新聞記事に見る明治中期の俳諧

 明治二十一年十一月二一日付『東京日日新聞』に、いささか剣呑な内容の記事が掲
載されている。

 群馬県高崎俳諧改良会員は、このほど矢竹其山氏を総代として、新潟県刈羽群武石
 村難波政五郎氏(俳名難涛)へ決闘状を送れりという。その趣意は難波氏は俳道の
 衰頽を嘆じ、去る頃より有志を集め、句解講義をなし居りしに、高崎俳諧改良員は、
 同氏の句解は祖翁の句意を誤解し、かえって俳諧の弊風を醸すものなりとし、決闘
 状を送れるなり。しかるに難波氏は、我が講義にして祖翁の句意を誤解せると思惟
 せば、足を労して来たれ、決闘は敢えて辞せず云々の返答をなせりと云う。何事ぞ、
 花見る人の長刀

 芭蕉の句の解釈をめぐって決闘状が飛び交っている。去来の句「何事ぞ花見る人の
長刀」でしめくくった文章はみごとだが、記事の内容は、いささか常軌を逸している。
なぜこのような事件が起きたのであろう。また「俳諧改良会員」とは何なのであろう
か。この疑問に答えるためには、幕末から明治中期までの俳諧の状況を追ってみるこ
とが必要だろう。
 幕末から明治にかけ、俳諧は全国的に隆盛であった。
 何しろ、官軍に追われ五稜郭に篭った新撰組の土方才蔵が、戦いを前に函館の宗匠
の句会に参加したという逸話が残されているくらいだから、これはもう日本のあらゆ
るところに俳諧を詠む人達がいたと考えてよい。
 またこの頃、さまざまな分野の番付表が流行したのだが、その中には『見立俳人鏡』
やら『蕉俳位付』など、俳諧宗匠の番付もあって、そこに見られる数多くの宗匠たち
の名前からも、当時の俳諧の隆盛ぶりをうかがうことができる。京都の梅室、蒼 、
木曽の乍昔、大阪の奇淵、井眉、鼎左、仙台の曰人、須賀川の多代女、秋田の翠羽女、
信州の一団、魚淵、春圃、素鏡、文虎など枚挙にいとまがない。これらの俳人は、そ
れぞれの地方で一家をなし、地方文化の中心として活躍していた。
 しかし一方で、時代は東京を中心とした文化を作りだそうとしていた。新しい政府
が東京に置かれることになり、やはりこれからは東京だという気運が全国に広がって
いった。地方には、駿河の三森幹雄のように、上京の機会を伺っていた若手の宗匠は
多かったのである。
 だが東京は、維新の動乱で人口が激減し、各藩の江戸屋敷は用済みとなって狸が横
行するというありさまになっていた。八万の旗本たちは、新政府に追われるようにし
て静岡県に移動し、それにともなって武家屋敷に出入りの商人たちも職を失い、国元
に戻っていった。そうした中では、東京に残った宗匠たちが糊口を凌いでいくことは
容易なことではなかったろう。
 勝峯晋風の『明治俳諧史話』や村山古郷『明治俳壇史』には、新しい時代への生き
残りをかけて、さまざまな工夫をしていた宗匠たちの姿が記されている。浅草の施無
畏庵甘海は、俳諧目安箱を設置したり、浅草寺に大額を奉納したりと、さまざまなデ
モンストレーションを行ったという。また萩原乙彦や春湖亭思楽のように『俳諧新聞
誌』などというメディアの発行を試みた人達もいる。
 苦労を重ねながらも、宗匠たちが人口の減った東京で生活し得たということは、こ
の当時、読み書きができる庶民がいかに多くいたかということも表しているといえる
だろう。俳諧は、読み書きを覚えた庶民が、自らの思いを表現する手段として普及し
ていったという側面を持っている。文字の読み書きが自己の誇りに通じ、場合によっ
ては実利ともなるのが点取俳諧というものである。
 それが俗だと言われればそれまでだが、しかし庶民は庶民なりに生きる意味を考え、
