義』は、雑誌「ホトトギス」に明治三十一年から連載された座談形式のテクストで、子規を中心としたいわゆる日本派の人々が、『蕪村句集』を読み合った記録であり、そこには近代の俳句が、関係性の中でその方向を定めていく過程を読み取ることができる。

  *1 この辺りのことは、『読むための理論』(小森陽一等著・世織書房・1966)に
    導かれて書いている。
  *2 すでに『現代俳句』平成7年1月号で指摘した。
  *3 「明治文学の総決算」(『明治文学を語る』昭和9年所収)
  *4 『都市空間の中の文学』(筑摩書房・一九八二)「あとがき」
  *5 私はこの書物にかなり触発されている。1980年代の私の評論の多くは、結
    果的にもせよ柄谷のモチーフを俳句の成立に展開する形となった。ただし
    『<戦前>の思考』は少し違うのではないという気がしている。
        

『蕪村句集講義』 その2


 新聞『日本』を拠点とした子規ら日本派の俳人たちは、明治二十年代の後半から、与謝蕪村に強い関心を寄せ始める。それは蕪村の句に多い絵画的な作風に惹かれてのことだった。
 このとき若い子規たちが、なぜ絵画的な表現を求めたかといえば、それは彼らが、新しい時代を新しい視線で見ることのできる言語表現を必要としていたからだ。
 江戸の長い歴史の中で、俳諧の言葉は、古典を踏まえ、近世社会のしくみを踏まえて複雑化し、膨張し切っていた。
 それに気付かない人々は、その閉塞した状況のなかで模倣となぞりを繰り返していた。それが月並調である。
 しかも時代は変わり、表現の対象となる社会の様子も大きく変わりつつあった。
 俳諧という文芸が存続するためには、変わりつつある近代社会を、近代の目で表すことのできる表現形式が必要だったのである。
 絵画的な句は、まずその客観性によって、近世社会のしくみや人情から俳句を自立させることができる。
 子規もよく言うように、俳句は主観的な表現でもよい。ただその場合、主観は近代のものである必要があった。自我が近代に寄り添っていなければ、主観的な句はどうしても近世のなぞりとなる。月並調となるのである。そのゆえに、子規が『俳諧大要』で述べている初心のうちは客観の句が間違いが少ない、という言い方は真実をついている。
 子規は蕪村の絵画的な表現を、形成途上の近代的自我でながめ、そこに近代の意味を現出させようとした。それはひとつのディス・コンストラクションであったといってよいだろう。
 つまり子規たちは、蕪村の句に、これからの俳句の行先を見ようとし、そのように蕪村を解釈した。そして蕪村の句のいくつかは、その要求に応えた
 つまり日本派の人々にとって、『蕪村句集』はテーマではなかった。それはモチーフであり、素材であった。
 彼らのテーマは、あくまでこれからの俳句の作風はどうあるべきかというところにあり、そのために蕪村の句を解釈し、目的にかなうものを評価し、他を捨てた。
 日本派の人々は、蕪村を神格化せず、むしろ互いの討論の中で相対化していきながら、作品に含まれる「今日性」を引き出していった。その過程が『蕪村句集講義』に記録されている。それは彼らが集団として、この仕事に立ち向かったからできたことではないかと私は考えている。
 つまり、子規たちが日本的であり、かつ近代になりきっていなかったその精神の共同性ゆえに、かれらの仕事は、既にポスト・モダンのダイナミクスを内包していたということである。しかし、そうした子規たちの、未完成ではあるが自由な近代的精神は、その目的とは違ったところに強靱な影響を残すことになる。
 子規たちの、未熟だが若々しい精神の運動は、そのみずみずしい運動性が受け継がれるのではなく、その運動の結果としての蕪村の解釈が、固定的な知識として受け継がれることになってしまうのだ。
 例えば、戦後もっとも影響力があったと思われる岩波書店の古典文学全集における輝峻康隆氏の蕪村句の選句や解釈は、どう読んでもこの『蕪村句集講義』の影響下にある。
 さらに逆説的に言えば、子規以降の蕪村観のアンチテーゼとして提出された尾形仂氏の一連の仕事さえ、ポストモダンの水準で書かれていながら、しかし子規の仕事をスタティックな解釈、つまり定説の創出と考えている向きがある(たしかに歴史がそうであったのだから仕方のないことなのだが)。
 たとえば時間を遡って子規に会い、この解釈は違っているといったところで、子規はああそうか、と答えるばかりであろう。そんなことはどうでもいいことなのだ。
 子規の魅力は、世界を解釈するダイナミックな精神の躍動にあるのであって、結果として記述された解釈そのものの正否ではない。
 それは明治二十五年のことであった。
 子規ら明治の若い俳人たちは、自分たちの感性に快く入ってくる表現を蕪村に見いだした。
 この年の春、子規は俳句に生きようと決心し、『獺祭書屋俳話』や『俳句時事評』などを新聞「日本」に発表する一方、旧派の句会にも参加し、また翌二十六年には、「奥の細道」の跡を、地方の旧派の宗匠たちを尋ねながら旅する。目的に向かって実に精力的に活動するのである。
 そうした中、「椎の友」というグループとの交わりの中で、子規は蕪村を発見する。その座のだれもが、感覚的に受け入れらるというのだ。それはなぜなのか。
 彼らは苦労して蕪村句集を探し出し、読み始める。
 やがて、何やら日本派が蕪村に傾倒してるようだといううわさが広がり出す。例えば読売新聞の俳壇を担当していた岡野知十が記事に取り上げる。そして、どうやら時代は蕪村か、という風潮が起こり始める。
 そうなると旧派も気にし出す。何しろ新聞に書いてあるのだ。江戸の俳書なら旧派の方が持っている。
 目先の聞く出版社が現れ、明治二十九年、突如として蕪村句集が出版され始める。まずは旧派が先である。
 少なくとも国立国会図書館と綿屋文庫(天理大学附属図書館)に残された俳書を見る限りでは、明治初年から明治二十八年までに発行された蕪村に関する著書はひとつもない。それが突如、以下のような賑いを見せるようになる。明治二十九年
 『増訂蕪翁句集』(几董編・松窓乙二注釈・博文館)
 『蕪村句文集』(三森松江幹雄評点・明倫社)明治三十年
 『増訂蕪翁句集』(佐藤寛編・万巻堂・五月刊)
    上の付録『頭注蕪翁句集拾遺』(乙二注釈・秋声会編)
 『与謝蕪村』(大野洒竹著・春陽堂・九月刊)
 『校註 蕪村全集』(阿心庵雪人編・上田屋書店)
 『夜半亭蕪村句解の緒』(春廼家渡部霞江著・明倫社)明三十一年
 『蕪村翁判几董・月居十番左右句合』(小川多左衛門編・刊)
 『蕪村暁台全集』(大野洒竹校・博文館)
 『俳人蕪村』(正岡子規・ほととぎす発行所)
 以降も続く。みな版を重ねており、たいへんな販売数であったろうと予想される。これはもうブームである。
 たしかに時代を蕪村に導いたのは子規ら日本派である。
 しかし日本派だけが蕪村を広めたわけではない。このとき、だれもが蕪村だと思ったのである。
 はじめの『増訂蕪翁句集』は、松窓乙二の注釈。天明四年の版の復刻である。蕪村なら俺が持っている、というところであろうか。
 次の『蕪村句文集』は、三森幹雄が評点を付したもので、明倫叢書乙集として刊行された。これも旧派のものである。

