暗 合 と 創 造 

  − 子規に学ぶこと −  秋 尾   敏

             『俳壇』1992年2月号掲載


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 子規が俳句の危機について公に述べたのは、明治二十五年、新聞「日本」に連
載した「獺祭書屋俳話」でのことである。

  數學を脩めたる今時の學者は云う。日本の和歌俳句の如きは一首の字音僅か
 に二三十に過ぎざれば之を錯列法(パーミユテーシヨン)に由て算するも其数
 に限りあるを知るべきなり。

 このように数学的根拠から俳句の有限性を指摘した子規は、ついに「よし未だ
盡きずとするも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり」と予言するにいたる。
 勝田龍夫によれば、これに先立つ明治二十年、既に子規はこうした問題意識を
持っていたという。

  明治二十年の夏休みに、父も子規も松山 に帰省した。この時、子規は頻り
 に俳句の 話をして、「代数の序次配合を十七文字に応用して、俳句は何句以
 上出来ぬ故に、暗合の場合が屡々ある」などといっていた。
                    (「学生時代の父勝田主計と子規」)

 ここで「父」というのは勝田主計。子規に大原其戎を紹介した人物であり、当
時もっとも子規に近かった一人であるから、この話の信憑性は高いといえよう。
またその日記が、松山の子規博物館に寄贈されたことでもあり、いずれその辺り
の事情は明らかになろうが、もし勝田龍夫の言う通りだとすれば、子規の俳句革
新への思いは、既に明治二十年に芽ぶき始めていたことになる。とするならば、
明治二十五年の子規の小説への挫折の意味も、少し変わってくるだろうと思われ
るのである。
 子規は小説「月の都」を、幸田露伴のもとに持参し、その評価によって小説家
となることをあきらめて、俳句に専念するようになった、などといわれる。しか
しそれは俳句への転向ということではなかったのである。
 子規はおそらく、日本の文芸全体の革新を考えていたのである。だが、小説と
いう分野で、自分に先行する才能を発見し、詩に向かった、というのが真相であ
ろう。露伴と会った子規の衝撃は、「月の都」の評価などにはなかったのだ。そ
んなことよりも、自分に先行して新しい小説の在り方を模索し、実践する才能の
存在が衝撃だったのである。事実、残された露伴の評も、酷評というものではな
く、子規と露伴の交流はその後も続くのである。また後に子規は、「月の都」を
自ら編集する新聞「小日本」に連載さえする。状況証拠でしかないが、これらを
考えれば、子規は露伴を認め、かつ「月の都」もそれなりの作品と自認していた
ことになる。

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 さて、子規のいう「今時の學者」は、どのような計算をしたのであろうか。
 子規のいう「字音」とは、いわゆる音節のことであろう。すると現代の日本語
では、おおよそ百程度の種類があることになる。
 一方俳句の方は、いうまでもなく十七音であるから、百のうちの十七個をとり
だして、繰り返しを許して組合わせるということになる。これは百の十七乗とい
うことになり、計算すれば、10000000000000000000000
00000000000種類(千兆の千兆倍のさらに十倍)という数となる。こ
れは日本人一億2千万人が毎日千句ずつ作句したとしても、およそ二千三百京年
分ということになる。しかもここには字あまりや字足らずの句は含まれていない。
 むろんこの中には「け」を十七回繰り返すとか、「ぎゃぎゃぎゃぎゅぎゅ」
などという、まあ通常ではどのような前衛作家でも作品とすることを回避するで
あろう句が含まれているわけであるから、この数字をもってそのまま作品数とす
るわけにはいかない。いかないけれども、どうもこれはどうも予想よりは多いの
ではないかという気もしてくる。
 もうすこし現実的に、意味の通る句がどの位作れるかを考えるならば、これは
少し難しい問題となる。実際に存在する言葉を考えてみなければならないからだ。
例えば十七音を単語に分ける場合の数を計算し、それぞれの場所に入る可能性を
持つ語彙数を積算していけば、ある程度の数ははじきだされよう。
 あるいはまた、ある語の次に続く語と続かない語を区別して計算すれば、かな
り正確な数が出てこよう。しかしそれらは既に素人の趣味を越える作業である。
その道の方にお任せするしかない。
 だがいずれにしても、どうも国語辞典に数万語の語彙が掲載されている事実か
らして、答はやはり天文学的な数値にならざるをえないと思われるのである。と
ても子規のいうように、「明治年間に盡きん」などという状況にはない。今とな
っては、子規がどのような計算をしたかは不明である。だが、たとえ五十音の中
から十七音を順列によって選び出したとしても、答は天文学的数字となる。
 おそらく子規の言いたかったことは、このような可能性のことではなかったの
であろう。逆にこうした可能性があるにもかかわらず、使用する語彙や言回しを
限定し、固定化してしまうことによって、その可能性を狭めてしまう俳句の有り
様が問題だったのである。

