僕の耳には今もあの真っ暗な海の沈黙が聴こえる

長い沈黙の後に彼女はつぶやいた。
 「やだ。私、運転できない…。」

突然のデートだった。特に予定もない日曜の正午すぎに、何の前触れもなく彼女から電話が入った。
 「今、車で神戸に来てるの。三ノ宮美術館でやってる現代美術展につきあってくれない?」

彼女と僕は知り会って5年。同じ職場で働く内に、僕は彼女の良き(?)相談役になっていた。彼女は恋人と何かが起こる度に僕を飲みに誘った。ある夜などは、梅田の東通り商店街にあるペンギンズバーで、『恋人に旅行に誘われたのだけど、私は行くべきだろうか』『男性は、女性とふたりで旅行をして何もしないのだろうか』なんて話を真面目な顔をして深夜まで僕に問い正したりした。

そう、こんな言い方は野暮だが、彼女はとても真面目で、でも、恋人が仕事で忙しいと言うときにはいくら寂しくても会いたくても我慢するというちょっと一途な気丈さを持つ女性だった。

閉館時間ギリギリで入った美術館。駆け足で現代美術展を観た後、彼女は不意に僕を誘った。
 「せっかく神戸に来たんだから、須磨の方へドライブしたいな。最近、ふたりで話をする時間もなかったし。ねえ、つきあってよ。」
この頃、僕は担当のプロジェクトが大変な時期で、連日上司がつきっきりで遅くまで残業していた。確かに彼女とはここ数カ月、ゆっくり話すこともなかった。だが、僕はそんなことに気づく余裕もなく、毎日を過ごしていたのだった。
 「いいよ。でも、女の子に運転してもらってドライブするなんて格好悪いよなぁ。」
 「気にしないで行こうよ。海を見ようよ。」

彼女の運転する車は夕焼けの海を左手に、海岸沿いの道を走り続けた。オレンジ色の雲がフロントガラス越しに眩しく、僕は目を細めた。
 「ふたりだけで話をするの、ホントに久しぶりだよね。声を掛けようと思っても、いつも仕事が大変そうなんだもん。」
 「ごめん。全然気付かなかった。ここんとこ、仕事、キツイからなぁ。」
 「ずっと話がしたかったの。この先にユーミンの歌にも出てくるレストランがあるから、そこで話を聞いて。相談があるの。」
 「いいよ。僕で役に立てるなら…。」

そのユーミンの歌にも出てくるとか言う海辺のレストランで、彼女はよくしゃべった。また恋人との話だとばかり思っていたら、仕事と趣味の話だった。彼女は自分のやりたいことをずっと探していた。そして、やっと本当に自分がやりたいことを見つけた。だから、会社を辞めて、そちらに専念するのだという。

あっというまに時間が過ぎて、ふと気がつくと午前0時を過ぎていた。
 「やだ、もう真夜中になっちゃった。」
 「遅くなると、家族が心配するよ。帰ろう。」

真っ暗な海に面した駐車場。
僕は助手席に、彼女は運転席に座った。
突然、彼女は小さなため息をついた。
そのまま、彼女は顔を伏せた。
彼女はエンジンをかけずに、運転席でうつむいてじっとしている。

長い沈黙が流れた。

何度かハンドルに手をかけては、首を小さく左右に振ってうつむく彼女。そして、それを黙って見守るしかない僕。彼女は泣き笑いのような表情をして、僕の目を見た。
 「私、運転できなくなっちゃった。どうしよう。……明日も仕事なのにね。早く帰らなきゃね。」
 「大丈夫だよ。気にしなくていい……。」
僕は、そっと彼女の頭を撫でた。不意に、僕の中で彼女への愛しさが込み上げた。ふと視線を上げると、フロントガラスの向こうには海。真夜中の真っ暗な海が静かに広がっている。

