心の夕闇 (第4章)

由利子は、結局、リカの家に1週間泊めてもらった。リカは気さくな性格なので、由利子は非常にリラックスしてこの7日間を過ごすことができた。持つべきものは友達である。
あの不気味な男も、ファミレスで現れて以来、由利子の前に姿を見せなくなった。気まぐれな彼のいたずらは、もう終わったのだろうか。
だが、由利子は、駅のホームでも街の雑踏の中でも、会社で仕事をしている最中でも、いつでも人の視線を感じつづけていた。あいつは、どこかでじっと自分を見ているに違いない。たとえあの男が姿を見せなくても、そんなノイローゼ的な気分から完全に逃れるすべは、残念ながら今の由利子にはなかった。

下着から洋服まで買い足しながら1週間をリカの家で過ごしたものの、さすがに果てしなく新しい服を買いつづけるわけにもいかず、また放ってある家も気になるので、8日目の夜、ついに由利子は家に帰ることを決意した。
「リカ、こんなに長い間泊めてもらって、本当にありがとう。いくら感謝しても感謝し足りないくらいだよ」
「気にしなくていいよ。今度、わたしが困ったときは、由利子に助けてもらっちゃう」
「私、明日、家に帰ろうと思うの」
「そうね。ずっと家を空けてるのも良くないよね。でも、大丈夫かな」
「うん…。それでね、リカにもうひとつだけお願いがあるの」
由利子は遠慮がちに言葉を続けた。
「明日1日だけでいいから、私の家に泊りに来てくれないかな…。いや、無理なら帰るときに一緒に来てくれるだけでもいいの。ごめん、勝手なお願いばかり…」
「いいよ。だって、ひとりで帰るの、恐いじゃん、やっぱ。ついて行ってあげるよ」

翌日、少し残業した後、由利子とリカは、ふたりでイタリアンレストランで食事をとり、夜の9時頃に由利子のアパートに帰り着いた。
「とりあえず、ここまでは何もなかったね」
リカが由利子をはげますように言った。
「うん。もう何も起こらないといいんだけど」
由利子が先に立って階段を登った。由利子の部屋は2階にある。
ドアの前に来た。由利子は、この前のようにドアに不気味な貼り紙がしてあるのではないかと心配していたが、何もなかった。ただ、1週間分の新聞がすでに新聞受けからあふれて、ドアの前に落ちているだけだ。
ドアノブを右に回して引く。
ガシャッ!
鍵がかかっているので、当然のごとくドアは開かない。それだけで由利子はなんだかホッとした。
「大丈夫みたい」
由利子はリカに向かって微笑んで見せた。そして、落ちている新聞を拾って左腕に抱え、ハンドバッグから出した鍵でドアを開けた。
その時、開くドアの隙間から折りたたんだ白い紙がはらりと落ち、それを見た由利子はギョッと目を見開いて、持っていた新聞を取り落とした。頭の中にはこの前の貼り紙がフラッシュバックした。『おはよう、ゆりこ。あぶないやつに、きをつけて』。
由利子のそんな様子を見たリカが、飛びつくようにその紙を拾いあげた。が、それは、ただの宅配便の不在通知だった。
「由利子、大丈夫だよ。何もおかしなことはないよ」
「そうね。何だか、なにもかもが気になっちゃって、おかしいわね」
由利子が先に部屋に入ると、中は思っていた以上の惨状だった。梅雨の季節に1週間以上も閉め切っていた部屋は、ムッとする空気に満ち、放置された生ゴミのせいか、嫌な匂いが鼻につく。もともとひとり暮らしの部屋である上に、この前とんでもない一夜を過ごしたままだから、飲みかけのコーヒーカップや、脱ぎっぱなしのパジャマや、下着など、すべてが汚れて、ねっとりとした空気の中にそのまま存在していた。これでは、とても他人を入れることはできない。
後から部屋に入ろうとするリカを制して由利子は言った。
「ごめん。部屋の中、この前のひどい状態のままだから、ちょっと片付けさせて。あまりにもひどくて、自分でもビックリしちゃった」
「気にしないから、大丈夫だよ」
「私が気にするの。このまま、リカに入ってもらうわけにはいかないわ」
リカは玄関のところで立ち尽くした。
「どうしよう?」
「そうね…。すぐ近くにコンビニがあるから、そこで少しだけ時間をつぶしておいてくれないかな」
「いいよ、それでも」
由利子は、ひとまず部屋に荷物を置いて、リカをコンビニエスストアまで連れていった。
「本当にごめんね。10分か15分で片付けるから。片付いたら迎えにくるね」
リカは雑誌のある棚の前に立って笑顔で答えた。
「ゆっくり片付けていいよ。でも、私はあんまり細かいこと気にしないから、適当でいいんだよ」
「うん。じゃあ、また後でね」
店を出ていく由利子の姿を見送り、リカは週刊誌を手に取った。トップ記事は有名タレントの離婚騒動だった。

再び部屋に戻った由利子は、まずあふれかえっていた新聞受けを片付けることにした。 新聞受けを開けたその時、以前、あの男がここに携帯電話を入れていたことを思い出した。
「まさかね…」
新聞受けには、新聞の他にもチラシや自動車のセールスマンの名刺などが入っていたが、その中で由利子に妙な感じを与えたのは女性用の洋服の通販カタログだった。
なぜかそのカタログは封筒にも入れられず、裸のままでそこに入っていた。
嫌な予感がした。
由利子は追いたてられるようにカタログのページをめくった。そこには、色とりどりの洋服を着た女性のモデルが並んでいたが、彼女達の首から上は、すべてきれいに切り取られていた。次のページも、その次のページもモデルの頭はなかった。異常なまでに神経質に切り取られた写真を見るうちに、由利子はあの男の心の闇を見たような気がした。そして、いつの間にか自分の身体が指の先まで恐怖で冷たくなっていることに気付いた。

コンビニで雑誌を見ているのに飽きたリカは、そろそろ由利子の家に戻ってみようかと思い、店を出た。そして、店の前から由利子に電話をかけようとした時、ひとりの男がリカのそばに近づいてきた。
「すみません。道をお尋ねしたいんですが」
リカは戸惑った。
「ごめんなさい。私、このあたりに住んでいるわけじゃないので…」
「そうなんですか。でも、もしかしてご存じかもしれない」
「多分、わからないと思うんですが…」
男は静かに微笑んだ。
「いや、きっとご存じですよ。あなたのお友達でしょう、高橋由利子さん…」
「えっ!?」
リカの目が大きく見開かれた。その目の前に白い布が見えた次の瞬間、リカは気を失っていた。

モデルの頭を切りとってあるカタログを生ゴミと一緒に袋に放り込んで、由利子は手早く部屋を片付けた。窓を開けて空気を入れ替え、コーヒーカップや食器をさっと洗い、脱ぎ捨ててあった服をすべて洗濯機に投げ込んだ。うっすら汗をかきながら、由利子は必死で掃除を続けた。立ち止まると恐怖に追いつかれるような気持ちだった。ひとりでは耐えられない。早く片付けて、リカを呼んでこなければ。
由利子はゴミ袋を持って廊下に出て、ドアを閉じ、鍵をかけようとした。しかし、気持ちがあせっているのか、手が震えて、鍵穴に鍵をさし込むことすらままならない。
カチャ。
なんとか鍵をかけて「ふう」と息をついた由利子の両肩に、後ろからガッシリと手がかけられた。
「おかえり。ゆりこ」
ギョッとして身体をねじった由利子の目に映ったのは、紛れもない、あの男だった。

>> 第5章へ

(C) Tadashi_Takezaki 2003