心の夕闇 (第2章)

由利子は前後を見た。人影はない。住宅が並ぶ静かな夜道。ところどころにある街灯が道を照らしているが、その光は心細い。
由利子はじっとりと冷や汗をかきながら電話の向こうに話しかけた。
「あなたは誰なの!?」
ちょっとした沈黙の後、その声は答えた。
「今、オマエのところに行くよ」
「いったい…」
ブツッ。
電話が切れた。由利子はゾッとした。
なぜこんなことになってしまったのだ。私が何か悪いことをしたというのか。
由利子は途方に暮れて立ち尽くした。本当に電話の男が現れるのだろうか。私はどうすればいい。 そして、ふと自分が携帯電話を握りしめたままだということに気がついた。そうだ、とにかくこの忌まわしい携帯電話の電源を切ってしまおう。

電源ボタンを押そうとしたとき、携帯電話の「チャクシンアリ」という表示が目に止まった。
「まさかね」
由利子が着信履歴を表示させると、意外にも電話番号が表示された。この数字は携帯電話の番号だ。つまり、さっきの男の電話番号だということになる。
電話番号を表示させているということは、確信的な犯罪ではなく、きまぐれないたずらだといということか。
由利子は再度、あたりを見回した。相変わらず人の姿はない。いたずらならいいが、本当に危険な人物ならたまらない。さっきの電話では、私の服装や足の怪我のことを正確に言い当てていた。あいつは近くにいるはずだ。いったいどこにいるんだろう。
「そうだ。ダメもとで…」
由利子は、表示されている電話番号にダイヤルしてみた。相手の携帯電話のベルが鳴るか、声が聞こえれば、どこにいるかわかる。そんなにうまく行くとも思えないが……。
プルルル、プルルル……
発信音がする。静かな夜の中で、発信音だけが由利子の耳に響きわたる。

そのとき、突然、目の前の角から携帯電話を耳にあてた大柄な男が現れた。
由利子は飛びあがらんばかりに驚いた。まさかこんなに近くにいたなんて。あまりのショックに声も出ないまま、すかさずきびすを返した由利子は、左足の痛みも忘れてもと来た方向に走り出した。
頭の中に、電話の声がよみがえる。
『代わりにオマエを可愛がってやるぜ。代わりにオマエを可愛がってやるぜ。代わりにオマエを可愛がって……』
つかまったらおしまいだ。
由利子はその不気味な声に追われるように走った。が、次の瞬間、痛めた左足首がぐにゃりと曲り、全身を激痛が走ると同時に、由利子は地面に倒れてしまった。
ああ、どうしよう……。
由利子は目を閉じた。

「大丈夫ですか?」
その声に目を開けると、そこには眼鏡をかけたサラリーマン風の男が立っていた。
「派手に転びましたねぇ」
男は由利子の手を引いて立たせようとする。
「た、た、助けてください。変な男に追われていて……」
由利子は早口に言葉を吐いた。男は驚いたように、あたりをきょろきょろと見回している。
「うーん、どうやら誰もいないようですが。どんなヤツでした?」
「そんな……」
由利子も後ろを振り返ったが、確かに人影はない。
「どこに行ったのかしら…」
「いずれにせよ、もう大丈夫です。それより、足は大丈夫ですか? あっ、血が出てますね。これは痛いでしょう」
そう言われて見ると、ストッキングは破れ、すりむいた膝が出血している。しかも、足首の痛みはさらにひどい。
「すみません。助けていただいて」
「何を言ってるんです。目の前で若い女性が転んだのを見過ごしていくヤツはいないでしょう」
男は微笑んだ。見たところ30歳過ぎ、中肉中背のサラリーマンだ。銀縁の眼鏡の奥で優しそうな目が笑っている。
「足を痛めたようですね。私が肩を貸してあげましょう。お家まで遠いんですか?」
「多分、30分くらいはあると思います…」
「じゃあ、せめて車がつかまるところまで連れていってあげましょう」
「いえ、そんな……」
由利子はひとりで歩こうとしてみたが、左足首の痛みがひどくて、やはり耐えられない。
「痛っ!」
男がすっと由利子の左腕の下に肩を入れた。
「無理しちゃいけません。遠慮しなくていいですから。送りましょう」
「すみません。本当に……。見知らぬ方なのに…」
「いいんですよ」
由利子は男の肩を借りてゆっくりと歩き始めた。