日常の思考とはちょっと違った方法でそれを記述していった。点取俳諧に参加する庶
民の思いのすべてが実利にあったと考えることはできない。そこには、自分なりの表
現の工夫を楽しみ、また表現上の手柄を自慢する心が重なっている。
 例えば土方才蔵が死を前に詠んだ句「我が齡氷る辺土に年送る」や、銃に打たれて
絶命したとき背負っていたという短冊の「たたかれて音のひびきし薺かな」という句
を、だれも点取り俳句と呼ぶことはできないはずだ。
 子規以前の明治の俳諧というと、そのすべてが賞品目当ての点取りであったような
記述をされることがある。しかし、そこにもまた自分の状況や思いを記述すること自
体への、庶民の純粋な願望があったことを忘れるべきではない。
 いずれにせよ、自分の思いを書き留めておきたいという意識の水準に達していた庶
民は数多くいたのである。その状況の上に、あまたの宗匠たちが活躍の場を求めてい
く。彼らにとってそれは生活そのものであり、したがってそれがビジネスのように見
えるのも当然である。そのことを、否定する権利など私たちにはないはずである。彼
らは資本主義社会における大衆文化の担い手として、それを要求する人々に表現の方
法を手ほどきしていったのだ。
 やがて東京の人口も徐々に回復に向かい始める。人口が増え始めれば、そこにはさ
まざまなビジネスが巻き起こる。
 俳諧においても、施無畏庵甘海や夜雪庵金羅ら、俳諧師と呼ぶべき多くのプロの宗
匠たちがしたたかに大衆を組織し、参加料をとり、それを再分配して客を増やしてい
く。これはひとつのビジネスである。
 だが、そうした宗匠たちの自由競争は、新政府にとっては問題であった。のめり込
んで生活を崩壊させる危険、詐欺まがいの金集めが行われる危険、そして何よりもそ
れが前近代的な文化であり、具にもつかない俳諧が横行して近代国家にふさわしくな
い文化が横行する危険。
 明治六年二月、新政府は社会教化を目的に教部省の中に神道大教員を設置し、翌明
治七年、その大教院において考査を行って、鈴木月彦と三森幹雄を「教導」として公
認する。俳諧の存在を否定するのでなく、その組織力を逆手にとって社会教化に役立
てようとしたのである。
 そのこと自体は、国の施策として妥当なものであったろう。一定の知識を持った指
導者をおくことが、俳諧という文化の質を高めることになるという考え方は筋道がと
おっている。また、その俳諧という庶民に膾炙した文化を通して、国民の常識という
ものを向上させていこうとした新政府の意図もあながち間違ったものとはいえない。
 問題を複雑にしていくのは、そのことが、国家神道の普及と併せて行われていくと
いうころにあった。
 今から考えると、なぜ俳諧に神道が出てくるのかが不思議な気がするが、当時とし
ては、国家としての精神的な価値の基準に伊勢神道が選ばれたのであり、そうである
以上すべての価値はそこから出発しなければならなかったのだ。
 それが宗教であってすれば、しかも国家の推す宗教あるならば、価値は規範的なも
のとならざるをえない。言葉遊びやバレ句の類いが排されるという美点はあるにして
も、そこから創造的な多様性が生まれてくる可能性は低くならざるをえないのだ。
 教導職となった三森幹雄は、「俳諧明倫講社」を主宰し、俳諧の改良に努めるが、
その名称からして、幹雄の意図は明らかである。近代国家として恥ずかしくない倫理
的な文化を普及させようというのである。
 「俳諧明倫講社規約」第一条には「祖翁ノ言行ヲ旨トシ、物理ヲ明カシ、俗談ヲ正
シウシ、和ヲ専務トス可事」とある。芭蕉の言行を手本として近代化を進めようとい
うのである。