  試みに見よ古往今来吟詠せし所の幾萬の 和歌俳句は一見其面目を異にする
 が如しといへども細かに之を觀廣く之を比ぶれば其 類似せるもの眞に幾何ぞ
 や。弟子は師より脱化し來たり後輩は先哲より剽竊し去りて作為せる者此々皆
 是れなり。その中に就きて石を化して玉と為すの工夫ある者は之を巧とし糞土
 の中よりうぢ蟲を掴み来るものはこれを拙としるのみ。終に一箇の新観念を提
 起するものなし

 冒頭の引用に続いて、子規はこのように語っている。「脱化・剽竊」を繰り返
し、再生産に終始するようであれば、俳句そのもののが存在しなくなるというの
である。
 そこで「其実和歌も俳句も正に其死期に近づきつゝある者なり」ということに
なり、
結論としては「概言すれば俳句は已に盡きたりと思ふなり。よし未だ盡きずとす
るも明治年間に盡きんこと期して待つべきなり。」
ということになるのである。
 ここで子規が、明治の終わりを何年ごろと考えていたかは不明だが、結果的に
子規の予言は当たらなかったといってよい。というよりも、子規の俳句の革新が
そうした滅亡から俳句を救ったのである。

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 昨年の暮、千葉県で行われた国民文化祭の俳句大会における入賞句が、他の句
の暗合であるということで、某新聞に取り上げられるという事態となった。しか
も、さらにその後欄外記事にも採録されるなど、どうもこのことに対する社会的
関心の強さには驚くばかりである。それだけ俳句人口が増え、またそちこちで暗
合の問題がとりざたされていたということなのであろう。
 しかし、こうした暗合の問題は、今に始まったことではない。手元の資料を繰
っただけでも、類似句の問題はいくらでも出てくる。

 滝の上に水あらはれて落ちにけり  夜半
 坂の上に坂あらはれし年迎う    秋を
 わがいのち菊に向ひて静かなる  秋桜子
 わがいのち菊に向かひて静かなる  一鳴
 木枯やある夜ひそかに松の雪    菊伍
 五月雨やある夜ひそかに松の月   蓼太

 というようなわけで、世に知られた作家の句にも似た句はある。そこで、やは
り俳句は短詩型であるから、暗合は避けられないという論になる訳であるが、し
かしその前にもう少し類似の状況について考えてみよう。
 1もとの句をまったく知らない場合
 2もとの句について覚えてはいないが、潜在意識に残っている場合
 3もとの句を知っていて、読者も知っていることを前提にわざともじっている
場合
 4もとの句を知っていて、読者は知らないだろうという予想のもとに活用する
場合
 5もとの句を知っていて、表層の語彙を変え、その深層の構造を活用する場合
 例えばこのように分けてみよう。むろん盗作とは4のことであり、暗合は1、
本歌取りは3ということになる。問題は2と4である。
 2については、本人にも自覚がないのであるから、始末に困る訳であるが、こ
れは作者御自身によくよく内省して頂くしかない。
 4については少し問題がある。例えば