結局、タクシーも通りかからず、由利子は家まで40分もかけて送ってもらうはめになってしまった。
途中、どうしてこんな夜道をひとりで歩いてたのかと尋ねられたので、由利子は男に佐々木課長のことを話した。
「そりゃあ、ひどい上司だね」
そんな風に言って、男は顔をしかめた。彼は非常に感じのいい男だった。
由利子の部屋はアパートの2階にある。助けてもらった人とはいえ、部屋まで連れて来ることには抵抗があった。しかし、今の足の状態ではひとりで階段を上がることができそうになく、結局、由利子は部屋の前まで男の助けを借りることになった。
「本当に、ありがとうございました。こんなにお世話になったんだから、本来なら部屋でお茶でもごちそうしたいところなんですけど、女のひとり暮らしで掃除もちゃんとできてないもので…」
由利子が考えていた台詞を一気にまくしたてると、男は優しく笑って言った。
「ははは…。気にしないでください。私も見も知らぬ女性の部屋にあげてもらおうなんて思ってません。ここで失礼しますよ。では」
あまりにもあっさり立ち去ろうとする男の背に、由利子は声をかけた。
「あの…、改めてお礼をしたいので、お名前と連絡先を教えていただけませんか?」
途中まで階段を下りかけた男は、由利子に背中を向けたまま、右手をさっとあげた。
「お礼なんて必要ありません。さようなら」
男の姿が完全に見えなくなってから、由利子は部屋に入った。

翌日になっても足首の痛みはひかず、由利子は病院で治療を受けてから、午後になって仕事場に出た。
「ああ、由利子。今日は大変だったのよ!」
オフィスに入るやいなや同僚のリカが飛んできた。なんだか職場がざわついている。
「佐々木課長がね、昼食の帰りに通りすがりの誰かにナイフで足を切られたの。別に命にかかわるような怪我じゃないけど、病院に運ばれていったわ。人ごみの中の一瞬のできごとだったから、誰にやられたのかわからないんだって」
由利子は事件に驚きながらも、昨夜のことを思い出し、心の中で「あんなことばかりやってるから…。天罰よ」とつぶやいた。

その日、帰宅した由利子がテレビドラマを観ながらくつろいでいたとき、どこかで携帯電話の鳴る音が聞こえた。由利子は、自分の携帯電話の電源が切ったままなのを確かめた。
ベルの音は、20秒くらい鳴っては切れ、またくり返し、鳴り始める。隣の住人のものにしては音が近い気がして、由利子はベルの鳴っている場所を探した。そして、新聞受けの中に携帯電話が放り込まれているのを発見した。
「まさか……」
由利子は気味が悪いのを耐えながら携帯電話を取り出し、その番号を表示させてみた。
思った通り、昨日の不気味な電話の主が持っていたはずの番号だ。
そのとき、また、それが鳴り始めた。由利子の全身に緊張が走った。由利子は勇気を出して、通話ボタンを押した。
「もしもし…」
「よう。足は良くなったか?」
「……」
「オマエとの友情の証に、今日、課長さんに軽く復讐しておいてやったぜ。感謝しな」
「えっ!? なぜ、あなたが課長を?」
「オマエが言ってたんじゃないか。課長のせいでひどい目にあったって」
男が笑う。由利子は、ようやく男の正体に気付いた。
「あなた、まさか昨日送ってくれた…」
「すぐにオマエをいたぶっても、面白くないからな。まずは、お互いのことをよく知って、お近づきになってからのスタートだ」
「いったい、何のために…?」
「課長には、午前中、客を装って会いにいって顔を確かめた。簡単さ」
「どうして、こんなことをするの?」
「この携帯電話は盗品だから、調べても無駄だぜ」
「ねえ、何がしたいの? 何が目的なの?」
「次はオマエをやる。楽しみにしてな」
「ちょっと…」
ツーツー。
電話は切れた。
由利子は絶望的な気分の中で、心のよりどころを探していた。

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(C) Tadashi_Takezaki 2003