 また第二条は「毎年十月十二日祖霊神大祭日ト定メ、俳諧百韻興行、毎月十二日小
祭日式行大祭ニ準ズル事。但教導職ノ輩ハ祭服着用ノ事。」とある。たしかにこれは
完全な宗教なのである。が、芭蕉を祀って興行を行うというようなことは、江戸期か
ら普通にあったことで、各宗匠が競って行っていたことであった。ただ違うのは、明
治のそれが国家神道を軸とした近代化、あるいはナショナリズムの形成という流れの
中に組込まれていたことである。
 これを現代の目から見て、アナクロニズムとしてかたずけることは簡単なことだ。
しかし西欧の近代化にキリスト教が不可欠であったことを考えると、どうも近代化の
推進と国家宗教とは切り離せない関係にあるものなのかも知れない。
 俳壇の先頭に立つこととなった三森幹雄は、明治俳諧の俗化にも問題意識を持って
いた。当時の俳壇においては知識もあり、発句の善し悪しを見る目も、時代を読む力
も持っていた幹雄は、政府から教導職という立場を与えられ、宗教として、倫理と結
びついた俳諧の展開を考えたのである。その幹雄が、俗化した点取り俳句批判ののろ
しをあげたことは不思議なことではない。
 明治二十一年、幹雄は「正風俳諧改良会」の構想を提示し、翌二十二年七月『俳諧
矯風雑誌』を創刊する。詐欺まがいの運座や、賞金目当ての俳諧をなくす俳諧全体の
運動を作り出そうとしたのである。
 冒頭の「群馬県高崎俳諧改良会員」とはこの会の会員のことである。明倫講社は全
国に数千の会員を持ち、特に関東一円には多くの会員を集めていた。群馬県はその中
でも大きな勢力のひとつであり、明倫社の分社も設立されていた。明倫講社の熱心な
会員は「正風俳諧改良会」に入り、俳風の矯正を志したのである。
 「俳諧改良会」は、結社を越えた会となるはずのものであり、事実、点取り俳諧の
宗匠夜雪庵金羅らも参加していた。
 しかし「俳諧改良会」は、旧派をひとつにまとめるにはいたらなかった。明倫講社
最大のライバル教林明社加わってこなかったためである。
 教林明社は、月の本為山を社主に結成された会だが、明治十一年為山が没すると春
湖が社長となった。その春湖の「芭蕉翁古池真伝」を明治十四年に幹雄が批判して以
来、ふたつの会の雲行きは怪しくなってしまったのだ。
 「群馬県高崎俳諧改良会員」のいう「祖翁の句意を誤解し、かえって俳諧の弊風を
醸すものなり」というあたりから類推するに、新潟県の難涛という俳人は教林盟社の
流れを汲む人であったのではないだろうか。教林盟社は、明倫講社の行き過ぎた宗教
的活動を批判の目で見ていた。
 「俳諧改良会」は、明治政府の教化策の流れの中で、芭蕉を神格化し、その作品の
規範的な解釈を推し進めていく会であった。それは、近代化と国家神道という二つの
錦の御旗によって支えられた信念に裏打ちされている。そのゆえに、それを信じるも
のの態度は強固である。決闘状を送るというような発想さえも出てくる。
 政府の教化策によって、俳諧は確かに変化したと考えられる。下品なバレ句や賞金
目当ての博打的な句会は陰に回され、少なくとも表向きは、俳諧は精神の真実を求め
る行為ということになった。だがその半面、個人の多様性を生かすという近代化のも
う一方の側面はどこかに隠されてしまった。
 また、陰に回った点取り俳諧は、単に陰に回っただけで、決してなくなったわけで
はなかった。それどころか、明治十年代後半から、驚くべき量の点取り俳諧が横行す
るようになる。その状況は、子規が俳句革新に乗り出す明治二十五年になっても変わ
っていない。明治二十五年三月十二日付『東京日日』の「春湖の句集」という記事に
もそれは示されている。

