近代的運営の月並俳諧の例 『国粋興振会員発句集』

 月並俳諧の例として、大日本国粋興振会から出されていた『国粋興振会員発句集』
を見てみよう。
 これは大阪の生国魂神社の中にある「日本国粋興振会本部」から刊行されていた月
並の雑誌である。国立国会図書館に残されているのは明治二十五年八月二十日発行の
第八十四会発句集からであるが、それは、この会がこの時から郵送という手段を使っ
て、全国規模で句の募集を行ったためだと考えられる。
 この句集の特徴は、有名宗匠の選を競うのではなく、互選を競うところにある。そ
の互選に郵送というシステムが使われているのだ。
 まず「大日本国粋興振会発句部」から題が出される。その題で句を作り、出句料を
添えて送ると、作者を伏した形の句集が送られてくる。その中から幾つかを選んでま
た通知する。すると次の号に、高点句が掲載され、商品が授与されるという仕組みで
ある。つまり一回の選句にのべ五回もの郵送が行われることになる。
 明治二十五年の春に募集され八月に出版された第八十四回の発句集は、冬季随意と
いう課題で五千四百五十四句の応募がある。大変な数であるが、主催者の予想よりは
少なかったらしい。ちなみに次の八十五回には、八千三百二十六句もの応募がある。
 この五千余句から規則によって三百が選ばれ、表彰されている。この規則というの
がなかなかの新しさを持ち、時代認識を表していて面白い。

  第一条 本会は我が国粋の冠たる雅道を研磨するの目的を以て特に発句部を設く

 これはこの会の大義である。月並俳諧には、なぜか俳諧を作るということ以外の理
由がついて回る。
 この規則の前に「謹て我が親愛なる投詠雅君に白す」と題して、明治維新の革命に
より「旧を離れて真に就き自ら卑んで他を尊ぶ」のは止むなきところだが「国の独立
を傷つけ国威の尊厳を汚すが如き」は止めなければならぬとし、独立の体面は「特有
旗色を現はして他国に異なるの所為」を示すにありと言い、そのゆえに明治十八年に
この会を設立して雅道の不振を挽回しようとしたと述べている。いわゆる鹿鳴館文化
に対抗する時代精神が、こんなところにも現れている。
 さらに「近年各所に懸賞発句を募集するの流行を来たし斯道の為め賀すべきの至り
なりと雖も往々其機に乗じて利己を営むもの出て来りたり」とし、大阪にも種々の会
名で懸賞発句の募集があるので、それらの「鼠輩」の跡を断とうと全国に呼びかけた
とある。さらに、句が思ったほど集まらずしかも玉石混淆であったが、意に介するこ
となく続けていく旨が記されている。

  第二条 本部は毎月一回発句を募集し汎く同好雅客をして技倆を競はしむるを以
     て斯道研磨の方法とす
  第三条 本部は各授吟者をして募集発句中抜群なるもの三百句を互撰せしめ其當
     選者には賞品を贈与す
      賞品は本人の望により相当代価を以て贈与する事を得

 この第三条はすごい。結論的には、当選者は賞金を獲得するということなのである。
しかも三百句だ。これなら応募者もやがて増えようというものだ。

 第五条 互選の方法を左の如く定む
   一募集句悉皆を書籍となし投吟者に一冊宛送呈し投吟者は書籍中高吟と見認む
   るもの三百句を選抜すべし
   一選抜句は予テ本部より書籍と共に送付したる撰票紙に記入し書籍到着の日よ
   り十日以内に本会に送致すべきものとす
   一本部は各投吟者より送り来りたる撰票紙に據りて採点し其高点を得たるもの
   を一等とし順次等級を定む
   一採点中若し同点者ありたるときは本部に於て抽選を為して其順序を定む
 
 なかなか民主的で公正な方法である。これもまた江戸の点取俳諧には見られない方
法であろう。印刷と郵便というメディアの普及によって、点取の規模が飛躍的に拡大
している。
 この条項は回によって多少の異同があり、第八十五回の規則には最後に「古句并に
古句に類するもの及び自撰は採点せざるものとす」と付け足され、主催者が句のレベ
ル向上に腐心している様子が伺える。
 
