俳句再考  秋 尾   敏    「俳句研究」2001年 

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1 亀鳴けり

 テレビ番組「トリビアの泉」が人気である。あのボタンを押して「ヘー」と言わせる雑学番組である。
 ご存じの方も多かろうが、当初あの番組は、深夜に放映されていた。深夜ということで、今よりはいささかあぶない話題も多かったように思う。
 そのころのネタに「亀は本当に鳴く」というのがあり、驚いたことがある。「亀鳴く」という季語はどの歳時記にも載っているが、ほとんどはそれを空想のこととしている。角川書店『図説俳句大歳時記』(昭和39)は「疑わしい」と慎重だが、集英社『大歳時記』(平成元)は「鳴くことはない」と断定している。小型の歳時記も、角川の文庫版(第三版)をはじめとして、鳴かないと断定するものが多い。私もそれを常識として信じていた。
 ところが、番組は、証拠のビデオを流したのである。それは何と、雌雄の亀がことをなしている最中の映像なのであった。雄の亀はほぼ直立状態で背後から雌に結合し、首を伸ばして上を向いた状態で「オーオー」と咆哮し続けるのである。ナレーションによれば、それは十五分も続くということであった。その図をかなりの時間流し続けたディレクターも立派であるが、まあタモリ氏の関わる深夜番組ならではのことではあったろう。
 「亀鳴く」が、雄が雌を呼ぶという程度のことではなく、交尾の最中の雄叫びだとすれば、これは季語としての本意を考え直さねばなるまい。ただひとつ「カメは春鳴くという」と記すチクマ秀版社の『改訂版現代俳句歳時記』(平成8)は、この亀の秘事を本当に知っていたのであろうか。
 多くの歳時記が、「亀鳴く」を空想とする理由は、亀の発声器官が見あたらないからである。おそらく『図説俳句大歳時記』がそう書いたので、それを参考にして短くまとめているうちに「鳴かない」という断定になったのだろう。
 これには似た話があって、二十世紀の前半までクジラは鳴かないとされていた。捕鯨船の乗組員はたしかに声を聞いたというのだが、科学者は声帯がないといってそれを認めなかった。だが、何のことはない、クジラは気道で声を出していたのであった。
 「トリビアの泉」のビデオが本物であったのかどうか私は知らない。またすべての種類の亀が鳴くかどうかも知らない。ただ、生半可な科学の知識が危険だということは分かる。また、知識というものは、伝言ゲームを繰り返す中で、誤解が大きくふくらんでいくということも分かる。つまり、生半可な科学の知識をもとに、伝言ゲームで作られている歳時記の内容は、かなり怪しいということが分かる。

2 「切れ」は読みの技法

 「切れ」は、作句の技術と考えられているらしい。
 だが、果たして「切れ」は、作句だけの問題だろうか。それはむしろ、読みの技術というべきものなのではないか。
 古池やかはず飛びこむ水の音        芭蕉
 この句は「や」で切れている。これを「古池に」としたら、それだけでただの説明文になってしまう。「や」と強調し、切断することで、古池という厳粛かつ滑稽な存在が現前に重く立ち現れるのである。
 かつて金子兜太氏は、この「や」の切れを強調するあまり、「かはず」が飛びこんだのは「古池」ではなく、別のところに違いないという説を唱えられた。だがその後、江戸期の切れが、それほど徹底したものでないという意見に、納得されたようである。
 だが、この「や」がどの程度の切断をもたらしているのかについての定めはどこにもない。兜太氏の意見は極端かも知れないが、それを否定する論理的な根拠はどこにもない。同様に、この「かはず」が古池に飛びこんだということを否定する論理的根拠もないのである。
 つまり、作者は、読者を支配する術を失っている。切れ字によって「切れ」を明示した場合ですら、作者は読者に自由を与えるしかない。まして「切れ」を明示する記号を示さなかった場合に、読者の読みが個々に違ってくるのは当然のことだ。とすれば、「切れ」は読者の読みの技量に委ねられているというべきであろう。
 現代の作家は、このことを逆手に利用している。
 赤ん坊につこりと年改まる       矢島渚男
 本誌四月号掲載の句である。この句は果たして上五で切れるのか、それとも中七で切れるのか。
 日常の常識から言えば、笑ったのは赤ん坊である。しかし、この句の韻律は、なぜか「につこりと」を「年」に結びつけるよう読者を誘惑する。「につこりと年改まる」という非常識の世界へ読者を誘うのである。その非常識の中に、詩性と滑稽が立ち現れる。それは、孫がかわいいから今年の新年はことさら明るい、という具体性から、年というものはめでたく明けるものだという抽象性までを網羅する巨大な意味空間である。そのとき「赤ん坊」は、新年のメタファーとして生まれ変わってさえいるのだ。
 このような作家は、俳句が読者をコントロールできないことを知っている。知っていて、そのことを逆手にとり、両掛かりの中七によって読者を錯綜する意味世界へ引きずり込む。読者は、その複雑さの中から、自分の「切れ」、つまり解釈をひとつ作り出さねばならないのである。
3 俳句の韻律 ―俳句は本当に定型詩か―

 定型詩において重要なのは、韻律の定めである。ところが俳句には、五七五というおおざっぱな外枠があるばかりで、それ以上の韻律の定めはない。俳句は本当に定型詩なのであろうか。
 明治三十三年、西暦で言えばちょうど一九〇〇年という節目に、沼波瓊音という俳人が、東京神田の新声社から『俳諧音調論』という書物を出している。この本には、俳句の韻律の仕組みが実証的に述べられている。
 瓊音は、「調と情と相伴ひ相助くるこそ詩の趣」と述べて調子の重要性を説き、和歌や俳句では、脚韻などには意味が無く、「音の繋ぎ工合」が重要だと主張する。そして俳句では「主に五と七と、七と五と、句の切目の連鎖にあり、今之を仮に連鎖調と名づく」とし、それを「同行連鎖」と「同韻連鎖」に分けて、例を挙げて実証している。
 「同行連鎖」というのは、五十音図の縦の行を同じにする音の繋ぎである。五と七、七と五の切れ目が、五十音図の同じ子音の音でつながっているのである。

 古池や蛙飛びこむみずの音     芭蕉
 つば咲や誰引すてしそりの跡    立些

 傍点を打った音が、五十音図の同じ行の音である。芭蕉の句ではマ行、立些と魚皃の句ではサ行の音が、七音と五音とを繋いでいる。しかし瓊音は、この同行連鎖は「あまり力あるものには非ず」という。
 力のあるのは「同韻連鎖」である。五十音図の横の段を同じにするもので、つまり、同じ母音が、五と七、七と五のつなぎ目に並ぶのである。

 春のうみひねもすのたり/\かな  蕪村

 これは上五の最後の「み」のi音と、中七の最初の「ひ」のi音が連鎖している。前の芭蕉の「古池や」は、上五と中七が「a」音の同韻連鎖になっている。
 ここでは詳しく説明することができないが、確かに今でも俳句大会の上位句には、この連鎖の法則にかなったものが多い。選者の耳に心地よく響くのであろう。
 瓊音は、日本の詩には、尾韻(脚韻)の効果はないと断言し、この連鎖を和歌、俳句の重要な要素としている。
 しかし私には、和歌や俳句は、瓊音のいう連鎖だけではなく、脚韻や頭韻も含めたあらゆる韻律の実験場のように見える。韻の定めを持たない俳句は、一句一句に個別の工夫が施され、それぞれ別の美しさを与えられている。これは紛れもなく自由詩の営みというべきであろう。少なくとも韻律の面からは、俳句は定型というよりは自由詩なのである。
 


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