『蕪村句集講義』 その3


 明治三十年の『増訂蕪翁句集』は、二十八年に結成された秋声会によるもので、中身は博文館のものと重なるものだが、こちらは日本派に対抗する新勢力であった。
 つまりここで蕪村を出版しているのは、当時の俳壇のそれぞれの代表格なのである。
 博文館は当時の出版界の大勢力であり、明倫社と言えば俳諧教導職三森幹雄が社主を務める当時の旧派の代表格である。また秋声会も日本派と並ぶ俳句の新興勢力で、新派と旧派の間に位置どりをした団体であった。それぞれの立場の代表格が、いずれも蕪村句集を刊行し、そこに子規ら日本派も参入してくるのである。
 子規が『俳人蕪村』を新聞『日本』に連載したのは、明治三十年の四月から十一月までのことであった。またこの『蕪村句集講義』は、明治三十一年から「ほととぎす」(松山版)への連載が始めれている。
 博文館の『増訂蕪翁句集』も明倫社の『蕪村句文集』も、子規が新聞や雑誌をとおして外部に蕪村を語り始める前の刊行であったことは記憶しておく必要があるだろう。確かに日本派の動きに触発されての部分は多かろうが、蕪村ブームに火を付けたのは子規ばかりとは言えない。万巻堂の『増訂蕪翁句集』も子規の『俳人蕪村』連載開始とほとんど時を同じくして刊行されている。
 さらに、このブームの遠因として考えておかなければならない出来事がある。それは、明治十五年、蕪村百回忌の法要が、蕪村の菩醍寺である京都の金福寺でかなり大々的に行われたということである。この法要が当時の新聞を賑せた様子もなく、どれほどの影響力を持ったかは不明だが、しかし、蕪村の名を、俳諧に関わる人々の記憶に蘇らせるきっかけにはなったことだろう。
 この時期、蕪村に着目していたのは日本派だけではなかったのである。明治中期、俳壇全体が蕪村を話題にする方向に動いていた。だから、子規だけが突然明治の俳壇に蕪村を持込んだというような歴史の理解の仕方はちょっと違っている。だいいち、子規が蕪村に注目するようになるきっかけも、「椎の友」という旧派のグループとの交流においてなのであった。
 しかし、子規ら日本派の『蕪村句集講義』は、それまでの蕪村に関する著述とは決定的に異なるいくつかの性格を持っていた。
 まず違いの一つ目は、それが集団による解釈というかなり異例なスタイルをとっていたということである。それこそが、私がこの著述を「近代の座」のひとつに数える理由となっているのだが、一人一人感性も知識も異なる人間が集まって、それぞれの解釈を提示し合いながらそこにひとつの意味を織り上げていくという作業を行っているのである。
 近代という時代を、単純に個人の時代と考えれば、このような行為は時代への逆行であるように思えるかもしれない。
 しかし、ひとたびこの本を繙けば、すぐにそれが誤解であると分るはずだ。そこには個人と個人が対等に議論する「近代」の言語の地平が開かれている。驚くべきことだが、虚子も碧梧桐も、子規や鳴雪に対し、若さからくる遠慮など少しもしていない。年長者も当然のようにそれを認め、それぞれが自己の言説を堂々と展開して純粋な知の饗宴を作り出している。 
    ◎春の海終日のたりのたりかな
  子規氏曰。のたりのたりは、軽い波がバサリバサリ磯際
   に打つてゐるのであろうか。
  虚子曰。磯際でなくて寧ろ沖の方で終日うねうねとあま
   り大きくない波がうつてゐるのではあるまいか。
  碧梧桐氏曰。沖といふも語癖があろう。春の海一面の光
   景と見た方がよかろう。
  子規氏曰。極めて古くより記臆に存してゐる句で判断が
   つきにくいが、果たして善い句であらうか悪い句であ
   らうか。
  碧梧桐氏、虚子ともに曰く。兎に角類の少ない句で、珍
   しい善い句と思ふ。