 「ふぅ……。」
彼女が深くため息をついてハンドルに上体を預けた。その勢いでクラクションが「パン!」と大きな音を立てた。ビクッとして体を起こす彼女。
 「ははは…。馬鹿だなぁ。何してんだよ。」
彼女もようやく笑顔を見せた。ふたりの間にあった固い空気が少しほぐれた。
 「私って、本当に馬鹿みたい…。」
彼女が真っ暗な海に目を向けた。なんとなく、僕も海を見つめた。闇の中に、かすかに白い波が見える。じっと見ていると波の音が聞こえるような、そんな気がする。

彼女は少し背筋を伸ばした。
 「私、昨日、プロポーズされたの…。」
 「……。そうか、彼氏と結婚するんだ。」
 「違うの。彼とは3カ月前に別れちゃったの。」
 「そう…なんだ。」
意外な告白だった。
 「だから、ずっと話がしたかったの。会社でいつもあなたを見てた。でも、本当に仕事が大変そうで、声を掛けられなかったの。」
 「そうだったんだ……。ごめん、本当にごめん。」
 「プロポーズしてくれたのは会社の和田さん。知ってるよね。和田さんは、今までも帰りが遅くなったときに車で送ってくれたりしてたんだけど。昨日の帰り、急に『僕と結婚してくれませんか』なんて言われちゃった。私、どうしたらいい?」
彼女はじっと僕を見つめる。
 「どうって…。僕が決めるの?」
 「あなたの意見が聞きたいの。和田さん、とっても優しい人なの。でも……。どう思う?」
 「和田さんはいい人だよね。それに、いきなりプロポーズするところが真面目な和田さんらしい。」
 「そうよね。ビックリしちゃった。深刻な顔して、真っ赤になって、急に『結婚』なんだもん。」
 「女の子がそういう相談をするときは、もう心は決まってるっていうよ、知ってる?」
 「そうかも知れないわ。ちょうど会社を辞めようと思ってたところだし、結婚しても自分のやりたいことはできるもん。……そうよね。」

彼女はハンドルに手を掛けた。
 「なんだか、すっきりした感じ。あなたに話して良かった。」
 「どういたしまして。」
彼女は微笑んだ。
 「もうすぐ夜が明けちゃうね。早く帰らなきゃ。ごめんね。こんな時間までつきあわせちゃって。」
 「やっと運転できそうだね。」
長い間眠っていたエンジンがやっと声をあげた。

車はまだ暗い海を右手に海岸沿いの道を走り続ける。彼女は真っすぐ前を見たまま話しはじめた。
 「やっと言えるんだけど、私、本当はあなたのことが好きだったんだ。すごく恥ずかしくて、今までずっと言えなかったの。」
 「そうかぁ。さっき駐車場でキスでもしときゃ良かったなぁ…。あーあ、残念だ。」
 僕は照れ笑いした。心の中には痛みが走った。

 「キスされてたら、私、あなたと結婚してたかも知れない。いつの間にか……ずっと前からあなたを好きになってたんだ。」
 「毎日会社で会って、ときどき一緒に食事をして、彼氏のことで相談に乗って…。正直言うけど、僕もいつからか君のことが好きになってた。でも、君の彼氏への想いがあまりに頑なだったから、僕には君を奪うことができないってあきらめてたんだよ。馬鹿なことしたなぁ…。」
 「ふたりは相想相愛だったのね。」
 「プロポーズの話、反対すれば良かったなぁ。」
 「なんだか、すごく恥ずかしい。顔が熱くなっちゃった…。でも……、嬉しいな。ありがとう。」
 「僕も、君に好きになってもらえて嬉しいよ。きっと、今日のことは一生忘れられないな。」
 「今日の話はふたりだけの秘密にしようね。後で会社で会うときには普段の顔で会いましょう。」
 「そう、何事もなかったような顔で会おう。ふたりそろって寝不足で目が赤いかも知れないけどね。」

いつの間にか夜は明けて、穏やかな朝の光がフロントガラスから差し込み、その輝きがふたりをやさしく包み込んでいた。


(C) Tadashi_Takezaki 2003