 第六条 本部より書籍を送呈するも秀句を選抜すると否とは本人の随意とす
 第七条 賞与は等位選定次第直に贈与するものとす
  但し締切期日より製本印刷に二十日間選抜往復に十日間
  を嬰するを以て締切日より凡そ三十日以後となるべし
 第八条 互選にもれたるものと雖も本部に於て感吟と認むるものは特別賞与を呈す
  ることあるべし
 第九条 選抜秀句及び受賞人名は全国諸新聞紙に広告し尚毎月次回発行の書籍に掲
  載す
 第十条 一とたび入手したる詠稿は事情の何たるを問はず都て返却せざるものとす

 ちなみにこの回の応募者総数は五百二十三人で、道府県別には、大阪府六十三人、
山口県四十人、愛媛県三十五人、兵庫県と愛知県が二十二人、静岡県十九人、福岡県
と京都府が十八人、島根県十七人、長崎県と滋賀県が十六人、新潟県、岡山県と高知
県が十五人、北海道と三重県が十四人、東京府十三人、大分県十二人、香川県と奈良
県が十一人、秋田県十人、鹿嶋県、山形県、鳥取県が八人、徳島県、広島県、佐賀県
が七人、宮崎県、和歌山県、岐阜県、石川県が六人、宮城県、岩手県、富山県、福島
県、栃木県が四人、青森県、千葉県、熊本県が三人、神奈川県、山梨県、長野県が二
人、群馬県、茨城県、福井県が各一人となっている。
 この全国的な広がりを作り出したのはいうまでもなく郵便というメディアである。
郵便あっての明治の月並なのである。その意味で、明治の月並俳諧は近代の産物とい
うことができ、単に江戸の点取を踏襲したものと看做すことはできない。
 江戸の点取は、もっとお互いに顔を見ることのできる者どうしの座である。したが
って、俳諧のスタイルは宗匠の方針によって容易にある方向づけを可能にする。しか
しこの明治の点取は違う。もっとすさまじい価値の混乱が、参加者の数と互選という
制度によって生じることになる。
 さて、これらの応募者の中から、三百人もに賞金を出すことのできるこの事業の経
済面を少し考えてみよう。
 先ほどの規則が第十条まで記された後に「投吟心得」というページがあり、そこに
入花料のことが記されている。

 一 入花は製本料并に送料として十句三十銭其以上ハ一句毎に二銭宛を加ヘ詠稿と
   共に必ず前納あるべし
   但し十句以下は謝絶す
 一 清記に前文を記入し又は傍訓を要するものは一行二銭宛増添あるべし

 ほぼ五百人で五千五百句の応募であるから百五十円程度の集金であろう。郵便料金
が二銭という時代である。そこから割出すと、今で言えば六十万円程度ということに
なろうか。入花料が不足していたら清記しないとか、郵便切手代用の場合は一割増し
であるとかの細かい規定もあるが、この回はそうそう楽な運営ではなかったかも知れ
ない。
 しかし当時の子規の月給などは数十円程度のものであるから、そこから考えると今
の百万円程度の価値はあったかも知れない。また次の八十五回からは、応募句が五割
以上増加しているから、かなり余裕のある運営となったことであろう。
 さて、「第八十四回冬季随意」の回で八十三点を集めて第一等に入賞したのは、月
並の見本ともいうべき次の句である。

 言兼た話に撫でる火鉢かな      千葉県佐倉営所第二六隊 秋水 鈴木芳三

 これが月並のうまさというものであり、そこには川柳と交錯する人事の描写がある。
しかもそれは歌舞伎や落語で繰り返し使われ、類型化されてステレオタイプとなった
所作の言語化なのである。これこそ月並の名に恥じない名作なのだ。
 以下、次のように月並の見本が続く。