  近頃俳諧師の宗匠と唱うるもの、府下のみにてもほとんど千名に近し。されども
 大抵は点取り料に糊口するまでにて、その道を知るもの十名はあらず。俗向俳諧の
 盛んなる斯道始まりてより未曾有の事と謂うべし。されど、右等平凡宗匠の増加す
 るは、また斯道のために憂うべきことなり。さきに深川に住して有名なりし小築庵
 春湖翁没後、故ありてその句集世に出でざりしを、このたび有志相謀り出版し、同
 志に頒かちて俳諧矯正の一斑ともなし、本年は七回忌に付き、追福かたがた、目下
 既に彫刻に掛りしと云う。

 読みようによっては春湖の句集をも否定しかねない文面だが、しかしこれは、幕末
においてすでに江戸三代俳家のひとりと言われ、三森幹雄とともに俳諧教導職となっ
た小築庵春湖の遺徳をしのぶ記事なのである。すぐに句集が出なかったという記事の
内容から察すると、すでに教林盟社の力はこのときかなり弱くなっていたと考えられ
る。というより、記事の伝えるところは、俳壇の正統に対する「俗向俳諧」の圧倒的
な強さなのである。
 ということは、少なくとも記者の意識においては、幕末前後の俳諧の状況よりさら
に質の低下した東京の俳諧という図式があったことになる。
 むろん、こうした書きぶりは新聞記事の常套手段なのであって、過去はいつでも美
しいということにもなるのだから、この文面をもっててそのまま明治中期の状況とす
ることはできないだろう。
 しかし、俳諧が流行すればするほど初心者が増え、質の低い層が増大するのは当然
のことであって、それに伴って世間一般の点取り俳諧への批判が強まっていたことも
確かなのである。
 時代は少し下るが、子規らの新派が時代に認められ始めていた明治二十八年十一月
九日付『東京日々』のつぎのような記事を読むと、さらに腐敗した状況を察すること
ができる。

  近来一種の俳句会流行し、非常の奇利を愽する間なるが、その方法は例えば一等
 点を得たるものへは何万円、二等点は何万円、三等点はいかほどなどと莫大の懸賞
 金を与うるごとく吹聴し、全国の俳道者を誘いて入花金を募集し、その実巧みに手
 を廻して、賞金はいつも仲間の手に落とす手段なりと。俳諧熱中の人は用心すべき
 なり。

 記述が正確だとすれば、これはもうれっきとした詐欺である。またその賞金の額も
とてつもない。新聞『日本』に勤めていた子規の月給が数十円という時代の話である。
 新政府は、こうなることを恐れて俳諧教導職を設置したはずなのであった。しかし
その教導職による俳諧も、また、なりわいとしての芸であってみれば、ビジネスとし
ての側面を持っていたのも当然のことなのであった。
 俳諧教導職となった三森幹雄は、明倫社を主宰し、月刊で『俳諧明倫雑誌』を刊行
するが、その表紙の裏には、「花之下霊神々影摸造之傳」として、つぎのような広告
文が継続的に載せられることになる。

  卯観子笠翁自祖翁の肖像を写し年齢五十一に倣ひ五十一体を陶像に造りて以て十
 三回忌の冥福に備ひしと聞しか今世に残る処僅一二体に過ず天保十四年祖翁百五十
 回忌ニ付閑月庵主の需に依て三浦乾也先生笠翁の作を摸造して十体を成す是も今何
 処に在やしらす先師西馬翁奉仕する処の笠翁製の尊像に倣い二百体の模造を三浦乾
 也先生に委託し二百年祭の神恩に報せむとす以て明倫社中信仰の人に附与す原より
 売物に非すといへども先生に謝するの定格なければ志しを煩す者無きにあらす先生
 の陶器世に行はれて其価値尊きは人の知る処なれは吾志願を起して先生を説に手な
 し先生伝へ聞て却て吾を説けり今子か望む処道に在原より売買の論に非す吾も発句
 を吟し事もあれは力を配せて其志しを助むと也 婦女子玩弄の品物にあらされは大
 に進む処ありと覚 以て彼尊像を社中に配り吾微意を表せむか為一体ニ付金壹円を
 謝し外ニ手数を経るを以て金廿五銭加へ壹円廿五銭を謝するの定格と成す通運脚力
 等は希望人の費額と御承諾を請ト 三森幹雄述