 それぞれが率直で、こうした知の前には、権威などという不純物が入り込む隙はない。虚子に「氏」が付かないのは、この回の記録が虚子自身であるからに過ぎず、ここは宗匠の権威ばかりが偏狭な知を作り出していく古い俳諧の世界とは別の世界である。
 違いの二つ目は、それがテキストの言葉を読み解くという作業による「作品論」を指向しているという点である。
 これには、さらに二つの意義を認めることができる。
 一つは、使われている言葉の故事来歴によって意味を深めていくような解釈を拒否したという点である。
 『蕪村句集講義』の参加者も、このことには自覚的であって、「冬の部」第一回の記録者であった河東碧梧桐は、その記録の初めに次のように記している。
  其字句に拘泥するの余作者が思料せざりし故事引例に附
 会し其事実を詮索するの弊遂に作者の思想をも破壊するに
 至るもの往々にして −中略− 古事古書の引例を以て誤
 れりといふに非ず。其引例を求めざるべからずは固より論
 なし。唯だ徒に古例を求めて己が博学を衒ひ遂に句の曲解
 を為すものを憎む。
 これが冒頭の意見であってみれば、この書物全体の主張と言ってよかろう。子規たちは、蕪村にまとわりついた解釈の歴史の垢を一度剥ぎ落とし、あらためて新しい蕪村像を自分たちの手で作り上げようとしていたのだ。それはまるで『零度のエクリチュール』を書いたロラン・バルトのようであり、また向うから漱石らしい顔をした男が歩いてきたらそしらぬ顔でやり過ごせと書いた『夏目漱石』の蓮見雅彦のようだと言ったら言い過ぎであろうか。
 「作品論」であることのふたつめの意義は、それまでの俳句の解釈が、その作者の人生やその句が読まれた状況のエピソードを根拠に解釈されることが多かったのに対し、純然と作品の言葉に向い合い、純粋にその言葉から意味を紡ごうとしているということである。
 明治になっても旧派の俳論にはエピソード型のものが多く、例えば明治中期では、竹内玄々一の『俳家奇人談』(万笈閣・明 )だとか、三森幹雄の『俳諧名誉談』(庚寅新誌社・明26)、また籾山鈞の『俳諧名家列伝』(博文館・明26)などがこのタイプである。
 子規たちがこのことにあまり自覚的だったとは思えないが、この『蕪村句集講義』が「作品論」を指向し易かった背景には、蕪村があまりその境涯を知られてない俳人だったということがあるだろう。エピソードが少ないので、それだけ自由にテキストの言葉を読み解くことができたということである。
 さて、これらのことはすべて、子規たちが蕪村を明治の言葉で新たに読み直そうとしたということを表している。
 彼らはこの行為によって、近代の言葉の水準で蕪村を解釈し始めてしまったのであり、そのゆえに今に至ってポストモダンという水準の意識からは、手ひどく批判されることになる。子規には蕪村が分っていない、ということである。特に子規たちが、蕪村を写生に引き寄せていった過程への批判は厳しい。たしかに蕪村はそのような句ばかりを作っていたわけではない。
 ポストモダンの水準から言えば、そうした子規たちの仕事は、江戸の文化を理解せず、また蕪村の句の全体を見ずに誤読を繰り返し、誤った蕪村像を世に広めてしまったということになる。
 だが、ポスト「ポストモダン」の水準で見れば、そこにこそ子規の創造性があり、子規自身の意識としても、さまざまな蕪村の句の中で、近代に通じ、普遍性を持つと感じた句を選び出し、強調していったということになるだろう。
 子規にしたところで、蕪村が絵画的な句ばかりを作ったなどとはどこにも書いていないのである。ただ、子規と写生という連想が、子規らの蕪村論をそう読ませてしまう。
 そこには、子規が蕪村をどう読んだかという問題とおなじ意味で、子規が次の時代にどう読まれたかという問題が横たわっている。            