  大は小かねる辛抱や貰ひ足袋       奈良 纏山
  巨燵出るひとからつのる寒さかな     大阪 白水
  凩や鐘のひびきの伸び縮み        岡山 剛雲

 何とも悲しくなるほどの模倣と俗っぽさである。
 だが、ここでもうひとつ注目しておかなければならない事実がある。それは、入賞
していない句のなかに、子規の写生句につがる姿を持った句が存在しているというこ
とである。
 まず第八十四回の応募作の初めから七句を見ていこう。

  凩の通りぬけけり城の跡
  鳩の巣の危なそうなり冬木立
  柚売のほめて戻るや冬至梅
  雪の戸や宵から人の音更る
  寒日や読書の声を垣根越し
  廻廊に潮みちくるや群千鳥
  白雪の其侭暮れて月夜かな

 これらはいずれも高点句とはなっていない。点が入るのは、やはりもっと露骨に、
良く言えば機知の利いた意味の仕掛けが明かとなる句である。これらの句は、平明な
風景描写が表に出ており、点取句としては正風に近い姿と言えよう。
 しかし、実はこれらも平明な描写の句ではない。
 「凩の」の句は、うっかり読むと素直な叙景句のように見えてしまう。しかしだま
されてはいけない。この句の意味するところは、城跡の虚しさというものを、木枯し
が通り抜けたという事象で表しているのであって、城跡というもののステレオタイプ
化されたイメージをそれらしくするための小道具として木枯しが置かれているのであ
る。類型、つまり月並の典型である。
 「鳩の巣の」の方もそのまま叙景句として読めばそれだけの句だが、作者の頭の中
には、冬になって葉が落ち、周りを囲むものが何もなくなったので、鳩の巣が落ちそ
うに見えるという理屈がある。月並には理屈があってだめだといったのは子規だが、
まさに子規が指摘するような理屈がここにある。逆に月並の側から言えば、冬木立と
いう存在をそのように言い当てる機知こそが表現の価値なのである。そうした理屈を
内包しているからこそこの句は、例えば覆い隠した嘘が暴露されそうになった人の前
でことわざのように使われる可能性を持つ。
 だが、ここにある二句は、そうした理屈や教訓性を表現することにあまり成功して
いないのかも知れない。そのために点を集めることができなかった。叙景の陰にそう
した意味を隠したために、参加者の互選というシステムの中では票を集めることがで
きなかった。もっと露骨に理屈や類型性や教訓臭さを目立たせた句が、点を集める力
を持つ。つまり、これらの句は点取の臭みをあまり持っていない句なのである。
 作った本人は、それらしい機知や理屈を埋め込もうとしたのかも知れないが、それ
がうまく行っていないので、単なる写生の句としても読めてしまう。点取句としての
失敗作が、近代俳句の尺度からは、いやみの少ない句という評価を受けることになる
ということである。句の評価というものは、読者の水準によって大きく変わっていく
ものなのだ。
 その後の五句は、俗受けする点取という点からいえば、さらに失敗作ということに
なるのかも知れない。おそらく「柚売のほめて戻るや冬至梅」や「寒日や読書の声を
垣根越し」などの句が、子規ら日本派の初期の句集に収められていたとしても、だれ
も違和感をいだかないのではないか。それほどに平明な表現の句である。これでは点
は入らない。
 問題は、このような賞金目当ての句集に応募する人々の中にも、このような句を作
る人たちが存在したということである。そしてその中には、「大は小かねる辛抱や貰
ひ足袋」などという俳諧に疑問を持つ人々もいたはずなのである。
 明治二十五年という時代にあって、子規の目指した句と擦れ違わないように読める
句を少し拾ってみよう。