 要するに芭蕉の像を複製して頒布するということである。通常の売買ではないこと
を長々とことわっているが、客観的に見れば、これが資金集めの手段であることは明
らかである。ただ、像の由来や値段も明示しており、大義名文もあって、不公正な取
り引きではなさそうだ。先の『東京日々』の記事のような詐欺まがいの行為とは異な
るレベルの話である。
 だがこうした行いが、ビジネスとしての側面をもっていることは否定できない。し
かもその大義が、芭蕉を崇拝するために偶像を頒布するというのである。宗教として
も、いささか俗にまみれた装いであろう。
 近代の文学は、こうした商業主義を排除し、純粋な精神文化の再構築を主張すると
いう特徴を持っている。それは、市場経済の複雑化によって、あらゆる情報が商品化
されていくという潮流への反作用である。
 そのため文学では、初めから売ることを念頭において読者におもねった作品は、大
衆文学として周辺的な位置におかれ、そうでない作品が純文学として中心的位置を占
めることになった。
 また宗教においても、俗化した巷間の宗教を建て直そうとするさまざまな動きがあ
らわれる。いくつかの新興の宗教が起り、またキリスト教が普及し始める。廃仏棄釈
の運動なども、国家神道対仏教という対立図式の裏に、俗化し、商業化した宗教対純
粋宗教という対立構造があったのではないかと思われるのである。
 それらは、中世から江戸期にかけて、極度に大衆化され、商品化された文化を、質
的に高めようとする力である。簡単にいえば、底辺の広がりすぎた三角形の頂点を引
き上げようとするような力が、民族の歴史の力として働き始めたということである。
 それらはすべて、日本の国民というひとまとまりの幻想体の精神を、世界の近代国
家レベルに引き上げるという幻想によって進められた動きである。そこには近代国家
として世界に認められようとする国家集団全体の意識が形成されている。
 こうした民族の知恵というものは、階級とか個人とかいうものが個別に作り出して
いくものではなく、その民族全体の構造の関係性の中で、総体として作り上げられて
いくものなのではないか。不思議なことであるが、知恵とは、個人の内部に個別に存
在すようなものではないのかも知れない。
 いずれにせよ明治の文学は、一方で数々の大衆文学や、それを伝えるメディアを生
み出しながらも、それらを周辺に配置し、中心には純粋な精神性を求める作品群を置
いた構造の場を形成していくのである。
 そうした状況の中では、俳諧もまた純粋な精神性を求めるものでなければならなか
った。三森幹雄のような方法は、周辺に追いやられるしかなかったのである。
 時代は変わりつつあった。明治の若い知識人たちから見れば、この俳諧明倫社の感
性の古臭さは我慢のならないことであったろう。
 いくら大義名文を付したとしても、いや、そのような大義を付ければ付けるほど、
こうした結社の運用方法に近代の教育を受けた若い知識層がついていけなくなるのは
当然のことなのである。
 そこに、子規ら新しい知識人たちの俳諧が広がっていく必然性が生まれる。三森幹
雄の商売気からはずれたところに、子規の日本派が登場するのだ。
 子規ら若い知識人たちの意識は、宗匠たちとはまったく別の次元の価値観を持って
いたということができる。
 子規にとって重要だったことは、近代という新しい時代を受入れ、日本をそのよう
に変革する力を持つということである。一方宗匠たちにとって大切だったことは、俳
諧というすでにできあがった秩序を用いて、自分たちの生活に成功するということで