『蕪村句集講義』 その4

 子規の俳論は、いずれも均衡のとれたもので、それほど偏った主張をしているわけではない。
 蕪村論においても、客観的、絵画的な句ばかりを蕪村句の特徴としているわけではなく、明治三十年に新聞『日本』に連載された『俳人蕪村』では、「積極的美」「客観的美」「人事的美」「理想的美」「複雑的美」「精神的美」などという観点から蕪村の句の特長を述べている。
 蕪村に多様な句があることを認め、それを多様に評価しているのである。
 むろん芭蕉の「主観性」と比べて「客観的美」を取り立てていることは事実であるし、またその「客観的美」の中に、「釣鐘にとまりて眠る蝴蝶かな」を入れているというような問題はある。
 この句が、いつ鳴るかも知れない鐘の音を背景にしていることはあきらかで、それを「客観的美」の例句としてしまうことには確かに問題があろう。
 これは子規が意図的にそうしたというより、新しい近代の教育を受けた明治中期の読者の普通の読みとして、そのようにしか読めなかったという方が正しいかも知れない。結果的に子規は、俳句の読み方を変えてしまったのである。
 だから尾形仂氏らが、子規によって蕪村が誤解された主張するのももっともなことなのである。
 けれど、子規が蕪村の句に多様な価値を見いだしていたということも忘れてはならない事実である。
 その子規の蕪村論から、絵画的、写生的というキーワードばかりを残してしまったのは、子規の俳論を写生に導くものとして読もうとする後の読者たちである。
 途方もなく大きなもの言いになってしまうが、そこにもまた近代の座というものが存在している考えられるのかもしれない。子規の言説を巡る読みの解釈が、時間空間を越えて、巨大な座を形成しているようにも見えるのである。
 思うに批評は、連句の様相を呈している。
 蕪村の発句が几董や乙二に解釈される。それが子規によって転換され、その一面を虚子らが強調し、やがて戦後の新しい学者が江戸の言葉で語り直そうとする。
 時代とともに消え去るべき「言葉」という脆弱な存在は、文字というメディアを得て、かろうじてそのアウトラインを残し、次の時代の読者は、そのアウトラインから「言葉」の内実を理解しようと解釈の冒険を開始する。
 かくして俳句という風狂の言説は、時空をこえた解釈の座を形成することになる。
 解釈の座において、あらゆる言説は相互に影響し合う。『蕪村句集講義』は、その始めに「乙字の蕪村句解を以て蕪村地下に首肯すべきか」と述べるが、しかし子規たちが乙字の解釈の影響をまったく受けていないということはできない。というより、『蕪村句集講義』には、伝統的な解釈と新しい読みとが交錯するという事態が生じている。
 『蕪村句集講義』において、過去の解釈や伝統的な語義の常識へのパイプ役を果たすのは、やはり年長の内藤鳴雪である。
 鳴雪は、弘化四年生まれで子規よりは二十才年長、すでに明治二十四年に文部省を参事官で退官し、故郷松山の師弟を常盤会寄宿舎で監督していた。
 
