心の夕闇 (第3章)

眠れないまま一夜が明けた。
由利子は、どうすれば恐怖の対象から逃れられるのか考え続けたが、何ら解決策をみつけることはできなかった。今までに起きたことだけでは、あの男を警察につきだすこともできないだろう。
男は由利子に対して、何ら具体的に危害を加えてもいないし、佐々木課長の件にしても、男はああ言っているが、彼が犯人である証拠もない。
このまま今日は会社を休もうかとも考えたが、永遠に家に閉じこもるわけにもいかないし、男はこの家を知っているからここなら安全というわけでもない。由利子はシャワーを浴びてから、会社へ行く準備をした。ドレッサーの前に座った由利子は、鏡の中にげっそりとした女の顔を見た。
「やだやだ、こんな顔で会社に行けないわ」
由利子は、わざと声を出して言って、目の下の隈を化粧で隠す。

化粧を終え、熱いコーヒーを飲んだら、少し気分が落ち着いてきた。由利子は自分をはげますように勢い良く立ちあがると、バッグをつかんで玄関のところまで行き、のぞき窓から外の様子を確認してから、ドアを開けた。
ドアの外には誰もいない。なんだか妙にホッとしながら由利子は外へ出、ドアを閉じよ うとして、はじめてそれに気付いた。
由利子の顔色がさっと青ざめた。
ドアにはワープロ打ちの小さなメモが貼りつけてあった。
『おはよう、ゆりこ。
あぶないやつに、きをつけて』
由利子はそのまま気を失いそうになったが、なんとか耐えた。やはり家が安全なわけじゃない。あいつは自由にここにやってくるのだ。
階段を下りて道に出た由利子は、あたりを見回した。しかし、あの男の姿はない。
いつもどおりに通勤する人々に混じって、由利子はいつもより早歩きで駅に向かった。

眠気より恐怖による緊張感が勝ったのか、由利子は会社での午前中を睡魔に襲われることなく過ごすことができた。ただ、何をしていても、ふとあの男の顔が思い浮かび、つまらないミスをいくつもしでかした。
あの男。30歳過ぎのサラリーマン風。中肉中背。銀縁の眼鏡。眼鏡の奥の優しそうな目。
自分を送ってくれたあの人物が、本当に電話の人物なんだろうか。あまりにもイメージ が違う。しかし、電話の声は確かに言った。
由利子が佐々木課長のことを自分に話したと。
あんなに優しそうな人物が、こんな恐ろしいことをするなんて。『人は見かけで判断できない』とはよく言ったものだ。

昼休み、由利子は同僚のリカと会社の近くのファミレスで昼食をとった。
「ねえねえ、今日の由利子、なんか元気ない」
リカが心配そうに言った。
「うん……」
由利子は、一瞬ためらった後、思い切って一昨日からの出来事を話すことにした。他人に話してどうなるわけではないが、話さなくても解決するわけじゃない。
「恐い話ね…」
話を聞き終えたリカは、ぶるっと震えてみせた。
「そういうの、ストーカーの一種なのかな」
「ストーカーっていうか、もともとが間違い電話から始まったことだから…」
「その、最初の電話のアユミって娘も、同じように追っかけられてたのかな」
「わからない。とにかく、相手は私の家を知ってるし、逃げ場のない絶望ってとこかしら」
「きっと、そいつは女の子を脅して喜んでるのよ。ふだんの生活では気の弱いタイプで、女性と話すのさえ苦手なんじゃないかな。で、自分のことを知らない女性を見つけては、脅かして気晴らししてるとか」
「そうかも知れないけど、脅されるのは決して気分のいいもんじゃないわ。今日も家に帰るのが恐いもの」
由利子は、ため息をひとつついた。
「じゃあ、今夜は家に泊りにおいでよ。昨日は寝てないんでしょ。そいつも私の家までは追いかけてこないと思う」
笑顔で提案するリカに由利子の気持ちは少しやわらいだ。確かにそうだ。ひとりであの家に帰ってビクビクしながら一晩過ごすよりリカの家に泊めてもらった方がどんなに楽だろう。
「ありがとう。本当に泊まっていい?」
「全然、平気。ただし、誰も来る予定なかったから、部屋は汚れてるけど」
「でも、着替えとか、どうしよう」
「今日は早めに会社を出て、帰りにデパートで調達すればいいじゃん」
「そうね…」
由利子は、リカに話して良かったと思った。
「あっ、話し込んでるうちにもう1時だ。ヤバイ、早く戻んなきゃ」
リカが慌てて席を立った。由利子も続いて席を立とうとして、隣のテーブルにひとりで座っている男と目が合った。
知らない男だが、何かが心にひかかった。
レジのところまで行って、由利子がもう一度、男の方を振り返った時、男はゆっくりと眼鏡をかけてみせた。銀縁の眼鏡を。
間違いない。あの男だ。
由利子は真っ青になって、店を飛び出した。

リカがふたり分の支払いをすませて表に出てきたとき、由利子は地べたにしゃがみこんでいた。
「どうしたの、急に」
リカは驚いて、尋ねる。
「いたの…、あいつが」
「あいつって?」
「あの男が、隣の席にいたの…」
「まさか」
「本当よ。私を見て、笑ってた…」
リカは、さっと由利子の手をひくと、今、出てきたばかりのファミレスにとって返した。
「逃げてばかりじゃだめよ。そいつが本当の犯人か確かめなきゃ」
「でも…」
「怖くなんかないわ。これだけたくさん人がいるんだから」
リカに引きずられるように入った店内。
「隣って、どの席よ」
リカが叫ぶ。
気が遠くなるような感覚に襲われ、時間がいつもよりゆっくり流れる中で、由利子はさっきの席をじっと見つめた。
「……」
そこには、もう誰もいなかった。

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(C) Tadashi_Takezaki 2003