ある。
 乱暴な言い方をすれば、若い世代にとっては、当初は作品の質などどうでもよかっ
たかもしれないのである。ただ前近代的な座をもたないこと、そのことだけが重要で
あった。
 前近代的な座というのは、すでに存在する俳諧らしさというものに依存し、そこに
近付くことを目的とするような座のことである。その場合、目的とする理想は常に過
去にあるわけであるから、芭蕉が神格化されるというような事態も当然起り得る。さ
らにそのことが俗化すれば、理想を偶像化して商品にしてしまい、集金に終始するよ
うな座のシステムができあがるということにもなる。
 しかし子規たちの理想は未来にあった。芭蕉にしろ蕪村にしろ、過去のすぐれた作
品群は、これからの俳句に示唆を与える素材に過ぎない。それが若い人々の考え方で
ある。
 俳諧に携わろうとする人々ひとりひとりに近代的精神を切り拓いていくこと、そし
て日本を変えること、それが子規ら若い知識人の考えていたことである。
 子規らの作品が、文学として、その表現において新しさを実現していくのは、その
後のことである。まずはシステムとして、社会の中でのあり方として、旧派の俳諧は
否定されなければならなかったのだ。
 今から見れば、明治中期のいわゆる書生俳諧も、それほど斬新には見えない。子規
の作品にしてもそうだが、旧派の俳句と新派のそれとでは区別のつかないものもたく
さんある。
 ただ違うのは、俳諧というものに対する取り組み方である。若い世代は、純粋に知
的な興味から日本の文学の一つである俳諧のありように興味を持ち、その可能性を模
索した。彼らには、作品それ自体を商品として成功させるという意識はなかった。ま
して、俳諧という文化を通して偶像のようなものを商品化するというような発想は皆
無であった。
 それまでの俳諧師に比べれば、彼らはいわばアマチュアであり、そのゆえの純粋さ
と新しさを持っていた。したがって、伝統的な表現技巧という点から言えば、旧来の
宗匠たちに及ぶべくもなかった。彼らの作品は、「書生俳句」という蔑みの言葉から
も分かるように、旧派の尺度からいえば、型を知らない下手な俳句でしかなかった。
 だがそれは、手垢のついた使い回されたレトリックとは違った新しいレトリックな
のであった。
 ここに大きな時代の言葉の価値の転倒が生じてくる。伝統的な、もって回ったレト
リックが形骸化したものとして否定され、単純だが率直で若々しい表現が認められる
時代が訪れようとしていた。
 特に点取り俳諧と呼ばれる懸賞俳諧の世界ではその傾向は著しかった。ある座で認
められるためには、その座が持っている価値観に適した表現を作り出して見せればよ
い。それはそれで優れた言語技術あるいは芸であろうが、そうした表現が創造的であ
ることはめったにない。
 こうした状況は、東京の若い知識人たちには耐えがたい世界であったろう。ひとつ
の教養として、あるいは知的な遊びとして俳諧に関わろうとする若者にとって、俗化
した伝統の世界はうんざりさせられるものでしかなかったはずだ。
 そこで彼らは、自分たちが自由に俳諧を作る場を都会の中に作り出して行った。宗
匠からの指導を受けるということではなく、伝統とは切れたところで、古い書籍をよ
り所として俳諧に入っていたのである。そうした若者は結構多く、二十年代の終わり
には子規の日本派以外にも、多くの集まりができていた。彼らの俳句はまだ著名では
なかったが、しかしその動きは世間に予感されていた。二十九年三月十八日付けの
「読売新聞」には次のような記事がある。