 石一つ落して見たり田の氷
 どこ迄も見通す町や雪の朝
 橇や手にさげてくる罠の鳥
 山茶花や夕日のすべる土蔵の壁
 
 これらの句が「あかぎれや是も世のため人のため」などという句に混じって置かれ
ている。さすがに「あかぎれ」の句は点を取ってはいないが、同様に「石一つ」など
の句も点を取ってはいない。
 氷に石を落としてみるという発想自体は子どもじみており、先行する類句も存在す
るかもしれない。しかし、このいやみのない詠みぶりは、田園に生活する人の素朴な
記録として評価されてよいだろう。自然主義の歴史という視点から見れば、大衆の中
に自然に萠芽した自然主義のさきがけということになる。
 そうした目で、次の「どこ迄も見通す町や雪の朝」を読むと、これは遠近法なので
はないかという気がしてくる。むろん作者は遠近法など意識していないはずだ。だが
結果として、近代日本にもたらされた文明のひとつである遠近法を、この詠み手がす
でにその内面に抱え込んでいたのではないかという想像も働くのである。
 さらに次の「橇や手にさげてくる罠の鳥」などは、真正面から自然主義文学の香り
が漂ってくる。「橇」は「かんじき」と読ませるのであろうが、これが「そり」の意
味であったとすればツルゲーネフの影響下にある作品だと言っても信じる人は多かろ
う。それが足に付ける輪かんじきであっても、柳田国男の民族学と響き合う句であり、
時代精神を反映させていることは間違いない。
 次の「山茶花や夕日のすべる土蔵の壁」には、新しいレトリックへの志向がある。
こなれた表現ではないが、「夕日のすべる」という言い方には工夫があり、新しいレ
トリックを求める意識の存在が感じられる。
 このような句が、子規が近代俳句の革新に乗り出すまさに直前の、明治二十四年か
ら二十五年にかけての冬に作られていたという事実を私たちは見落すべきではない。
 一般にはこれらの句を近代文学の範疇に入れることは難しかろう。作り手の意識が、
近代の知の座標にあるとは言い難いからだ。おそらくこれらの句の作者は、西洋から
もたらされた近代文学の影響を直接的には受けていない人達である。地方にあって、
近世から続く正統的な俳諧、つまり正風の俳諧を素朴に受け継いでいた人達なのかも
知れない。そうした人達の正風俳諧が、うっかり点取俳諧の中に紛れ込んでいただけ
だという見方もできよう。
 しかし人々の意識の中に、新しい時代の精神が徐々に浸透し、明治の半ばを過ぎた
ころ俳諧のなかにもそれが表れ始めていたという程度の言い方は許されるはずだ。
 子規の俳句革新を受入れる素地は、たしかに用意されていたのである。そうでなけ
れば、子規の俳句革新があのように急速に日本に広がっていくはずがない。
 これらの句と同じ明治二十四年冬の子規の句には次のようなものがあり、十分に月
並調である。

  鐘つきはさびしがらせたあとさびし
      人の性善
  濁り井の氷に泥はなかりけり
           (『寒山落木』明治二十四年冬)

 二十五年の冬になると句の数は激増し、その姿も少しずつ新しいものになっていく。

  すとうぶや上からつつく煤払
  梟や杉見あぐれば十日月
         (『寒山落木』明治二十五年終りの冬)

 子規の句もまたこの年に新しくなっていったのである。
 つまり子規の歩みは、圧倒的に時代を先取りしていたわけではなかったのだ。明治
の俳諧にはさまざまな相があり、その中には、子規ら日本派の未来を先取りするかの
ような句を作る人々もすでに存在していた。だがそれらは評価されず、月並の臭みの
中で窒息しようとしていた。
 子規はそれを救った。新しい自然主義の思潮と、近世から続く俳諧の伝統との共通
部分から生まれる普遍的な価値観を基軸に、新しい俳諧の方向を示唆したのだ。そし
てその潮流がどのようなものであるかを、西洋文明の分析的な言説によって解き明か
していった。
 それは、淀んだ沼に清流を流し込むような作業であったと言えよう。混沌とした明
治の俳諧に、新しい時代の精神を流し込んでいったのである。そして子規自らもその
流れの中で自らの句を月並臭を洗い流していった。それが子規の俳句革新の真の意味
である。

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