心の夕闇 (第5章)

目の前にいるあの男。銀縁の眼鏡から優しそうな目が由利子を捉えている。その優しい表情がかえって恐怖を誘う。
驚愕で目を見開いたまま、由利子の思考回路は一旦停止してしまっていた。
「心配しなくても、邪魔は入らない。お友達には向こうで少し眠ってもらったから。オレとオマエと、ふたりきりだ」
そう言った男の顔に、不気味な微笑みが浮かんだ。その表情は、由利子への最後通告をするかのように満足げであった。

そこまで追いつめられたとき、ようやく恐怖で凍りついていた由利子の体が反応した。次の瞬間、由利子は恐怖を払いのけるように、力いっぱい両腕で男の体を突き飛ばした。
男は予想しなかった反撃に階段の踊り場でバランスを崩す。よろめく男に、さらに由利子は体ごとぶつかっていき、ふたりはもつれあったまま階段を落ちた。
由利子がぶつかった勢いで階段に倒れ込んだため、男の眼鏡は吹っ飛んで壊れ、男自身も強く頭を打っていた。由利子も体のあちこちを階段や壁にぶつけていたが、逃げるチャンスはここしかないと思い、痛みをこらえて立ち上がった。そして、倒れている男の上を飛び越えたとき、今度は男の右手が素早く動き、由利子のハイヒールをつかんだ。
「きゃっ!」
不意に右足をとられて、由利子は前のめりに倒れた。が、その勢いでハイヒールが脱げ、幸いにも由利子は、男の手から脱出できた。

再び立ち上がった由利子は、擦りむいた膝から血が出ているのも気にせず、夜の道へ走り出た。人通りはない。いったい、どうすればいいんだろう。
そんな一瞬のうちに、男も立ちあがろうとしていた。後頭部を手で押さえて、頭をふっている。そして、顔をあげて、由利子を捜す。
由利子と男の目が合った。
由利子は走り出した。コンビニエンスストアなら、明るいし、人もいる。そこで警察に通報すればいいんだ。
走り始めると、片方だけ履いているハイヒールが邪魔で、由利子はすぐにそれを脱ぎ捨てた。振り返ると、まだ男の姿はない。今だ、今のうちに逃げよう。

必死だった。由利子は必死で走った。だが、なかなかコンビニは現れてくれない。歩いて行っても近いと思っていたコンビニまでの道のりが、こんなに長く感じられたのは初めてだった。
やがて、薄暗い道の向こうに、コンビニエンスストアの明かりが見えてきた。看板の文字がぼやけて見えないのはなぜだろうと思って、はじめて由利子は自分が泣きながら走っていることに気がついた。この涙は、安堵感から来るものなのか、それとも恐怖からくるものなのか、自分の中のどんな感情が涙をあふれさせているのだろう。

あと、もう少しだ。
そう思ったとき、コンビニエンスストアの向こう側から人影が現れた。その人物は、確認するかのように由利子の方をじっと見て、そして由利子の方に向かってきた。
紛れもない。
あの男だ!!
由利子は、もと来た道をとって返した。
振り向くと、追ってくる男が見える。だんだんとスピードが乗ってきて、今にも追いつかれそうだ。
由利子は左手にある細い路地に飛び込んだ。
ほとんど灯りもない暗い道は足元が危ういが、スピードを緩めることはできない。
すぐに男が路地に入ってきて、またも由利子に迫ってくる。速い。
狭い路地の両側にある壁や塀が、猛スピードで由利子の両側を通り過ぎていく。
汗と涙が飛び散る。
男の伸ばした指先が、由利子の背中を一瞬かすめた。
背筋を戦慄が走った。
追いつかれる!!
路地が左に折れた。
突然、視界が開けた。
そこは、交差する道の真ん中、ヘッドライトの強烈な光の中であった。
「あっ…」
由利子の中で時間がとまった。
すべてがスローモーションのようだった。
由利子を追ってきた男も、次の瞬間には真っ白な光の中にいた。
急ブレーキの音が大きく響く。
走ってきた勢いでよろめきながら前方へ進んだ由利子のかかとのあたりをタイヤがかすめていった。
ドンッ!
鈍い音がした。
道路に倒れ込みながら振り向いた由利子の目に、車に跳ね上げられて吹っ飛んでいく男の姿が映った。
男の口から血しぶきが飛び散るのがはっきりと見えた。
車が停まって、ドライバーが飛び出してくる。
跳ね飛ばされた男のまわりに人が集まってきた。

由利子は立ち上がり、服についた埃を払い落とした。右足の小指の爪は割れて、血と泥がこびりついている。
すべては終わったのだ。
倒れた男の周りに人が続々と集まってくる現場を背に、由利子はゆっくりと自宅への道を歩きはじめた。
(C) Tadashi_Takezaki 2003