  秋声社、子規派、紫吟社、落葉社なんどと云う俳諧団体の句は、折々新聞紙上に
 出でて、世その名を聞くのみにて、その実を知るあたわざりしが、去る十五日、水
 野酔香、笹川臨風、田岡領雲、大野酒竹、桐生悠々、佐々酔雪、上田万年、高津鍬
 三郎等の学士生上野三宜亭に集まりて、大いに錦心繍腸をさらけ出したり。

 そうそうたる顔ぶれである。上田万年の名もある。子規と同じ慶応三年生まれの上
田は、大学を卒業後ドイツに留学し、二十七年からは東大の教授となって近代国語の
成立を牽引していった。記事にあるように肩書きはまだ学士であったが、この記事の
前年一月、大日本教育会で標準語についての演説を行って標準語と言文一致の必要を
説き、またその六月に『国語のため』、八月には『作文教授法』を相次いで刊行して
注目を集めていた新進気鋭の学者なのであった。

  鬼の出た築地の上の菫哉                     万年

 どこがいいのだと問われても困る句だが、少なくとも配合による対比の面白さはあ
る。また「鬼いでし」などと言わない口語的な表現が新しい。しかし句の発想自体は、
築地という土地の過去の来歴によっているのだから、これは伝統的な発想である。た
だ、その言回しの単純さゆえに、もってまわった嫌味はない。形式面が新しく、モチ
ーフが旧来のままなのが国語学者らしいというべきであろうか。句の評価はともかく、
ここでは、上田のような新進の学者が、俳諧の集まりに顔を出していたという事実に
注目しておきたい。
 またこの八ヵ月後、十一月二十二日の「毎日新聞」には次のような記事があり、学
士たちの俳諧がさらに世間に認められていることがわかる。

  俳諧「秋の声」は、紅葉、酒竹、竹冷、小波等秋声会一派の旗声を標として、文
 壇に新光彩を陸離たらしむ。日本派(子規派)、大学派(筑紫派)が俳句を藉りて
 新思想を発揮し、別に旧派以外に高く地歩を占めてより、俳句が一の文学として価
 値を置かるるに至りたるは、明治文学界の一つの新奇なる現象として、吾人がつと
 にその文学のため、一日の新好料を添えたるものなることを欣べり。

 明治二十年代は、俳諧の大きな変革期であったのだ。その結果が一気に二十九年に
結実している。それを成し得たのは、都市の若い知識人たちだった。彼らは、伝統的
な宗匠を軸とした結社から離れたところで自分たちの座を作り、新しい俳諧を作り出
していった。
 むろん子規に大原其戎がいたように、それぞれの学士俳人の背景に旧派の宗匠が控
えていた場合も少なくなかったろう。しかし彼らは、その宗匠たちの組織の中で活動
しようとはしなかった。その掌を離れた都市という新しい空間で、独自の座を形成し
ていったのである。
 その中で、子規の日本派が全国的な規模で拡大していく。それは子規が、内容や表
現の新しさの基準を示し得たためなのであるが、同時にそれを示し得る新聞という早
く広範囲なメディアを持っていたたためでもある。前掲の記事に「折々新聞紙上に出
でて、世その名を聞くのみにて」とあるように、人々はまず新聞で彼らの活動を知っ
たのである。
 その「日本」の三十年五月三日付けの次の記事から、子規の日本派が全国に進展し
ていく様子を窺い知ることができるのだが、逆にこうした記事によって、子規の日本
派はその存在を全国に認めさせていったのである。

  松山の秋風会、京阪の満月会、奥羽の百交会は、日本派俳句の三大出城なりとの
 噂高く、もとより勇大将多し。我が北陸の地、偏陬にして、采配ふるべき御大将こ
 そなけれ、死を見ること帰するがごとき血気の若武者は鮮なからず、ここに新たに
 城池を深くして、割拠したるものを我が北声社となす。いささか以って本城に声援
 を張らんとてなり。すなわち四月十八日、金沢兼六公園環翠亭に於いて、桜花爛漫
 の中旗揚げ第一回をなしぬ。来たり会する者を秋虎、洗耳、楽園、長風、一望、清
 泉、豊泉、清泉、豊泉、横行、傘嶺、無禅、狂文郎、木塊、東江、まどか、鉄骨、
 之水及び秋竹の十七名とす。兼題は花十句にして、席上十八題を課したり。午後二
 時に開会して、十一時に散ぜり。
 