 山鳩よみればまはりに雪がふる  窓秋

 という句がある。この句の韻律や響きが気にいったとき、この句から「□□□
□よ□□ば□□□に□□が□る」という構造をもらうのである。そこに他の語彙
を持ってくれば、「妹よ呼べば向こうに虹がある」などという句が、比較的安易
に出来上がることになる。
 こうした類似については、盗作とも暗合とも言わないのが普通である。だが、
これがはたして創造なのであろうか。
 さらに2と5が重なったケースについては、夥しい句が該当することになる。
無意識なのであるから、作者に罪はなかろう。だが自分の言葉を見つめる目の甘
さを指摘されれば反論の余地はあるいまい。今まで誰もそうは見なかったような
見方で世界を切り取って見せるということだけが、俳人の手柄というべきもので
あろうから。
 こうした問題は、俳句らしい表現をしようとか、巧いと言われる句を作ろうと
いう意識から引き起こされる。既製の表現に惹かれるのである。しかし、真に新
しい創造を目指すならば、時に俳句らしくない俳句、下手と言われる俳句をも創
らざるを得ないはずである。
 子規の明治二十年代の句は、当時の月並の宗匠達から見れば、いかにも下手な
俳句であったに違いない。おそらく彼等は、子規の論述には恐れをなしながらも、
次々に発表される工夫のない(ように見える)無意味な作品を前に、あきれても
のも言えないという時期があったはずである。そこには、あるべき風情も風流も、
趣向もなかったからである。
 だがそれらの句は、子規にとって下手な俳句ではなかった。当時の宗匠達の、
いわゆる上手を避けたところにしか、子規の地平は開かれてはこなかったのであ
る。
 だがしかし、昨今の俳句人口は多い。また毎月出版される句集の数にも夥しい
ものがある。現代には現代の俳句らしさというものが存在する以上、類句が出て
くることもまた仕方のないことでもあろう。そこで最後に、三つの提案をして稿
を綴じたいと思う。
 ひとつは、子規のように、新しい表現の可能性を広げていく創造的な試みを発
展させなければならない、ということである。これについては今述べた通りであ
る。自分の文体として確立されていく型をしっかりと見つめ、それを壊し、また
作り上げていくことの繰り返しが、俳人の誠実というものであろう。
 二つ目は、既製の句を対するチェックできるシステムが必要だということであ
る。
 子規は明治二十二年に「俳句分類」の作業を始める。さまざまな俳書の句を分
類し、膨大な記録を残した。子規の俳句革新の根底にはこの地道な作業が横たわ
っている。
 だが、現代はあまりに情報が多すぎる。子規の作業を個人が行える時代ではな
い。そこで、そのようなことが可能となる俳句データベースが構築されるべきだ
と考えるのである。
 このことについては、イギリスにおけるテキスト化運動が参考になろう。これ
は、文科系の文献をとりあえずテキストファイルとしてコンピュータに蓄えてお
こうとするもので、国家レベルの事業になっているという。
 現在の印刷原稿は、そのほとんどが一度はコンピュータ上を通過する。という
ことは、手続きさえ決めておけば、いつでもデータは入力できるということであ
る。著作権をはじめ、利害に絡むさまざまな困難が予想されるが、一日も早く、
そうしたデータベースの構築が望まれるのである。
 三点目は、再生産の価値について再考する必要があるということである。
 一部の選ばれた意識、創造的な才能ばかりに存在価値があるわけではない。存
在価値というものはすべての人間に等しく与えられるものだ。社会的には言い古
された表現であっても、その個人にとっては、新たに切り開いた表現の地平であ
るという場合もあるだろう。他者との比較ではなく、その個人個人の内面におい
て、じっくりと醸成されていく言葉の水準というものも大切にしなければならな
い。
 そうしたもののために結社があり、句誌というものが存在するはずである。
 たしかに作品として世に問えば、既に先行した同様の表現がある場合もあり、
暗合と呼ばれ、また盗作とさえいわれる場合もあるかもしれない。たしかにそれ
は創造ではなく、再生産なのである。
 そうした再生産性は、大衆文学、あるいは芸能の世界のものであり、近代文学
の価値観の中では、創造的な芸術の下位に置かれるのが常であった。
 しかし今、そうした常識を再考しようとする論理が表れている。例えばSFな
どのように、常に純文学の周辺に置かれてきたパラ文学を再評価しようという論
理である。つまりそうした文学には、またリアリズムの純文学にはない別の存在
価値があるはずだということなのである。
 俳句は子規によってリアリズムを取り込み、そのことによって純文学の隣の席
を保持してきた。しかしその下には広大な再生産の裾野が広がっている。
 従来は、その裾野のためにパラ文学とされ、批判されたことも多かった。
 しかしこれからは、むしろその裾野の広がりが俳句の存在価値を高めることに
なるだろう。新たな表現を作り出す頂点と、そこに向かって再生産を繰り返しな
がら表現の水準を高めていく意識群。そうした構図を持っていることが、俳句を、
個人の時代の文学にふさわしいものとするだろう。その圧倒的な再生産性の力を、
個人を開く力としていかなければなるまい。

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