| 口語俳句というときの口語は、日常の話し言葉そのものを指す言葉とは言えない。この場合の口語とは、日常の話し言葉に近づけようと工夫されてきた書き言葉の一種である。しかもその言葉は、百年近い歴史の中で、いくつかの型を持つようになっている。その型は、文体であると同時に、世界認識の型である。それはおそらく口語俳句が出現したときの状況に端を発している。 そのひとつは、まつもとかずやが「風流にこもらず接社会の実現を口語表現に託した」(『俳文学大辞典』角川書店)と説明しているあたりに存在し、大杉栄に始まる民衆芸術という考え方が、やがてプロレタリア文学を形成していく系譜に連なっている。 だが一方で口語俳句は、文学の言葉を現実の社会に開くということとは逆の方向性を内包しているようにも思われる。松岡正剛は『「日本流」ーなぜカナリヤは歌を忘れたか』(朝日新聞社)において、大正期の童謡の流行という日本独特の文化現象を取り上げ、日本文化において、寂しさや童心が本質的な意味を持つことを語っているが、私は、このことにこそ、大正期の口語俳句の意味があること考えている。おそらくそこには、近代化の進む都市で、自らの生まれ育った社会とはまったく異なったシステムの中で、大人として生活せざるをえない人々がストレスと闘うための一種の自己防衛としての退行現象(むしろそれが本来の日本文化の精神)があり、それはかなり内向的な言語なのである。山頭火や尾崎放哉の句に指摘される、ある意味での幼児性の源はそこにある。 さて、では現代における口語俳句の存在理由は何なのであろうか。それが、ただ大正期に形成された口語俳句というジャンル、あるいは文体の単なる継承になっているとしたら、口語俳句が本来持っていたエネルギーは失われ、「口語俳句」という新たな伝承文芸が生まれたということになってしまう。現代には現代の水準での口語俳句の存在理由がなくてはならない。そうした視点から、何人かの口語俳句を見ていくことにしよう。 井上伝の「弥三郎エー」には、民衆性と地方性と政治性などの口語俳句の伝統的な要素を受け継ぐ作風の典型が見られた。 機は熟し蟻地獄らを告発するぞ ここには、ある思想に基づいた世界の見え方が示されている。世界は、陥れる者と落ちる者とで成り立っている、という世界観である。蟻地獄の比喩は判り易く、俳句としての面白さもある。しかし、今の若い人たちが「機は熟し」という認識に共感してくれるかという話になるといささか疑問だ。機はついに熟さず、というあたりが本音なのではないか。この句に社会主義リアリズムの匂いを嗅いでしまうのは読み手の問題かもしれないが、どこか口語俳句のある型に収まってしまうおそれを感じる。 冬芝居嗚呼とうちゃんは島破り 芝居の上での父親役なのだが、ウチのとうちゃんが島抜けの役なんか演じさせられて、という意味にもとれるし、実はそれを演じる人が実際に島破りであったという意味にもとれる。その場合「島破り」を何事かの隠喩として読むことになるのだろう。今や信念に生きる人などほとんど存在しない時代だから、島抜けのロマンは魅力的だ。この句には、口語俳句の型を逸脱していくエネルギーを感じる。民衆的な視点から世界を見直そうとする試みは、口語俳句では伝統的な手法のひとつであるが、その発想が、真に現在の状況をとらえるならば、そこには大きな可能性が残されていると言えるだろう。 遠藤龍三郎の「砂時計」は心に残る作品群であった。 抱きよせて病の妹(こ)のズボン引き上げる この句のリアリティーは、口語ならではのものだろう。ここに詠われているものは社会性ではなく、ごく個人的な寂しさである。口語は、その純粋性を虚飾なく言い表す力を持つ。 寒のあけ 残りの餌を啄んでいる 啄んでいるのはどのような鳥であるのか。「残り」という語からは、路上の鴉が思い浮かぶ。寒々とした光景である。だが、これがもし作者自身の姿であったとしたら、さらにすさまじい精神風景が見えてくることになる。残された生をどう生きていくのかという問題である。主語を隠した効果が不思議な空間を作りだしている。不思議なことだが「啄みぬ」よりも「啄んでいる」の方が存在の寂しさが強調されるのである。 死はきっとくる 菜の花に身を沈める 死はいつも隣り合わせに存在している。だが人は、通常その姿を意識しない。ある特別の状況において、人は突然死の存在を自覚する。菜の花の鮮やかな命の色が、死の恐怖や不安を際だたせる。死を意識することは、命を意識することなのである。死を自覚するこのリアリティーは、口語でしか表現しえないものと言えるだろう。 ながながと女体をさらす冬銀河 冬銀河に女性の寝姿が重なってくる。それは病身を横たえ、やがてこの世から去っていった女性の残像があるからである。 神宮司茶人の「星爐庵日日抄」は、口語による滑稽の可能性が追求されている。 霜ばしらは土中の蛇の長いため息 伝統的な俳句の手法から言えば、「は」は不要であろう。「霜ばしら」で切ることによって、イメージの交錯の重層性を深められる。だが、そこにあえて「は」を置き、散文性を高めてしまうことで、口語性を強調し、これが純粋にウイットの句であることを、この句自体に語らせている。いわゆる俳句的表現への挑戦であるのかも知れない。 心弾むことあっていっせいに土筆 佳句である。文語の省略法を借り、躍動するリズムを作り出している。練られた口語は文語に撒けない韻律を紡ぎ出す。 吉永次代の「観覧車」は、口語の操り方が尋常ではない。もはや口語俳句ということを意識させないほどに、口語を俳句の言葉としてなじませている。 一月の雲のはずれの精米所 これが口語であるという保証はない。しかし決して文語の時代の日本語の響きではない。 ライバルが居なくなりただの枯葉 これを、最初から作者自身が枯葉なのだと読んだのでは、俳句の読みとしては失格である。やはり俳句の読みとしては、まず枯葉を枯葉として読まなければならない。次に「居なくなり」で切り、前段を作者の周辺のこととして読む。そしてそのことと枯葉の存在とを響かせていくのである。 確かに口語俳句において「切れ」の認識は難しい。活用語の終止形と連体形が同一の形になるのがその第一の理由である。またこの句のように、連用形の中止法も、文語とは少し違ったニュアンスになる。しかし、逆を言えばそこにこそ、言葉の意味の重層性をさらに複雑化する可能性が潜んでいると言える。 口語も、こうしたレベルでの解釈法が共通理解されるようになれば、俳句の言葉として一般的な認知を得られるようになるだろう。 さて最後に、現在の俳壇で口語がどう扱われているかを調査したので、その結果を示す。二百の結社に質問し、一三四件の回答を得た。まず作品の仮名遣いについては、旧仮名遣いが58、新仮名遣いが7、参加者に任せているが69という結果であった。また口語、文語の別では、主に文語という回答が71、主に口語が6、参加者に任せているが56であった。口語と定めている結社は少ないが、参加者に任せているということは、もはや口語俳句が文語の俳句に入り交じって一般化していることの現れと考えられるであろう。(文中敬称略) |