  行春の十三弦のゆるみかな  秋虎
  村会の窓をあけたる桜かな  洗耳

 明治の新聞記者の目から見た俳壇の姿を追ってきたが、それはその読者の理解と重
なるものであったろう。彼らの目には、当時の俳壇が次のように認識されていたよう
である。
 明治になって俳諧は隆盛を極めているようだが、実力のある宗匠はごくわずかであ
る。近世の俳諧は明治になって堕落し俗化して金集めの手段にもなっている。改革に
乗り出したはずの改良会員も決闘さわぎで、どうも風流の本道からはずれている。し
かし、学問のある若い学士たちがどうやら動き出し、俳諧をまともなものにしていく
気配がある、と。
 この認識は、おそらく子規ら若い俳人たちのそれと一致する。そうであるからこそ、
子規の俳句革新が、日本中に広がっていったのだ。
 三森幹雄の「俳諧明倫講社」は、近代に向かう日本の文化のひとつの現れであった
と考えることができる。
 もし近代化というものを、個人の主体性の確保という側面だけに限定し、近代的自
我の成立だけを近代文学の核心と考えるなら、確かに「俳諧明倫講社」は反近代的な
存在ということになろう。
 しかし、近代国家の形成過程の総体を近代化と規定するならば、「俳諧明倫講社」
もまたその過程の初期段階で生まれた近代の組織ということになる。国家という概念
が鼎立し、国民という存在が一般化していく過程のなかでこそ、いわゆる近代的自我
も生まれたと考えられる。単純化して言えば、国家という新しい制度に参加していく
過程で、適応し得た側面が国民意識となり、適応し得なかったな側面が近代的自我と
呼ばれていったのではなかろうか。
 国民意識と近代的自我、その両面の成立こそが意識としての近代の正体である。
 ただし、そこにおける不適応には二つの方向を考えておかなければなるまい。ひと
つは、国家という社会的制度に対する不適応である。またひとつは、国家という制度
の理想をイメージしてしまったために、それと現実との誤差に苦しむ不適応である。
前者は非社会的な行為を生み、後者は反社会的な行為を生み出す。
 どんなにその内容が近世俳諧と似ており、また近世に生きた芭蕉を神としていても、
やはり「俳諧明倫講社」という存在は江戸のものではない。そのような存在を、近世
に想定してみることはできないのだ。それは近代国家という制度の中に、従前からあ
る文化が組込まれていく直截な過程で生まれたあまりに近代的な組織なのである。
 だがそれは、国家の制度に組込まれることを目的として作られた、あまりに近代国
家的な組織であった。そのために、その制度の中から不適応の自覚が生まれる可能性
はなかったのである。
 それに対し、子規の内面には国家意識と近代的自我の両面が芽生えていった。それ
は子規が帝国大学を中退し、民間人として生き、日清戦争での従軍で現実の国家に裏
切られた経験を持つ存在だったからだ。
 子規は近代の教育を受けた人である。近代の教育は、国家の重要性を示し、文明の
諸概念を教え、個人の尊厳を重視する思想を伝える。同時にその教育は、自分自身を
考える意識を培う。古い自分自身を認識できる意識がなければ、近代化は進行しない。
その自分自身を認識する力が、次には国家と自己とのずれを認識する意識となる。そ
れらが近代的自我の前提となっていく。
 子規には強い国家意識がある。それは時代に適応する意志である。子規が働いた新
聞『日本』も、時の政府を越えた国家意識を持ち、そのゆえに政府を批判した新聞で
ある。子規は、『日本』の社主陸羯南がそうであったように、国家の理想像を思い描
き、それと現実との誤差に苦しむ意識の持ち主であった。
 しかし子規は、その意識を反社会的な行為に方向付けることはなかった。それとは
逆に、むしろ自らが理想の国家となって、国民の意識を、国民の言語を変える方向に
生きたのである。それが、子規の日本派を近代文学としてなさしめる大きな理由であ
る。
 強靱な国家意識を持ちながら、一方で子規の内面には近代的自我が芽生えていく。
それは子規が帝国大学を中退し、民間人として生き、日清戦争での従軍で現実の国家
に裏切られ、結核という時代の病を背負って生きていくことになるからだ。従軍し、
軍隊に冷遇され、病を悪化させた子規は、国家、つまり時代との隔たりの寂寥の中に、
癒しとしての風景の価値を見いだしていく。それが写生である。
 挫折と矛盾を、新たな言語空間の創造に結実させていく強靱さこそが子規の魅力の
すべてであることに疑義を挟める人はいないはずである。

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