     ◎箱を出る顔わすれめや雛二対
 鳴雪氏曰。雛二対といへば二組の内裏雛と見て置ねばなら
  ぬ。箱を出された時に一つの箱の雛と他の箱の雛と互に
  貌を忘れて居らぬか。一年が間一組づゝ箱を別々にして
  這入つて居たのであるからといふので。貌を互に忘れて
  居らぬかといふあどけない戯言も雛には適当して居る。
 子規氏曰。貌わすれめやは自分が愛して居る雛の貌を忘れ
  やうやの意で、箱を出した時に慥に見覚のある貌で忘れ
  て居ぬといふ娘心をいふたのであらう。二対といふのは
  調子の上からさういふた迄であつて、一対でも二対でも
  別に変りは無い。
 今読めば子規の解釈を妥当と感じる向きも多かろうが、しかし江戸俳諧の解釈としては鳴雪に分がある。「自分が愛して居る雛の貌を忘れやうや」ということでは、句の表現に何の趣向もなくなってしまう。別々にしまっていたので、互いに忘れるんじゃないか、ということで表現に趣向が生まれ、そこで初めて俳諧になる。子規の解釈はまったく近代のものである。
    ◎出代や春さめざめと古葛篭
 鳴雪氏曰。これは出代の人の心を咏じたもので、出代は男
  女両方あるが、此所は下女である、下女が長く馴染んだ
  る主人と別れるのであるからさめざめと泣く。又一つは
  蕪村が例の手段で春雨をとりあはせたのである。春雨の
  降て居る時にさめざめと泣きながら自分の荷物の古葛篭
  を仕舞つゝある下女部屋の様である。
 子規氏曰。私は家の外で葛篭に春雨がかゝ<つ>て居るや
  うに思ひます。
 なほ鳴雪氏は江戸時代の出代の様を陳べらる。家の外にて
 は葛篭は下女自身が持つにはあらで親などの取りに来る事
 など。
 これは子規のように読んでも俳諧になる。趣向の眼目が「春さめざめ」という掛け言葉にあるからである。古葛篭がどこにあっても、レトリックの質は動かない。
 それにしても子規が、「春さめざめ」という掛け言葉からさえも、実体としての情景を生み出そうとしているのが面白い。そこに子規の考える近代文学としての俳句の姿が見えてくる。
 鳴雪は、若い仲間よりも故事来歴についての知識があり、その分だけ俳諧を俳諧として読もうする。鳴雪は正しいのである。しかし若い子規たちは、もっと自由に、自分たちの言語感覚で蕪村を読んでしまう。多くの場合子規らの方が誤解をしている。子規らは鳴雪から江戸を学んでいるのだ。むろん逆のケースもあるが、大方は鳴雪が故事を説いていく。
 しかし鳴雪は柔軟である。若い人々の新しい読みに耳を貸し、若い人達は鳴雪から江戸を教えられながらも、そこに近代の読みを提案していく。その相互作用の中に、自ずと新しい「俳句」の空間が出来上がっていく。
 言説とは、おそらくどのような場合も、このような形で形成されていくものなのであろう。どのように孤高に見える思想も状況と無縁ではあり得ない。それは、過去のさまざまな解釈の上に立ち、また同時代のさまざまな言説との相互作用の中でひとつの形を整えていく。
 『蕪村句集講義』は、近代俳句の解釈の座のひとつとして、近代俳句の成立に大きな役割を果たしたのである。
                    


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